とらドラ! ~「愛するということ」、あるいは自立について~

アニメ

0年代終盤のラブコメ金字塔にして、特に脚本家、アニメーション監督 岡田麿里の初期の脚本の代表作として知られる、「とらドラ!」。

ゼロ年代に台頭してきた、個人の成長や成熟を、明確な経済的自立や技術力などの立脚点ではなく、多様化し高速化、複雑化する社会に、しなやかに適合出来る能力こそが「成熟」の証の一つであり、それを「キャラクター設定」としてシーン毎に個人の性格を使い分ける。例えば「仮面ライダー電王」に象徴されるようなジャンルの代表作の一つであり、その原作を基調にしつつ、岡田麿里の仕事の整理と後学の為に、考えたことを記したいと思う。

あらすじは次の通り。「 父親譲りの目つきの鋭さのため、ヤンキーに見られてしまうことを気にしている高須竜児は、高校2年に進級し、以前から好意を寄せていた櫛枝実乃梨や、親友である北村祐作と同じクラスになることができた。一方で、新しいクラスメイトの間にはびこる「高須はヤンキー」という誤解を、また最初から解かねばならないことが憂鬱であったが、実乃梨の親友で誰彼かまわず噛み付く「手乗りタイガー」こと逢坂大河との出会いにより、意外に早くその誤解は解かれることとなる。 そしてあることが発端で、 高須竜児 が 櫛枝実乃梨 を、 逢坂大河 が 北村祐作 にそれぞれ想いを寄せることを知った二人は、共同戦線を張り、お互いの目的を成し遂げようとするのだが、、、」

1話から25話まで通して観た印象は、そのテンポの良さ、キャラクターデザインの秀逸さ、全体の起伏の緩急の付け方の上手さ、絵コンテからアニメーションまでを形作る動画品質(特に生徒会長と逢坂大河の殴り合いが素晴らしい)、生徒会長選挙を境に一気にシリアス寄せに感性を転換させる音響効果、それら全てを終始高いレベルで統率する監督の長井龍雪とシリーズ構成を担当する 岡田麿里 の手腕の高さに脱帽させられるということ。

特に、モノローグを多用することでキャラクターの心理描写を立体的に魅せる、小説の原作とは異なり、アニメーションならではの制約の中で、 櫛枝実乃梨 の心理描写パートを大きく削り、その言動や躍動感ある動き方と、僅かな分量の暗い心理描写を対置させることで、アニメーションならではのキャラクター造詣を完成させる、 岡田麿里 の仕事ぶりには本当に関心する。別の雑誌のインタビューで 岡田麿里 が述べているように、萩尾望都などの24年組よりやや若年世代にあたる大島弓子(「綿の国星」等)や岩舘真理子(「お母さんが言うことには」等)、陸奥A子(「たそがれ時にみつけたの」)の影響を強く受けつつも、独自の手法で、少女漫画の奥ゆかしく複雑な心理描写をアニメーションに持ち込んだ功績は、その前作「True tears」と、本作「とらドラ!」を経て決定的で確固たる地位を築いたといえるだろう。

ここで考えたいのは、そのような少年少女や、思春期の終わりを、 岡田麿里 がどのように捉え、どのような世界を目指しているのか、ということだ。

参照点としたいのは、原作小説が未完であるアニメーション放送当時に、その結末を独自に構築した、その結論である。

1話の冒頭で始まり、最終話のエンドで回収されるモノローグを確認したい。内容はこのようなものだ。

この世界の誰一人、見たことがないものがある

それは優しくて、とても甘い

たぶん見ることができたなら、誰もがそれを欲しがるはずだ

だからこそ、誰もそれを見たことが無い

そう簡単に手に入れられないように、世界はそれを隠したのだ

だけどいつかは誰かが見つける

手に入れるべきたった一人が、ちゃんとそれを見つけられる

そういうふうに できている」

ここで述べられている「見たことがない」内容は、ストーリー内容から推察するならば、恋愛感情であったり、幸せの形であったりするだろう。

実際に、その終盤で、 櫛枝実乃梨 も、川嶋亜美も、 北村祐作 も、それぞれの幸せの形を明確化し、それぞれに進むことが示唆されている。

本作が特徴的なのは、 高須竜児 と 逢坂大河 が、無意識的にはお互いを意識しながらも、表面的には意識していないという体裁であるため、全体的に「恋愛感情」を明確に言動化する描写が極端に少ないことだ(無意識の発露は多用されるが)。

最終話で、 逢坂大河 が 高須竜児 の元を離れて、自身の母親と向き合うことが示唆される。自立した人間として、 高須竜児 と向き合うために、、、

自立した人間とは、例えばコーチングの概念でいえば次のようなものだ。

「 自らの人生や仕事において、「自分が選択している」という意識があり、
 その選択に責任を持っていること。 」

「自立」と「恋愛」を考えるとき、E.フロムの「愛するということ」に思いを致さずにはいられない。

E.フロムは「自由からの逃走」で知られ、自身ユダヤ人でありナチスドイツの迫害経験から、大衆が「自由」と引き換えに「従属」を選択することで、自己決定の苦しさから逃れようとするメカニズムを論じた哲学者である。彼の思想は別の著書「悪について」で、その従属に関する思考回路の根本に迫っていくが、ここでは置いておこう。

E.フロムの「愛するということ」 について、内容は割愛するが、ここでフロムは「恋」と「愛」の違いについてかなり詳細に述べている。要約するなら、「愛する」とは 能動的な活動であり、与えることだ。 同時に技術であり、誰でも学ぶことが出来る。しかし必ず体得するべき4つの要素が存在する。

それは①「配慮」②「責任」③「尊重」④「知」である。

①「配慮」

①「配慮」 から考える愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。

高須竜児 と 逢坂大河が、二人の想いの為に敷く共同戦線。中々実を結ばないが、継続的で実利のある内容がある。高須の家事能力の高さだ。不摂生で家事能力のない 大河 のために、高須は炊事、掃除、洗濯、さらには裁縫まで何でもする。炊事については主婦顔負けのレパートリーと思考回路であり、「主夫」としてほぼ完璧である。この高い家事能力から、意識的にも無意識的にも、高須は大河の生活内容全般を通して「配慮」をし続けることになる。対照的に大河は、体面を隠すように臆病で他人の感情に敏感な性格から、その部分で高須の行動を補うことになる。

②「責任」

②「責任」 から考える愛とは、 完全に自発的な行為である。他人の要求に応じられるという意味である。 (ラテン語も参照するなら)責任は常に自由とともに存在し、自由意志に基づく行動に対し発生する結果に対して応答することである。

この観点では、例えば前述の家事能力にしてもそうだが、高須は共同戦線における「責任」をきっちり果たしていると思われる。一方で、自分にも他人にも非開示的な性格である大河は、なかなかその「責任」を果たせない存在として描かれる。

個人的に「とらドラ!」で最も印象的なエピソードである、16話での大河と生徒会長の殴り合いでは、この「責任」が明確な争点として描かれる。

生徒会副会長である北村祐作の心の支えであり、想い人でもあった生徒会長、狩野すみれ。生徒会長選挙で北村の告白を受け流し、その場を去る狩野。実は北村に対する思いがあったが、生徒会引退後すぐに米国留学という状況において、その告白を受けることで生じうる「責任」、具体的には北村の人生を狂わせる(留学先に連れて行ってしまう)ことへの「責任」を引き受けないという覚悟が、逆に彼女の取る「責任」として描かれる。

自らの想いに従順でいられないが故に、その純粋な思いから逃げる人間は卑怯だ、と詰る大河に、狩野すみれは叫ぶ。

「テメェに私の何がわかる!テメェみたいな単純バカになれるんだったらなりたいよ!真っ直ぐ突っ走るだけのバカになれたらって思うよ! 好きなんて言ったら、あのバカは私について来ようとするじゃねぇか!私がそうしてほしいってわかったら、私のためにそうするだろうが! いろんなモンを犠牲にして・・・。あいつはそういう奴だ。だから・・・だから私はバカになれない!!」

竹刀での競り合い、拳での殴り合いという非常に動的なシーンで、お互いの心情をも同時に吐露してぶつかりあう、いわば「観念の炸裂」と呼ぶに相応しい、同作品の白眉中の白眉である。と同時に、大河が、人を愛することに伴う「責任」を痛感するシーンでもある。

③「尊重」

③「尊重」 から考える愛とは、 その人が唯一無二の存在であることを知る能力である。人は自由であって、自立していて、初めて人を尊重できる 。

最終話で、駆け落ちから戻り、忽然と高須の前から姿を消す大河。大河は母親との葛藤に立ち向かうべく、旅立ったのだ。高須ときちんと向き合うために、自立した人間になるために。

前述したように、「自立した人」とは、自分で考え、壁を乗り切る力を身につけていること。何か問題が生じたとき、他人への責任転嫁(他責)ではなく、つねに当事者意識を持ってあたれることだ。どんなときでも障害になるのは、他人ではなくて自分の弱い心である。自分の弱さから、ジンクスから乗り越えるために、自立した人間として高須と向き合いたいという、成長した大河の姿がここにある。

また、④「知」から考える愛にもつながるが、 人を尊重するために、その人をまず知る必要があることである。知がなければ、配慮も責任も的外れたものになってしまう。そして知も尊重が動機にあって、初めて実装されるものだ。

・自己愛について

フロムはまた、自己愛についても言及している。 自分の人生、幸福、成長、自由を肯定することは、自分の愛する能力、即ち配慮、尊重、責任、知に根差している。生産的に愛せる人は自分のことも愛しており、他人しか愛せない人は、愛することが全く出来ない。

逢坂大河が終盤に至って、ようやく自己愛の欠如と、その相克を試み始めたのとは対照的に、ずっと自己愛の欠如と向き合ってきたキャラクターとして、途中から配置された川嶋亜美の存在がある。

元々他校でモデルとして活躍しつつも、家庭内軋轢や友人関係、さらにストーカー被害も加わり、学期の途中で高須たちの学校へ編入してくる川嶋亜美。

モデルとして「大人」の振る舞いを身につけつつ、腹黒さと打算と少女らしさを使い分ける彼女を、素のまま受け入れてほしいと紹介してきた、川嶋亜美の幼馴染の北村祐作。

そんな彼女の「弱い」部分を「子供っぽい」と、飾り気無く接することの出来る高須に、密かに想いを寄せ始める川嶋亜美。

彼女の自己愛は、関係性を見つめ、望ましい方向に進めるための「調整力」の発展として描かれていく。当初、彼女の歪んだ自画像を受け入れてくれる高須との関係構築に、そして次第に川嶋亜美だけが気付いてしまう、 逢坂大河 の無意識の好意の応援に。

それが爆発したのが、21話のスキー合宿の、 櫛枝実乃梨 とのキャットファイトだ。

自ら想いを寄せていた高須の告白を受け流し、曖昧な態度で 逢坂大河 に立場を譲ろうとする 櫛枝実乃梨 の煮え切らない態度に、自分を重ねて、苛立ちを隠せずに衝突する。

自分がしてきた配慮、尊重、責任。それら全てを 無意識に 根こそぎ揺るがそうとする 櫛枝実乃梨 。一方で、自らの至らなさ、不甲斐なさを覆い隠すためのファイトでもあったのではないだろうか。

・「愛するということ」

物語の当初、 高須竜児 と 逢坂大河 はいわば「恋に恋する」、恋愛感情に振り回される未熟な存在として、他のキャラクターの、 櫛枝実乃梨 や北村祐作、川嶋亜美と対極に配置される。

物語の進行につれて、 高須竜児 と 逢坂大河 は 、次第に「愛するということ」を学ぶ。この行いは「配慮」されているものか、十分な「尊重」がなされているか、その行いに対して「責任」が取れるのか。

確実に記しておきたいのは、この物語がいわゆる「ラブコメ」らしいラブコメ展開における「デート」の段階=恋する段階をほとんど描かず、「愛する」段階に、ほとんど意識的に進めていることだ。

「恋する」行動は、配慮も、尊重も、責任も、知も、あまり考慮されない場合が多い。それどころか、衝動的で、刹那的で、それゆえに情熱的で、無責任である場合も多い。

これに付随して、石岡良治の指摘にもあるが、いわゆる恋愛物語にあるような「相互承認」は、実際にはファンタジーである場合が多い。とくにこの記事で言及するような「愛するということ」の4要素を余すところなく描き切ることなく物語進行する場合が多く、結果的には「共依存」的な関係に陥りがちである。

それらの段階を、敢えて迂回させつつも描写し、最終回で、責任と知の自覚とともに、高須の元に戻ってくる 大河の 姿は、極めて倫理的であり、私はここに脚本構成の 岡田麿里 の神髄をみる。

付記しておくと、本アニメ放映当時、原作は連載中であり、大まかなプロットはあるもののラスト2話の部分は完全にアニメーション制作陣の想像力に委ねられていた。

原作では、想いを伝え合ったあと、一度、高須たちが登校し、担任教師に対し暫く不在になる(駆け落ち)ことを伝えてから、高須の実家に行き、のち、学校に戻るというプロットとなっている。

ここで、登校せず、駆け落ちに至るアニメーション独自の展開では、そのまま二人で生活を試みるという展開もあり得たはずだ。ただ、その場合、経済的な条件などで未成熟な二人にとっては非常に厳しい条件であり、物語的には美しくあっても、現実的ではない。

ここで、高須の述べるような、「(駆け落ちのような後味の悪い条件よりも)みんなに祝福されて、幸せになりたい」という考えを主軸に、元の世界線に戻ろうとする下りは、その言動描写も含めて完全に脚本構成の力量であり、極めて倫理的でもある。

このような高い象限での「思春期の終わらせ方」が、 岡田麿里 の理念に通底しているのではないか。この美しくて、繊細で、残酷な現実に立ち向かう気力を、少年少女に、特に少女の観点から授けていく。

そのような観点から、2024/10/4に全国公開される、 岡田麿里 と長井龍雪の最新作「ふれる」も、心待ちである。

映画『ふれる。』公式サイト
『あの花』『ここさけ』『空青』を手がけた、監督:長井龍雪、脚本:岡田麿里、キャラクターデザイン:田中将賀の3人が贈る、オリジナル長編アニメーション映画。5月28日(水)Blu-ray&DVD発売。

長文をお読みいただき、ありがとうございました。コメントいただければ幸いです。

あとがき:個人的には、「大人」を体現しつつ責任を全うする生徒会長に心打たれます。。。今回見直して改めて痛感。でも嫁にするなら高須竜児。

あとがき2:生成AIに分析させてみた資料も掲載しておきますね。

参考文献

・エーリッヒ・フロム「愛するということ」紀伊国屋書店

・PLANETS 2009 Vol6 第二次惑星開発委員会 インタビュー記事「岡田麿里 まごころの想像力 ー思春期を美しく終わらせるためにー」

・https://info.coaching-labo.co.jp/encyclopedia/appropriate-dependence/

https://note.com/prospect/n/nf133eac1f107

https://otsuyan.com/%E3%80%90%E3%81%A8%E3%82%89%E3%83%89%E3%83%A9%EF%BC%81%E3%80%91%E3%80%8C%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%B5%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%A8/

・https://anime-walker.com/toradora/

http://blog.livedoor.jp/piyoani/archives/67866002.html

コメント

タイトルとURLをコピーしました