1993公開、監督;押井守、制作:ヘッドギア
Contents
・炭鉱のカナリア
・演出
※2025.02.26 何十回目かの鑑賞メモです。
あらすじ)
1999年、東南アジア某国。PKO部隊として日本から派遣された陸上自衛隊レイバー小隊が反政府ゲリラ部隊と接触し、本部からの発砲許可を得られないまま一方的に攻撃を受け壊滅する。独断で敵装甲車に反撃し、たった一人の生存者となった小隊長がそこで見たのは、異教の神像が見下ろす古代遺跡であった。
「方舟」の一件から3年後の2002年冬。かつての特車二課第2小隊は、隊長の後藤と山崎を除いて新しい職場に異動し、それぞれの日々を送っていた。そんなある日、横浜ベイブリッジで爆破事件が起こる。当初は事前に犯行予告があった自動車爆弾かと思われたが、自衛隊の支援戦闘機・F-16Jらしき飛行機から放たれた一発のミサイルによるものであることがテレビによって報道されるが、実は、、、、、
炭鉱のカナリア】
・1992年、PKOやPKFの派遣による日本の軍事的行動の是非や、
イラク湾岸戦争との関係で、日本や世界の戦争の在り方が議論されており、
冷戦の終結による混乱の継続やバブル経済の崩壊の最中にあった日本。
文芸作品は「炭鉱のカナリア」=現実の危機を先取りし、焼き切れる役割であると
されるが(カート・ヴォネガット)、本作はまさに、
きたるべきメディアと戦争、テロと情報技術の宿痾を予見したような作品である。
・「戦線から遠のくと、楽観主義が現実にとって代わる。
そして最高意思決定の段階において、現実成る者はしばしば存在しない。
戦争に負けているときは、特に」
ここは単なる戦線の後方に過ぎない。それが1992年当時のこの作品が投げかけた
モラルだった。それはメディアを通して、
戦線の前方と後方を隔てる世界線だった。
・しかし2020年の現在、もはやその境界は消滅している。
たとえば2001.09.01のアメリカ世界貿易センタービルテロ事件において、
「ここは戦線の後方に過ぎない」のではなく、ここが既にテロにより
戦線そのものになっていることを示す。
我々はもはやモニターの向こう側に戦争を押し込めることは出来ない。
情報ネットワーク環境の拡大と通信技術の発達が、
世界中のあらゆる場所から情報を発信することを可能にしたように、
総力戦の時代からテロの時代への移行は世界のあらゆる場所を潜在的な戦場へと
変化させたのだ
(宇野常寛「PLANETS Vol 10」<パトレイバー2再考>)

演出】
・白と黒の静謐でモラリスティックな画面作りが徹底的に展開される。
・白と黒は場面転換のみならず、情報の虚実、感情の虚実など全般的に対立する要素に対して、白黒をはっきりつけるというよりむしろ、目の前の情報/アニメの存在自体と現実社会の存在自体を揺さぶる、存在論的問いかけとして働く
・アニメーションの醍醐味としての人間や機械の躍動的な絵コンテや演出は徹底的に排除され、代わりに無機質で日常の延長として弛緩したような人間、機械、情景が提示される。
・動画の醍醐味としての演出の見せ場は三つ。
1つ目はベイブリッジ爆破劇におけるミサイル視点からのブリッジ風景で、
爆破寸前の上空からの垂直落下となる。
2つ目は航空管制ハッキングによる航空自衛隊のスクランブルにおける爆撃機の
追撃で、爆撃機の旋回や上空の光景である。
3つ目は、本作の最大の見せ場、
後藤隊長の辞任の場面における叫びとその前後である。

・なぜ映画の、動画の醍醐味としての作劇演出を捨ててまで、
モラリスティックな画面つくりに拘ったのか。
一つは作品としての方向性であると考えられる。
人物たちのコミカルな会話も機械の躍動感も並べて平板なものとしつつ、
有事に対する防衛体制の議論やテロリストの動機探求、戦争と平和に関する議論の
場面における無機質な機械や水族館の魚、情景描写は異様にリアルであるのは、
演出されないものこそが現実であり、
過剰に演出される=物語化されるものこそが、
そしてメディアこそが虚構であるとする思想だと思う。
しかしメディアによる演出が現実を再帰的に取り込み、現実の一部として
人間の認識を強化してしまう。
そのような些細な虚構の現実への介入の積み重ねが、
狂気としての現実にとって代わる。
その虚構と現実の相互的な作用の中で彷徨うしかない我々の感覚を、
戦争と平和、現実と虚構のモチーフを隠れ蓑に提示するのが本作だと感じる。
・しかし人物描写、情景描写は決して平板ではなくあくまでメタ的なものとされる。
例えば戒厳令下における都内での、自衛隊の町中の常時駐屯と、一般市民との、
狂騒的で日常的な風景が描写される。
そのいづれもが、アニメの中のメディアや窓を通した自衛隊と民間人との交流映像
であったり、ショーウィンドウ越しに反転される待機中の自衛隊員であったり、
モザイク状に広がるビル壁面に移り変わる空自のヘリであったりする。




・逆に演出として決定的に不味い、視聴欲を削ぐのは、
後藤と荒川が戦争論や防衛論を延々と繰り延べるシーン。
最初の荒川の協力要請における社内の会話は、パイロットランプの明滅が、
荒川の証言の虚実と実際の事件との輻輳とで重層的な演出効果が出るわけだけど、
防衛手段や警察の内容にそこまで興味がない&ついていけない層は確実に眠くなる。
二つ目は戦争論を戦わせる東京湾のコンビナートエリア。
真実としての戦争、虚構としての平和、自分たちが本来背負うべき義務を
他者(米国)に肩代わりさせることで成し遂げてきた、なりふり構わない、
血まみれの平和。
その経済的発展と危険性、
凋落の直喩であり隠喩として工場群が緻密に描かれるが、
荒川(竹中直人)の語り口が平板で、画面構成も薄灰色と赤色の差し込みのみで
こちらも確実に眠くなる。


何か付記すべきことがあれば追記したいと思います。
・参照
PLANETS 「Vol 10」 <パトレイバー2再考> 宇野常寛×押井守
ハヤカワ文庫 「母性のディストピア」 宇野常寛