「情動はこうしてつくられる ―脳の隠れた働きと構成主義的情動理論」
リサ・フェルドマン・バレット 高橋洋訳 紀伊国屋書店
本記事は情動研究の一環として同名書籍の抄録を記載したものです。
目次
序 2000年来の前提
第一章 情動の指標の探求
第二章 情動は構築される
第三章 普遍的な情動という神話
第四章 感情の源泉
第五章 観念、目的、言葉
第六章 脳はどのように情動を作るのか
第七章 社会的現実としての情動
第八章 人間の本性についての新たな見方
第九章 自己の情動を手なずける
第十章 情動と疾病
第十一章 情動と法
第十二章 うなるイヌは怒っているのか?
第十三章 脳から心へ 新たなフロンティア
第一章 情動の指標の探求
・古典的情動理論の否定根拠は、
人間は予め定められた情動/感情の回路を持つわけで無く、
脳科学的な電気信号の発生分野のマッピングにより多次元関数的相関を導けるものでも無い。
それは多用な社会、文化、経済要因の組合せにより構成される
・脳は時と場合に応じて、概念を用いて、外界からの感覚刺激と体内に由来する感覚刺激の両方に同時に意味を付与する
第二章 情動は構築される
・情動理論:心理構成主義、或いは情動のコンセプト理論:
情動は一意に予め決められた回路を遺伝的に持つもので無く、経験的に多用な要素により組み上がる。
マクロの細胞の大半が予め決まっているがミクロの回路は異なる。過去の経験で未来の知覚が導かれる。
その主要な要素はシミュレーション、概念、縮重などで構成され、物語は脳全体で同時に進行する。
各種情動のインスタンスは個別の構成要素に見出すことは出来ない。
第三章 普遍的な情動という神話
省略
第四章 感情の源泉
・快や不快のような、部分に還元不可能な創発的要素を備えるため、逆行分析をして恐れの感情から恐れのインスタンスを割り出すことは出来ない。
・単純な快や不快の感情は、「内受容」と呼ばれる体内の継続的なプロセスに由来する。
内受容とは、体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感覚情報の脳による表象である。
・刺激と反応による関連性について。
十分な酸素と栄養分が与えられれば、「内因性脳活動」と呼ばれる、興奮の巨大な連鎖は誕生してから死ぬまで続く。
この活動は外界からの刺激によって引き起こされる反応とはまったく異なり、外的な触媒を必要としない呼吸のようなものである。
・内因性脳活動は無作為に生じるのではなく、「内因性ネットワーク」と呼ばれる、絶えずともに発火するニューロンの集合によって組織化されている。
これは脳内シミュレーション、つまり夢、空想、想像、注意散漫、夢想の源泉である。
また、快、不快、落ち着き、苛立ちなどのもっとも基本的な感情の源泉たる内受容感覚を含めて、人間が経験するあらゆる感覚刺激を生み出す。
・脳は、種々の感覚情報をともなう現在の状況のもとでは、過去の経験のいかなる組み合わせが、その音にもっとも合致するのかを問う。
頭蓋内に封じ込められ、過去の経験のみを指針とする脳は、「予測」する。
内因性脳活動は、とめどなく発せられる無数の予測から成る。
・予測について。
予測エラーが起こると、脳は二つの方法でそれを解決する。
一つは柔軟に予測を変更する方法。
もう一つの脳の解決手段は、意固地になってもとの予測に固執することで、それと一致するよう感覚入力を濾過する方法。
予測エラーは情動インスタンスの生成契機となりうる。
・内受容は通常、単純な快、不快、興奮、落ち着きなどの一般的な様態でしか経験できない。
しかしときに、激しい内受容感覚の生起を情動として経験することがある。
これは、構成主義的情動理論の重要な要素である。
・人間の情動の拠点とされている脳領域はすべて、内受容ネットワーク内の身体予算管理領域でもある。
これらの領域は「辺縁」と呼ばれ、それには扁桃体、側坐核やその他の線条体の組織、前/中/後帯状皮質、前頭前皮質腹内側部(眼窩前頭皮質の一部)、前部島皮質などが含まれる。
・内受容の身体予算管理領域について。
身体予算のバランスが崩れると脳に説明を求め始める。
脳はつねに、過去の経験を用いて、いかなるモノやできごとが身体予算に影響を及ぼすのかを予測し、気分を変化させる。
それらは集合的に「感情的ニッチ」を構成する。
気分は、原因がわからないまま経験すると、自己の経験ではなく周囲の世界に関する情報として扱われやすい。
(心理学者のジェラルド・L・クロア)この現象は、私たちの経験している現実が一部は感情によって形成される、世界に関する想定である意味で、「感情的現実主義(affective realism)」と呼ぶ。
第五章 観念、目的、言葉
・まったく新たな状況に直面したとき、人は視覚、聴覚、嗅覚情報のみに基づいてその状況を経験するのではなく、目的に基づいて経験する。
人は外界に類似点を見つけるのではなく、作り出す。
脳は概念が必要になると、過去の経験によって得られた数々のインスタンスを、現在の目的にもっとも適合するよう取捨選択したり混合したりして、その場で概念を構築する。(バーサルーも参照)
ここに、どのように情動が作られるのかを理解するカギがある。
・情動概念は合目的的概念である。
概念は、特定の目的を中心として、過去のできごとに由来する数々のインスタンスをその場で結びつける。
・例えばコミュニケーションを成立させるためには、二人のあいだで同期した概念が用いられる必要がある。
例えば同じ「怖い」であれど、彼と彼女の経験、想起する怖さに関する知覚が異なる場合、それを成り立たせるのは難しい。
同じ概念に属していても、特定の文脈のもとで特定の目的を達成する際の効率は、インスタンスによって異なる。
脳内でのインスタンスの競争は、ダーウィンの自然選択の理論に似ているが、ミリ秒単位で行なわれる。
かくして、その瞬間の状況に最適なインスタンスが、他のライバルのインスタンスを出し抜いて生き残る。まさにこれが、分類の何たるかだ。
・人間の脳は、生後一年以内で神経回路の内部に、概念に関わるシステム〔以下「概念システム」と訳す〕を立ち上げる。
このシステムは、あなたがたった今、情動を経験したり知覚したりするために動員している、豊かな情動概念を運用する責務を担う。
新生児の脳には、「統計的学習」と呼ばれるパターン学習の能力が備わっている。
脳は少しずつ、しかしながら驚くほどのスピードで、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、内受容に由来する刺激、ならびにそれらの結合によって混淆する雑多な感覚刺激の海を、いくつかのパターンへと分析できるよう学習していくのだ。
統計的学習の並外れた能力は、概念システムを備えた心の形成に至る道を開く。
あなたの心は、かくして形成される
・人間の統計的学習は、言語の発達の研究によって最初に発見された。
乳児は、話し言葉に耳を傾けることに生まれつき関心を持っている。
子宮内においてさえ、身体予算の調節にともなって音が生じるからだろう。
漂ってくる音を聴くにつれ、音素、音節、単語の境界を徐々に推定できるようになっていく。
・乳児は他者の嗜好ばかりでなく、目的でさえ統計的に推論できる。
しかし統計的学習だけでは、インスタンス同士が知覚的な類似性を共有しない、純粋に心的な合目的的概念を学ぶことはできない。
もう一つの隠れた構成要素が欠かせない。
言葉だ。
話し言葉の意味を理解する能力を得る前の乳児にとってすら、言葉の音声は概念の学習を速める統計的な規則性を提供する。
話し言葉は、他者の心の内部にのみ存在し、外界を観察することでは得られない情報、つまり目的、意図、嗜好などの「心的類似性」へのアクセスを可能にする。
乳児は言葉によって、情動概念を含め、合目的的概念を発達させていくのである。
・言葉は、さまざまなモノを等価なものとして扱うよう促すことで、合目的的概念の形成に向け乳児を導く。
事実乳児にとっては、言葉を用いずに物理的な類似性によって定義される概念より、言葉によって獲得される合目的的概念のほうが学習しやすいことが研究によって示されている。
乳児にさまざまな外観、音、感触を持つモノを見せ、
さらに、言葉をつけ加えると、物質的な差異を超越した概念を形成する。
乳児は、モノが五感によってただちに知覚することのできない、ある種の心理的な類似性を持ちうることを理解しているのだ。
われわれは、この類似性を概念の目的と呼ぶ。
このようにして乳児は、現実の新たな断片を生み出すのである。
言葉は、物質的な外観を超えた類似性、すなわち概念を形成するための心的な接着剤として作用する類似性を見出すよう、乳児を仕向ける。
・情動概念は、顔や身体の多様な構成を同じ情動として、あるいは顔や身体の一つの構成を多数の情動に分類する。
ここでは、変化が標準になる。
ならば、「幸福」や「怒り」などの概念を一つにまとめる規則性はどこに求められるのか?
それは、言葉そのもののなかに存在する。
「怒り」のあらゆるインスタンスが共有する、もっとも明確な共通点は、それらが「怒り」と呼ばれることである。
・情動語は、コンピューターファイルのごとく脳内に蓄積されている、世界内に実在する情動的な事実に関する情報なのではない。
それには、私たちが情動に関する知識を用いて、外界から入って来る単なる物理的な信号から構築した、種々の情動的な意味が反映されている。
情動に関する知識の一部は、私たちに配慮し語りかけることで、社会的な世界を築き上げる手助けをしてくれた人々の脳内に蓄積されている、
集合的な知識から得られたものなのだ。
情動は世界に対する反応ではなく、私たちが築いた、世界に関する構築物なのである。
・言葉を用いずにどのように概念を習得できるのだろうか?
脳の概念システムは、「概念結合(conceptual combination)」と呼ばれる特殊な能力を備えている。
この能力は、いくつかの既存の概念を結びつけて、新たな情動概念のインスタンスを生成する。
それは概念システムの基本的な機能だという点であり、それによって既存の概念から、理論的には無限の新たな概念を構築することができる。
例えば乳児は名前の付く前の状況について3つまで記憶可能だが、名前が付くと6つまで可能となる。
概念に関する知識によって効率性という恩恵を享受する。
「概念結合+言葉」は、現実を生み出す力なのだ。
・情動概念を処理するシステムが貧弱な場合、心は情動を知覚できるのか?
その答えは一般に「ノー」だと判明している。
第3章で見たように、情動概念に対するアクセスを妨げることで、しかめ面に怒りを、ヘの字に結んだ口に悲しみを、微笑みに幸福を知覚する能力を簡単に阻害できるのだから。
情動概念を処理するシステムの発達が阻害された場合、情動的な生活はいかなるものになるのか? この難題を回避する方法の一つは、情動概念を処理するシステムに先天的な障害のある人々を研究することだ。
その障害とはアレキシサイミア(失感情症)のことで、世界の総人口のおよそ一〇パーセントが抱えるとも推定されている。
構成主義的情動理論によって予測されるとおり、この疾病を抱える人は、情動を経験することに困難を覚えている。
正常な人が怒りを感じる状況で、アレキシサイミアを抱える人は胃の痛みを感じるのだ。 身体的な症状を訴え、何らかの気分を感じていることを報告するが、それを情動的なものとして経験することがない。
また彼らは、他者の情動を知覚することにも難がある。
・おとなは、あるできごとが「きまりの悪さ」などの情動のインスタンスだと学ぶと、そのできごとに関連する視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、内受容感覚をまとめて概念としてとらえるようになる。
また脳は、概念を用いてできごとの意味を理解するとき、状況全体を考慮に入れる。
脳はその都度、状況に合った目的に従って、より包括的な概念システムから抽出する。
かくして選ばれたインスタンスが、身体予算を適宜調節するよう促すのである。
第六章 脳はどのように情動を作るのか
・脳は類似の過程を経て、過去の経験に基づきながら、現在の全般的な状況と感覚刺激にもっとも合致した分類をする。
分類とは、今後の知覚や行動を導く、最適なインスタンスを選ぶことである。
本章では、脳がどのように、乳児期という人生の早い段階から概念システムを確立し、用いるようになるのかを学んでいく。
それとともに、情動粒度、個体群思考、情動が構築されるのではなく引き起こされるかのように感じられる理由、身体予算管理領域があらゆる判断や行動を左右しうる理由など、ここまで取り上げてきたいくつかの重要なトピックに関して、その神経学的基盤を学ぶ。
・脳は、感覚刺激の差異性から統計的な類似性を区別するのだ。
そして特定的な概念から次第に一般的な概念へと移行するにつれ(この例で言えば直線→角度→目)、脳は、それだけ効率的に情報を要約する類似性を生成していく。
それら刺激に結びついた触覚や内受容感覚を感じるとき、乳児の脳は、統計的に関連するできごと(それらのできごとはすべて、自分が動くことでエネルギーの低下をもたらす)を、「自己」という概念の初歩的な多感覚性のインスタンスとして要約する。 このように、乳児の脳は、個々の感覚刺激に対応する広範に分散した発火パターンを一つの多感覚性の要約へとまとめていく。
このプロセスは冗長性を削減し、
未来の使用のために、情報を最低限の効率的な形態で表象する。
・予測の連鎖は、読者にはもはやお馴染みの内受容ネットワーク内に端を発する。
脳内で多感覚性の要約が構築されるのも、そこにおいてである。
前述のとおり予測の連鎖は、一次感覚領域で終わる。
そこでは視覚のみならず、聴覚、触覚、内受容感覚などのさまざまな感覚に関して、私たちの経験のもっとも些細な断片が表象される。
ある予測の連鎖が、到来する感覚入力をうまく説明できれば(たとえば、それがケヴィンおじさんの独自の髪型、お気に入りのシャツ、特徴的な声にうまく合致すれば)、私の脳は、友人に結びついた感情に関連する、一つの「幸福」のインスタンスを生成する。
・概念を構成する予測の連鎖は、
第一に、予測の連鎖は、幸福のような経験が、なぜ構築されるのではなく、引き起こされるかのように感じられるのかを説明する。
脳は、分類が完了する以前でさえ、「幸福」のインスタンスをシミュレートしている。
また、動かすという主体性の感覚を覚える前に、顔や身体の動きを準備し、到来する前から感覚入力を予測している。
だから実際には、外界と身体の状態によって制約を受けつつ、脳が能動的に経験を構築しているにもかかわらず、情動は「生じている」かのように思えるのだ。
第二に、予測の連鎖は、生きていくうえで経験される、あらゆる思考、記憶、情動、知覚に、自分の身体に関する何かが含まれているとする、第4章で論じた主張を説明する。
予測の連鎖は、身体予算を調節する内受容ネットワークに起点を持つ。
したがって脳が実行する予測や分類はすべて、つねに心臓や肺の活動、代謝作用、免疫機能など、身体予算に影響を及ぼすシステムとの関係のもとで行なわれる。
第三に、予測の連鎖は、情動粒度がきめ細かなこと、つまりより緻密な情動経験を構築すること(第1章参照)の神経的な優位性を強調する。
最後に、一つの概念がその場で複数の予測から構築されることが示されている点で、脳内における個体群思考の作用を見出すことができる。
私たちは、ただ一つの「幸福」のインスタンスを生成して経験するのではなく、おのおのが独自の予測の連鎖を持つ多数の予測から成る、大規模な集合を構築する。この集合が概念なのだ。
・概念を用いて分類するごとに、脳は、感覚入力の猛攻にさらされながら、競合する多数の予測を生む。
どの予測が勝者になるか?
どの感覚入力が重要で、どれがノイズにすぎないのか?
脳は、その種の不確実性の解消を支援する、「コントロールネットワーク」と呼ばれる連絡網を備えている。
これは情動のインスタンスの生成を支援する。
そして最適化に関与している。
特定のニューロンの発火率を上げ、他のニューロンの発火を遅らせることで、ニューロン間の情報の流れを調整する。
そしてそれによって、注意のスポットライトが当たるべき感覚入力を特定し、目下の状況に合った予測を選択できるようにする。
脳はこの調整に導かれることで、身体予算の調節、安定した知覚の形成、行動の喚起を同時に行なえる。
コントロールネットワークはまた、情動概念と非情動概念の識別(不安なのか消化不良なのか)、情動概念間の識別(興奮なのか怖れなのか)、一つの情動概念が持つさまざまな目的間の識別(怖れの概念であれば闘争すべきか、それとも逃走すべきか)、インスタンス間の識別(逃走する場合、悲鳴をあげるかあげないか)を支援する。
映画を観ているとき、コントロールネットワークは、視覚系と聴覚系を選好して、私たちを物語の世界へと誘う。
別の状況のもとでは、より強力な気分を選好して通常の五感を背景に押しやることで、情動経験が得られるだろう。
情動の構築には、コントロールネットワークと内受容ネットワークが不可欠である。
さらに言えば、この二つの核心的なネットワークは両者を合わせて、脳全体にわたる情報伝達に関与している主たる中枢のほとんどを含む。
多数の航空会社が乗り入れる世界最大級の空港を思い浮かべてみればよい。
同様に脳内では、内受容ネットワークとコントロールネットワークの主たるハブを介して、情報は異なるネットワークのあいだを効率的に伝達される
内受容ネットワークとコントロールネットワークという主要なハブは、日常生活における意思決定が、気分という色眼鏡で世界を見る、やたらに口うるさくてほとんど聞く耳をもたない内なる科学者たる身体予算管理領域によって駆り立てられるという、第4章で論じた過程を可能にしている。
つまり脳の身体予算管理領域は、主要なハブをなす。
この領域は、その大規模な神経結合を介して、視覚、聴覚などの知覚や行動を変える予測をさまざまな領域に向けて一斉に発する。
ゆえに脳神経回路のレベルでは、いかなる判断も気分の影響を免れられないのだ。
・脳は、目覚めているあいだはつねに、概念として組織化された過去の経験を用いて自己の行動を導き、感覚刺激に意味を与えている。
ここではこの手法を「分類」と呼んできた。
だがそれは科学では、経験、知覚、概念化、パターン完成、知覚的推論、記憶、シミュレーション、注意、道徳性、心的推論など、さまざまな名称で呼ばれている。
この種の用語は、一般的な用法ではさまざまな意味を持つ。
何かがあって情動が生成された時、自分がそのとき幸福に感じていたのか、それとも感傷的になっていたのかを考え始めると、思い出しているのではなく「分類」している。
これらそれぞれの用語は明確に区別されるのではなく、どの用語も、意味を生成するという、脳の同一の機能によって説明できる。
意味の生成とは、与えられた情報を超えることである。
心臓の鼓動の高まりは、走れるよう十分な酸素を手足に供給するなど、身体的な機能を持つ。
それに対して分類は、自文化のもとで理解されている意味や機能をつけ加えることで、身体機能を幸福や怖れなどの情動的な経験に変える。
不快な感情価を帯びた気分や高い覚醒状態を経験すると、脳は、それをどのように分類するかに応じてそこから意味を生成する。
情動は意味である。
情動は内受容の変化と、それに付随する気分を、目下の状況に照らして説明する。
また、行動の処方箋でもある。
内受容ネットワークやコントロールネットワークなどの、概念を実装する脳のシステムは、意味生成に関与する生物学的メカニズムなのである。
第七章 社会的現実としての情動
アルベルト・アインシュタインは次のように述べた。「物理的な概念は、人間の心による自由な創造物であり、どう思われようが、外界のみによって決まるのではない」。
情動にも同じことが言える。
「実在」対「錯覚」という区分は誤っている。
怒りや怖れは、身体や顔面の特定の変化が情動として意味を持つという点に同意する一群の人々にとって、現実のものになるのだ。
この事実は、「情動概念は社会的現実を持つ」と言い換えられる。
情動概念は、自然界の一部をなす人間の脳内に形成される心のなかに存在する。
社会的現実とは、花や雑草や赤いリンゴなどの些細なもののように聞こえる事例に限ったことではない。
文明は、文字どおり社会的現実によって築かれている。
職業、住所、政府、法律、地位など、日常生活で通用しているものごとの多くは、社会的に築かれたものだ。
何かを作り、それに名前を与え、概念を作り出す。その概念を他者に教え、その人がそれに同意する限り、現実の何かを作り出したことになる。
いかにして、この創造のマジックを実行するのか?
分類することによってである。
現実に存在する事物を取り上げ、それに物理的な特性を超えた新たな機能を付与する。
それから、その概念を伝達し合い、それぞれの脳を社会に適合するよう配線し合う。
このようなプロセスが、社会的現実の核心をなす
・情動の三つの機能には、本人だけの問題であるという共通点がある。
意味を作り出し、行動し、身体予算を調節するために、他者を引き入れる必要はない。
しかし情動概念は、自己の社会的現実へと他者を引き入れる他の二つの機能を持つ。
一つは、二人が同期しながら概念を用いて分類する「情動コミュニケーション」である。
誰かが汗をかいて喘いでいるところを見たとき、彼がジョギングウェアを着ているのか、それともタキシードを着ているのかによって、伝達される情報が違ってくる。
このケースでは、分類によって意味が伝達され、彼の行動の理由が説明される。
もう一つの機能は「社会的影響」だ。
「興奮」「怖れ」「疲労」などの概念は、自分自身だけではなく、他者の身体予算を調節する手段としても使える。
自分の発汗や喘ぎを怖れとして他者に知覚させられれば、身体的な徴候そのものによっては達成不可能なレベルで、他者の行動に影響を及ぼすことができる。
私たちは他者の経験の建築家になれるのだ。
この二つの機能は、特定の文脈のもとでは身体の状態や行動が一定の機能を果たすという理解を、コミュニケーションの相手が共有していることを前提とする。
そのような集合的志向性が存在しなければ、ある人の行動は、それがいかに当人にとっては意味のあるものであっても、他者には無意味なノイズとして知覚されるだろう。
・情動を経験したり知覚したりするためには、情動概念が必要とされる。
いかなる情動概念も普遍的ではない。
たとえ普遍的な情動概念が存在したところで、普遍性それ自体は、その情動概念が、知覚者から独立した現実であることを無条件に意味するのではない。
文化を背後で動かしているのは社会的現実である。
社会的現実は、行動様式、嗜好、意味が、自然選択を通じて先祖から子孫へと伝えられる際の媒体として機能していると見なせる。
概念とは、生物学的構造の表面に貼られた単なる社会的合板なのではなく、文化によって脳に配線される生物学的現実なのである。
多様な概念を持つ文化のもとで暮らす人々は、子孫を残すという点でも、それだけ有利になるだろう。
「情動の文化的変容(emotion acculturation)」と呼ばれるものは、それによってその人は、未知の文化から、新たな予測を生む概念を獲得していく。
そして新たに獲得した予測を用いることで、移住先の文化が持つ情動を経験したり知覚したりできるようになるのだ。
「情動の文化的変容」は、人々の持つ情動概念が、文化間で異なるばかりでなく、変化することを見出した。
新たな情動パターンが古いパターンを置き換えるのではない。
ただし、新旧のパターンが干渉し合うことはある。自分が住む地域の概念を知らなければ、効率的な予測はできない。
努力を要し、おおよその意味しか生まない概念結合で対応していかなければならないからだ。
さもなければ、四六時中予測エラーに見舞われてしまうだろう。
それゆえ文化変容のプロセスは、身体予算に負荷をかける。
第八章 人間の本性についての新たな見方
・構成主義的情動理論では、脳と世界の境界における両者のあいだの行き来を許す。というより、おそらく境界は存在しない。
脳の中核システムは、さまざまな方法で結びついて〔第2章にあるように中核システムは複数の構成要素から成る〕、知覚、記憶、思考、感情などの心的状態を構築する。
・人間の脳は、思春期後期まで発達する。
しかしもっとも重要な時期は、妊娠初期に始まり、誕生後数年間続く。
そのことは、とりわけ身体予算、コントロール、学習に関与する脳領域に当てはまる(Hill et al. 2010)。
貧困家庭で育つ乳幼児では、これらの脳領域が通常より薄くなる(ニューロン間の結合が少なく、ニューロンの数が少ないことすらある)。
重要な点を指摘しておくと、そのような子どもの脳はもともと小さいのではなく、誕生後3年間における発達が遅れるのだ(Hanson et al. 2013)。
発達は、とりわけニューロン間の結合に関して生じる(Kostović and Judaš 2015)。
したがって脳の結合度の低下は、概念の発達を阻害し、IQと強く関連するプロセスの処理速度を低下させる。
こうして、社会的リアリティは物理的リアリティになる
・構成主義的情動理論は、自己責任に関してもまったく新たな考えを提起する。
責任に関する問いは、「人は自分が持つ概念に対して責任があるのか?」になる。
「責任」は、自分が持つ概念を変える意図的な選択を行なうことを意味する。
怒りや憎悪にまみれた社会で育った人が、関連する概念を持っていたからといって、非難されるべきではないだろう。
しかし、おとなとして自己啓発に努め、新たな概念を学ぶという選択をできるはずだ。
簡単なことではないが、やればできる。
これは、「あなたは自己の経験の建築家である」という私の主張を裏づけるもう一つの基盤である。
私たちは自分の行為に対して、部分的に責任を負っている。
自己のコントロールが及ばないものとして経験される情動反応に関してさえ、そう言える。
私たちには、予測を介して、危害をもたらす行為を回避するよう導いてくれる概念を学ぶ責任がある。
また、他者に対する責任も負わねばならない。
なぜなら、私たちの行為は他者の概念や行動を形作り、それによって、種々の遺伝子の発現に影響を及ぼすことで、次世代の人々を含めた他者の脳の配線を導く環境が形成されるからだ。
社会的現実とは、誰もが他者の行動に対する責任を部分的に負っていることを意味する。
それは、すべてを社会のせいにすることではない。脳の配線に基づいた、確たる事実なのだ。
・構成主義的情動理論は、生物学的な知見を取り入れた、人間の本性の心理学的な説明であり、進化と文化の両方を考慮に入れる。
人はある程度、遺伝子によって決定された脳の配線を持って生まれてくるが、環境によって発現したりしなかったりする遺伝子があり、そのメカニズムを通して経験に基づいて脳が配線される。
脳は、人々のあいだの同意によって成立している社会を含めた世界の現実に基づいて、形作られる。
心は、自分では気づいていない壮大な共同作業の賜物なのだ。
構築のメカニズムによって、人間は、客観的に正確な感覚を通してではなく、(あいまいなミツバチの写真を見たときのように)自己のニーズ、目的、過去の経験に沿ったあり方で、世界を知覚する。
第九章 自己の情動を手なずける
・内受容、気分、身体予算、予測、予測エラー、概念、社会的現実をめぐってここまで述べてきたことにはすべて、私たち自身や私たちの生活様式に関して、深く実践的な意義がある。
本章では情動の健康、第10章では身体的な健康、第11章では法、第12章では動物を取り上げる。
身体予算は、内受容ネットワークの、予測を司る神経回路によって調節されることを思い出してほしい。
予測が慢性的に身体のニーズに同期しなくなると、崩れたバランスを元に戻すのは困難になる。
脳の饒舌なスピーカーたる身体予算を司る神経回路は、身体から上がってくる反証(予測エラー)にすばやく反応しなくなる。
では、予測を的確に調整し、身体予算のバランスをとるために何ができるのだろうか?
唐突に母親めいた指南をすると、それにはまず、健康な食事をし、運動を欠かさず、十分に睡眠をとることだ。
ありきたりなことは承知のうえだが、残念ながら、生物学的に言ってそれに代わる方法はない。
身体予算のバランスを維持する他の手段に、ヨガがある。
ヨガはまた、体内に有害な炎症の発現を長期にわたって促す、炎症性サイトカインと呼ばれるタンパク質のレベルを低下させる(このタンパク質については、次章で取り上げる)。
定期的な運動は、心臓病、うつ病などの発症の可能性を下げる、抗炎症性サイトカインと呼ばれるタンパク質のレベルを高める。
環境も身体予算に影響を及ぼす。
できるだけ騒音や人ごみを避け、緑が多く自然な光が差す場所で過ごすようにしよう。
迫真の物語が展開される小説に没頭することも、身体予算に有益な効果をもたらす。
他の人の物語に関わるような心の探究は、内受容ネットワークの一部を構成するデフォルトモードネットワークを関与させ、(身体予算に悪影響を及ぼす)考え過ぎを回避させてくれる。
あなたが読書家でなければ良い映画を観ればいい。悲しい話には遠慮なく泣こう。
泣いて呼吸が遅くなると、副交感神経系に作用が及び、落ち着くのに役立つ。
身体予算のバランスの維持に有益な、ごく単純な方法を紹介しよう。
友人と定期的なランチデートを設定し、交替でおごり合うのだ。
贈り物や感謝の表明は、各人の身体予算に資する。だからおごり合えば、身体予算のバランスの維持に良い影響を与えられる。
他にも、ペット飼育、散歩、編み物なども良い
情動の健康を維持するために身体予算の管理の次の実践すべきことは、概念の補強である。あるいは「心の知能を育むための実践」と呼ぶ。
「幸福」も「悲しみ」も、さまざまなインスタンスから成る。
したがって心の知能は、脳が、特定の状況のもとで、その状況にもっともふさわしく有益な情動概念の、最適なインスタンスを構築できるようにすることだと言える(また、情動概念ではなく、情動以外の概念のインスタンスを構築すべきときを知ることでもある)。
『EQ』の著者ダニエル・ゴールマンによれば、心の知能の高さは、学問、ビジネス、人間関係において、より大きな成功をもたらす。
著書には、道理にかなった実践的なアドバイスが多数提示されているが、それらのアドバイスが有効である理由は説明されておらず、のみならず、そこで引き合いに出されている科学的根拠は、時代遅れの「三位一体脳」モデルに強い影響を受けている。
問題は情動粒度である。
(第1章で述べたように)いかにしてきめ細かな情動を構築し経験できるかは、人によって異なる。
粒度の細かな情動経験が可能な人は、情動の専門家と言えよう。
彼らは、その都度の状況に緻密に合致した予測を発し、情動のインスタンスを生成することができる。その対極には、おとなが持つ情動概念をまだ発達させていない子どもが位置する。
心の知能を高めるためのカギは、新たな情動概念を獲得し、すでに持っている情動概念を研ぎ澄ますことにある。
新たな概念を獲得する方法は、旅行に出る(森を散歩するだけでもよい)、本を読む、映画を観る、食べたことのない料理を食べてみるなどあまたある。それらを実践して、経験のコレクターになり、新たな視点を身につけよう。
その種の活動は、複数の概念を結びつけて新たな概念を構築するよう脳を促し、自分の予測や行動が変化する方向へと概念システムを改変してくれるだろう。
もっとも手っ取り早く概念を習得する方法は、新たな言葉を学ぶことである。
これは、構築の神経科学から直接導き出される。
言葉は概念の種を蒔き、概念は予測を駆り立て、予測は身体予算を調節し、身体予算は感情を左右する。
語彙の粒度がきめ細かくなればなるほど、脳は予測するにあたり、それだけけ正確に身体予算を身体のニーズに合わせられるようになる。
きめ細かな情動粒度を示す人は、医者や薬の世話になることが少ない。
これは身体と社会のあいだの穴だらけの境界をうまく利用したときに起こることである。
覚える言葉は母語だけに限定しないようにしよう。外国語を調べて、一体感を表わすオランダ語の言葉gezelligや、強い罪悪感を表わすギリシア語の言葉enohiなど、母語には対応する言葉がない概念を探そう。
覚えた言葉は、新たな方法で自己の経験を構築するきっかけになるはずだ。
社会的現実と概念結合の力を利用して、独自の情動概念を発明するのもよい。
さまざまなシチュエーションを想定して起こり得る情動インスタンスをシミュレーションしてみよう。
これを毎日実践していれば、さまざまな状況に巧みに対処できるようになるはずだ。
またおそらく、他者に強い共感を抱けるようになり、いさかいを調停し、人々とうまくやっていく能力が向上するだろう。
「情動ラベリング」「気分ラベリング」は、内受容ネットワークの身体予算管理領域の活動の低下と、コントロールネットワーク領域の活動の増大と結びついている(Lieberman et al. 2007; Lieberman et al. 2005)。
つまりクモ恐怖症の研究によって、きめ細かな情動の分類は、情動を「調節する」他の二つのアプローチにまさることが示されている。
情動粒度の高さには、満ち足りた人生を送るにあたって、その他にも有益な効果がある。
不快な感情をきめ細かく識別する能力を持つ人は(要するに、五〇種類の「ひどい気分」を識別できる人は)、情動の調節において三〇パーセントほど柔軟性が高くなり、ストレスを感じたときに飲みすぎることが少なく、自分を傷つけた相手に攻撃的に振る舞うこともあまりない。
統合失調症を抱える人のあいだでも、きめ細かな情動を示す人は、そうでない人に比べて、家族や友人と良好な関係を維持できていると報告することが多い。
情動粒度の低さは、あらゆる種類の問題に結びつく。
うつ病、社交不安障害、摂食障害、自閉症スペクトラム障害、境界性パーソナリティ障害を抱える人や、単に不安や抑うつを頻繁に経験する人は、負の情動に対して粒度の低さを示す。
概念を磨くにあたって情動粒度の改善の次にできることは、セラピーや自己啓発書でよく取り上げられる方法だが、肯定的なできごとの日記をつけることである。
肯定的なできごとを経験するたびに、概念システムが働きかけられ、その経験に関連する概念が強化される。
すると世界に関する心的モデルのなかで、概念が際立ち始める。
それを書き留めておくとよい。
なぜなら、言葉は概念の発達を促し、肯定的なできごとを予測する心構えを函養してくれるからだ。
あなたが親なら、子どもの心の知能を磨きあげられることを覚えておこう。
子どもには理解がむずかしそうに思えても、できるだけ早い時期から、情動やその他の心的状態について語っておくとよい。
乳幼児は、親が気づく前から概念を発達させるという事実を思い出そう。
子どもに情動概念を教えることは単なるふれあいではなく、それを通して子どもにとっての社会的現実を創りあげていることを忘れてはならない。
高所得世帯の子どもは、低所得世帯の子どもに比べ、四歳になるまでに四〇〇万回以上多くの言葉を見たり聞いたりしており、語彙が豊富で読解力が高い。
豊かな情動概念を持つ子どもは、学校で良い成績を収めることが多い
具体的な言葉、肯定的な言葉は、子どもの身体予算に良い影響を及ぼす。
これらを効率的に調節することで、より豊かな情動概念のシステムや、学業の向上につながる全般的な言葉の発達を促進できる。
生活の浮沈、加齢、外界の変化にはどのように感情を手懐けるか?
もっとも単純なアプローチは身体を動かすことだ。いかなる動物も、動くことで身体予算を調節する。
億劫でも立ち上がって動き回ろう。
音楽に合わせて踊ってみよう。
公園で散歩しよう。
なぜその種の実践が有効なのか?
身体を動かせば予測が変わり、それによって経験も変わるからだ。
また動くことは、肯定的な概念を前面に出すよう脳のコントロールネットワークを促す。
情動を手なづけるもう一つのアプローチに、場所や状況を変えて予測を調節するという方法がある。
身体を動かすことや状況を変えることでは情動を抑えられない場合、次にできる試みは自己の感情を再分類することである。
説明しよう。気分がすぐれないとき、人は内受容刺激に起因する不快な気分を経験している。
脳は律儀に、そのような感覚刺激を引き起こしている原因を予測しようとする。
実践を積めば、身体的な感覚刺激を、それを通して世界を見るフィルターに変えるのではなく、その逆に気分を単なる身体的な感覚へと解体できるようになる。
情動を手なずけて自己の行動を調節するにあたって、より多くの概念を知り、より多様なインスタンスを生成する能力を持っていれば、それだけ効率的に再分類ができる。
たとえば、受験直前に頭がのぼせたように感じたとする。
その場合、そのような感情を有害な不安としても(「もうだめだ。受かりっこない!」)、有益な期待としても(「活力がみなぎってきた。よし、やってやろうじゃないか!」)再分類できる。
この種の再分類は、日常生活において実質的な恩恵を与えてくれる。
GRE〔大学院進学適性試験〕などの数学テストの成績を調査したさまざまな研究によって、身体による対処の徴候として不安を再分類すると、成績が上がることが見出されている
不安を興奮として再分類する人にも同様な効果が見出されており、不安の典型的な徴候をあまり示さなくなる。
彼らの交感神経系は依然として神経質な蝶を生んでいるはずだが、能力の発揮を阻害し、人をみじめな気分に陥れると一般に言われている炎症性サイトカインの分泌が抑えられるために、より良い結果が得られるようになるのだ
自己が一つの概念であれば、私たちはシミュレーションによって自己のインスタンスを生成していることになる。
各インスタンスは、その瞬間の目的に合致している。
私たちは、自己を自分の経歴によって分類することがある。
社会心理学者は、私たちが複数の自己を備えていると言うが、それらを「自己」と呼ばれる、たった一つの合目的的概念の複数のインスタンスとしてとらえることもできる。
この見方では、目的は文脈によって変化しうる。
これは社会学者ヘイゼル・マーカスの画期的な研究による
私たちの脳は、乳児、幼児、青少年、中年、老年などの各時期を通して、「自己」の多様なインスタンスをどのように追跡しているのだろうか?
その答えは、「私たちの一部は、つねに一定しているからだ」というものだ。
つまり、私たちはつねに身体を抱えている。
あらゆる概念は、学んだときの(内受容予測としての)身体の状態を含む。
内受容が大きく関与している、「悲しみ」などの概念もあれば、「ビニール袋」など、ほとんど関与していないものもあるとはいえ、それらの概念は、いずれもつねに同一の身体に関係している。
私たちが行なう分類はすべて、わずかでも自分自身を含んでいる。
そしてそれが、自己の感覚の初歩的な心的基盤をなすのである
自己の解体は、いかにして自己の情動のマスターになれるかについて新たな洞察をもたらしてくれる。概念システムにひねりを加え、予測を変えることで、未来の経験ばかりでなく、「自己」を改造することさえできるのだ。
情動インスタンスの再分類にはマインドフルネス瞑想法も有効。
今この瞬間に注意を集中し、さまざまな感覚が生じては消えていく様子を、いかなる判断も差し挟まずに観察するよう教える。
マインドフルネス瞑想の実践結果には
内受容ネットワーク(心的な概念を構築し、身体やコントロールネットワークから入って来る感覚刺激を表象する)、コントロールネットワーク(分類の調節に、重要な役割を果たす)の領域結合が強まる傾向がある
他者の情動を知覚する能力を向上させるためには、他者が何を感じているかが自分にはわかるという思い込みを捨てなければならない。
情動のコミュニケーションは、あなたと私が同期して予測し、分類するときに起こるのだ。
それは行動の同期、情動概念の同期として示される。共通の文化的背景や、過去の経験を持っていれば、また、特定の相貌、動作、声音などの特徴が文脈に応じて一定の意味を持つという点に同意していれば、同期の度合いは高まる。
第十章 情動と疾病
痛みやストレスなどの現象、あるいは慢性疼痛、慢性ストレス、不安障害、うつ病などの病気は、通常考えられている以上に関連しており、情動と同様な様態で構築される。
この見方を理解するカギは、予測する脳と身体予算について正しく把握することにある。
負傷したり病気にかかったりすると、細胞はサイトカインを放出し、血液が問題のある箇所に誘導される。
過酷な環境のもとで脳は、実際の身体の需要以上にエネルギーが必要とされていると恒常的に予測する。
そしてこれらの予測は、必要以上に頻繁かつ大量にコルチゾールを分泌するよう身体を促す。
コルチゾールは通常、炎症を抑制する。
しかし、血中のコルチゾールレベルが長期間上がったままになると、炎症は激化し、活力の喪失を感じるようになり発熱することもある。
脳には、炎症性サイトカインを分泌する細胞を持つ独自の炎症システムが備わることが知られている。
ひどい気分を引き起こしうるこの小さなタンパク質は、脳を作り直す。
つまり脳内の炎症は、脳の構造、とりわけ内受容ネットワークに変化をもたらし、
神経結合に干渉してニューロンを殺しさえする。
慢性的な炎症は、注意の集中、記憶の想起を困難にし、IQテストの成績を低下させる。
こうして慢性的にバランスを崩した身体予算は、疾病のこやしのごとく作用する。
最近二〇年間で、糖尿病、肥満、心臓病、うつ病、不眠症、記憶能力の低下、さらには早期老化や認知症に関与する「認知的な」機能の劣化など、免疫系が一般に考えられている以上に多くの疾病の要因になりやすい。
炎症は、心の病気の理解に革新的な知見をもたらしてくれる。
科学者や臨床医は長年、慢性ストレス、慢性疼痛、不安障害、うつ病などの心の病に対して、古典的理論を適用してきたが、それらの疾病間を分かつ境界はなくなりつつある。
同名の障害を診断されても、人によって症状は大幅に異なる可能性がある。
変化が標準なのだ。
また、障害が異なっても症状は重複しうる。
同じ脳領域に萎縮が引き起こされる場合もあれば、患者は同じ情動粒度の低さを示す場合もある。
また同じ薬が、有効なものとして処方されるかもしれない。
この結果、研究者は、それぞれの疾病に独自の本質が備わるとする古典的理論から離れて、その代わりに遺伝的因子、不眠、内受容ネットワークや脳の主要な中枢の損傷など、さまざまな疾病に対してその人を脆弱にする一連の共通因子に着目するようになりつつある。
子どもは、とても嫌な経験を何度かするだけで、戦場で暮らしているかのように感じ始め、おとなになるまでに身体予算管理領域が縮小する。
けんかが絶えない混乱した家庭や、しかられてばかりの厳格な家庭で育つことは、思春期の少女の炎症を増大させ、子どもを慢性的な病気にかかりやすくする。
そのような状況は、子どもの虐待や養育放棄と同程度に、内受容ネットワークやコントロールネットワークの発達を阻害する。
また、いじめの対象になっても同様な問題が生じる。
子どもの頃にいじめられた人は、おとなになっても持続する低レベルの炎症を抱えるため、さまざまな精神疾患や身体疾患にかかりやすくなる。
このように、バランスを失った身体予算はさまざまな様態で脳に刻印を押し、心臓病、関節炎、糖尿病、がんなどの疾病に罹患するリスクを高める。
身体に痛覚予測を送る経路と、脳に痛覚入力を送る経路は、内受容に密接に関連する(痛覚が、内受容の一形態であるという可能性も考えられる)。
概して言えば、痛み、ストレス、情動として分類される身体感覚は、脳や脊髄のニューロンというレベルでさえ、基本的には同一だ。
痛み、ストレス、情動を区別することは、情動粒度の一形態だと見なせる。
身体組織に何の損傷も負っていないにもかかわらず痛みを経験することを、慢性疼痛と呼ぶ。よく知られた例として、線維筋痛症、片頭痛、慢性腰痛がある。
慢性疼痛を患う人の脳は、過去に激しい痛覚入力を受け取ったことがあり、損傷が回復しても、その情報が脳に伝えられず、その後も同じように予測や分類をし続けた結果、慢性疼痛が生じた可能性が考えられる。
。「頭の内部」に存在する予測する脳は、身体が治癒したあとでも正真正銘の痛みを生み続けている。
この事態は、脳が予測を発し続けているために、失われた手や足を感じる幻肢症候群と似ている。
「ストレス」同様、「痛み」は、身体から入って来る感覚刺激をもとに意味を作り出す概念なのである。痛みやストレスを情動として、あるいは情動やストレスを一種の痛みとして特徴づけることも可能だろう。
概念を媒介として、脳が身体から入って来る感覚刺激の意味を解釈しているのである。
たとえば慢性疼痛は、脳が「痛み」の概念を誤って適用することで引き起こされるのであろう。
身体組織の損傷や、それに対する脅威が存在しないにもかかわらず、脳は痛みの経験を構築するのだ。
このように慢性疼痛は、不適切な予測と、脳が身体から誤解を招くようなデータを受け取ることで生じる、悲劇的な疾病の例だと言えよう。
従来の不安障害の研究は、認知が情動をコントロールするという、時代遅れの「三位一体脳」モデルに基づく。
情動を司る扁桃体の活動が過剰になり、理性を司る前頭前皮質がそれをうまく調節できていないと主張するこの見方は、現在でも影響力を持っている。
扁桃体はいかなる情動の拠点でもないし、前頭前皮質は認知を宿す領域ではない。
さらに言えば、情動も認知も、相互に調節し合うことなどできない、脳全体による構築物だ。
私たちは皆、世界と心のあいだ、そして自然と社会のあいだを綱渡りしながら歩んでいる。
うつ病、不安障害、ストレス、慢性疼痛など、これまで純粋に心の問題と考えられていた障害の多くは、実のところ生物学的な用語で説明できる。
また、痛みなどの純粋に身体的なものと見なされてきた障害は、同時に心的概念でもあることがわかってきた。
熟達した自己の経験の建築家になるためには、身体的現実と社会的現実を区別し、二つが決定的にからみ合っていることを理解しつつも、それらを取り違えないよう留意する必要がある。
第十一章 情動と法
本章では、法制度において一般に見受けられる、情動にまつわる神話を精査する。そして生物学的な裏づけ、とりわけ神経科学による裏づけが豊富にある心の理論を導入することで、社会における正義の追求のあり方をいかに改善できるかを検討する。
反射メカニズムのように配線されているわけではない。
そうであったら、触手に触れた魚はすべて反射作用によって刺そうとするイソギンチャクのように、環境のなすがままになっているだろう。
外界から刺激を受け取るイソギンチャクの感覚ニューロンは、動くための運動ニューロンに直接結合している。
そこに意志は介在しない。
人間の脳の感覚ニューロンと運動ニューロンは、「連合ニューロン」と呼ばれる媒体を介して連絡を取る。
そしてそれによって、神経系に特筆すべき能力が付与される。つまり意思決定の能力である。
連合ニューロンは、感覚ニューロンから信号を受け取ると、一つではなく二つの行動を起こすことができる。
運動ニューロンを刺激する、もしくは抑制することが可能なのだ。
したがって同じ感覚入力から、状況に応じて異なる結果がもたらされることがある。
この仕組みは、人間が持つもっとも貴重な能力である、選択の生物学的な基盤をなす。
※ Swanson 2012. この研究は、ジョージ・ハワード・パーカー(Parker 1919)と、神経科学者でノーベル賞受賞者のサンティアゴ・ラモン・イ・カハル(Ramon y Cajal 1909-1911)に従っている。
法制度は、社会の規範、すなわち文化内の社会的現実を代表する「通常人(reasonable person)」と呼ばれる基準を持ち、被告はこの基準に照らして評価される。
激情弁護の核心をなす法的議論について考えてみよう。
それは、「通常人が、冷静になる機会を与えられず、〔被告人が受けたことと〕同様なあり方で挑発された場合、〔被告と〕同じように殺人を犯すだろうか?」というものだ。
通常人という基準と、その背後にある社会的規範は、単に法に反映されているだけでなく、法によって作り出される。
言い換えれば、「これが人間の行動に期待されるものである。
われわれは、それに従わない人を罰するだろう」と宣告しているのだ。
それは社会契約であり、多様な個人から構成される集団に属する平均的な人々の行動を導く指針となる。
そして通常人とは、平均的な人という考えと同様、いかなる個人にも完全には当てはまらないフィクションにすぎない。
それはステレオタイプであり、古典的情動理論と、それを支える人間観の一部をなす、情動の「表現」、感情、知覚に関する紋切り型の考えを含む。
情動のステレオタイプに基礎を置く法の基準は、男性と女性の公平な処遇に関して、とりわけ問題を孕む。
激情弁護(と訴訟手続き一般)は、被告が男性か女性かによって異なるあり方で適用される。
男性の怒りは普通である。なぜなら男性は攻撃的だと考えられているからだ。
女性は被害者であり、被害者たるもの怒りを表に出してはならず、怖れを抱いていなければならない。
怒りを表現する女性は罰せられ、敬意、金銭、そして職を失うかもしれない。
概して言えば、男性と女性の情動に関する法の見方を裏づける科学的証拠はなく、それは時代遅れの人間観に由来する信念にすぎない。
ここに紹介したいくつかの事例は、法的側面においても科学的側面においても、氷山の一角にすぎない。
たとえば、法廷の内外で同様な状況に直面している民族集団を対象とする情動のステレオタイプには、ほとんど触れていない。
法が情動のステレオタイプを成文化する限り、人々は一貫性のない判決を下され続けるだろう。
生物学的な問題が、意図して自分の行動を選択する脳の能力に干渉することはある。
脳腫瘍が大きくなっているのかもしれないし、重要な脳領域のニューロンが死滅しつつあるのかもしれない。
だが、脳の構造、機能、化学反応、遺伝子が変化しうるという事実は、酌量すべき事情の理由にはならない。
変化が標準なのだ。
人種差別主義のステレオタイプが蔓延し、感情的現実主義によって人々がお互いを見るあり方が歪曲されてしまう社会にあって、何が自分の生命の危険に対する正当な怖れなのかを決定することは不可能だ。
かくして正当防衛法を正当化する論法は、感情的現実主義によって骨抜きにされる。
法は情動的なダメージを身体的なダメージより軽いものとし、懲罰には値しないと見なす。
身体は人間を人間たらしめている組織、すなわち脳を収めた容器にすぎないにもかかわらず、法は解剖学的身体の統合性は保護しても、心の統合性は保護しないのだ。
・五つのポイント、法制度に向けられた、情動に関する科学的宣言書を述べる。
一点目は、いわゆる情動表現に関するものである。情動は、顔、身体、声に客観的に表現されたり、示されたり、あるいは他のあり方で開開示されたりするものではない。
有罪/無罪や刑罰の決定者は、誰もがこの点を知っておく必要がある。
他者の怒り、悲しみ、自責の念などの情動を検知、あるいは認知することはできない。
推測できるだけだ。そして推測には、十分な情報に基づくものとそうでないものがある。
公正な裁判は、証言する人(被告、証人)と、それを知覚する人(陪審員、判事)のあいだで同期がとれていることに依存する。
だが、それを達成することがきわめて困難な状況になる場合も多い。
二点目は現実に関するものである。
視覚、聴覚などの感覚は、つねに感情の影響を受けている。
まったく客観的に見える証拠も、感情的現実主義の影響を受けている。
陪審員も判事も、予測する脳や感情的現実主義、さらには法廷で見るもの、聴くものを感情が文字どおり変えてしまうことについて知っておく必要がある。
目撃者の証言は、厳然たる事実を伝えるわけではない。
三点目は自制に関係する。
自動的に生じていると感じられる事象のすべてが、自制のまったく及ばないものでもなければ、情動的な現象でもない。
予測する脳は、思考や記憶を構築する場合と同じ範囲の抑制を、情動を構築する際にも与えてくれる。
情動的なものか認知的なものかを問わず、自制が働いていればいるほど、自分の行動に対してそれだけ責任を負わなければならない。
四点目、「脳が私にそうさせた」式の弁護に注意しよう。
陪審員や判事は、脳の特定の領域が暴力行為を引き起こしたとする主張に疑いを持つべきだ。
あらゆる脳はその人に固有のものであり、変化が基準である(縮重を考えてみればよい)。
もちろん腫瘍などの異常や、明らかな神経変性の徴候はそれとは話が別だが、それでも腫瘍や神経変性疾患は、法制度に難題をつきつけたりはしていない。
最後の五点目は、本質主義に注意せよ、である。
陪審員や判事は、あらゆる文化が、性、民族、人種、宗教などの社会的なカテゴリーであふれていることを知っておく必要がある。
これらのカテゴリーは、現実の確たる境界を持つ身体的、生物学的カテゴリーと取り違えてはならない。
今や通常人という考えは捨てて、別の基準を生み出すべきときだ。
・自制し、自分の行動に責任を負うとは、いったい何を意味するのだろうか?
構成主義的な人間観は、あらゆる人間の行動には、二つではなく三つのタイプの責任がともなうと考える。
一つは従来的なもので、本人の行動に関するものである。あなたは銃の引き金を引く。
あるいは金銭を奪って逃走する(法制度は、そのような行動を「犯罪行為」と呼ぶ)。
二つ目のタイプの責任は、不法行為をもたらした予測に関するものだ(「犯意」と呼ばれる)。
行動は一瞬にして引き起こされるのではなく、つねに予測に駆り立てられている。
三つ目のタイプの責任は、概念システムにおける内容が関係する。
法を犯した瞬間に、脳がどのように概念システムを用いて予測を発したかは問わない。
脳は無から心を形成しているのではない。
人は皆、種々の概念の総体であり、それが予測となり行動を駆り立てる。概念は、個人が選択できるような類のものではない。
予測は、その人が浸かっている文化の影響のもとで発せられる
三つ目の責任の領域は、二つの方向に分かたれる。ときにそれは、過度に同情するリベラルな心情の風刺である、「責められるべきは社会なり」という言い回しによって矮小化される。
だが違う。
罪を犯せば非難されてしかるべきだが、犯罪行為は、その人が持つ概念システムに依存する。
そして概念は、魔法のように無から生じるのではなく、体内に浸透して遺伝子の発現やニューロンの配線に影響を及ぼす、社会的現実によって形作られる。
人間には他の動物と同様、環境から学ぶ。
その一方、いかなる動物も独自の環境を形成する。したがって人間は、環境を形成して自己の概念システムを変更する能力がある。
つまり人は、自分が受け入れたり却下したりした概念に対して、最終的な責任を負っているのだ。
第十二章 うなるイヌは怒っているのか?
・構成主義的情動理論に従って考えれば、情動を生成するために必要な三つの要素を動物が備えているか否かを問うてみなければならない。
第一の要素は内受容であり、
「動物は、内受容刺激を生成し、それを気分として経験する神経装置を備えているのか?」と問う。
第二の要素は情動概念で、
「動物は、〈怖れ〉や〈幸福〉などの純然たる心的概念を学習する能力を持つのか?」
「持つのなら、動物は人間同様、概念を用いて予測を行ない、感覚刺激を分類し、情動を生み出すのか?」と問う。
第三の要素は社会的現実で、問いは
「動物は情動概念を共有し、次世代に受け渡せるのか?」になる。
感情的ニッチは、日常生活でも、もっとも大きさがものを言う領域の一つである。
例えば実験でよちよち歩きの乳児にさまざまなおもちゃを与えると、それらは通常、乳児の感情的ニッチの範囲内に置かれる。
関連する概念が統計的に研ぎ澄まされることは動物には当て嵌まらない。
動物の内受容ネットワークは、人間より発達していない。
それはとりわけ、予測エラーの制御を支援する神経回路に関して当てはまる。
この事実は、例えばマカクザルが、過去の経験に基づいて外界の事象に注意を向けることに長けていないことを意味する。
さらに重要なのは、人間の脳が、マカクザルの脳のほぼ五倍の大きさを持つことだ。
また人間では、内受容ネットワークの一部とコントロールネットワークが、はるかに濃密に結合している。
人間の脳は、この強力な装置を用いて、第6章で論じたような方法で予測エラーを圧縮し、要約する。そのおかげで私たちは、純然たる心的概念を学ぶために、マカクザルより効率的に、より多くの源泉から得られる感覚情報を統合し、処理できる。
内受容ネットワークと、その支援を受けて生成される感情的ニッチだけでは、情動を感じ、認知するには不十分である。
そのためには、脳は概念システムを築き、情動概念を構築し、感覚刺激を自分自身や他者の情動として意味あるものにする能力を備えている必要がある。
類人猿に関して言えば、合目的的概念を構築し、心的推論を実行する能力を持つ可能性は考えられるが、決定的な科学的証拠はまだ得られていない。
いかなる概念も、合目的的でありうる(「魚」は、ペットにも夕食のメニューにもなる)。だが情動概念は、合目的的でしかあり得ない。
社会的現実を構築する人間の能力は、動物界でも独自のものだと思われる。
人間だけが、言葉を用いて純然たる心的概念を構築し、共有できる。
また人間だけが、心的概念を用いて、協力したり競争したりしながら、効率良くそれぞれの身体予算を調節できる。
さらには人間だけが、感覚刺激を予測し、その意味を理解するために、情動概念のような、心的な状態を示す概念を持つ。
社会的現実とは、人間の持つスーパーパワーなのだ。
まとめる。
動物は、内受容によって身体予算を調節しているのだろうか?
動物界全体を対象に答えることはできないが、ラット、サル、類人猿、イヌなどの哺乳類に関して言えば、「イエス」と答えても問題ないだろう。
動物は気分を経験しているのか?
生物学、ならびに動物行動学の知見に基づけば、それに対する答えも確実に「イエス」である。
動物は概念を学習し、それを用いて予測し、分類する能力を備えているのか?
もちろん備えている。
行動に関する概念を学習できるのか?
疑いなく「イエス」だ。
言葉の意味を学習できるのか?
シンボルが統計的なパターンの一部をなし、脳がそれをとらえて、将来の使用のためにとっておくという意味において、特定の状況のもとで言葉や他のシンボル体系を学習する能力を持つ動物はいる。
だが、動物は、言葉を用いることで外界の統計的な規則性を超越し、異なって見えたり、聴こえたり、感じられたりするさまざまなモノや行為を統合する合目的的な類似性の概念を生み出す能力を持っているのか?
言葉をきっかけに心的概念を形成できるのか?
外界に関する必要な情報の一部が、他の個体の心に宿ることを認識しているのか?
行動を分類して、心的事象として意味のあるものに変える能力を持つのか?
これらの問いに対する答えは、少なくとも人間と同じか否かという意味では「ノー」であろう。
類人猿は、一般に考えられているよりもはるかに私たちのものに類似する分類を実行できる。
情動を持つと私たちが考えているその他の動物のほとんどは、情動を構築する能力を持たない。
なぜなら、それに必要とされる情動概念を持っていないからだ。
人間以外の動物は何らかの気分を感じるが、情動という点になると、現在の知見に基づいて言えば、私たちが動物に投影しているにすぎない。
第十三章 脳から心へ 新たなフロンティア
・縮重、中核システム、概念の発達を支援する脳の配線などに関する知見をもとに、脳からはどのような種類の心がいかに生じるのかについて考えてみたい。
心のどの側面が普遍的で必然的なのか、そしてそうでないのはどの側面か、さらにはそれが自己や他者の理解に対して持つ意味をも考察する。
・感情的現実主義──自分が信じているものを実際に経験するという現象──は、脳の配線のゆえ必然的に生じる。
内受容ネットワークの身体予算管理領域(メガフォンを持つ、口うるさくて聞く耳を持たない内なる科学者)は、脳内でもっとも強力な予測者と、また一次感覚領域は熱心な聞き手と見なせる。
経験と行動の主たる操縦者は、論理や理性ではなく気分に駆り立てられた、身体予算に関する予測なのだ。
心の構成要素は、本書で見てきた三つの側面、すなわち感情的現実主義、概念、社会的現実から成る。
感情的現実主義は不可避のものとはいえ、人間は、それに対して無力なわけではない。
最大の防御手段は、好奇心である。
何かを読んでその内容を気に入ったり、嫌ったりしたときにはとりわけ注意せよ。
そのような感覚を抱いたことは、おそらくはそこに書かれている考えが、自分の感情的ニッチの範囲に確実に入ることを示しているからだ。
だから、オープンな心を持って読むようにしよう。自分がいかなる気分を感じたのかは、そこに書かれている科学の良し悪しを示す証拠になりはしない。
不確実性に快さを感じ、謎に喜びを見出そう。
何ごとにも疑問を感じるよう、注意深くなろう
心に不可避なものの二つ目は、概念を持つことである。
人間の脳は、概念システムを構築するべく配線されている。
人間は、光や音の断片のような非常に細かな物理現象から、「印象派」「飛行機に持ち込んではならないもの(たとえば銃、ゾウの群れ、退屈なエドナおばたん)」などの、至極複雑な概念に至るまで、さまざまな概念を構築する。
脳が構築する概念は、身体のエネルギー需要を満たしながら生きていくために必要な世界のモデルであり、最終的には自分の遺伝子をどの程度増やせるかを決める。
概念は、生存に必須ではあれ、本質主義に至る扉を開きかねないがゆえに注意を要する。
それは、実際には存在しないものを見るよう仕向ける。
ファイアスタインは、「真っ暗な部屋の中で黒猫を探し出すのはとても難しい、そこに猫がいなければなおのこと」〔佐倉統・小田文子訳、東京化学同人〕という古いことわざを引用して『イグノランス』の幕を開ける。
このことわざは、本質の探究をみごとに要約する。
心に不可避なものの三つ目は、社会的現実に関するものである。
生まれたばかりの頃は、ひとりで自分の身体予算を調節できず、誰かに調節してもらわなければならない。
その過程で脳は、統計的に学習し、概念を生む。
また、特定のあり方で社会を構造化してきた他者に満ちた環境に応じて、自らを配線する。
やがて社会は、自分にとっても現実のものになる。社会的現実は人間にとっての超越的な力であり、私たちは、純然たる心的概念を用いてコミュニケーションを図ることのできる唯一の動物なのだ。
また、個々の社会的現実はいずれも、必然的なものではなく、特定の集団で通用しているにすぎない(また、物理的環境によって制約を受ける)。
社会的事象を身体的事象と取り違えると、外界と自分自身を混同する。
この点において社会的現実は、それを持つことを認識している限りにおいて超越的な力になる。
私たちが「確実さ」として経験するもの、すなわち自分自身、他者、周囲の世界について何が正しいかを知っているという感覚は、日々を無事に生きていけるよう支援するために脳が作り出している幻想にすぎない。
おりに触れてこの「確実さ」をわずかでも手放すことは、よい考えだ。
私たちの脳は、外界からやって来る感覚入力に対して複数の説明を生み出す。
現実は、無限にではないとしても確実に複数存在する。