ガールズバンドクライ No.2

~可能性の中心としてのファックサイン~

前の記事は総体的な情報のまとめであったが、
現代思想と表象を学ぶ過程で観るべき観点が出てきたため、
改めて認めるものです。

Contents
<文藝>
<可能性の中心としてのファックサイン>
<全話 要素別批評>

<文藝>


最終回のOPのラストが変更されていることに象徴されるように、音楽の本質的な役割の一つである「世界/他者との関係構築」が、仁菜とヒナの対立を融解させる。

高校で絶交した仁菜とヒナだが、二人をかつて繋いでいたものの一つは音楽であり、
ダイヤモンドダストの「空の箱」であり、
それが二人を(教室ではなく屋上において)繋げる結節点だ。

ダイヤモンドダストから出発した二人は、
一方で「非日常」を歌い上げる桃香を追いかけて非日常を貫き(仁菜)、
一方で「日常」を護るためにダイヤモンドダストという日常を貫いた(ヒナ)。
ある者が価値(革新)を信奉するために用いる手段(音楽)が、
逆にその手段に内在する止揚的な価値(革新と安定)ゆえに、
その価値に飲み込まれる。

非日常(革新)は日常(安定)に永続的に敗北し続ける。

それは奴隷文化としての黒人の奴隷解放から出発した
私小説の役割としてのブルースが、カウンターカルチャーとして、R&Bとなり、ロックとなり、人口に膾炙することで、
そのカウンター性を喪失したように、この120年間繰り返されてきた歴史だ。

「叛乱は敗北する。秩序は回復される。しかし、叛乱は常にある。
秩序は叛乱によっていつかふたたび瓦解されるのだ。
永続する敗北それ自体が勝利だ。三日間の真実を生き尽くす百世代の試みの後に、
いつか、そうだ、いつか強い眼を持った子供たちが生まれてくるようになる。
そうして彼らは、太陽を凝視して飽くことを知らず、
僕たちの知らない永遠の光の世界に歩み入っていくことだろう」
これは笠井潔が全共闘世代の闘争と敗北から着想を得た、推理小説
(というジャンル名を借りた哲学探究)「バイバイ、エンジェル」の一説だ。
物語の犯人が動機を説明するシーンで、犯人は民衆を告発する。
民衆が革命に敗北するのは、民衆が権力と結託しているからだと。
しかし探偵は否定する。人間の可能性を、歴史に埋もれた真実の瞬間を直視しろと。

ガールズバンドクライにおいて、仁菜たちの敗北は必然だった。
カウンターカルチャーとしてのロックは永続的な敗北の運命にある。
上位文化(伝統文化=マジョリティ)に対する
下位文化(カウンターカルチャー=マイノリティ)は、
大衆=権力への叛逆としてある。
しかし、下位文化が大衆性(マジョリティ)を獲得した瞬間、
それは権力=マジョリティとなり、新たなカウンターカルチャーを産み出す。
この永続的な二項対立の再生産の構造が、カウンターカルチャーを、
そしてロック(とそれに連なるパンク、メタル、メロコア等)の、
永続的な敗北の運命を決定づける構造になっているだろう。

ここで「ガールズバンドクライ」の「可能性の中心」を考えてみたい。
「可能性の中心」とは、宇野常寛が批評の役割として、
作品理解を通じて、作品内部で示された事物や思想に対する可能性の、
現実世界への適用可能性を検討することを示す。

<可能性の中心としてのファックサイン>


「ガールズバンドクライ」の「可能性の中心」とは何か。
それは「脱構築」と「新しいファックサイン」であるだろう。

音楽とは個人の神様への禱りであり祝別であり、「個人」が「個人」たる
文化活動としてある。
分けてもロックは、上述の出自も踏まえ、既存価値に対する反抗としてその存在意義を持つだろう。
既存価値に対する反抗としての新興文化、いわば上位文化と下位文化の「二項対立」の創出による新たな価値である。

さらにパンクロックは、前述するロックの価値観転倒の不可能性から、
その二項対立の無価値化を狙うものとしての存在観が強いだろう。
例えばライターの徳田四氏は、
ガールズバンドクライに対する分析の中で次のように述べている。
(引用)
「かつてカウンターカルチャーとして機能していた「パンクロック」は、このような行動を通じて「支配/被支配」「マジョリティ/マイノリティ」「男性性/女性性」などといった対立構造それ自体を破壊すべく、身体パフォーマンスとしてカオスを表明していたのである。単なる「マイノリティによる反逆」ではなく、「マジョリティ/マイノリティ」を定義する二項対立の成立条件そのものを問い直す、不断の脱構築への意思こそが真のパンクスピリッツだ。」(引用終わり)

徳田氏の、仁菜の反抗対象に関する分析
(桃香、宗男、ヒナ)と脚本家からの思想的位置づけ
(花田十輝)の検討は観るべきものがあるが、注目するのは、
その締めで次のように述べていることである。
(引用)
「こうして仁菜の「反抗」動機は脱構築され、
そして「ファックサイン」の意味が反転する。
「ライバル」バンドとして互いにファックサイン(小指)を向け合っていたトゲナシトゲアリとダイヤモンドダストだったが、ヒナとの「和解」が成立してからはファックとしての意味は変容する。反抗すべき「敵」を定義するためではなく、むしろ敵だと思われていた対象と繋がり合う、「契り」の印として中指の代わりに小指が突き立てられるのだ。
「敵」に向けるためのサインではなく、「敵」とのつながりを見出し二項対立の成立条件自体を無効化する、「脱構築としてのロック」のジェスチャーとして「小指ファック」が誕生したのである。」(引用終わり)

ファックサインはその起源を古代ギリシャや古代ローマにもつ。
今でこそ相手に対する侮辱や挑発、
ロックなど音楽世界では既存価値に対する反抗の象徴として利用されているものだが、元々はパロディとして価値の無効化を示す行為として使われていることが多々あった。
例えばアリストファネスの戯曲「雲」では、
生徒ストレプシアデスが、先生ソクラテスに対し、
指導を受け流す手法としてファックサイン(κατάπυγον、カタピゴン)
を用いるシーンがある。
(引用)
先生ソクラテスが、苦心のあげくストプレシアデスに思索をさせ、
さてこれから吟味に取り掛かろうとする段になると、突然
「一物のほかは雫だ」(陰茎と尿、ファックサイン)という落ちが発せられ、
これまで展開されてきた真面目な世界がナンセンスな世界に反転してしまう
(引用終わり)

古代ギリシャやローマ以外にも、インドのリンガ崇拝、日本の田懸神社、パプアニューギニア原住民文化など、力や反抗の象徴として文化的な価値を徐々に固めたファックサインだが、ガールズバンドクライにおいても同じように反抗のサインとして用いられている。

当初は仁菜が桃香を真似て(意図を理解せずに)ファックサインを利用したが、
ある時点でその内容が変化する。
具体的には、仁菜が桃香に対し申し入れる、
「中指立てたくなったら、小指立てて下さい」という転換点において、
ファックサインは中指から小指に変化する。

(引用)
当初は(放送コードを回避するカモフラージュ的な意味で)単純な中指の代替として、気に食わない相手に「ファックサインだと気づかせないままファックを表明するため」に使われていた。しかし上述したように、やがて「和解」の印やライブ前の円陣の代わりなど身内に向けたジェスチャーとして、複数のキャラクターが使うようになっていく。
(引用終わり、先述の徳田四氏より)

小指は日本においては色々な意味合いをもつも、ここで重要なのは、
約束をするときに小指を用いる(あるいは互いに曲げて引っ掛け合う)ことだろう。
「指切りげんまんハリセンボン飲ます」で有名な小指の掛け合いは、
罰則の契りであり、約束の証でもある。

小指のファックサインは様々な場面で用いられるが、最も重要な利用場面は、
仁菜の父親宗男との和解において使われる場面だろう。
仁菜のもつ最大の怒りと哀しみの源泉は何か。
それはいじめでも学校の対応でもなく、
「父親」が味方をしてくれなかったことだった。
いじめ問題を有耶無耶にする代わりに学校が推薦文書などを準備する策略を飲もうとする現実的な宗男に対し、いじめた人たちも、学校の態度も、父親の対応も、
仁菜は許せなかったのだった。
しかし家出をした後の宗男は、その行為を後悔し、
学校に再調査を迫り文書を作成させ、
あまつさえ仁菜に対し謝罪を示し、「空の箱」を聴く仁菜に同情を寄せたのだ。
その続きで実家を後にする仁菜が、宗男に対して行うのが、
小指のファックサインという「和解」であり、(未来に対して自分を信じる)「約束」である。

反抗ではなく、和解へ。価値対立ではなく、価値の無価値化へ。

ナンセンスに起源をもち、力と反抗の象徴として展開し、その意味を先鋭化した結果、中指のファックサインは放送コード的に存在を抹消されつつある。
同様に、ガールズバンドクライにおいて、ナンセンスに起源をもち、当初は力と反抗の象徴として、のちに和解と価値の無価値化へ展開した小指のファックサインは、
「永続する敗北」としてのロックに新たな価値を生み出した。

それはかつて親友であり、ともにダイヤモンドダストを聴いたヒナが、
いじめの報復に対する忠告と絶交を経て、
ダイヤモンドダストの新ボーカルに就任したヒナが、
仁菜の、実直で正義感に溢れ、
それに対するある種の「憧れ」を隠し持ち続けたヒナが、
実は今でも仁菜の良き理解者であり続け、
音楽の可能性を仁菜に理解してもらうために、敢えてヒールを演じ続けながらも、
二人が大事にしていた音楽に対するある種の「契り」を、
ラストシーンにおいて無言で贈り返すように。

変わり続ける言葉の、行為の、表象の、
変遷の先鋭化の中から偶然の産物が出るように、
永続する挑戦の中から新しい可能性が芽吹くように。

小指のファックサインは、これから、何を描くだろうか。


<全話 要素別批評>

1話「東京ワッショイ」


演出;熊本から東京に出る放擲感、圧倒感、疾走感が冒頭の2分で隈なく描かれる。
賃貸家屋から放逐され、家族電話で赤いトゲトゲがピークに。
桃香との接触で凍り付いた感情が解き放たれる印象。
その後の仁菜と桃香の会話を通して確執と理解、喪失と焦燥、音楽の再編による「空の箱」が圧倒的でエモい。
脚本;最初は気弱な仁菜を徐々に尖らせる構成が、彼女の音楽に対する姿勢の変化と連動して描かれる。全ての要素が合理的かつ情動的に不合理に働くように配置される
絵コンテ:冒頭からOPまでの流麗な変遷に対比させて、賃貸家屋の放逐から家族電話まではやや動きに乏しい。桃香との邂逅、ライブパートまでは淀みなく圧巻の一言
美術;異様に拘りぬくCGの配置のため人間描写がやや覚束ない
キャラデザ:仁菜の狂犬ぶりと桃香の諦念が早くも顕在化
音響;全ての動的場面にさり気ない空気感の醸成が
楽曲:空の箱を軸に、(歌手向きではない)ギター志向の桃香の歌声と、
仁菜の叫び、苦しみが、怒りの籠る歌声が生々しく対比される

2話 「夜行性の三匹」 


演出;学歴醸成から家族との確執の原因へ、二人の鍋から3人の鍋へ。「空の箱」を多摩川に乗せて二人の断絶と小指への変遷。安和すばると仁菜の邂逅、葛藤、確執、破壊を経て、無力を痛感する仁菜を包摂する桃香の背中の大きさと、すばるのコミカルさが今後の広がりを予期させる。
脚本;桃香との離別、再会によるすばる/他者との邂逅、確執を通して仁菜が過去と無力さを痛感する構成を、掛け値なしの台詞と言動で駆け抜ける描写が圧巻。ボロボロの照明の真下で泣き叫ぶ仁菜の悔しさが泣ける。
絵コンテ:多摩川前後の楽曲パート、照明を振り回す仁菜の形相が古くて新しい。
美術;トイレを囲む桃香の構図がギリギリであり、トイレもギリギリ感がある
キャラデザ:既に仁菜と桃香の関係性の逆転が冒頭で発現。すばるの声当てが素人感
音響;殆ど常時エレキギターと共演されつつも、過去編では吸い付くようなシンセが緩急を付ける
楽曲:多摩川に吸い込まれる「空の箱」が仁菜の孤独の表象

3話「ズッコケ問答」


演出;作曲に入れ込む仁菜の冒頭コントが良い。
脚本;すばるの差し入れから二人の確執と対立、本音のぶつけ合いが面白い。路上ライブ提案のやり取りも苦しいくらいに本音感が凄い。カラオケでの体感的説得、食事での慰労を通じて路上ライブ本番へ、なおも蟠る仁菜をファンシー衣装で煽る桃香も良い
絵コンテ:カラオケボックスのマイクピンに差し込むアングルが良い。「声なき魚」における、怒りと憤懣を露わにするファンシー意匠の仁菜が非常に鮮明
美術;「声なき魚」の歌詞に連動した各担当の演出、特に歌詞の、
「代わりなんてさ、幾らでも転がってんだ」に連動した有象無象のファンシー衣装聴衆が無力感を増す
キャラデザ:すばるの良い性格と適度な攻撃性が深みを与える
音響;3人の本音のぶつけ合いにおけるエレキ、カラオケボックスの発声練習における解放感が溜まらない
楽曲:「声なき魚」のイントロが鳥肌もの。ファンシー意匠に対置される憤懣がエモい

4話「感謝(驚)」


演出;すばるの不正義と思い遣りに只管に介入する正論モンスター仁菜が確立する。
脚本家の背景を考えればむしろ、安和すばるに投影する脚本家の自画像と、それに抗うもう一人のペルソナとの確執であり、視聴者に対する蟠りを全力でぶつけに来ている
脚本;仁菜のやる気上昇に対してすばるを下げに掛かる足場固めが手堅い
絵コンテ:仁菜が初バンド後にやる気爆発になる下りが生々しい。
美術;島村楽器も喫茶店も学校も加工なし。高層ビルに翌日の文字背景は良い
キャラデザ:草笛光子風の祖母の存在感が京都然で良い。すばるの無理なコミカル感が痛々しい
音響;しょうもないシーンにおける旋律がクラシカルなロックで心地よい
楽曲:仁菜の安和天童に対する矛盾の葛藤をスケッチ調で流す軽やかさ

5話「歌声よ、おこれ」


演出;全てが場末のライブハウスの盛上げに向けて集約される。ライブ直前のヤジもいい塩梅。CMの向こう=アイドル=マスに対して、カラオケハウス=ロック=パーソナルが対比されることで、物語の先鋭化、情動の集約点を「今、ここ」に導く。
脚本;ダイヤモンドダストの新ボーカルに対する違和感を徐々に膨らませる過程で、ライブハウスのチケットノルマ、ライブハウスの思惑、新ボーカルの正体と桃香との衝突とで、怒りと哀しみが頂点に達する仁菜。情動の結実をライブシーンに導く動線は何度観ても含蓄がある。
絵コンテ:カラオケCMから始まり、ドームシティ公演までのアイドル感を積み重ねるダイヤモンドダストに対し、ポスターからチケットノルマとの苦闘、場末のライブハウスの叫びの新川崎(仮)が対照的。成り上がってしまった感、 対して、成れない感が鮮明。
小さな居酒屋での、音楽性の方向性の納得感を巡る諍いの、異常な背景描写の緻密さが、逆に陳腐な議論を浮かび上がらせる
美術;背景美術や小物の異常な3DCGによるリアリティは、あくまで作品としてパーソナルなものであり、有り得るかもしれない世界線の延長に(本当は無いのだが)視聴者を誘う。ライブハウスのポスターの貼り方、ハウスの檀上の萎びた道具、居酒屋の有象無象の既存客の冷めた反応までが、視聴者のメタ視点と仁菜たちの情動世界を往復させる
キャラデザ:仁菜の狂犬ぶり、桃香が真意を躱すたびに噛みつく勢いが凄まじい。妥協した自分を責める桃香が諦念の大人として対置される
音響;居酒屋の喧嘩における作りが余計に陳腐な議論を真剣なものに
楽曲:「視界の隅、朽ちる音」のバンドシーンは叫びと未来が同時に映える。
何より居酒屋での喧嘩を反映した、音楽の方向性の雲散霧消に対置される希望としての未来、歌詞の「ぼくら、何を描こうか」で締め括る構図が圧巻。

6話「はぐれもの賛歌」


演出;丹念に桃香を除外することで成り立つ脚本構成を、メタ的に可視化することで、
以降の物語における5人の決裂を予期させる構造になっている。
特に数字に拘り音楽観も捨てアイドル路線も厭わないと方向性を強引に転換し、
ダイヤモンドダストに勝つ目的に集中する仁菜、前回その脱退理由の明確化から安易に同意できない桃香との逡巡が決裂を方向付ける
脚本;ベースとキーボード、殆ど擬人化のような体裁のルパと智の、保護者と、強い拗らせ女子の参加の逡巡を基軸に、バンド熱の冷め止まない仁菜と蟠りを放り出せないすばる、徐々に距離感を置く桃香と、5人集結の名目作りから音合わせまでを描く。
仁菜とすばる二人の食事(吉野家)を複数回踏むことで桃香との距離感を示しつつ、ルパと智の介入する隙間を与える構図が匠の仕業。
絵コンテ:5人集結の音合わせにおける各パートの相乗効果が視覚的聴覚的に色彩豊かに迫り、世界観の広がり、桃香の相反する自己の反発を置き去りにしていく
美術;サウナで山本計器製造の温度計が何度も映える他、智のアーロンチェアが実はGTRACING(筆者やまりょうと同じ)ことに感銘を受けたw
キャラデザ:仁菜以上に拗らせ、うじうじの智を易しく厳しく支えて送り出すルパが逞しく美しい。飲ませたら強そうである、、
音響;エンドクレジット直前で桃香の微妙な心境を描くシーンにEDを搦めることで視聴者の焦点を上手く反らせる狙いがある
楽曲:5人揃っての「視界の隅、朽ちる音」の、ベースとキーボードの躍動感が凛々しく発展性を予期させるに十分な仕上げ

7話「名前をつけてやる」


演出;仁菜と桃香との決裂が決定的となるガラス割れが印象的。むしろ着目点として、ミネさんに傾聴の姿勢を見せ、その着想から諏訪湖へと叫び出す仁菜のある種の確信へ踏み込む仁菜の成長と覚悟が、打ち上げ花火に垣間見える
脚本;バンドグッズ販売による集客と売上増加によるバンド支援から仁菜の熱量を見せつつ、決まらないバンド名、姉の介入を通した環境要素の提示、智やルパの境遇情報を通じた親密度の増加を描く。
絵コンテ:仁菜の実家像の隔世感がスケッチ調に。
美術;諏訪の草臥れたライブハウス、うらぶれた居酒屋界隈、諏訪湖公演で上がる花火のCGがやけに生々しい。場末感全てがロックの表象
キャラデザ:全員仲違いのキッチュさは元より蛇が可愛い
音響;決まらないバンド名の背景で揺らめく弦がコミカル
楽曲:「名もなき何もかも」音楽、家族、桃香に対する鬱屈を、あたう限りの紅い棘を発散させつつ渦巻く感情を同定できない、同定したくない、嵌らせたくない、劣等感と昂揚を同時に駆け巡らせる

8話「もしも君が泣くならば」


演出;「私で逃げるな」と、憧れだった桃香を詰る仁菜。指先が震えようとも、プロで居続けるために耐え忍ぶダイヤモンドダストたち、自分の感情を信じて進んできた仁菜。
追い詰められた桃香を、告白と、大音量で包み込む仁菜の描写が圧巻。
脚本;桃香と仁菜、それぞれの過去が現在で交錯し衝突する。日常を護る=過去に囚われる桃香と、日常を破壊する=現在を生きようとする仁菜。退路を断ちながら一度は諦めた桃香に対し、同じく退路を断ち、自らを今に向き合わせ、告白し、相手をも解放する仁菜。
物語の核心を、キャラクターの核心に衝突させることで止揚を図る神業のような構成
絵コンテ:叩かれなかった仁菜と叩かれる桃香が、感情の核心への角度として対比される。
美術;談合坂サービスエリア、ライブ会場裏口、いづれも場末の諍いのリアリティを高める
キャラデザ:対立する価値観を破壊し、無化し、さらに未来を創り出す仁菜のデザインが唯一無二の存在感を放つ。空前絶後のパンクロックキャラクターの誕生
音響;空の箱を軸にダイヤモンドダスト、仁菜の立場とそれぞれに対照される。

9話「欠けた月が出ていた」


演出;文芸的で作劇の動きの少なさを、心象描写と音響でまかなっている
脚本;エアコン故障を契機に、智の臆病さと仁菜の本気度の交錯が、智を前に進める。
蛇の捕食行動が智の隠喩。仁菜のギター練習と、昔のバンドメンバーが参照される
絵コンテ:実はルパの運動センスが良いイメージを確立する回。成熟した大人の性格と好対照の格闘系、飲酒も配置される
美術;藤棚でのギターと、河原でのギターが対比される。しな垂れた藤が蟠る気持ちを反映し、河原は遮るものの無い心象として智の言動に付随する
キャラデザ:少ない台詞から智の人格を形成し立体化する、繊細で困難な描写
音響;人物に動きが少ない分、ギター弦の適度な挿入が雰囲気を持たせる

10話「ワンダーフォーゲル」


演出;赤い棘が仁菜と宗男の距離感そのものであり、その対峙と鎮静化が完全なバロメータになる。
脚本;仁菜の度量の小ささと宗男の度量の大きさと親心、両者の断絶と雪解けを、妥協せず描き出す力量に感服する
絵コンテ:宗男と仁菜の断絶が、扉越し、煙草の山、電車の席、職員室、仁菜姉部屋と、最期の抱き合いも回避する徹底さで、最後まで完全な和解はないことを強調
美術;冒頭のスカウトの植込みの造詣が気になるが、仁菜実家が鬱蒼としたツクリで仁菜の爪痕を想起させる。阿蘇区わかば1-500-27は実在せず東区若葉1となる模様
キャラデザ:仁菜母の造詣が物足りないが、仁菜父宗男の苦悩と不器用さ、親心が良く描かれている。基本的に仁菜親が全面的に正論であるも、最期に寄り添う姿勢を仁菜に見せるに至り、仁菜目線の視聴者は揺さぶられる
音響;全般的に要所におけるギターの、コミカルなりアクティブなりの背景がさり気ない。茶化し気味の桃香のギターもいい
楽曲:ミネさんのフォークが仁菜の実家の門出を易しく厳しく彩る

11話「世界のまん中」


演出;緊張感溢れるライブパート、導火線としての準備パート、
バランス感覚が凄い。
特にライブパートは何度見返しても新しい発見があり、歌詞と美術、演奏とともに深い含蓄のある内容
脚本;BAYCAMPフェス演奏後に始まり、狭い楽屋裏からメンバー個別の葛藤と概括、ダイヤモンドダストのライブと経て、BAYCAMPのライブの圧倒的なカタルシスへ繋げる。個別の人間交流の描写にそれぞれの個性と主張が隈なく余すところなく描かれているのが奇妙な緊張感を保ちつつ、ライブの高揚感の準備へと視聴者を誘う
絵コンテ:空が一つのテーマであり、曇り空の冒頭、飛行機が飛び立つフェス前日、飛行機が舞い戻る当日、降り注ぐ当日夜の本番に低空で飛び交う鳥(鷺?)が、自らを束縛し解き放つ時間軸を象徴する
美術;ライブパートのBパートにおける色彩感覚や2D絵柄、過去と現在の相克が悲壮感と反動を視覚的に盛り上げる、創造力の塊のような仕上がり
キャラデザ:(※智の理由は語られない)つながりを求めてやまないルパ、自我の忘却に自由を求める桃香、自分に正直にいつつ頑張る人を追いかけたいすばる、間違いではないと証明したい仁菜。11話までの積み重ねが台詞に重みをつける
音響;全編通してギターの弦がコミカルとキッチュを奏でるが、実はダイヤモンドダストの新曲にもロック調が遺憾なく盛り込まれているのが見どころの一つ。ルパのリハでの応酬も、実はダイヤモンドダストを意識
楽曲:仁菜の父、桃香、ヒナとの相克や葛藤と敗北を怒りと挫折と劣等感を最大余さず奏で、全てのメロディーラインが襲い掛かる

12話「空がまた暗くなる」


演出;幾つかのアー写でラストカットの全員仲違いのものが、アイドル風味の他より良く当て嵌まるだけに将来性を暗示もしている
脚本;アイドル事務所らしくアー写の冒頭から入り、契約、楽器店、シリーズ初の鍋打上。ダイヤモンドダストからの対バン申し入れとメンバー同士の食い違い、それが楽曲つくりの難航や仁菜の詣で/形而上的視座(神)の前での告解による融和を通して完成形へ。畳みかけるスタジオや関係者への、発表前の感謝や激励が、終幕への不和を予期させる
絵コンテ:対バン申し入れとメンバー同士の言い合いにおける、賛同/仁菜と喧嘩上等/ルパに対する、リアリスト/悲観派の3人が、それぞれの顔ズームや目線の動きにより、程よく対置される
美術;繰り返される楽器やのギター(\79200)と周辺小道具の異様なリアリティさが際立つ。楽曲つくり不和打開で詣でる神社のフルCGが、メンバーたちの描写と相俟って奇妙なリアリティを獲得している。
キャラデザ:鍋準備で南瓜の硬さ発見に箱庭娘を自覚する仁菜に成長の兆し。日本酒をカップで一気飲みするルパはヤバイ、、
音響;仁菜の成長と幼児さの描写に明るさと切なさがよく嵌ったピアノラインである

13話『ロックンロールは鳴り止まないっ』


演出;桃香、父との確執と和解を重ね、自身の価値を亢進させてきた仁菜の、ヒナに対する挫折が、現実との交差(売上結果)として提示されることで、ロックの存在意義と作品姿勢を倫理的に証明している。ラストライブ「運命の華」の明るさと寂寞が文藝的にすら見える
脚本;幼稚な正義感と政治的な挫折。仁菜の鬱屈の原点としての高校、ヒナとの絶交、ヒナの忠告、ヒナとの「思いの共有」の気づきによる祝別が要所に配置される。なおも自分を曲げず、桃香の音楽への信奉を曲げず、桃香の挫折の回収すら仕上げてしまう無意識の強い仁菜の造詣が余りにも眩しい。
絵コンテ:ダイヤモンドダストからの連日対バンライブと敗北を受け入れようとする桃香に対し、悔し涙を桃香への想いにぶつけ、ギターで叫びながら信念を貫こうとする仁菜の描写に圧倒される。桃香の部屋に同席するメンバーは勿論、視聴者すら惹き込まれる迫力があり、脚本と絵コンテと音響とキャラデザが奇跡的に創り上げられたシーンではないだろうか。
美術;CLUBCITTAの楽屋道やステージ造詣にメジャーとマイナーが混在するカオス感が漂い、未だ道の途中にあるトゲナシトゲアリを直接的に示す
キャラデザ:智の突っ込みに柔らかさと愛情が燈るような変化を感じる
音響;連日対バンライブを巡る議論での仁菜のギターの迫力が凄まじい
楽曲:メンバーへの愛情と孤立とが同居する、明るくも寂寞とした「運命の華」が、ロックと現実との衝突と敗北というテーマと余韻の悪さに完璧にマッチする

追記 2025・10・4
劇場版総集編 ガールズバンドクライ 青春狂騒曲

総合:opとEDの新曲、冒頭の新カット、堪能><
演出:基本は仁菜と桃香の背景に集中しつつすばるや智の存在感、ギャグも相当削ぎ落とされ、且つ新規コンテも追加することで2人の舞台の印象が強まる。
op,edは勿論、劇伴の楽曲は5.1chならではの観客席と台場とで音響を巡らすリッチさがある。
脚本:仁菜の予備校、すばる役者と探偵お婆を殆どカットしギャグも畳むことで寧ろ仁菜の視野と人間関係の広がりが際立つ。
歪み合う二人の諏訪ロックカフェは臨場感と抑制が良くバランスしている
絵コンテ: 冒頭の仁菜以外の4人の描写、CLUB CITTAのヒナ後身、最期の二人の歪み合い、衣装に悩む仁菜を追加しつつ、桃香担ぎなどギャグを極限まで削ぎ落とすことで、物語が流れるように進む 歪み合いながら進む刺刺感が巧み
音響 :新規OPが兎に角恰好良く、これだけで何回も観に行く価値あり。
空の箱の水泡の爆ぜにパンイン&アウトする音の引き回し、 声なき魚の観客席に谺する怒り、 視界の隅で観客とステージを往復する仁菜の声、 臨場感が凄い

追記 2025.11.16 
劇場版総集編 ガールズバンドクライ なあ、未来


総合:やはり新曲「arrow」、ラストライブ「運命の華」のFULL、
そしてEDと直後の発表が重要であり、特に「運命の華」のFULLだけでも
何度も観返す価値がある作品。
演出:OPの既存映像のFULL活用と直後のライブ会場後の郵便ポスト騒擾が対置される。この意外性の持続はラストライブ「運命の華」での歌唱の持続へ結実する
絵コンテ:
桃香慟哭後のポストの絡みでは、二人の傷の見せ合いによる価値観の共有とともに
若干の百合的意匠も観られる。
また昴祖母との邂逅においてはオババの厳しい表情が、
BAYCAMPFESのライブ中の、優しい表情との対峙で大きく印象付けられる構造に。
何よりラストライブ「運命の華」における2番以降の歌唱シーンでは、
実際のライブ演奏を基礎におかれると思われる情景を基軸にしつつ、
およそアニメーションでしか有り得ない縦横無尽に駆け回るカメラワークが特筆で、
このラストだけでも鑑賞する価値があると思われる。
OPの既存映像の切り貼りに若干幻滅したことを付記しつつ、
やはり劇場で音楽作品を鑑賞する意義は、同時期に上映されていたライブ系フィルム
(MrsGreen Apple、Voの仁菜の声優:理名の目標でもある!)の盛況ぶりを鑑みても、映画の価値とは何か?という射程距離を持つように思われる
脚本:
談合坂での喧嘩、諏訪から帰宅の桃香家の前後、
クーラー故障の仁菜関連の面白動画(ドアポスト除き等)、
熊本帰省対決における父宗男との蟠りの同行の朝(特に竜田口駅近辺)、
BAYCAMPFESにおけるヤンキーファン誕生の下り、
神社における「ロックの神様」くだりの会話など、各種の切り込み(削除)が
為される。
代りに挿入される、「もしも君が泣くならば」の桃香慟哭後のポストの絡みにおける
二人の傷と意向の共有、
BEYCAMPFESにおける昴の祖母との邂逅、
何よりラストライブ「運命の華」における2番以降の歌唱シーンが必見である。
キャラデザ:
前半で陽の目を見られない海老塚智、ルパのシーンが注目される。
智の、仁菜以上に拗らせた幼児的ヤマアラシジレンマとその相克としての
仁菜への共感と自身の内省、および臍嚙み直後の「バカヤロー」は、胸に迫る。
ルパにおいては、仁菜を熊本へ送り出す「大切な人との時間は、実は希少である」
という自分語り、およびBEYCAMPFESの1日目夜の、
「私の大切な人は、もうこの世にはいない」という噛締めた独白が、
観る者を揺さぶる。
音楽:
OPのArrowにおける既存資産の有効活用と、
ラストライブ「運命の華」における2番以降の歌唱シーンが大いに対照化される。
「運命の華」の歌詞以上に、ライブ会場のカメラワークの振り回しと、
アニメーションとしてのFilMLIVEの強みを遺憾なく発揮した色彩が画面を駆け巡る演出が、本楽曲の重要性とともに、視聴者へ「運命の目撃者」たらしめるだろう。
娘(小学5年生)も感動していた。


参考文献
笠井潔「バイバイ、エンジェル」創元推理文庫
ガールズバンドクライ1st FAN BOOK マイクロマガジン社
ガルクラ絵コンテ集 上、下
『ガールズバンドクライ』とはなんだったのか:ファックサインと〈日常〉の反転|徳田四
https://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar2203781
「中指・薬指・小指」をドイツ語で考える
https://www.mikako-deutschservice.com/post/%E3%80%8C%E4%B8%AD%E6%8C%87%E3%83%BB%E8%96%AC%E6%8C%87%E3%83%BB%E5%B0%8F%E6%8C%87%E3%80%8D%E3%82%92%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%AA%9E%E3%81%A7%E8%80%83%E3%8
1%88%E3%82%8B
「『雲」のソクラテス」https://core.ac.uk/download/pdf/268215721.pdf
中指を立てるのがダメな理由とは?海外だとマジで大変な事になる
https://trivia-and-know-how-notes.com/why-not-raise-your-middle-finger/
【反論――《小指》だっつってんだろ】批評「仁菜は誰に中指を立てるべきだったのか――《ガールズバンドクライ》について」を読んで
https://note.com/shuhei_sa/n/nf1f401d29162

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