顔を剥ぐ――『ちいかわ』映画における終端の脱主体化と、責任の宛先
~作品が行うことを予見していた者~
※本論はネタバレを含みます。本編鑑賞後にご一読ください。
序――娘の定式から
映画を観た後、娘に「誰が一番悪いと思う?」と尋ねた。母は「人魚」と答えた。最初から島民を無意識に殺すから、と。私は「島民」と答えた。原因を追究せず、襲ってくる人魚への怒りで一様にまとまる、そのポピュリズムの典型だから。娘は「図鑑の作家」と答えた。中途半端な知識の伝播が、人魚狩りの根源になったから、と。
三者三様の答えが出た後で、娘は母の答えを斥けた。人魚を「悪い」と裁くことに、娘は納得しなかった。「ああいう存在は、誰が悪いで判断するものではない」。
これは三つ目の答えではない。問いそのものの棄却である。「誰が一番悪いか」という問いは、悪を担う主体がいることを前提とする。娘は、その前提を疑った。人魚のような存在は、善悪の判断が届く相手ではない――そう言ったのである。
本稿は、この娘の定式――主体だけが裁ける、物と自然力は裁けない――を、作品の映像に係留して追う。結論を先に言えば、娘はこの映画が最後に行う一つの操作を、それが起こる前に予見していた。作品はラストで、ある登場人物から顔を剥ぐ。顔を剥がれた者は、裁く資格も、裁かれる資格も失う。娘の定式は、その顔剥ぎの意味を、母の裁きに抗して先取りしていた。
作品の寓話的な骨格を、あらかじめ一点だけ示しておく。題名はセイレーンだが、この映画の類型はセイレーン(歌で誘惑する声)にはない。その下に、二つの古い型が走っている。名を奪われた暴力の型(オデュッセウスに「誰でもない者」と名乗られ盲目にされる単眼の巨人)と、生命と物の境界が反転する型(自ら彫った像が生命を得るピュグマリオン、あるいはその逆)である。この二つの型が、顔剥ぎという事件でどう交わるかは、結で回収する。まず観察から始める。
一――顔の経済学
顔剥ぎが意味を持つためには、まずこの世界で誰が顔を持つのかを確定しなければならない。ラストを論じる前に、全篇にわたる顔の分布を記述する。
この映画で顔を持つのは、ちいかわたち、島二郎(カレー屋)、そしてセイレーンとそのコーラス(子分)である。顔を持たないのは、島民たちである。島民は全員、全篇を通して顔を持たない。これは例外のない、一貫した特徴である。
顔の有無は、造形の水準でも裏づけられる。人魚喰いの島民の一人は、その身体が単三電池で駆動していることが示される。電池が見える。ただし、その動きは他の島民と変わらず、機械的にぎこちないわけではない。電池で動く身体が、他の島民と同じ所作で日常に溶けている。物でありながら、物として際立たない。一方、セイレーンのコーラス(子分)は、ちいかわたちと同じ簡素な平面造形で描かれ、とりわけ「くりまんじゅう」の造形に近い。被害を受ける側が、最も愛らしい側の造形に接近している。
この顔の分布から、一つの非対称が浮かぶ。暴力を振るう側――人魚を狩る島民――は、初めから顔を持たない。顔なき匿名の群れであり、その一人は電池で動く物ですらある。他方、暴力を受ける側――セイレーンとコーラス――だけが顔を持つ。
娘の定式を、ここに重ねる。娘は「物と自然力は裁けない」と言った。島民全員が顔を持たないことは、その定式の前半――物は裁けない――が、映像に実装されていることを意味する。顔なき島民、電池で動く島民は、裁きの対象になりえない。彼らは怒りの発生源ではあっても、責任を負う主体ではない。母が島民ではなく人魚を裁いたのは、島民が顔なき群れであり、裁きの焦点を結ばないからでもあった。裁きは、顔を持つ者へ向かう。この世界で顔を持つ数少ない存在の一人が、セイレーンだった。
なお、緻密なセル画で描かれた海・密林・水面、星空の背景に対し、これらの人物が簡素な平面で造形されていることには、記号的な貧しさが担う独自の効果がある。豊かな背景の中に、貧しい記号としての身体が置かれる。この対比が経済的・社会的な含意を帯びる可能性については、消費社会論の系譜で論じうるが、その理論の動員は原典の版・頁を確認してからとし、本稿では平面造形が担う記号的な貧しさとして記述に留める。
二――顔を剥ぐ
セイレーンは、全篇で顔を持つ主体だった。それを、カメラのアングルの変遷が示している。
登場の最初、セイレーンは水平のワイドショットで捉えられる。中立的な導入である。島民とちいかわたちがセイレーンに襲撃される局面では、アングルが変わる。ちいかわの目線からセイレーンを見上げるローアングル、あるいはセイレーンがちいかわを見下ろすハイアングルが多用される。上と下の垂直の権力差が、セイレーンを脅威の主体として屹立させる。後半、ラストバトルでセイレーンが激辛カレーを口に含むその瞬間には、アングルが再び水平に戻る。対等な主体としての位置である。
導入の水平(中立)、襲撃期の垂直(権力差=脅威の主体)、後半の水平(対等の主体)――このアングルの体系は、セイレーンが一貫して顔を持つ主体であったことを示す。彼女は見上げられ、見下ろし、対等に向き合う、視線の相手だった。
そして、ラストで顔が剥がれる。
ただし、一気にではない。顔剥ぎの直前、背中になるその直前に、セイレーンは右の横顔を見せる。正面でも背中でもない、横顔である。横顔は、顔の半分だけを見せる。主体性が半分だけ残った、移行の状態である。作品は、セイレーンを正面から背中へ一足飛びに転じるのではなく、右横顔という一拍を挟んで、主体から背中へ段階的に移行させる。
この段階性が、顔剥ぎの質を決めている。もし正面から背中へ切断的に転じれば、それは劇的な断絶になる。だが横顔という中間段階を経ることで、顔剥ぎは静かな移行になる。主体性が、一瞬で奪われるのではなく、段階的に薄れていく。この横顔の一拍が、ラストの静けさを作っている。脅威の消失でありながら、暴力的な断絶ではない、静かに開いたまま終わる質は、この移行の段階性から来ている。
前章で確認した島民の顔なしを、ここで思い出す。この世界で顔を持つ数少ない存在の一人が、セイレーンだった。加害の側(島民)は初めから顔がなく、被害の側(セイレーン)だけが顔を持っていた。その唯一顔を持っていた側から、ラストで作品は顔を剥ぐ。顔剥ぎとは、この世界で最後まで顔を保っていた主体が、主体でなくなる出来事である。
三――顔剥ぎを裏打ちする、色彩と音響
顔剥ぎは、視覚の水準だけで起きるのではない。色彩と音響が、同じ脱主体化を別の方向から実装している。
色彩から見る。セイレーンが最も主体的である局面――コーラスを殺された怒りと復讐に燃える攻撃的な場面――は、寒色で描かれる。島民がコーラスを狩る人魚狩りの場面も、寒色で、逆光気味に、洞窟内で睡眠中のコーラスへの襲撃として描写される。この作品において、寒色は主体的な怒りと暴力の発動の色である。
ところが、ラストは暖色である。加害者の島も、追うセイレーンの背中も、暖色で、順光で、太陽が画面右上から中心へ薄く差し込む。
この色彩の分布は、ラストの暖色の意味を反転させる。暖色は、単純な癒しではない。セイレーンが怒りに燃えるとき、彼女は寒色の主体だった。怒りは、告発の情動である。ラストで暖色になることは、その怒り――告発の情動――を失うことを意味する。怒れる寒色の復讐者が、怒りなき暖色の追跡者になる。暖色化は、怒りの不在であり、告発の不在であり、正義を執行する資格の喪失である。顔剥ぎ(視覚)が主体性を奪うのと同じことを、暖色化(色彩)は怒りの剥奪として実装している。
音響を見る。この映画には、対照的な二つの音がある。ちいかわたちの「今日の日はさようなら」と、セイレーンの音である。
「今日の日はさようなら」は、三つの局面で流れる。窮地――ちいかわたちがセイレーンとコーラスの襲撃で分断され、ちいかわが勇気を出して動こうとするとき。祝祭――セイレーンを撃退し、船出の前夜に、ちいかわたちを送り出す夜の祭り。離別――セイレーンのいる島から船出するちいかわたちが、船上で歌うとき。いずれも、紐帯が確認される局面である。歌唱という人間的な行為によって、共同性が一瞬、確かめられる。
対して、セイレーンの音は歌唱ではない。それはサイレンに近い。警戒音を滑らかに響かせるような音響であり、不穏なハープの音を伴う。セイレーンはこの音を、基本的に襲撃の直前に用いる。音は、ちいかわたちや島民への襲撃・分断の契機として提示される。ちいかわたちの歌が紐帯の確認であるのに対し、セイレーンの音は襲撃の契機である。紐帯の歌と、襲撃の音。二つは対立する。
そして、ラストには、そのどちらもない。ちいかわたちの紐帯の歌もなく、セイレーンの襲撃のサイレンもない。顔剥ぎの瞬間も、その前後も、聞こえるのは漣だけである。
この無音が、決定的である。セイレーンの襲撃は、いつもサイレンを伴った。音は、彼女が襲撃の主体であることの標識だった。だが、ラストの追跡には音がない。音なき追跡は、襲撃(主体的な攻撃)ですらない、ただの力の継続である。セイレーンは、襲撃の音を鳴らす者ですらなくなった。音を失うことは、襲撃の主体性を失うことである。
顔剥ぎ(視覚)、暖色化(色彩)、無音(音響)。三つが、同じ一点を、三つの方向から実装している。セイレーンの、終端における脱主体化である。
一点、音楽の系譜に触れておく。歌が言葉以前の情動の噴出として紐帯を確かめる形式、あるいは音楽が前景化するときに声が退く形式は、近年の音楽を主題とするアニメーションで繰り返し論じられてきた※、※※。本作のラストの無音は、その系譜の一つの極点に位置する。歌でも沈黙でもなく、紐帯の歌も襲撃の音も共に拒まれた無音――それが、追跡から主体性を抜き去る徴として機能している。
四――開いた円環と、その非対称
ここまで観察を重ねてきた。顔剥ぎが、視覚・色彩・音響の三層で実装されていることを確認した。ここから、その顔剥ぎが何をもたらすかを論じる。
まず、顔剥ぎは物語の円環を開く。人魚を狩る島民と、島民を襲うセイレーン。この暴力の応酬は、円環をなす。狩り、狩られ、また狩る。この円環は、二つの仕方で閉じうる。一つは和解――島民と人魚が分かり合い、赦し合う。もう一つは正義――裁く資格のある者が加害者を追い、罰する。和解も正義も、円環を閉じる。
作品は、そのどちらも選ばなかった。ラストで、加害者の島民は罰されず、別の離島へ逃避し、新しい生活を始める。そして、顔を剥がれたセイレーンが、その背中で追う。
顔剥ぎが、この不閉鎖を可能にしている。顔を持つ主体の追跡は、正義になりうる。裁く資格のある者が加害者を追えば、それは円環を道徳的に閉じる。だが、顔を剥がれた力の追跡は、正義になれない。ただの暴力の継続である。作品は、円環を開いたまま終わらせるために、復讐者から顔を――主体性を――剥がねばならなかった。顔があれば追跡は正義として円を閉じ、顔がなければ追跡は暴力として円を開き続ける。セイレーンの脱主体化が、円環を開いたままにする機構そのものである。
そして、この開いた円環は、対称に開いていない。第一章で確認した顔の分布を、ここで思い出す。加害の側(島民)は、初めから顔を持たない。主体ではない。だから裁けない。そして、唯一顔を持っていた被害の側(セイレーン)も、終端で顔を剥がれる。裁く資格を失う。
結果として、この円環の中には、それを責任で閉じられる主体が一人もいなくなる。根源にいた図鑑の作家はラストに不在である。近接の加害者である島民は、顔なきまま逃げて生活を再開する。追う者は、顔を剥がれた力である。責任という概念だけが宙に浮き、それを担う主体がどこにもいない。
娘の定式が、ここで一段深くなる。娘は「主体だけが裁ける、物と自然力は裁けない」と掴んだ。この映画は、それに一つを加える。主体だけが裁けるだけでなく、主体だけが正義を届けられる。この円環が閉じないのは、暴力が循環するからだけではない。円環の中に、それを責任で閉じられる主体が一人もいないからである。罰は、主体でない力の永久運動として、画面の外へ流れ続ける。
「責任あるディストピア」という言葉で本作を捉えるなら、その正確な内実はここにある。責任が機能する世界ではない。責任という概念だけが残り、その担い手が消えた世界である。
なお、加害者が罰されず移動してリセットする構造を、ケア倫理の系譜は特定の概念で名指してきた。だが、その概念の本稿への動員は、原典の版・頁を確認してからとする。ここでは、加害者が顔なきまま逃げ、追う者が顔を剥がれ、責任が宛先を失う、という映像と物語の構造の記述に留める。
五――サプリの投与と、その撤回
では、本作は絶望を明るく塗り込める作品なのか。それとも、責任を直視する作品なのか。
観察は、そのどちらでもないことを示す。両方が、一枚の画に係留して共存している。
ラストの二つのショットを見る。加害者が新生活を始めるショットは、暖色で、順光で、明るい。ちいかわの日常の延長にある、明るい水色、緑、白、青空、太陽へ滲む薄黄色。ここまでは、癒しの表層である。だが、その加害者は、洞穴を新居とし、その闇の中へ向かって進む。そして、音がない。追うセイレーンのショットも、暖色である。だが、そこには顔剥ぎと不穏が畳まれている。
不穏は、寒色によって担われてはいない。両ショットとも暖色である。不穏は、暖色のまま、両方のショットに滲んでいる。つまり、責任とサプリは、二つのショットに割り振られているのではない。各ショットの内部に、層として畳まれている。暖色順光という表層(サプリ)と、闇への前進・無音・顔剥ぎという核(責任)が、同じ画の中に同居している。
無音が、この畳みの決定的な徴である。もし、明るい画に穏やかな音楽を乗せれば、この映画は絶望のサプリへ振り切れただろう。加害者の逃避を、幸福な新生活として奏でることができた。だが作品は、明るく照らしておいて、その明るさから音を抜いた。無音は、作品が加害者の逃避を「幸せな新生活」として奏でることを、最後の瞬間に拒否した徴である。明るい画は「サプリ」と言い、無音は「責任」と言う。同じ一枚の中で、両方が言われている。
作品は、特権的な無責任の構造を与えた。加害者は罰されず、別の島へ移動してリセットする。だが、その報酬は与えなかった。慰めの音楽も、明るい生活の続きもなく、闇の洞穴へ、沈黙のまま入っていく。作品は、自分が描いた無責任を、心地よくすることを拒んだ。加害者を逃がすが、その逃避を美しい音で包まない。
ここに責任が宿る。円環が開いていること以上に、加害者の逃避を作品が寿がなかったことに。
この決定不能は、批評家の宙づりではない。暖色順光(サプリ)と、無音・闇・顔剥ぎ(責任)が、同じショットに物質として同居している。それは、材料に係留された決定不能である。「この映画は責任だ」と言っても、「サプリだ」と言っても、どちらかに倒した瞬間、この係留された同居を見失う。決定不能は、温存されねばならない――ただし、その決定不能の中身は「暴力が循環する」ことではなく、「作品が自分の描いた無責任を寿ぐことを拒んだ」ことにある。
結――娘の予見
娘に戻る。
母は「人魚が悪い」と答えた。母が裁いたのは、全篇で顔を持っていたセイレーン――怒り、襲い、見下ろし、見上げられた、あの主体である。母は、顔を見て裁いた。
娘は「誰が悪いで判断するものではない」と答えた。娘が見ていたのは、作品が最後に行う操作――主体から力への転換、顔剥ぎ――である。娘は、それが起こる前に、その身振りを掴んでいた。作品がセイレーンを裁けない力へ変えることを、母の「顔を見た裁き」に抗して、一手先に読んだ。
娘の二つの観察は、一本の線で結ばれている。娘は「図鑑の作家が一番悪い」と言い、同時に、人魚喰いの島民が単三電池で動くという伏線に気づいた。電池で動く島民は、主体ではない。だから責任を負えない。無意識に殺すセイレーンは、自然力である。だから責任を負えない。残る唯一の道徳的行為者は、知識を伝え、選択し、結果を予測しえた図鑑の作家だけである。娘の二つの観察――作家が根源、島民は物――は、一つの首尾一貫した構造読解になっている。主体だけが裁ける。物と自然力は裁けない。
序で示した寓話の骨格が、ここで回収される。ピュグマリオンの型は、生命が物へ、あるいは物が生命へと反転する型だった。セイレーンの顔剥ぎは、その反転である――顔を持つ生きた主体が、顔を剥がれた力へと転じる。名を奪われた単眼の巨人の型は、名と顔を奪われた者の型だった。セイレーンは、ラストで顔を奪われ、名指して裁くことのできない力になる。題名の掲げるセイレーン(誘惑する声)は表層であり、その下で作品が実際に行ったのは、この顔剥ぎ――主体から、名も顔もない力への転換――だった。
「責任あるディストピア」という本作の芯を、最初に与えたのは、批評家でも理論でもない。娘である。主体だけが裁ける、という定式を、娘は一本の映画から取り出した。大人たちは、その定式を、視覚(顔剥ぎ、アングルの変遷、開いた円環のパンアウト)と、状況(円環の非対称、正義の宛先の喪失)と、音響(無音)で係留したにすぎない。芯は受容の側が与え、理論は後から追いついた。観察が命題に先立つという順序が、この論考の成り立ちそのものに刻まれている。
母の答えを斥けたのは、生意気ではなかった。批評だった。娘は、作品が最後の一瞬に行う顔剥ぎを、それが起きる前に見ていた。作品が引く線を、母より一手先に読んでいた。それだけのことである。そして、それが批評のすべてでもある。
参考文献
「象徴の貧困」(De la misère symbolique: 1. L’époque hyperindustrielle, Galilée, 2004)】ベルナール・スティグレール ガブリエル・メランベルジェ(Gabriel Mehrenberger)+メランベルジェ眞紀訳、新評論
「モラル・バウンダリー——ケアの倫理と政治学」ジョアン・トロント 杉本竜也訳・勁草書房
批評座談会「『ちいかわ』は貧困ニッポン格差社会の寓話⁉︎ 石岡良治×宇野常寛×成馬零一×吉田尚記」
「脱主体化/抽出と運用のあいだで —AveMujica 三角初音の人形化と弱い自立の臨界」
「個体化の揺れとアイデンティティの手放し――MyGO!!!!!/Ave Mujica 論」
「BanGDream! It‘s MyGO!!!!! No.2」

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