~迷子の倫理、詩的言語の可能性の果てへ~
※前の記事ではマーケティング的観点から論じており、
今回は文化的な価値の側面を論じるものです。
※英訳 はこちら
Contents
◆所感 人間になりたいうた
◆ロックからアイドル、そしてガールズバンドアニメへ
1,「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」、そしてAMVへ
2,AMVからガールズバンドアニメ、
アイドルを通じてガールズバンドアニメへの回帰
3,BanGDream! It‘s MyGO!!!!! 以前のBanGDream! と「日常系」、
あるいは祝祭としての音楽
SHOW BY ROCK、ゾンビランドサガ、BanGDream!(It’sMyGO!!!!! 以前)
4,「日常系」の再解釈
◆迷子の倫理
1,迷いの定義
2、迷いの哲学 キルケゴール
3―1,迷いの哲学 老子「道」
3―2,迷いの哲学 老子「道」
4,BanGDream! It‘s MyGO!!!!! における「迷い」
◆音楽における詩的言語
1,詩的言語の発生起源 ルソー「言語起源論」
2―1,詩的言語の役割 マラルメ「言語に関するノート」
2-2,詩的言語の役割 ローマン・ヤコブソン「詩的機能」と反復の原理
◆詩的言語と「ル・セミオティック」について
1,ジュリア・クリステヴァ『詩的言語の革命』
2,「ディキンソンの詩の記号論的衝動とその治癒的効用」
(原題:”THE SEMIOTIC PULSIONS OF DICKINSON’S POETRY AND THEIR MEDICINAL VIRTUES”)
◆BanGDream! It‘s MyGO!!!!! における詩的言語
1,春日影、碧天伴走
2,詩(うた)、詩超絆
3、迷星叫、迷路日々
◆詩的言語の可能性の果てへ
◆全話総評
◆参考文献
◆所感

(BanGDream! It‘s MyGO!!!!! 3話より)
“みんなみたいに 友達できたけど
みんなといるのに 独りみたいな
みんなみたいに 生きたいのに
人間になりたい”(MyGO!!!!! 「人間になりたいうた」)
人と同じ感覚で無かった時。
人に合わせられなかった時。
人の気持ちが分からなかった時。
世界からズレていることの恐怖を想像できるだろうか。
冒頭の4段落は、BanGDream! It‘s MyGO!!!!! の主人公:
高松燈の最初の詩であり、最初の歌詞である。
物語の冒頭から「世界からズレないように」と足掻き、
友達を失い、母親からも同意を得られず、
彷徨いうろつくように、無心で書き綴る言葉。
圧倒的な解像度で迫る孤独の造詣に、筆者は眩暈がした。
ここに自分自身が居ると。
と同時に不安になった。このモデルで物語を作り上げるのは、困難を極めるだろう。
安易な解決も、王道的な打開策もなく、
地道で暗闇を歩くような道のりが予期された。
そしてそれは、裏切られた。しかも、全く予期しない形で。
本稿では、まずガールズバンドアニメの歴史を概観する。
続いて「迷子」について定義し、「迷子の倫理」を考える。
その倫理として、音楽における詩的言語を問い直し、
その核心にある「ル・セミオティック」について論じる。
そして詩的言語の可能性の果てへ辿り着いたとき、
本作の可能性の中心を観ることになるだろう。
結論を先取りすれば、それは「迷い」の無い「迷子」として、
非常に長い射程での可能性を問い続けるだろう。
※OP,EDが判断するための分水嶺になるだろう。ご参照ください。
OP 壱雫空(MyGO!!!!!)

https://www.youtube.com/embed/_CraJ8654Bg
ED 栞(MyGO!!!!!)

https://www.youtube.com/embed/fXk4czRGl4E
※本作の続編となる「BanGDream! AveMujica」は、
2025年冬、春(上半期)アニメ放映作品を通じて、最高の傑作であり、
ガールズバンドアニメにその名を刻むであろう作品。
両作品を通して、音楽に対する姿勢が、人間に対する姿勢の直喩であり、
世界に対する態度表明の在り方である。
比較すると非常に興味深いと思う。
◆ロックからアイドル、そしてガールズバンドアニメへ

※前の記事も参照
1,「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」、そしてAMVへ
現代において、ロックバンドとアイドルは、音楽の売り方やイベントの開催方法などでマーケティング戦略を駆使し、最大限の商業的成功を目指す。メディア露出、具体的には、 テレビ、インタビュー、ソーシャルメディアを活用することで、両者は広範な受け手に自分たちのメッセージを届ける。
例えば小関隆氏の「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」(中公文庫)では、ビートルズとその前後のイギリス史にフォーカスした著作だが、そのビートルズ/ロックに関する主張としては、アイドル/ロックンロール/ロック問題は、おおむね冷戦期のUS/UK関係から導くことができる。
本著によると、「無意識ロックシンガー」はアメリカショービジネス派生のアイドル系譜である。
プロトタイプのロックンロールはアメリカの民衆音楽(ゴスペル、カントリー、R&Bなど)からの断絶と跳躍であるが、ここには黒人と白人との問題もある。
ロック音楽における広義の「自意識系サブカルチャー」はビートルズからの派生で説明がつく。
時代を進め、日本においては、1980’sにおけるアイドルアニメの創出とポップスの導入の時期が検討対象となろう。
それは、79年の「劇場版銀河鉄道999」EDのゴダイゴからの流れ、
1982年の「マクロス」、1983年「キャッツアイ」と「クリーミィマミ」などが代表的とされる。
当時はカルチャーシーンにおけるアニメの地位の低さが根底にあり、
TM Network初期の”your song”など埋もれがちな楽曲があり、
その他にも90年代におけるAMV:Anime Music Video の「FLCL」のthe Pillowsなども挙げられるだろう。
ポストエヴァの1990年代後半、深夜アニメの時代も、それほどサブカルとアニメの距離は縮まらなかった。
それ以降、2000年代の転換、それは「FLCL」&Pillowsと作画コミュニティおよび
AMVと海外市場とのリンクetc.などが挙げられるだろう。
例えば、ブルーハーツの「リンダリンダリンダ」の意味合いを「日常の肯定」として書き換えた、邦画「リンダリンダリンダ」は、後続する「涼宮ハルヒの憂鬱」と「けいおん!」などにより、メタ的に表現する試みとなった。
と同時に、「涼宮ハルヒの憂鬱」や「けいおん!」のAMV(Anime Music Video)のクオリティの高さも相俟って、バンド音楽アニメとして、世界市場に広がりを見せる端緒となった経緯がある。
(石岡良治)
2,AMVからガールズバンドアニメ、
アイドルを通じてガールズバンドアニメへの回帰

(以下引用、
『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ|徳田四より)
例えば2010年代のアイドルアニメを象徴する『ラブライブ!』(2013)と『けいおん!』の共通点は、多くの論者が指摘してきた。〈日常系〉の最高傑作の一つである『けいおん!』は、このジャンルの諸作品が描く「いまこの瞬間のゆるいつながり」の肯定性をロックミュージックに乗せて描き、音楽アニメのあり方、音楽シーンにおけるアニメ声優の扱いを一変させた。評論家の宇野常寛は、実写青春映画『リンダ リンダ リンダ』(2005)との共通性を見出しながら同作を評して「ロックの意味を書き換えた」と論じたほどだ。敵を見失った「反権威の象徴」から端的な「〈日常〉の肯定」へ。放課後ティータイムによってロックミュージックは更新されたのだ。
その後2010年代になるとAKBグループやももいろクローバーZが牽引した「ライブアイドルブーム」と合流し、音楽アニメもアイドルを題材にした作品が頻出するようになる。象徴的な作品が『ラブライブ!』で、『けいおん!』とのスタッフの共通性(脚本家の花田十輝)などから両作は度々比較されてきた。特に「軽音部」「スクールアイドル」といった「部活もの」の設定は「日常」「青春」の刹那性を表現するのに相性がよく、さらにアイドルライブにおけるパフォーマーとオーディエンスの一体感を高める演出や、(主に10代の)アイドルが持つ「キャリア形成の不可逆性」が刹那性を高めるうえで相乗効果をもたらし、アイドルこそが「いまこの瞬間の日常」の肯定性を歌い上げるのに極めて適していた。
アイドルが持つ「キャリア形成の不可逆性」が刹那性を高めるうえで相乗効果をもたらし、アイドルこそが「いまこの瞬間の日常」の肯定性を歌い上げるのに極めて適していた。転じて2010年代の、特に前半期においては「復興」「町おこし」のアイコンとしてアイドルが機能することもあった。
「いまこの瞬間」の肯定機能としてのアイドル像は、たとえば『ラブライブ!』作中で結成されるアイドルグループ、μ’sの楽曲のリリックにも反映されている。
奇跡 それは今さ ここなんだ
みんなの想いが導いた場所なんだ
だから本当に今を楽しんで
みんなで叶える物語 夢のStory
(KiRa-KiRa Sensation!)
〈日常系〉作品は時に〈空気系〉と呼ばれることもあり両者はほぼ同義として扱われているが、アイドルによる〈日常〉の肯定は、いわば「熱気」あふれるものとして一時代を築いたのである。
(引用終わり)
そして、2020年代に至りアイドル文化(アニメ含む)の凋落と逆行するように、ガールズバンドアニメが再びその兆候を表すようになる。
例えば2013年から開始した「SHOW BY ROCK」、2015年からシリーズを開始している「BanGDream!」、2018年「ゾンビランドサガ」、2019年「ぼっち・ざ・ろっく!」(漫画。アニメ化は2022年)などが挙げられるだろう。
3,「BanGDream! It‘s MyGO!!!!!」 以前のBanGDream! と「日常系」、あるいは祝祭としての音楽

それぞれの作品群に共通するのは、日常をいわば「祝祭」として肯定する、音楽による「つながり」である。
先述の「SHOW BY ROCK」では、サンリオ独特の荒唐無稽なギャグセンスが光るものの、基本的に危機は音楽により解決される(例えばバンドメンバーのスキルに対するレトリーの不満を、楽曲演奏で有耶無耶にするシアンなど)。
また、「ゾンビランドサガ」は、衰退地方の活性化のためのアイドルをゾンビ化で異化しつつ、凄惨なアイドルとしての存在意義を悲喜劇として描き出すことで、Cygamesの原案、MAPPAの優れた演出、AVEXの腕前が光る楽曲がカタルシスを齎す傑作だが、ここでも基本的に音楽によるつながりは肯定されている。(個人的には続編の「ゾンビランドサガ リベンジ」のメタフィクション的な意匠(震災現場におけるアイドル活動がAKB48の東日本大震災の復興ライブを彷彿とさせるなど)が好ましい)
「BanGDream!」も、初代からMolfonica以前においては、音楽自体の祝祭感による「つながり」「ドキドキ」「キラキラ」が基本的に肯定される構図となっている。なお、1stにおいては香澄の暴走気味な「キラキラ追求」は沙綾の家庭的な事情で中和され、葛藤を打ち出すかに見えた(7話は良回)が、その後は葛藤が雲散霧消し、基本的に音楽が肯定されている。
BanGDream! 1stの終盤の奇妙なギスギスを敷衍したBanGDream! 3rdでも、Raise A Suirenのリーダー チュチュを中心とした教条的なバンド解散危機が描かれるが、やはり基本的には音楽は肯定される。あるいは、「BanGDream!Molfonica」においては、無条件の音楽の
肯定が後退したかに見えた(ボーカル役は言葉に対する葛藤で歌えない)が、最終的にそれは肯定的に描かれていた。
4,「日常系」の再解釈

(引用
『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ|徳田四より)
〈日常系〉作品は時に〈空気系〉と呼ばれることもあり両者はほぼ同義として扱われているが、アイドルによる〈日常〉の肯定は、いわば「熱気」あふれるものとして一時代を築いたのである。
ところがSNS社会の進行とともに、アイドル産業が抱える構造的問題がやがて指摘されるようになる。たとえば香月孝史が指摘するように、アイドルの(ファンサービスとして事実上不可欠な)「プライベートの投稿」すらもコンテンツとして消費される状況は、労働上の問題があると認識されるようになっていった。香月はこの構造を「日常化するドキュメンタリー」として批判的に分析している。まさに「日常」に潜む問題として、アイドルが「日常」のことを自己言及的に発信すれば、むしろその「日常」は崩壊する(「労働」として回収される)という矛盾を抱えるのである。
「アイドルによってこそ〈日常〉は肯定し得る」ということと「アイドルがアイドルであろうとし続ける限り、アイドル自身の日常は失われてしまう」という二つの言説が両立してしまうジレンマが生じたのだ。
この(もはやアイドルに限らなくなってきた)問題を「アイドルの立場」から端的に告発した作品として、乃木坂46一期生・高山一実原作によるアニメ映画『トラペジウム』(2024)がある。アイドルを夢見る女子高生の東ゆうは「日常化するドキュメンタリー」の問題に極めて自覚的で、あくまでも「演出」としてボランティア活動に参加しその様子をSNSに投稿するなどして、彼女が「アイドルとして好ましい」日常を過ごすさまが露悪的に描かれる。
『トラペジウム』がこの2020年代になって「アニメ」化したことは示唆的である。現実と同じようには「日常化するドキュメンタリー」が問題化されないアニメの世界においてもこの事態がメタ言及されるようになったことは、ジャンルとしての成熟(≒転換期)を象徴している。
(引用終わり)
では、本作「BanG Dream! It’s MyGO!!!!!」では、いかなる倫理観と実践で、新しい音楽を創り出したのだろうか。まず本作のテーマである「迷子」の倫理を考えることから始めたい。
◆迷子の倫理

1,迷いの定義
迷子とは、迷うとは何か。
字義的には惑い、乱れることであり、語源的には、そもそも相対する意味をもつ、
文字通り「迷う」言語であるだろう。
例えば、常用字解 第2版 白川静において、「迷う」は以下のように記される。
迷うこととは、惑乱すること。 「設文」二下に「惑うなり」とあり、「玉篇」に「亂(みだ)るるなり」とあって、惑乱する(まどい乱れる)ことをいい、「まよう、まどう、みだれる」。
では、それぞれ「惑乱」の「惑」の語源についてはどうだろう。
或は口(都市を取り囲んでいる城壁の形)の周辺を戈で守る形で、その守る地を域という。或は有の限定された形で、「或いは」のように用いられる。或いはというように、ほかの可能性があることを疑う気持ちを惑といい、「まよう、うたがう、あやしむ」の意味である。
同様に、「乱」の語源についてはどうだろう。
もとの字は亂に作り、亂の部首部分(漢字変換不可)と乙を組み合わせた漢字である。
乙は骨べらの形。亂の部首部分はH(冂の形で、糸を巻く糸枷)に么(よう、糸)をかけ、その糸が乱れているので、上下に手(上は爪、下は又。ともに手の形)を加え、ほぐそうとしている形で、「みだれる」の意味となる。その糸の乱れを骨ベラで解いて直すことを亂といい「おさめる」の意味となる。亂の部首部分が「みだれる」、亂が「おさめる」の意味であるが、のちに誤って亂に亂の部首部分の「みだれる」の意味を加えたので、亂は「おさめる」と「みだれる」の意味に使われるようになった。
このように「迷う」が定義されるなら、迷いに対する問いはどのように発展してきたのだろうか。
それは倫理的な問いかけの歴史と重なるものでもあるだろう。次に哲学者のキルケゴール、老子を参照しつつ、どのような「倫理」があり得るのか考えてみたい。
2、迷いの哲学 キルケゴール

哲学者のキルケゴールは、自己の存在に関わる「迷い」と「決断」の葛藤に焦点を当てた。
「私に欠けているのは何をなすべきかについて決心がつかないことだ」と述べ、迷いの中で自己のイデー(生きる基準)を見つけることを哲学の中心課題としたのだ。
また、人間の生き方が、「審美的実存」「倫理的実存」「宗教的実存」の三段階からなると考えた。
第二段階の「倫理的実存」から第三段階の「宗教的実存」へ飛躍させるものとしてキルケゴールが考えたのが不安だ。
人間は、自由になろうとして不自由な現実が現れる。
自分を捨てて倫理的生き方を実践しようとしても、自分を捨てようとするのも自分であるために、倫理的実存は行き詰まる。
そこでは、神の力で自己を断ち切り、倫理的に生きられない自己を解放し、自由な自己を神から受けとる以外にはない。
この飛躍へ向かわせるのが、人間の根本的な気分である「不安」だ。
人間は、不安にうながされて、倫理的実存から、宗教的実存に飛躍する。
不安は色々な段階に分けて考えられるが、その不安の絶頂は、神に対して自己を閉ざして、自分に閉じこもろうとする生き方であり、それが人々を深刻な不安に突き落とすと考える。
最大の不安は死であり、限りある肉体の死よりも、死んだ後も続いて行く精神の死のほうが問題であると考える。そして、肉体の死を乗り越えるためには、生きる意味に目を向けなければならない。
ところが、人間はどう生きるかという生き方の基準になる生きる目的を与えられていない。
そのため、常に自己の拠り所となる生きる目的を探し求める人生の不安にさらされ、
人間は常に絶望していることになる。
キルケゴールの結論は、この絶望は、神を信仰することによってしか解決できないとするのだ。
「BanG Dream! It’s MyGO!!!!!」において、主人公の高松燈は、不安に苛まれて自己に閉じ籠ろうとする(バンドをしない、無機物(人間以外)に執着しようとする、ノートに言葉を綴る)。
だが、最終的に選んだのは「神」では無かった。
3―1,迷いの哲学 老子「道」

老子の考えは「道(タオ)」、「無為自然」に端的に表される。
「道」とは、「すべてはひとつ」という考え方だ。道は万物を生み出す宇宙の原理であり、人為的な区別や対立を超えた自然の摂理を指す。老子は、すべてはこれに従えばうまくいくと説いた。有名なのは、作為をせずあるがままの状態をよしとする「無為自然」。「何もしないことによって、実はすべてのことをしている」のだと。
(引用、「老子 中国思想の智慧への門」王 岳川 、上田望訳より)
「道」は、一般の事物とは異なる、有るようで無く、無いようで有る形而上の存在と言うことができる。ものは実に朧気でとらえにくい。捉えにくくて朧気ではあるが そのなかには象(かたち)が潜む。朧気であり捉えにくいが、そのなかに物(実体)がある。影のようで薄暗いがそのなかに精(ちから)がある。その精は何よりも純粋でそのなかに信(しるし、確証)があると言う。
目を凝らしても見えないから、すべり抜けるものとよばれ、耳を澄ましても聞こえないから、か細いものとよばれ、手でさわっても掴めないから、最も微小なものとよばれる。これら三つのことは、それ以上突き詰めようがなく、まざり合って一つになっているのだ。それが上にあっても明るさはなく、それが下にあっても暗さはない。次々と連続して名状しようもなく、何物もないところへ戻ってゆく。それらは状(すがた)なき状、物とは見えない象とよばれ、はっきりとはしない、「それらしきもの」とよばれる。それに正面から向かっていっても顔が見えないし、あとについていっても後ろ姿も見えない。
だが いにしえの“道”をしっかり握れば、いま現にあるものを制御し、いにしえの、即ち全ての始まり(にあったもの)を知ることができる。これが道の紀(もとづな)とよばれる。なかに象が潜み、なかに物実体(すがたかたち)がありながら状なき状、物とは見えない象という。この物質的実体は、人間の意志では動かすことのできない永遠の存在であり、ありとあらゆる所を運行し、永久に停止することのないものでもあるため、これを「道」と命名 するしかないのである。
3―2,迷いの哲学 老子「道」
実はここでの「道」は抽象的な絶対であり、一切の存在の根源であり、自然界中の最初の原動力であり創造力である。ここでいうところの「道」の万物創生の過程を形容しており、それは最も抽象的な本体か ら絶えず物質世界へと下りてきて具体的な形をとり万物を創生する。これこそがまさしく『老子』第40章でいう「天下のあらゆる物は“有”から生まれる。“有”そのものは“無”から生まれる」であり「道」から万物が生まれるというのは「少」から「多」へのプロセスであり万物は無からのみ生まれると観照している。「無」は「道」であり「道」から「有」が生まれ得るのであるから道こそは無と有の統一ということになる。
「道」には行ないの規律、究極の本体という意味のほかに、
言語に類する意味がある。
だから道の道(い)う可(べ)きは常の道に非ずなのである。
道う可き、すなわちことばにできる道であり、
道とことばを密接に結びつけてきている。
人類の言葉には限界があり、この限界に固執するなら、道を認識する過程で「迷い込む」であろう。
しかし、言い尽くせない言葉こそ、言葉にできない「道」を表すことができる。
言葉は思想の「檻」であるかもしれないが、我々はその「言葉の檻」を通じて言おうとするしかない。
言葉は二重性を持ち、遮蔽であり、開放である。老子自身も「正しい言葉は、真実に反するように聞こえるものである」「あともどりするのが“道”の動き方である」と述べる。(引用終わり)
正しい”道”は本体の美を強調し、混沌の美を強調し、
表面的な色彩美や音楽を否定する。
この”道”の審美観に、「あともどり」「混沌」としての「迷い」の倫理を見出すことが出来るだろう。
形而上学的だが、「言葉にできない言葉」にこそ、「迷子の倫理」があるだろう。
この倫理を基に、「BanGDream! It‘s MyGO!!!!!」 における「迷い」を考えたい。
4,「BanGDream! It‘s MyGO!!!!!」 における「迷い」

(「BanGDream! It‘s MyGO!!!!!」 3話より)
ここで「BanGDream! It‘s MyGO!!!!!」(以下、「MyGO!!!!!」とする)に立ち戻ろう。
本作における「迷い」とはどのようなものか。
それは端的に言えば「日常の不可能性」に対するカウンターであり、
「音楽の不可能性」に対するカウンターであるだろう。

(「BanGDream! It‘s MyGO!!!!!」 4話より)
それは、主人公の高松燈の人物造詣の「未分化」さにも象徴されるだろう。
無機物、動物、人工物など、人間以外のものへの異様な執着。
狂気的に蒐集物を整然していく燈の部屋。
虫や石への執着は、友達を驚かし慄かせ、
母親からも苦笑いを通して理解を拒まれる。
中学生に至り、未だに無機物への関心を寄せ、自らの理解されない想いをノートに綴る様相は、幼児期のそれであり、中性的であり、未分化であり、迷子である。
※ちなみに「野良猫」楽奈の加入が、バンドメンバー全員の「未分化」さを露呈させる契機として投入される関係も考慮していく必要があるだろうが、それは別の機会の検討としたい
しかし彼女は、この「未分化」さを、言語を通して掘り下げていく。
「私の詩は、心の叫びだから!」。
それは初期には、先に引用したμ’sの楽曲や『けいおん!』の劇中歌「ごはんはおかず」「天使にふれたよ!」のような、日常の奇跡への自己言及的な楽曲として、「春日影」が作詞として提示される。

雲間をぬって きらりきらり 心満たしては 溢れ
いつしか頬を きらりきらり 熱く 熱く濡らしてゆく
君の手は どうしてこんなにも温かいの?
ねぇお願い どうかこのまま 離さないでいて(MyGO!!!!! 「春日影」)
(引用
『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ|徳田四より)
「春日影」は女子中学生バンド・CRYCHICが作曲したもので、ボーカルの高松燈がメンバーとの絆と感謝を歌ったものである。口下手かつ「天然」で周囲に馴染めない性格だった燈はバンド活動を通して初めて他人との友情を感じ、その思いを「春日影」の歌詞に乗せたのだ。
ところがこの「春日影」が演奏された直後には、
むしろ必ず何らかの「決別」が訪れてしまう。
CRYCHICが「春日影」を演奏し、初めてのライブを成功させた直後、バンド発足者である豊川祥子はなぜか姿を現さなくなってしまう。数日後、雨の中傘も刺さずにずぶ濡れの状態でスタジオに現れた祥子は、突然バンドからの脱退を宣言する。ドラマーの立希は祥子が無責任だとして糾弾するが、それをベースのそよがなだめる。そよは全員がこのバンド活動を楽しんでいたはずだと、解散するのはおかしいと、周囲に問いかける。そしてギターの睦が答える。
私は、バンド、楽しいって思ったこと……一度もない
そよは絶句する。CRYCHICは事実上の解散となった。そして時は流れ、彼女らが高校1年生になった時期へと場面は移る――。
これが「第1話の冒頭」で描かれるシーンである。

(「BanG Dream! It’s MyGO!!!!!」1話冒頭)
第7話においても「春日影」は演奏されるが、やはりそこでも「日常のつながり」の肯定には失敗する。元CRYCHICの燈、立希、そよに新メンバーとして愛音と楽奈が加わってバンド活動が再開し(後に「MyGO!!!!!」として正式に発足する)、いよいよ初めてのライブを迎えた場面だ。
CRYCHICに未練を持つそよは、あくまでも「春日影」は練習曲として位置付けていたものの、本番中に楽奈が即興的に「春日影」のイントロフレーズを弾き始め、なし崩し的に演奏が始まってしまう。やむをえず演奏に加わるそよだったが、そこで偶然ライブ会場に訪れていた祥子を目撃してしまう。そして、かつてCRYCHICの絆を歌った「春日影」が別バンドの曲として演奏されるのを見て、祥子は泣きながらライブハウスから駆け出していってしまうのだった。そしてライブ終了後、そよはメンバーに対して激昂し、バンド活動に姿を見せなくなってしまう。

(「BanG Dream! It’s MyGO!!!!!」7話 終盤より)
「春日影」演奏直後、そよの激昂シーンは国内外(とくに中国)の視聴者から度々話題にされる。
バンド演奏を通じた「日常のつながり」の肯定は、『It’s MyGO!!!!!』においては必ず失敗するのだ。むしろ「日常の自己言及的な肯定」自体が原因となって日常自身が自壊するとさえ言ってもいい。
そのことは第7話の映像演出にも表れている。同エピソードではライブ直前のシーンまでメンバーの楽屋での様子が描かれるが、それはBGMもない定点カメラの視点で描かれる。監督の柿本広大はこれについて「MyGO!!!!!の自然なやりとり」を撮りたかったと述べている。定点カメラによる「ドキュメンタリー」風アングルで、自然なやりとり、すなわち「日常」的な姿が描かれたわけだ。
しかしその直後彼女らが直面するのは「つながりの崩壊」である。ここでは『ラブライブ!』が『けいおん!』を継承したのとは逆の事態が起きていて、〈日常系〉的メンタリティを音楽に乗せることにむしろ挫折することから物語が始まるのだ。
「アイドルもの」が成熟期を迎え、音楽アニメが継承してきた「〈日常〉の肯定」がむしろ困難なものとして描かれること、これを「日常の不可能性」と呼んでおこう。そしてこの「日常の不可能性」にどのように立ち向かえばいいのか、音楽アニメとしての射程が問われるのはこの意味においてである。
(引用終わり)
では、どのように「日常」は肯定しうるのだろうか。
本作「MyGO!!!!!」でそれは、ポエトリーリーディング、つまり詩的言語として表現される。
詩的言語=言語の前駆体の可能性を問い直すことが、
「迷子の倫理」=「MyGO!!!!!」の倫理になりえるだろう。
迂回するが、音楽における詩的言語、
その起源と役割、詩的言語を取り巻く枠組みを確認し、
「MyGO!!!!!」に立ち戻りたい。
◆音楽における詩的言語

1,詩的言語の発生起源 ルソー「言語起源論」
最初の言語は「詩的」であり、欲求よりも情念(感情)がその発生動機であるという
(諸説ある。ジャン・ジャック・ルソー「言語起源論」より)
初期の言語は比喩的でイメージ喚起的なものであり、理性的・論理的な言語よりも先に、感情や情熱を伝えるための「詩人の言語」として存在していたのだ。
最初の言語は旋律的で音楽的な性質を持っていたとされ、言語と音楽が一体となっていたとされる。
ロマン主義的には、「自然の叫び声」や「民族の詩」など、
原初的な詩的言語が重視された。
「言語起源論」において、
言語とは考えを伝えるための手段であることを最初に示しつつ、
興味深いことに,
『言語起源論』の最終章である第二十章「言語と政体の関係」では,
近代人が言語によってはその内容を上手く伝えることができない様が描かれている.
つまり,『言語起源論』は,いかにして考えを伝えるのかの考察から始まって,
いかに考えが伝わらないかという考察で終わるという,いわば逆説的な構成になっているのである。
(引用、「言語起源論」)
われわれが他者の感覚に影響を与えうる一般的な方法は二つだけ,つまり動作と声だけである。
動作の作用は触覚を通じて直接的なものとなるか,そうでなければ身振りを通じて間接的なものとなる。
前者〔動作の作用〕は腕の長さが限界となっているので遠くに伝えられないが、
後者〔身振りの作用〕は視線と同じくらい遠くに達する。
そのように,散らばった人々の間での言語の受動的な器官としては視覚と聴覚しか残らない。
人間がことばを話す最初の動機となったのは情念だったので,人間の最初の表現は文彩だった。
比喩的なことばづかいは最初に生まれ,本来の意味は最後に見いだされた。
事物は,人々がその真の姿でそれを見てから,初めて本当の名前で呼ばれた。
人はまず詩でしか話さなかった.理論的に話すことが考えられたのはかなり後のことである。
詩は散文より先に発見された。
それは当然だった,情念は理性よりも先に語ったのだから。
音楽についても同様だった。
最初は旋律以外に音楽はなく,音声言語の多彩な音以外に旋律はなく,
抑揚は歌を形作り,音長は拍子を形作り,
人は分節や声〔母音〕によってと同じくらい,
音とリズムによって話していた。(中略)
詩と雄弁は同じ源をもち,最初は同じものだった。(引用終わり)
※ちなみに、哲学者によって言語から音楽的要素が骨抜きにされ,その結果として近代人の言語からは弁論術が失われた=考えが伝わらなくなった、というのが、冒頭に述べたアポリアである。
では、そのような発生起源をもつ「詩的言語」は、感情や情熱を伝えるために、どのような役割を持っていったのだろうか。
2―1,詩的言語の役割 マラルメ「言語に関するノート」

詩的言語は、言葉の意味にとどまらず、音やリズム、響き、構造などを通じて、読者に新たな感覚や気づきをもたらす。
(引用、マラルメ「言語に関するノート」)
語の意味が、まず異なり、ついで語調(ton)が異なる。人が何かを言うときの語調に新しさがある。
我々は、会話の語調を、最後の限界として、科学に関わらないようにするためには堅持すべき最後の限界として取り上げる。つまり、我々の思考の振動的な範囲の停止として取り上げる。
結局、語は複数の意味をもつ(そうでなければ人々はつねにお互いに理解しえることになるだろう)──我々はそれを利用するつもりだ。そして、過去の書物(科学、パスカル)を何度も参照した我々の精神の内的な声によって発音されたとき、語が、その主要な意味に関して、どのような効果を生み出すのか。その効果が、語が今日我々に与える効果と隔たっている場合には、我々はそれを研究するつもりだ。 (OC1, p.508)
ここで意味するのは、語の意味が変化してゆくとき、それに応じて語調も変わる、従って、語調の変化の中に意味とニュアンスの新しさが決定的に現れるということである。言語学的に見ても、確かに音より意味の方が変化しやすい。音声学的に対応関係を検証できるのはそのためである。
(<虚構>のための言語学 ──マラルメの「言語に関するノート」試論──
立花 史 より)
敷衍すると、次の事が言える。即ち、文字言語ではなく音声言語の中にこそ、そしてその日常的な使用の中にこそ、言語の原動力があるということだ。そして、日常的な言語の使い手である、大衆による、会話が映し出す虚構=文字が重要であるだろう。
マラルメは、音と意味の結合が生み出す感覚的効果に着目した。一方で事物が生み出す効果によって事物の印象を描いてきた。そこでは、言語の本質的な方式が「抽象作用」であり、言語が知性的技術であると同時に、美の説明ではなく、美そのものになる地点を、「詩的言語」として構想したのだ。
語と意味の関係以前に、
音素と印象、感覚との関係とその効果が重要であるとマラルメは考えた。
(引用、
(<虚構>のための言語学 ──マラルメの「言語に関するノート」試論──
立花 史 より)
まず主体の対象把握という認識論的図式を前提にして、それと並行に言語活動を考える。その上で、この過程からの逸脱の中に、詩的言語の契機を見出そうとする傾向がある。かくして、彼の詩的言語は、「効果」や「蜃気楼」と呼ばれ、表現や説明に対して「美になること」と述べられ、対象の抽象との対比を考慮して「虚構」とも呼ばれる。(引用終わり)
のちに彼は、語根や語基といったものを意図的に相対化し、関係性の単位を、語頭の子音にまで切り詰め、その印象を検討している。ここで形態論的関係性は、意味論的関係性として読み替えられ、さらに語根や語基の概念のアナロジーに収斂せず、擬音語や間投詞の印象にまで踏み込む、複数のアナロジー系列の不均一な束として現れるのだ。
あるいは、へリングラートによるヘルダーリンのテキスト分析を通して、伝統的な解釈学的方法から離れ、詩的言語のリズム的・音楽的側面を見直し、言語自体がもつ感性的、物質的性質に注目した言語形式を志向した。それと同時に、「不協和音、形式的な緊張、断絶、抽象化、破壊的なものの魅力」に着目することで、「言葉を若返らせるものであり、それとともに魂を若返らせるものである」(ゲオルグ)であるだろう。
このように、詩的言語がもつ役割は、いづれも、言葉の意味にとどまらず、音やリズム、響き、構造などを通じて、読者に新たな感覚や気づきをもたらすだろう。
2-2,詩的言語の役割 ローマン・ヤコブソン「詩的機能」と反復の原理

(https://www.turetiru.com/entry/poetic-function/ 参照)
ローマン・ヤーコブソンは『詩とは何か?』で,詩性が現れるのは「語が命名される対象を単に指示するものとしてや,感情の爆発としてでは決してなく,語が語として感じられるところに。語とその構成,意味,外部形式および内部形式が現実の無関心な指示ではなく,固有の重みと価値を獲得しているところになのだ」と述べている。 フォルマリズムの詩学の核心にあるのは,日常言語のルーティーンによって自動化され た知覚を異質な言語によって揺さぶり,更新することを志向する「異化」(Verfremdung)の 理論である。
それらは例えば「反復」を原理とし、繰り返しによってメッセージが生成・強調されるメカニズムであり、それこそが「詩的言語」とされる。ソシュールのことばで言い換えると、詩的機能とは、なんらかの類似的なカテゴリーである「範列(paradigm)」が、連続的な記号として生成する「連辞(syntagm)」に投射される現象である(浅井 2017: 40)。詩的機能は、反復を原理に、並行性・対称性・対照性によって社会的に認知される記号を強調・生成し、それらの型や傾向をまとめあげる統制力を持つのだ。
詩的言語の起源と機能は一先ず了解できるだろう。
では、その発展可能性をどう考えるか。
ここで、ジュリア・クリステヴァが述べた「ル・セミオティック」の概念を検討してみたい。
◆詩的言語と「ル・セミオティック」について

1,ジュリア・クリステヴァ『詩的言語の革命』
記号学の従来の枠組みを超え、意味生成の過程、特に詩的言語における意味の創出に焦点を当てるものとして、「ル・セミオティック」という概念がある。
ジュリア・クリステヴァは主著『詩的言語の革命』において,言語活動の社会性やコミュニケーションを保証する言語の象徴秩序を「ル・サンボリック」(le symbolique),言語の象徴秩序化以前の前主体的で不定形な身体的欲動が渦巻く言語の様態を「ル・セミオティック」(le sémiotique)と名付けた。 ル・セミオティックはあらゆる具体的な差異化と形態化以前の生成と消滅の運動に関わり,運動エネルギーのリズムとして構成される。
「ル・セミオティック」がもたらす積極的な効果としては、言語秩序の攪乱と創造性の解放、リズムやイントネーションなど非意味的要素の活性化、主体と客体、自己同一性の揺らぎによる多義性の創出、などが挙げられるだろう。
「ル・セミオティック」がポエトリーリーディング音楽と結びつくときに生み出す積極的な効果としては、言葉のリズムや音響性の強調、意味の揺らぎと即興性の拡大、感情や無意識の直接的表現があるだろう。
なお、『詩的言語の革命』において、「ル・セミオティック」は、父性的原理の抑圧に対する、母性的原理を用いた破砕の言語として捉えられている。当時としては自然(母)から文化(父)への移行が規範的な社会観であり自立観であったため、「ル・セミオティック」が若干危険視されていたことは留意すべきだろう。無意識的に「ル・セミオティック」を用いることは、安易な共依存関係へと陥る可能性があるだろうからだ。
さて、「ル・セミオはティック」について、具体的には、ディキンソンの詩を参照して確認していきたい。
2,「ディキンソンの詩の記号論的衝動とその治癒的効用」
(原題:”THE SEMIOTIC PULSIONS OF DICKINSON’S POETRY AND THEIR MEDICINAL VIRTUES”)

この論文(原文)では、エミリー・ディキンソンの詩が、言語と身体性のインターフェースに開かれた批判的医療人文学に対して重要な示唆を持つことが示される。ジュリア・クリステヴァが「ジェノテクスト」と呼ぶ高度に効果的かつ美的な言語構造をディキンソンが用いることで、痛みや悲しみを伝達し、読者や聴者に「孤立からの解放と共有」のプロセスをもたらしうることを示している。このプロセスを通じて、人は、苦しみを否認によって美や無に昇華するのではなく、苦しみそのものへの忠誠と、それを分かち合うことへの忠誠を両立させる。
ディキンソンの詩は、意味の多層性や省略、矛盾、短さと強い内容の対比によって、読者に解釈の困難さを与える。それは、クリステヴァの「セミオティック(記号的)」や「コーラ(母胎的空間)」の概念と深く結びつく。ディキンソンの言語は、日常的な伝達のための「フェノテクスト」(表層的な言語)を崩壊させ、より根源的な人間経験へと導く。
また、ディキンソンの詩は、読者が「直観的」に人間のアイデンティティや死、言語の力を再考するための「実験室」として機能する。特に死への執着や、死を「家」として捉える詩的イメージは、読者の感情や身体的な反応を喚起し、死を忌避すべきものではなく、親しみや帰属の対象としても描き出す。
ディキンソンの詩の特徴として、以下が挙げられるだろう。
・意味の省略、暗示、矛盾の共存
・極端な簡潔さと強い内容
・リズムや韻、語呂遊び、アイロニー、孤独の強調
・伝統的な詩形式の逸脱と、アイデンティティの流動性の強調
これらは、ジュリア・クリステヴァが「抑うつ的・被抑圧的な主体が自己を表現し主張するための重要な手段」とする考えと重なる。ディキンソンの詩は、読者と詩人の間に「近接の民主主義(democracy of proximity)」を生み出し、個人主義的な資本主義モデルとは異なる、深い人間的共感の場を作り出す。
例:
「A Dimple in the Tomb / Makes that ferocious Room / A Home —」(詩番号1522)
T.W.ヒギンソンの娘の死を悼む手紙に添えられた短詩で、死や喪失を家庭的・親密な空間として再定義する。
「dauntless in the House of Death」(詩番号339, 1769)
死の家においても恐れない(dauntless)というディキンソンの死への向き合い方を示す。
原典情報:– Emily Dickinson, The Poems of Emily Dickinson: Reading Edition, ed. R.W. Franklin, Harvard University Press, 2005.
さて、「迷子の倫理」、「詩的言語」、「ル・セミオティック」=言語論的衝動を通して、言語の可能性を考えてきた。
最後に「ル・セミオティック」の理論による「It‘s MyGO!!!!!」の理解は幅広い射程を持つだろうことを、確認していきたい。
◆BanGDream!It‘s MyGO!!!!! における詩的言語
「MyGO!!!!!」ではオリジナルの劇中歌が幾つか披露される。
それらは大別して、詩超絆、あるいは「ル・セミオティック」以前と、「それ以降」に分けられるだろう。
1,春日影、碧天伴走 あるいは「ル・セミオティック」以前
・春日影(はるひかげ)

https://www.youtube.com/embed/ZsvJUh03MwI
サビについて(きらり、きらり)は先述しており、ここでは歌いだしを引用しよう。
(歌詞抜粋)
悴んだ心 ふるえる眼差し
世界で 僕はひとりぼっちだった
散ることしか知らない春は
毎年冷たくあしらう(抜粋終わり)
ここでは歌い手個人の確かな言葉を、美しい感性と確かな自律性に支えられた世界がある。
孤独に竦んだ在りし日、世界を変えてくれた友人を、光り輝き慈愛に満ちた天に例えて、肯定する瞬間、日常を肯定していくだろう。
・碧天伴走(へきてんばんそう)

https://www.youtube.com/embed/daOrlURKl8c
(歌詞抜粋)
頑張ってる十分 君はもう
躓いて転んだって
立ち上がり来たんだ
頑張ってるいつでも
ここに立っているだけで
必死なんだから(抜粋終わり)
日常に輝きを取り戻し、軽佻浮薄と表裏一体の明るさで背中を押し、等しく活動を共にする友人(愛音)に対する、迷いの肯定と応援が歌い上げられるだろう。
感謝とともに、ここでは自分自身に対する挫折と鼓舞とを同時に、「手をつなぐ」=紐帯だけが真実であるとする価値観の萌芽が見える。一方で歌い手の自我は確かな言葉で紡がれるだろう。
2,詩(うた)、詩超絆(うたことば)、あるいは「ル・セミオティック」
・詩(うた) ※10話 ポエトリーリーディング

(歌詞抜粋)
ちっぽけなぼく
いつもぐちゃぐちゃ
ひとのこえは遠くて聞こえない
ちかくのひとの気持ちもわからない
僕はにんげんじゃありません(抜粋終わり)
「ぐちゃぐちゃ」「ぐるぐる」などの反復、感覚的で自己批判的な印象以上に、単語自体が「迷子」感を煽る構成となっている。
「僕はにんげんじゃありません」の部分から、「伝えたい思いはいつも喉に張り付いて声にならないから、せめて残したい この詩を」までを一気通貫するとき、言葉以上に「言葉」を伝えたい気持ちが迫ってくるだろう。
・詩超絆(うたことば)

https://www.youtube.com/embed/wJ-OebTVyvk
「僕にはわからないんだ」で始まるイントロのギターの穏やかで悲痛なアルペジオ、
「ふたたび 僕が壊してしまったんだ」で変調するBメロと、
重畳する激しいドラムフレーズ、
「うたう うた うたう いま ああ届いて」で叫びだす、
サビのエレキベースとギターは、
足掻いて断絶の淵から立ち昇る生命の躍動であり、言語未満の力強い胎動を見出す。
「一瞬のつながり」の肯定は、歌詞の意味のみならず、言語的な音のとして、「ル・セミオティック」に表現されるだろう。母音の連続に寄り省略され接続される「うたううたうたう」と歌い上げられるサビは、音素の次元でリズムや韻、語呂遊び、主体と客体、自己同一性の揺らぎによる多義性の創出を担うだろう。
本曲:詩超絆が劇中的にも最も重要であるのは、本曲が苦難の末にようやく「つながり」を見出せる契機となったのにも関わらず、即興で偶然に完成した楽曲として「二度と演奏」されないことだ。
「日常の肯定」「つながり」は、かくも遠い存在となり果てたのである。
「ぐちゃぐちゃ」「ズキズキ」などとともに、「うたう うた」の反復、感覚的で意味を超えるフレーズは、「ル・セミオティック」=言語論的衝動そのものといえる。
つながることを冀う(こいねがう)。かつての嬉しさも、悲しさも、過ちも、全てさらけ出す。言葉に変えて、言葉を超えて。一緒に生きたい、一緒に苦しみたい、自分たちの人生が交わらないものだとしても。
3、迷星叫、迷路日々、あるいは「ル・セミオティック」以降
・迷星叫(まよいうた)

https://www.youtube.com/embed/B8k6JtF6WrU
(歌詞抜粋)
華やぎに馴染めない
この心を無視して
輝かしい明日を 推奨しないでくれ
夜空にチカチカ光る 頼りない星屑
躊躇いながらはぐれて
ああ 彷徨っている それが僕
僕になる それしか
それしかできないだろう
誰の真似も上手くやれないんだ
(抜粋終わり)
「チカチカ」「ヒリヒリ」などの反復、感覚的フレーズとともに、言語自体の底辺にある感覚を呼び起こし、前駆体としての「叫び」を絞りだす。
「こんな痛い日々をなんで 退屈だって片付ける?
よろめきながら でももがいているんだよ」
ここにおいて「日常」は完全に断絶され、息苦しさと、それを感じ取れる自分自身、あるいは何処かにいる自身に似た境遇の孤独に向けた、戦慄く生命の源泉の叫びである。流行に流されることが出来ない特異性の孤独と躊躇い、その肯定を、言葉を選びながらも少しずつ紡ぎだし、同じ境遇の誰かを最後に後押しするだろう。
※個人的には一番好ましい曲調。
また、BanGDream!初代の「キラキラ星」(3話)の逆襲でもあるだろう
・迷路日々(めろでぃ)

https://www.youtube.com/embed/t3W552Aou3c
ぐるぐる」「くよくよ」などの反復、感覚的フレーズとともに、やはり迷星叫と同様、言語自体の底辺にある感覚を呼び起こし、前駆体としての「迷い」を絞りだす。
なお徳田四氏の分析が秀逸であり参照したい。
(引用
「『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ」|徳田四)
前提として「日常」が不可能なものだからこそ、それを成り立たせるには困難が伴い、かつそれはほんの一瞬しか現れないという意味での「刹那性」にたどり着くのである。「いつか失われるかもしれない(「卒業」による有限性)」からこその刹那性ではなく、「最初(第1話時点)から失われている」からこそ一瞬だけ立ち上がる刹那性である。
そのことは(中略)「迷路日々」の「ちいさな一瞬 あつめたい」というリリックが的確に表現している。
(歌詞抜粋)迷いながら 戸惑いながら歩く
めいろの中で 僕らは居合わせてた
名前のない感情 ああ 抱きしめてる
ちいさな一瞬 あつめたい
ちっぽけだって 隠さないでいたいよ
はみ出したまま 不揃いな僕らでも
いびつな言葉で ズレては すれ違ってさ
傷つけたことに 傷ついてる
それでもこの手を ほどかない(抜粋終わり)
ただし「迷いながら」「戸惑いながら」というように、やはりはっきりとそれを断定するには至らない、わずかなためらいも見出せるだろう。そのことは歌詞の「音楽記号」としての側面にも現れている。
理論的な話に踏み込むが、たとえば引用したサビに頻出するボーカルのロングトーンの音は「ド#(C#)」である。それに対して楽器隊は伴奏(コード)として「ソ(G)」を鳴らす。詳細な説明は省くが[8]、ベース音の「ソ」に高い「ド#」を当てるのは限りなく不協和音に近い(厳密に不協和音というわけではないが)。ためしに適当なピアノアプリか何かで「ソ」「(より高い)レ」「(より高い)ド#」を同時に鳴らすとどれほど不安定な響きであるかがわかるだろう。
歌詞の水準では「つながりの肯定」を望みながらも、編曲の水準では随所に不協和が生じているのだ。あるいは逆の言い方として、不協和(=日常の不可能性)が生じるのは前提のうえで、それでもなお一瞬だけ生じる「つながりの肯定」への意志を持ち続けるという決意の現れだとも解釈できる。(引用終わり)
◆詩的言語の可能性の果てへ

可能性の中心としての詩的言語は、
言語の象徴秩序以前の状態:「ル・セミオティック」において、
言語秩序の攪乱と創造性の解放、主体と客体、自己同一性の揺らぎによる多義性の創出を生み出した。
それらは、言葉のリズムや音響性の強調、意味の揺らぎと即興性の拡大、感情や無意識の直接的表現により齎される。
思考は人間の尊厳の根拠になるぐらい偉大なものであり、
それでいて酷く愚かで卑しい。
思考は確実なものや堅固なものを、実は何一つ与えない。
人が多くの不確実なもの、それは例えば19世紀欧州小説における「航海」「戦争」であり、現在の本稿における「音楽」にあたるものだが、それらに賭けるのは、ある意味で当然である。
「人が明日のため、そして不確実なことのために働くとき、人は理にかなって行動しているのである」(パスカル「パンセ」)
例えば、初期グローバリゼーションの衝撃を受けた近代小説は、まさに「航海」「戦争」のような賭けによって導かれた。当時、小説とは「我思う、ゆえに我あり」というデカルト的証明が、むしろ「我あらず」の領野へ、主体の外部の不確実性へと、
転じてしまうというパラドックスを内包した。
この人間の中心化と脱中心化が共存する状況が、同様の構造をもって、
詩的言語の可能性の果てにあるだろう。
It‘s MyGO!!!!!における彼女たちの言動、そして詩的言語は、「ル・セミオティック」における効果を十分に発揮しつつ、それ自身が内包するリスクである「共依存」的関係性に陥らない状況において、常に秩序を問い直す、「迷い」の無い「迷子」として、非常に長い射程での可能性を問い続けるだろう。
それは例えば、AI(人工知能)などのITの進化が続き、人間の活動を代替していったとき、「最後に残る、人がやること」であり、苦しい反面、楽しく、美しいことでもある。
「一緒に、迷子になろう」。
◆全話総評

※STAFF
原作 – ブシロード[2][19]
監督・音響監督 – 柿本広大[2][19]
シリーズ構成 – 綾奈ゆにこ[2][19]
キャラクター原案 – ひと和、植田和幸[2][19]
キャラクターデザイン – Craft Egg[2][19]
CGスーパーバイザー – 奥川尚弥[2][19]
モデリングディレクター – 武内泰久、寺林寛[2][19]
リギングディレクター – 矢代奈津子、柏木亨、松田 唯[2][19]
色彩設定 – 北川 順子、石橋 名結、松下 由佳[2][19]
美術監督 – 山根左帆、対馬里紗[2][19]
美術設定 – 成田偉保[2][19]
撮影監督 – 奥村大輔[2][19]
編集 – 日髙初美[2][19]
音楽 – 藤田淳平、藤間仁[2][19]
音楽プロデューサー – 吉村秀至[2][19]
音楽制作 – ブシロードミュージック、エースクルー・エンタテインメント[2][19]
企画 – 根本雄貴、金子広孝、宇佐義大、矢田部行庸、松浦裕暁[2][19]
プロデューサー – 中野勇人、北澤史隆、呉桐、金成雄文、瓶子修一[2][19]
アニメーションプロデューサー – 松浦 裕暁、保住昇汰[2][19]
アニメーション制作 – サンジゲン[2][19]
製作 – BanG Dream! Project(ブシロード、TOKYO MX、グッドスマイルカンパニー、ホリプロインターナショナル、ウルトラスーパーピクチャーズ)
第1話 羽丘の不思議ちゃん 90点

演出:バンドやっても、またダメになる。希望に目を背け、超越(宇宙)に想いを馳せる。手を伸ばしても、伸ばし方に迷う。それはMyGO!!!!!のメンバーそれぞれの島宇宙=タコつぼの隠喩でもある
脚本:CRYTHIC解散、愛音の編入、カラオケでの勧誘で愛音視点の燈とCRYTHICを描き出す。鋭利な立希がCRYTHICも愛音も燈も切断する
絵コンテ:祥子への立ち位置がものの3分で明らかにされる冒頭。軽佻浮薄の愛音と俯く燈が、周囲の言動を通して浮かぶ
キャラデザ:石拾い、磁石揃え、絆創膏が自閉的な幼さの志向。言葉は最小限で本当に必要なことだけを紡ぐから、傷つけ、傷ついてしまう燈。「ダメにならないように、頑張ればよくない?」軽やかな言動は寧ろ救い。
石拾いや宇宙への拘泥は「確実性」への拘泥と逃避である(ノヴァーリス「青い花」など)
美術:ネオンから輪郭を帯びる赤信号、交差点の人波、滴る窓辺、雨に染まるアスファルトが暗さを強調
音響:冒頭の険悪感をバスピアノで支える。豊富な音源が耳を抑える
ED:ディスコミュニケーションのクライマックスで流す「普通とか当たり前って、何だろう」暗すぎるw
それぞれのカットで迷子になるMyGO!!!!!のメンバーがそれぞれの孤独を映す
迷子の倫理)
愛音:打算的なエゴに従順。社会規範には順応
燈:友人を心配する。見つけるのが好き。姿勢より、言葉に誠実にあろうとする
立希:衝突を望み、他人を避け、燈に依存する
そよ:衝突を避けるのは自分可愛さ
楽奈:不在
第2話 もう誘わない 100点

演出:インカメで写し込むCRYTHICの日常、演奏が第三者視点の追憶を誘う。続く夏の大三角形は吸い込まれ届かない超越への憧憬
脚本:そよとの会話に風雲急で割り込む楽奈が爪痕を残す。殆ど喋らない燈を巡る存在の問いで逆に多いい
友情と恐怖とポップとホラーが絶妙なバランス
絵コンテ:舌打ちに反応するデフォルメ愛音の造形は絶妙。暗闇でメッセを黙認するそよの恐怖
キャラデザ:お友達なの、微笑むそよは恐怖
美術:RiNGの花壇が無暗に豪勢
音響:RiNGの花壇の背景でも軽やかなピアノ。険吞な愛音と立希、薄ら笑いのそよを照射する
OP:曇り空から始まるAメロがサビに向けて晴れ渡る、水溜りが残りながらも傘を閉じて
迷子の倫理)
愛音:打算でも前に進む
燈:星空の神話に希望を夢見る少年の眼差しは、人との繋がりとの間で揺れ動く
立希:依存先に対する直情が支える
そよ:他人の打算を利用する
楽奈:音で語る
第3話 100点

演出:幼い友情の後に反転する母親の説教。成長した燈の、音楽の獲得による、日常の獲得と切断が、人間になりたいうたから春日影による断絶を通して活写される
脚本:舞い降りる祥子が天使的意匠。Molfonicaのリバイバル目的も垣間見える
絵コンテ:繰り返されるノートに認める言葉が向き合う世界とのズレ。春日影で繰り広がる燈の巣立つ意匠から、忽ち切断されるCRYTHICの解散。ハクウンボクに誘われて祥子との邂逅と別離が花言葉の通り壮大な愛の旅の始まり
キャラデザ:母親からもズレを理解してもらえない。みんなみたいに巧く笑えない、大事なものが欠けているのかな、、、
美術:羽沢珈琲店の小物がレトロ
音響:説教を奏でる優しいピアノ
音楽: 人間になりたいうたを奏でるピアノが哀しい
迷子の倫理)
愛音:不在
燈:悲しいより先に、涙を集めて取って置けたらな 世界からずれないように 人間になりたい、言葉に誠実に
みんなみたいに大切なものがほしい。あるとすれば、CRYTHICだった
立希:姉に対するコンプレックスが爆発する中学生
そよ:愛想を振りまき、人の好みに目敏い女子中学生の典型
楽奈:不在
第4話 一生だよ? 90点

演出:バンドは結成されど話は進まない、起爆剤に投入される楽奈が波乱を予期
脚本:黒板に一瞬移る「山岬 乾次郎」とその代表作『さらさら雪』は、谷崎潤一郎の細雪であり、状況の進展の遅さの隠喩。新旧バンドを通してそよの態度の表裏が照り返す
絵コンテ:下り坂を追いかけるそよと祥子が人生の展開を暗喩する
キャラデザ:髪を触るそよが不安を隠す
美術:やけに瑞々しい胡瓜畑
音響:ピアノとフルートの不協和音が不安を煽る
迷子の倫理)
愛音:話し合えば分かり合える青さ。手触りの時間軸で約束を守る
燈:一生やるバンド、一生迷子。他人の言葉を真正面から受け止める不器用さ
立希:姉への羨望を他人への転嫁で進む
そよ:他人の不安を利用する。祥子に縋る
楽奈:面白さ、一生に共鳴する 音楽だけを突っ込む
第5話 逃げてない! 100点

演出:繰り返される陸橋の会話は境界の直喩であり関係を確かめる導線。「きっとわかる」はわかりあえない予感であり、そよの黒い笑みが不気味に光る。愛音を必死に説得する燈の、書き言葉で紡ぐ、胸の内を探しながら迷いながらも絞り出す言葉は倫理的であり情動を揺さぶられる
脚本:練習から逃げる理由を探し回る愛音、終わりから逃げる燈が対照化される。「燈りの詩は私の詩。こんな自分でも生きていていいって思えた」立希の独白が胸に迫る
絵コンテ:直截的だから本質を追求する立希、宥めつつ促すそよが2人と対比される。白目を剥き崩れ落ちる愛音の魚眼構成は、世界から振り落とされる迷子である
キャラデザ:音楽を追求する楽奈と4人の姿勢が浮き彫りになる
美術:いかついギターの草臥れが拘る
音響:楽奈の春日影が波紋を予期
迷子の倫理)
愛音:軽佻浮薄を自覚するゆえに、つまんねー女に怯える。「これまでもそう」に白目を剥く。迷う倫理とは、進みながらも逃げる倫理であった
燈:立ち上がれども、傷つけてしまうことに怯える。恐れる理由を言葉に紡ぐ。
励ましの言葉が見つからず水族館を促す。
愛音を必死に説得する燈の、書き言葉で紡ぐ、
胸の内を探しながら迷いながら絞り出す言葉は倫理的であり情動を揺さぶられる
立希:直截的だから本質を追求する
そよ:宥めつつ全身を促す。すべては暗闇からの言葉であり、窓辺を挟む上辺であり、見せかけ
楽奈:面白さ、音楽のみ捧げる
第6話 なんで今更 95点

演出:楽奈の圧倒的な演奏は立希も視聴者も納得させる疾走感がある。立希の暴発、愛音との校内競争と、疾走がテーマである
脚本:愛音が初めて向き合う音楽と、音楽に真面目な立希が衝突する 訣別しきれない祥子も影を落とす
絵コンテ:布団で発声練習する燈のスナメリ猫感。「私は祥子みたいにはできないんだよ」が暴発する。やっぱり、みんなじゃなきゃ、の「みんな」はCRYTHICであり終盤カットのそよが不安に映える
キャラデザ:いきり立つ立希が万能の祥子とも姉とも対比
美術:陸橋は交渉の場所であり不安の吐露であり境界線である
音響:「私は祥子みたいにはできないんだよ」の暴発感が凄まじい
音楽:DTMによる碧天伴走のデモ感も暖かさも
迷子の倫理)
愛音:一緒に進む、迷いながら進む。他者のために真っ直ぐ
燈:不恰好で不器用でも進む、布団で藻掻く
立希:作曲に向き合い、姉との決別を志す。直情感の恒常化は不安の裏返し
そよ:いい子を装うことで情動も本音も迷子になっていく
楽奈:音楽のみ
第7話 今日のライブが終わっても 100点

演出:冒頭から注意される立希、勝手に弾き始める楽奈、声の掠れる燈が不安を重畳する、破滅への伏線である
脚本:冒頭の不破、ライブカメラの不安、初回の3回の失敗は最終的な破局への塵と積もり
絵コンテ:ライブへの恐怖が拭い去れない燈、ライブカメラ視点で活写される日常と不安の予期であり崩壊への導線
掠れる声の燈を睨みつけ活を入れる無言の祥子から、春日影のイントロで息を呑む祥子とそよは郷愁に対する挑戦で戦慄を誘う。臍を嚙み声を戦慄かせて会場を奔り去る祥子、俯き必死に感情を抑えるそよが、台上の他のメンバーと対比される
キャラデザ:立希のメンバー全体を観る気づかいが成長を映す
美術:ライブカメラの不安の増大は非常にいい効果を生み出す
音楽:愛音を励ます碧天伴走は最後に本人にも後光を射す。春日影はそよ以外を輝かせ、そよを呻かせ、祥子を奔らせ、神話を創造させる
迷子の倫理)
愛音:愛想で謝る自信の無さを隠さず
燈:感情に正直であり他者へ配慮する余裕がない。確かな感情無しに言葉を紡ぐことが出来ず、本番でも最初の声が出てこない。「頑張ってる」のサビでようやく、感情と考えが一致される演出。
MC「バンドなんてもういやだ、やめようと思った。でも私は、一生懸命やるしかできない。
私の詩は、心の叫びだから!」ルソー的な言語起源論であり、言語に忠実である。
一方で抽象的なもの(言語)に忠実であるあまりに、そのものが持つ多義性(多様な解釈)の危険性を孕む
立希:他者を気遣える成長
そよ:うわべを宥める一方で自らの一線を画す観点では暴発する、信仰への迷子となる
楽奈:自分の好きな音を好きに紡ぐのみ
第8話 どうして 100点

演出:宇宙空間から憧れと現実へ引き戻す祥子と初華 うわべを演じるそよの白目に戦慄する
祥子に追い縋り、睦の否定に慄き、現状を認められないそよは、文字通り虚構に揺蕩う
脚本:CRYTHIC、祥子、睦に執着するそよが、バンドも情動も振り回す
絵コンテ:黒曜石に映える目線が燈の言葉を探す 布団で蹲り連続メッセを送り付ける闇のそよが空恐ろしい
キャラデザ:学内の祥子の存在感の薄さを強調する
美術:過剰に整理整頓された部屋が燈の自閉的傾向を映す 睡蓮花が栄枯盛衰のCRYTHICと祥子を映す
音響:お為ごかしをバイオリンで太く悲しく
迷子の倫理)
愛音:燈とメンバーの関係性を気遣う
燈:このままじゃ皆、バラバラで 何が傷つけたのかわからないけど 言葉を伝えたい
立希:燈と音楽に殉じるゆえに他者の気持ちに疎くなる
そよ:祥子に阿るあまりに情動を制御できない
楽奈:音楽が無ければ動かない
第9話 解散 100点 悲痛

演出:立希の燈への言葉は階上から空を舞う 立希の掴み取りとそよの無表情で冷酷な言動が息を呑む
立希の暴走による暴露と、愛音を引き留められない燈の「もうやだ、、バンドなんか、やりたくなかった、、」から続くEDのシークエンス「普通とか、当たり前って、何だろう」がキツ過ぎて言葉を失う
脚本:冒頭から離婚描写で始まるそよ家 CRYTHICの発足でもそよがまとめ役で暗躍するが実は最も依存的である
絵コンテ:そよのCRYTHICへの偏愛も狂気の片鱗も良く出ている。「もう大丈夫だから」窓辺で見える嘘が人形的
キャラデザ:そよのバリキャリ母の幼い母感と成長したそよの乖離が日陰で映える
美術:練習室の鏡は身体と心理の距離を離す
音響:そよと燈の別離のピアノが断絶的
音楽:なすがまま立ち尽くす
迷子の倫理)
愛音:メンバーを気遣うのは、そよが誘ってくれたからでもある。関係性と居場所の有無が潔い言動に直結する
燈:周囲の言葉から責任を追い込む負のスパイラルに陥りがち。他人の言葉に敏感に過ぎる
立希:燈以外への興味の無さが実直過ぎる
そよ:望まれる自分の演じ本音を堪える怖さ。母を支える想いがCRYTHICへと反転する。「解散じゃない」妄執が突き動かす。しきりに触る髪は自己愛の端緒
楽奈:不在
第10話 ずっと迷子 100点 慟哭する

演出:鬼気迫る緊張感が迸る前半、燈の狂気的なポエトリーライブ、愛音への幾度の懇願、愛音からそよへの説得、
ライブへの導線、何もかもが洗練されている。観客ではなくバンドメンバーへ訴えかけるように詩を歌う燈の言葉は、言葉を超えたセマンティックとして立希、愛音、楽奈、そよに迫る。言葉を超える情動はメンバーを通じて観客に響く。対照的に無表情の睦が、後続に控える彼女の更なる「未」人間観を照らし出す
脚本:完全な破滅からの立ち上がり、言葉を伝えるのではなく、想いを伝える。伝わるまで、届くまで。
燈の想いが、言葉が、言動の全てが視聴者を引き込み、共感性を揺さぶる
絵コンテ:冒頭の睦のズレがそよと対置され、燈への導線となる。詩の独白、初華とプラネタリウムによる宇宙への逃避の隠喩を、直後の会話で取り成す。北極星を見つけ、自分の位置を確かめる。
燈の幾度目の懇願に臍を噛み逃げ出す愛音、天を仰ぐパートは観念とともに彼女の蟠りを断ち切る。
愛音のそよへの説得に、カップを叩きつける靨の引き締まるそよが屹立する。
彼女たちの臍噛みが、ライブシーンにおいて、言葉未満の詩に対する堪え切れない想いとして、その意味を新しくする。怒りと後悔の臍噛みは、前駆体としての詩的言語に駆逐され、溢れ出す情動を理性で抑える臍噛みに変わる
キャラデザ:燈の影でMVPの楽奈が実は重要である 言葉より想いであり行動であり未分化ゆえの衝動である。睦のそよへの導線も何気に重要
美術:愛音を追っかけるくもり空も澱む
音響:オルゴールの優しさが寧ろ物悲しい。楽奈加入からギターパートで奏でられる背景音響がライブへの導線
音楽:言葉より先駆的な衝動としての詩的言語、冒頭から綴りあげる燈の詩が、幾つも形を変えて、縫合され、
「詩超絆」の歌詞とバンドの各パートへと結実する
迷子の倫理)
愛音:周囲への配慮と責任が言動の源泉にある
燈:言葉を伝えるのではなく、想いを伝える。伝わるまで、届くまで。言葉を超える詩的言語は、ル・セマンティックである
立希:燈への反省も燈の詩も大切なものである
そよ:私が終わらせる、その瞳は力強い。そして本当に終わらせたかったのは、さらけ出せない自分自身だったことがライブを通して無言のうちに明かされる
楽奈:面白さ、音楽、言葉に実直
第11話 それでも 90点

演出:疎らな拍手は真の感動の反射である。居場所はまた、だれかが作る。あるいは自ら作り出す。一生は難しいが、一瞬を重ねると一生になるかもしれない
脚本:胡蝶の夢は荘子を下敷きに夢と現実の融解する現実を映す。春眠暁を覚えずは根を詰める燈の背景を重ねる。
絵コンテ:暗闇のステージ後の4人の情動の確認と楽奈の単独が強調される。狭間のギャグを多めにし前回と好対照となる。SNSに載せる、憮然とするそよが浮き彫る。ラストで眠るメンバーの2次元コンテは天に召される意匠がある
キャラデザ:メンバー全員の立ち位置が一層屹立する
美術:全員集合写真のブレも全員違う方向であるのも迷子
音響:深蒸し煎茶キャンディの噛みつぶしを通して日常が立ち上がり、壊れる。コミカルテンポ多め
迷子の倫理)
愛音:メンバーへの傍若無人さ、そよへの介入が増える
燈:利用されたとしても一生やる。頑固さに芯がある。傷つかずに一生は無理でも藻掻き苦しみ、立ち上がってバンドをやりたい
立希:愛音を認める不器用さにも、独りで学ぶDTMにも実直さがある。まとめ役の端緒が立ち上がる
そよ:醒めた目付きと態度が一貫する。それでも燈の態度を見つめる。露骨な露悪的態度は素の自分である
楽奈:感動した、その言葉は重い
第12話 It’sMyGO!!!!! 100点

演出:完成を確かめられない愛音、立ち尽くす楽奈と、冒頭から迷子感が凄い。ライブパートのリギングが音楽と歌詞と観客を縦横無尽に引き回す。迷子でもいい、迷子でも進め
脚本:It’sMyGO!!!!! 私の出番を得意げに放つ位置が浮き過ぎるw 圧巻のライブパートと好対照に導線を引き直す新バンドのAveMujicaの各員が、胡瓜の返品とともに別れ道を映す
絵コンテ:AfterGlowとMyGOの赤と青が対照化される。観客として立つ海鈴と睦が現状を確かめる。上昇志向のにゃむ(若麦)と転落層の祥子のホテルでの対比は、二人の現在地を映すとともに、既に交渉材料に利用される睦の暗い末路を予期させる
キャラデザ:迷星叫の終盤で微笑むそよがようやく晒す。離さないでくれてありがとう、呟くそよに呻く
美術:ホテルカフェのエントランスも内装も優雅にある
音響:ライブパートの高揚と反転する不気味な終盤は転調を得意とするクラシックの真骨頂でもある
音楽:迷星叫の輝かしい明日を推奨しないでくれ、歌いながら映す観客は傍観者の自分自身
迷子の倫理)
愛音:傍若無人さは実は燈の傍でこそ屹立する
燈:傍にいてくれる感謝を伝える。そよへの感謝に泣きそうになる。傷つけたり、喧嘩したり、でもここにいる。一生離さない、言葉に震える
立希:徐々にメンバーを気遣いまとめる成長が著しい
そよ:立希と対称的に自分を曝け出して棘を放つのも迷子の倫理
楽奈:喋らず、ギターの歌声で掻き鳴らす自分自身
第13話 信じられるのは我が身ひとつ 95点

演出:冒頭のアルバイトの祥子が前回終盤の苦境を反映する。MyGO!!!!!の打ち上げ、AveMujicaのライブを経て、終局の「ただいま、くそ親父」は次回への完全なヒキであり謎の新たな生成である
脚本:睦は未だ、親友のはずの存在にさえも直接的で朴訥な言葉しかかけられない。AveMujicaの語りパートは、主人に捨てられ、明日はだれかの愛玩となる、SNS社会の隠喩でもありアイドルそのものでもある
絵コンテ:弱い私はもう死にました、そう強がる祥子は寧ろ物悲しく侘しい。ようやく日常パートに入るMyGO!!!!!が最終回を物語る。対称的に徐々に不穏な空気感を醸成するAveMujicaへの転調が来るべき後半戦(「AveMujica」)の闇の入り口を仄めかす
キャラデザ:剥き出しの自分と向き合う告白、忘れられないCRYTHICを告白するそよの重さ、「けっこうやばいんだよ」の独白が凄まじい
美術:押し寄せるプラネタリウムが初華の現在地を出す。繰り返される屋敷前の祥子は貧民の現在と対照化される
音楽:AveMujica 赤い月と赤い門の入り組む迷宮に、茨とAveMujicaの紋章が浮き上がる、シンプルなステージ。人形たちの仮面舞踏会は終焉の序章に過ぎない
迷子の倫理)
愛音:心に絆創膏を貼ってもらった、感謝を重ねる言葉は、バンドを一生やることへの肯定であり、一瞬を迷いながら進む覚悟にある
燈:一瞬を重ねて一生になる
立希:既に仕切り役であり愛音を軽く窘める程度には大きく成長している
そよ:陸橋で燈に語り掛ける、燈の剥き出しの歌詞への苦しさが本音である
楽奈:一生に頷く瞬間は本音である
追記)劇場版「BanGDream! It’sMyGO!!!!! 春の陽だまり、迷い猫」
2025.11.06BlueRay発売にて再度視聴、メモとして。
・オーナーが本物を見出す夕焼けとの鋭いコントラストが美しく説得力を持って迫る
・楽奈の居場所の喪失と回復のRINGのギターのアルペジオの、
メロウでシックなメロディーラインの悲しみと喜びが感傷的
・モノそのものが好きではない、見つける行為が好きな、
言葉に対する鋭い感性の燈が照らし返される
・立希の威嚇的攻撃的立ち振る舞いがギャグ的に挿入されることで緩急的に面白い。
・自意識の仮構とバンド活動からの逃避を指摘されて逃げ出し立ち竦む愛音を、
励ます水族館の空中ペンギンの夕焼けと紺碧の桃色コントラストが美しい。
迷子の倫理とともに愛音を励まし返す、冒頭からの逆転構造の燈がある。
・気遣いだけの長崎そよ、気遣いを行動で示す愛音の対比は、
立希を追いかける筋書きでの照射となる。
・豊川祥子のエピソードが最小限に配置される一方で、
春日影における演奏と関係性の断絶は、その演奏前後の長崎そよのカット
(ライブ前に燈を励ます顔の見えないそよ)などにも表れる。
・最期の過堕幻における羊宮妃那の叫びのような絞り出す声に、
強い自省と自意識への戒めが表される
劇場版「BanGDream! It’sMyGO!!!!! うたう、僕らになれるうた」
2025.11.06BlueRay発売にて再度視聴、メモとして。
・主人公長崎そよの視点を中心に構成される。
周囲と併せる、流されやすい女の子、長崎そよと、
ガルクラの(当初の)仁菜は同じ原点だが。
二人を分けたのは、周囲の葛藤に対する無理解の数的差異か。
・そよの母をあやす母性と不釣り合いな自画像との決裂
・RinGという共同体名称で決裂するバンド
・豊川祥子 だからわたくしが終わらせましたわ
→ 長崎そよの「私が終わらせる」
・泪も出ないのに目の端がチリチリ痛い
・詩における、翔子へ与えた負の影響が、積極的な意味へ反転させる
・MyGOとそれ以外のバンドの平面感、のっぺり感
・向き合う他者、、向き合う自己
忘れられない長崎そよ、忘れる豊川祥子
そよの母(声優):椎名へきる
◆参考文献
・音楽聴取による強烈な情動経験と歌 詞および歌詞への共感の関連について
・ガールズバンドアニメ ~日本アニメの世界戦略、あるいは、ほどよい自意識と物語の狭間で~
・「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」小関隆、中公文庫
・「ガールズバンドアニメ みんな『程よい』主体が見たい」
PLANETS Mail Magazine:PLANETSチャンネル(PLANETS/第二次惑星開発委員会) – ニコニコチャンネル、石岡良治
・『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』青弓社
・「『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ」|徳田四
PLANETS Mail Magazine:PLANETSチャンネル(PLANETS/第二次惑星開発委員会) – ニコニコチャンネル:社会・言論
・常用字解 第2版 白川静
・https://true-buddhism.com/teachings/kierkegaard/
・「道」老子
・「老子 中国思想の智慧への門」王 岳川 、上田望訳
・「言語起源論」ルソー
・ルソー『言語起源論』を読む
・「ヘーゲル言語論と有機体的言語観 J・G・ヘルダーとの関係を中心に」板井孝一郎
・「ルソーにおける音楽的模倣と言語の起源」内藤 義博
・「言語に関するノート」マラルメ
・<虚構>のための言語学 ──マラルメの「言語に関するノート」試論── 立花 史
・「固い結合の美学 へリングラートによるヘルダーリンの再評価と文学的モデルネ 大田浩司
・「詩的機能」と反復の原理 ローマン・ヤコブソン
・『詩的言語の革命』ジュリア・クリステヴァ
『恐怖の権力― 〈アブジェクシオン〉試論』 枝川昌雄 訳 叢書・ウニベルシタス法政大学出版局
・「世界文学のアーキテクチャ」福島亮太、PLANETS
・「パンセ」パスカル 前田陽一他訳、中公文庫
・オードリー・タン 「我々はいつも迷子、だから楽しい」、台湾デジタル大臣がAI時代の生き方を助言
バンドリアニメMyGO感想1 高松燈について
・アニメ「BanG Dream! It’s MyGO!!!!!」居場所を求めて集まった、迷子たち5人の軌跡 – コミックナタリー 特集・インタビュー (natalie.mu)
コミックナタリー特集「思春期特有の衝動と思いが交錯する新生ガールズバンドアニメ」https://natalie.mu/comic/pp/mygo01
・exciteBlog「【連載】アニメ『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』第5回:長谷川大介×木下龍平×札ノ辻泰紀×緒方航貴――楽曲クリエイターと音楽制作陣が語る“迷子たち”の音楽論」https://www.excite.co.jp/news/article/Lisani_0000379767
・羊宮妃那をめぐる冒険 ──迷える羊の声をたどる
・MyGO!!!!!とAve Mujicaが音楽的に面白い理由──声優表現と構造の極地
・『春日影』という音楽の蝕─MyGO!!!!!とCRYCHICの断絶構造
・声=音=言語=演技の交点|羊宮妃那論
・劇伴・声・音──若山詩音・羊宮妃那という座標
・表音・表意・表義─声から音・音から言語・言語から意味|声=音・意・義 三分法
・結川あさきにご用心|中性声の帯域の魅力
・MyGO!!!!!「詩超絆」 でガチ泣きした


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