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※前回の政策提言的論考を、観察手法的観点から別検討したものです
※本論はネタバレを含みます。ご一読前に本編をご鑑賞いただくことを推奨します。
また本論に登場する一切の固有名詞の商標は シャフト、虚淵玄、蒼樹うめ、その他制作関係者に帰属します。
序章|床を敷く
第1章|操作する自己の外部化(佐倉杏子・第7話)
第2章|平面化される自己(美樹さやか・第5・6・7・8話)
第3章|非対称の確定と映像の一般文法
第4章|理論ハンドルの接続——脱主体化
第5章|決定不能の温存——手放しか、囚われ続けるか
第6章|負荷の配分
一 集約——まどか
二 吸収——さやか
三 自足——杏子
結章|応分の容量へ
序章|床を敷く
第7話の九分六秒、杏子の掌が画面に現れる。以後この場面のあいだ、掌と切り抜かれた紙の人形は、同じ画面のなかに七度ともに映る。本論考は『魔法少女まどか☆マギカ』を、身体と平面との関係という一点から読む。
最初に、扱う範囲を限定しておく。対象はテレビシリーズ全十二話である。劇場版『叛逆の物語』は本論の背骨には用いない。三軸による走査をテレビシリーズの内部で完結させる。叛逆は本論の走査対象としない。制作史、脚本家の経歴、シリーズが十数年にわたって継続してきたことの産業的な条件、そして近年の映像制作環境の変化が人形を実際に動かすという行為に与えた意味の変質——これらも本論の論拠には用いない。本論考が用いる材料は、テレビシリーズ全十二話の画面と音のみである。これを自らに課した条件とする。この条件を明示するのは、作品外の枠組みに寄りかかった批評的達成が、外枠を外した瞬間に失効するという事態を避けるためである。
次に、順序について。
本論考は物質的な記述から始め、理論の語を第4章まで一切使わない。第1章から第3章は、カット番号と秒数、画面内の配置、絵柄の水準、音の層だけで書かれている。これは文体上の選好ではなく、方法上の要請である。本論考が第4章で当てる概念は、著者が前段の三部作で自ら構築したものであり、外部から借りたものではない。自分の概念を新しい対象に投げて当てはまったと言うだけの作業に堕する危険が、最初から高い。それを避ける方法は、材料を先に立て、概念をあとから当て、そのとき材料が概念に何を返したかを見ることしかない。理論語なしで三章を通すのは、その担保である。
構造の見取りを示す。第1章から第3章が物質、第4章が概念の接続、第5章が決定不能の温存、第6章が社会的な水準への移行、そして結章が唯一の価値判断である。第5章を独立の章として立てたのは、決定不能を第4章の付記として処理すると、解けなかった問題の言い訳に見えてしまうからだ。決定不能は本論考が扱う対象の形そのものであり、独立した記述を要する。
三本の軸
第3章で立てる分類の枠組みだけ、ここで名前を挙げておく。接触と把持、尺度の通約性、次元の合一度。三つとも身体と平面との関係の記述語であり、思想家に帰属する術語ではない。三軸で作品内を走査すると、位置は五つに分かれる。詳細は当該章に譲る。
軸が三本あることには理由がある。当初、本論考は一本の線で足りると考えていた。それが足りないことを、材料が示した。棄却された二つの基準——平面の外部という位置の想定と、絵柄の水準を二値として使う読み方——については、第3章で材料とともに示す。批評が何を捨てたかは、何を採ったかと同じだけ論の性質を規定するが、その記録は棄却が起きた現場に置くほうが機能する。
語の使い分け
本論考は次の四語を互換的に用いない。
平面は、画面上で厚みと影を失った状態を指す。作画の記述語であり、比喩ではない。記号は、平面のうち、操作の対象として扱われうるものを指す。脱主体化は、自己が操作可能な平面ないし記号として成立する事態を指す。前段の三部作で構築された概念であり、本論考で再定義される。定義と再定義の内容は第4章に置く。ここで導入すると、第1章から第3章の記述が概念に向けて整えられているように読まれてしまう。
四つ目は、本論考が用いない語である。脱個体化は、前個体的な準安定が再び前景化する事態を指し、存在論の水準に属する。脱主体化は主体形成と社会の水準に属する。両者は層が違い、本論考は前者を扱わない。近接する既存の議論——個体化が構造的に衰えていく下降の運動として語られてきたもの——との関係についても、方向と水準が異なることを第4章の脚注で示す。
以上に加え、理論語を導入する箇所ではすべて、出自・本来の使用文脈・本論考での再定義の三点を明示する。「〜的」という形容詞による回収は行わない。ある思想家の名を形容詞にした瞬間、その名は概念ではなく雰囲気になる。
本論考が答えないこと
本論考は続編に向けて書かれている。だが、続編で何が起きるかも、何が起きるべきかも予告しない。予告は診断ではない。本論考が用意するのは、テレビシリーズの内部で立てられ、次に何が来ても同じ道具で測れる床である。
もう一点。本論考は第6章で作品外の社会理論を導入するが、それは作品を社会問題の例解として扱うためではない。虚構が個人のスケールで負荷を扱おうとしたときに何が起きるかを、虚構の内部の実装として記述するためである。作品から現実への教訓を取り出す作業ではない。
そして最後に、本論考には一度だけ価値判断が現れる。結章である。それ以前の六章は診断であり、評価ではない。両者の水準は違う。混ぜて読まれることを、本論考は望まない。
第1章|操作する自己の外部化(佐倉杏子・第7話)

(魔法少女まどか☆マギカ 7話より)
『魔法少女まどか☆マギカ』第7話、本編八分四十七秒から十一分三十六秒までの約三分間。舞台は廃教会である。演出は城所聖明、絵コンテは西田正義。この三分で佐倉杏子は自分の魔法少女化の経緯を美樹さやかに語るのだが、その語りは口だけでは行われない。杏子は紙を切り抜いた人形——ペープサート——を手に取り、それを動かしながら語る。本章はこの三分の物質的な組成だけを記述する。
まず確認しておくべきは、カメラがこの場面を通じてほとんど動かないことである。固定でありズームがない。例外は後述する一箇所のパンアウトのみで、それも構図そのものは保持される。つまりこの三分の変化は、カメラの運動ではなく、画面の内側に何が同居しているかによって作られている。
杏子の掌が画面に現れるのは九分六秒である。以降、掌とペープサートが同一画面の内に共在するカットは七回を数える。共在と切り返しの両方があり、共在は七回である。
九分二十八秒。ローアングル四十度のミディアム。画面中央に現代の杏子の肘から上が入り、その右手が父の紙人形を握っている。背景は紙を切り抜いた黒く枯れた木々と、黒く焼けたような空。握る生身の手と握られる紙が、同一画面のワンカットに収まっている。
九分三十六秒。水平のミディアム。杏子は半目で画面右下の父の人形を見下ろしている。この場面全体を通じて、杏子の喋る口が動いて映る唯一のカットがここである。語る口は、三分のうちこの一度しか画面に現れない。
九分三十八秒から四十秒にかけての三秒間、足元が二重化する。画面左手の上から下へ現在の杏子の脚が伸び、画面中央下から右下奥へ、幼い杏子をかたどった紙人形が俯いて置かれている。同一フレームに、現在の身体の一部と、過去の自分の紙製の姿とが並ぶ。この二重化については中田健太郎と長岡司英が独立に記述しており(「螺旋の理に導かれて」ユリイカ二〇一一年十一月臨時増刊号、一一九頁)、本論考の観察はそれを一次検証したものである。ただし同頁の議論は本論考の分類とは別の関心から書かれており、ここでは足元が二重化しているという事実の独立した確認としてのみ引く〔註2〕。
九分四十六秒。水平のクローズ。杏子は右手で自分の口元を覆い、左手で父の人形をくるくると回している。両手が同一画面内にある。ここで生じているのは把持だけではない。回す、という運動である。人形は握られたまま、その向きを掌によって変えられている〔註3〕。
九分四十九秒は、この四十六秒のカットのパンアウトである。杏子と人形の構図は保持されたまま、背景だけが全面的に紙の質感へ転化する。教会、赤い土、赤い森の木々、不自然に大きなまだら模様の星空、そして教会を見つめる七、八匹の白い熊。世界の側が紙になる。杏子の掌は、その転化した世界のなかで人形を持ち続けている。
二秒後の切り返しで画面はさやかへ移るが、そこで何が起きているかは次章に送る。本章は杏子の側だけを見る。
九分五十六秒、水平のクローズ。画面右から中央へ杏子の肘から先と父の人形が入り、画面左から、紙の質感でできた緑の熊がその手を握ろうとする。ここで接触の向きが反転する。それまで一貫して掌の側から紙へ差し向けられていた接触が、紙の側から掌へ返ってくる。
音響は、ペープサートの開始とともにオルゴールを基調とするシンセ風のピアノが入り、九分五十七秒でいったん無音になり、十分三秒からギロ、ヴァイオリン、シンバルが加わる。上演の途中に無音の断層が一度入る。
絵柄の水準——以下レジスターと呼ぶ——も記録しておく。杏子の掌は、この場面を通じて一貫して蒼樹うめの絵柄を基調とする通常のセルの質感で描かれる。人形も背景も動物も、切り抜いた紙の質感で描かれる。二つの質感が同一画面に共在し続ける。ただしこの共在が何を分けているのかは、さやかの側を見るまで決まらない。ここでは、共在しているという事実だけを確定させる。
なお十分三十三秒以降には、本章の記述の枠に収まらないカットがある。それは第5章に送る。
以上の記述から取り出せる最小の仮説は一つだけである。杏子は自分の過去を紙の平面として外部に置き、それを操作する自分の手と同じ画面のなかに同居させている。過去は語られる内容としてではなく、掌が握り、回し、倒すことのできる物として画面に存在している。
この一枚目の床が何のために敷かれるのかは、第6章で答える〔註1〕。
〔註1〕本章の結語にあたる命題は、上尾真道が先に提示している。上尾は第7話の回想について、傷ついた杏子の記憶の再生が魔女の結界と似た死者蘇生の契機であるとしたうえで、杏子がかろうじてこれを自身の手で制御していることが、回想が紙人形劇の形式をとることによって表現されている、と述べる(上尾真道「祈りつつ戦う者たち」森茂起・川口茂雄編『〈戦い〉と〈トラウマ〉のアニメ表象史』日本評論社、二〇二三年、第10章、一六六〜一八〇頁のうち一六九頁)。過去が操作の対象として外部に置かれているという命題は、この記述に帰属する。本章が加えたのは、その制御が画面上で何によって成り立っているかの確定である——掌が握り、回し、倒すこと、人形が掌の尺度に収まり身体と通約しないこと、九分四十九秒で周囲が全面的に紙へ転化しても杏子の身体がセルの水準に留まること。上尾の記述は推量形で提示されており、これらのカット水準の材料を伴わない。第2章以降で立てる非対称および三軸は、上尾の議論には現れない。
〔註2〕同頁の記述を、本論考が第3章で用いる分類の先取りとして読むことはしない。構造の一致であって概念の一致ではない。
〔註3〕同じカットで、杏子の右目は画面の内側にありながら描かれていない。また右手が口元を覆っている。前者は省略しても作画コストが下がらない以上、選択とみなしうるが、一カットの事象であるため本章の論拠には用いない。後者はリップシンク回避というテレビアニメの標準的な省力によって説明が尽きるため、論拠として撤回済みである(二〇二六年七月十六日)。
第2章|平面化される自己(美樹さやか・第5・6・7・8話)

(魔法少女まどか☆マギカ 6話より)
前章で見たのは、紙の平面を握って回す掌だった。本章が扱うのは、その掌を持たない側である。美樹さやかについては、第5話から第8話にかけて四つの時点の材料がある。時系列に沿って置く。
第5話、十四分ちょうどから十秒間。さやかの部屋に姿見が映る。数えると四枚、うち一つは三面鏡である。この三面鏡には特異な処理がある。正面の鏡面にさやかは写らず、左右の鏡面にのみ反射が現れる。正面が空いている。
第6話、四分五十秒に二枚、五分三十一秒に一枚、合わせて三枚の姿見が映る。ここで一つ、否定的な観察を記録しておかねばならない。当初の見立ては、さやかの像が鏡のなかで増殖していくというものだった。現物では逆で、四枚から三枚へ減っている。像の増殖という仮説は取り下げる。さやかの身体は、鏡像に分割され反復されるという仕方では扱われていない〔註1〕。
第7話、九分五十一秒。前章で送った切り返しがここに来る。廃教会の空間が全面的に紙の質感へ転化した二秒後、画面は水平のワイドでさやかを映す。画面中央、透明な椅子にもたれ、胸から上を黒い影に覆われて、さやかが虚ろに座っている。周囲を二、三十匹の白いウサギ、クマ、猫が囲む。これらは紙の質感で描かれている。両脇に白い森の木々、不自然に大きなまだら模様の星空と白雲、黒く焼けた地面。画面左脇には、紙の質感の杏子の父——首から下だけ——と杏子の母がいる。
ここで記録すべき事実は三つある。第一に、さやかの身体は全身が蒼樹うめの絵柄を基調とするセルで描かれており、これは前章で見た杏子の掌とまったく同一のレジスターである。つまり、さやかも紙になってはいない。第二に、さやかは何にも触れていない。第三に、周囲の動物たちは人形でありながら人の背丈をしており、さやかと並ぶ大きさに拡大されている。そして動物たちは立ち尽くし、教会を見る向きに配置されている。さやかも同じ向きに座っている。九分四十九秒で教会を見ていた白熊七、八匹と、さやかは同じ側にいる。
紙の人形は本来、手の尺度で作られる。杏子が握っていたものは掌に収まる大きさだった。ここでは同じ紙の人形が人の背丈まで引き伸ばされ、さやかの隣に立っている。触れる手がない代わりに、並ぶ身体がある。
第8話、十三分三十七秒から十五分七秒までの環状線の場面。ここでさやかは白と黒の二値に還元される。中間の階調が抜け、身体も車内も白黒の平面として処理される。反証の条件をひとつ潰しておく。この二値化は作品の汎用的な省力手法ではない。他の登場人物には適用されておらず、さやか固有の処理である〔註2〕。
そして第7話との差がここで出る。第7話のさやかは、周囲が全面的に紙になってもなお蒼樹うめのセルのままだった。周囲と自分の水準が食い違ったまま座っていた。第8話の環状線では、その食い違いがない。さやかは車内の風景と同じ水準に均され、同一の二値の平面に属している。車外の流れる風景とだけは水準が違う。触れないという点は第7話と変わらないが、自分と周囲を隔てていた水準の差が消えている。深さが一段進んでいる。
同じ場面の末尾、十五分ちょうどから十五分七秒。さやかの隣に座っていた二人の男の会話を、画面はさやかの側から見ることをやめる。視点は男たち、背景、そして画面の外側へと拡散していき、どこから見られているのかが定まらなくなる。視点の主導権は、さやかの側にない。中田健太郎と長岡司英はこの箇所について、ホストにとって「見えるものと見えないものの境界がゆさぶられている」と記述している(前掲、一二一頁)。ただし両者がそこから第三者的な視点への移行を読むのは、そう解釈することもできるという可能性の提示であって断定ではない。本論考も断定はしない。断定できるのは、この七秒間、画面はさやかの視点として組織されていないという事実だけである〔註3〕。
第5話から第8話までの四つの時点を並べると、さやかの側で起きていることは一貫している。彼女は何も握らない。何も回さない。彼女に対して、周囲の水準が近づいてくる。第7話では周囲が紙になっても彼女はセルのままだったが、第8話では彼女自身が二値の平面に均され、視点の組織からも外される。第1章の掌が平面へ向かっていたのに対して、ここでは平面のほうが身体へ向かってくる。
本章から取り出せる最小の仮説も一つである。さやかは自分を平面として外部に置くのではなく、外から平面にされている。しかもそれは一度に起きるのではなく、水準の隔たりが段階的に失われていくという深さの連続として起きている。
この深さの連続に、第3話のマミが別の目盛りを与えることは、次章の走査で示す。
第1章と本章を並べたときに何が取り出せるのかは、次章で扱う。この二枚目の床が何のために敷かれるのかは、第1章と同じく第6章で答える。
〔註1〕第5話三面鏡における正面の不在は、本章の深さの連続には畳まない。姿見の反射は鏡像という別の機序であり、周囲との水準の一致/不一致を測る材料とは系列が異なる。第1章の九分四十六秒における右目の不在と同じく、引き算として記録するに留める(二〇二六年八月一日判断)。
〔註2〕この二値の意匠と第7話末の影絵との共通性については第3章で扱う。本章では、汎用手法ではないという反証条件の通過だけを確認する。
〔註3〕視点が誰のものでもなくなることを、さやかが見られる側に置かれたことの標識として読むかどうかは、本章では決めない。決めうるのは、主導権が彼女の側にないことまでである。
第3章|非対称の確定と映像の一般文法

(魔法少女まどか☆マギカ 7話より)
第1章と第2章で敷いた二枚の床を、ここで並べる。
杏子の側では、掌が紙の人形を握り、回し、倒す。人形は掌に収まる尺度で作られており、身体と同じ大きさではない。周囲が全面的に紙へ転化しても、杏子の身体はセルの水準に留まる。さやかの側では、掌は何も握らない。第7話で隣に立つ動物たちは人の背丈まで引き伸ばされ、彼女と同じ大きさになっている。第8話では、彼女自身が周囲と同じ二値の平面に均される。
この差は、話数をまたいで拾い集めたものではない。第7話の九分四十六秒から九分五十一秒までの約五秒、クローズからパンアウトを経て切り返しに至る一続きの流れのなかに、両者が同時に組み立てられている。握る掌と、何も握らない身体とが、同じ場面の連続した五秒に置かれている。
ここで二つの反論を順に受ける。
第一の反論は、ペープサートは一回限りの演出上の便宜であって系をなさない、というものである。杏子の過去語りを紙芝居的に見せたほうが尺が短くて済む、という説明で片づく可能性である。この反論は却下できる。石岡良治は、第7話末の影絵の魔女が持つロッテ・ライニガー風のスタイルについて、それが「その前に現れた人形劇のスタイルとも視覚的に響き合い」と記している(「魔法少女たちの舞台装置」『ユリイカ』二〇一一年十一月臨時増刊号、一七三頁)。同一話数のうちに紙の切り抜きという同じ意匠が二度現れ、後者が前者を反響させている——この呼応の事実は石岡が指摘したものであり、本論考はそれを典拠として引く。ただし石岡がこの呼応を結びつける先は、狂戦士としてのさやかの戦いであって、便宜説の却下ではない。呼応が起きているという事実は石岡に負い、そこから一回性の便宜という説明が成り立たないと判断するのは本論考の推論である。両者は分けて記す。
第二の反論のほうが強い。紙の平面はこの作品の一般文法である、というものだ。平面の意匠は杏子の周辺に限られない。第2章で見たさやかの二値化も、第7話末の影絵も、同じ意匠の系に属する。劇団イヌカレーによる魔女結界の意匠は、切り抜きとコラージュによる平面の空間として作品全体を貫いており、杏子のペープサートもその一部にすぎない。石岡は、魔女結界のモチーフを、その担い手の内面が可視化されたものとして読んでいる(同、一七一頁)。断定形で書かれた読解である。杏子だけが特別な平面を持っているわけではない。
この反論は受け入れる。受け入れたうえで、防御の位置を変える。当初、非対称は「平面の外に立つか、内に呑み込まれるか」の差として立てられていた。それは第1章の材料によって棄却された。九分四十九秒で世界が全面的に紙へ転化したとき、杏子もその内側にいる。誰も外に出ていない。さやかも杏子も全身がセルであり、絵柄の水準の差が両者を分けることもない。
分けているのは、同一の空間の内部における位置の差である。そしてこれは弱化ではなく強化である。同じ体系の外へ逃れた者などいない、という条件のもとで、それでも一方は手を人形にかけ、他方は座って見ている、という記述になるからだ。
この位置の差を測るために、本論考は三つの軸を立てる。すべて既に見た材料から取り出されたものである。
その前に、何が棄却されたのかを正確にしておく。棄却されたのはレジスターそのものではなく、レジスターを二値として使う読み方である。セルか紙かで問えば、杏子もさやかも同じ側に立つ。だが第2章で見たとおり、さやかは第7話と第8話で周囲との隔たりの度合いを変えていた。レジスターは0か1かではなく、合一から分離までの連続した度合いとして効いている。以下の第三軸は、この連続を測るために立てる。
第一の軸は、接触と把持である。杏子の掌は人形を握り、回し、倒す。九分五十六秒では、紙の側の緑の熊が逆に掌を握りに来る。さやかは、第7話でも第8話でも何にも触れない。能動的な把持、無接触、接触される側、という三つの値を取る。
第二の軸は、尺度の通約性である。杏子の人形は掌の尺度で作られており、身体とは通約しない。さやかの隣の動物たちは彼女と同じ背丈であり、通約する。第7話の観察票に記された「なぜかさやかと同じ背丈」という違和感は、この軸を指している。
第三の軸は、次元の合一度である。これは二値ではなく度合いとして効く。第7話のさやかは、周囲が紙になってもセルの水準を保っている——分離が保たれている。第8話の環状線では、彼女は車内と同一の平面に均される——合一している。この二つの間に、平面と立体が同一の存在の内部で併存する複合の状態がある。
以下の走査は、第1章・第2章とは記述の粒度が異なる。床の二枚は場面の組成そのものを記述する必要があったが、走査は分類に必要な最小限の標識だけを取る。粒度の差は意図的なものであり、走査の各項が床と同じ密度で支えられていると主張するものではない。
この三軸で作品内の候補場面を走査すると、位置は五つに分かれる。
操作位置は、能動的な把持と、非通約の尺度と、分離の保持が同時に成り立つ場合である。操作は分離を要する。握るためには、握る手と握られる物が別の水準になければならない。該当するのは第7話の杏子のみである。
観客位置は、無接触・通約・分離保持である。第7話のさやかがここに入る。そして第11話のキュゥべえもここに入る。歴史上の人物たちの平面のなかに現れるキュゥべえは、彼らに触れず、自身の水準を保っている。
被平面化は、無接触ないし接触される側で、通約し、合一する場合である。第8話の環状線のさやかと、第4話のまどかがここに入る。
交叉は、第7話の十分三十三秒から十分五十三秒に一度だけ現れる。杏子はセルのまま自分の尺度を保って紙の魔女空間の内側にあり、同時に父が平面を出てセルになる。入ることと出ることが同じ瞬間に起きている。これは第5章で扱う。
別層は、個人と平面の関係という枠に収まらない場合である。第11話のワルプルギスの夜は平面と立体の複合した存在であり、第12話のまどかは体系そのものの書き換えに関わる。この二つは、杏子とさやかを並べた軸とは層が違う。
走査の結論は一つである。確認された範囲で、個人として操作位置に立つのは杏子だけである。マミが平面と交わるのは第3話の魔女結界だが、彼女はマスケットとリボンで戦い、最後に呑み込まれる。平面の要素を握って動かす場面はない。ほむらは第10話でも第11話でも、平面の外から立体の兵器を投げ込む。時間停止も盾も銃火器も、立体の操作であって平面の操作ではない〔註1〕。
最も検証を要したのは第11話のキュゥべえだった。もしキュゥべえが操作位置にあるなら、非対称は「個人が操作する/個人が平面にされる」ではなく「体系が操作する/個人が平面にされる」という別の図に組み替わり、本論考の構図は崩れる。走査の結果はそうならなかった。キュゥべえは触れておらず、水準を保っているだけである。見ている。
ここで、走査の副産物を一つ記録しておく。第3話のマミは、五つの位置のいずれにも収まらない。彼女は魔女に呑み込まれる側であり、その意味で接触される側にある。だが呑み込まれる直前のカットで、マミの身体は蒼樹うめの絵柄を基調とするセルの水準にあり、魔女も背景も切り抜きの紙の質感で描かれている。両者の水準に差がある。そして差が消える瞬間が画面に無い。呑み込まれる瞬間そのものが描かれず、彼女の退場は別の意匠——ほむらを拘束していた錠前が開くという、厚みと影を持つセルの事象——によって示される。接触される側でありながら、合一に至らないまま画面から退場している。
第2章で見たさやかの深さの連続を、ここに置き直すことができる。第7話のさやかは周囲が紙になっても分離を保ち、第8話で合一した。マミは接触される側に立ちながら、分離を保ったまま終わる。合一の手前で記述が途切れる。被平面化を、無接触から接触される側へ、分離保持から合一へと進む連続として読むなら、マミはその連続の一方の極に位置し、第4話のまどかが他方の極にある。ただしこれは五つの位置を六つに増やす提案ではない。被平面化の内部に度合いがあることの、もう一つの目盛りである。
ここで確定するのは、杏子だけが自分の過去を紙の人形として上演しているという事実である。操作位置とは、平面を武器で攻撃することでも、平面に呑み込まれることでもない。平面を自己を語るための人形劇として運用することである。
ただし、この位置に優劣の目盛りはついていない。三軸が測るのは、接触の向き、尺度が通約するか否か、水準がどの程度合一しているか、この三つだけである。三つとも良し悪しを測る目盛りを持たない。杏子だけが操作位置に立つという走査の結果は、杏子だけが正しい位置に立っているという意味にはならない。位置の差を優劣として読むには、三軸の外から別の目盛りを持ち込まねばならず、持ち込んだ瞬間に本章の記述は身体と平面の関係の水準を離れる。
材料が与える差は、媒体の側にもある。杏子の人形は紙の質感で描かれ、掌の尺度に収まる。第4話のまどかが一体になる平面は影を持たず、その尺度は画面の枠の外へ及ぶ。同じく平面と呼ばれるものが、二人のあいだで尺度を異にしている。この差から先へ進む道はあるが、本論考はそこへ進まない。理由は註に記す〔註2〕。
評価は第6章で行う。そこで用いるのは三軸ではなく、負荷の配分という別の水準の目盛りである。本章が確定させるのは位置であって、位置の値ではない。
最後に、本論考が自らに課す分界線を宣言しておく。以上の分類が用いたのは三つの軸だけである。接触と把持、尺度の通約性、次元の合一度——すべて身体と平面の関係の記述であり、誰が誰を助け、誰がどのように死ぬかという筋書きの水準を一切用いていない。杏子の位置を根拠づけるために彼女の最期を持ち出した瞬間、本論考は自分で敷いた床を踏み抜く。この禁止は以降のすべての章に及ぶ。
〔註1〕マミとほむらについては、三軸による確認を行った。第3話の魔女結界内(十三分四秒から二十分二秒)で、マミが接触する対象のうち把持に当たるのは扉のドアノブのみだが、ノブは立体で描かれ、扉枠も立体感と影を持つ。動かされているのは平面ではなく立体の構造物である。マスケットおよび大型銃は厚みと影を持ち、蒼樹うめのレジスターと同一次元にある。リボンは平面として描かれ、拘束する対象も平面だが、拘束によって対象の向きも位置も変わらない。把持の条件を満たさない。第8話のほむらの部屋(五分四十八秒から七分五十七秒)では、ほむらが触れるのは机上の航空写真であり、ほむらと写真のレジスターに差がなく、いずれも陰影を持つセルである。向きも位置も変わらない。壁面の絵画群には接触の所作が確認されない。時間停止中の所作(十三分八秒)でも、周囲とほむらのレジスターに差はない。以上により、両者が操作位置に立つ場面は確認されなかった。
〔註2〕材料が与えるのは次の三点までである。杏子の人形が紙の質感で描かれること、掌の尺度に収まること、第4話のまどかの平面が影を持たず尺度が画面の枠外へ及ぶこと。すなわち媒体の尺度の差と、その媒体が画面内で手の届く範囲にあるか否かの差である。ここから、一方には自分で切り抜ける素材しか配分されておらず、他方には個人が調達しえない媒体が与えられている、という社会経済的な読みへ進む道がある。本論考はその道を取らない。安価であることも、与えられたか与えられなかったかという関係も、画面には映らないからである。係留を試みれば、廃教会での生活の条件や過去の経緯、すなわち筋書きの水準に手を伸ばすほかなくなり、本章末で宣言する分界線を本章自身が破ることになる。したがってこの読みは、成り立つ余地があることを記録するに留め、以降の判定には算入しない。
第4章|理論ハンドルの接続——脱主体化

(魔法少女まどか☆マギカ 7話より)
ここまで理論の語をひとつも使っていない。第1章から第3章までに立てたのは、掌と紙、尺度、水準の隔たりという記述だけである。本章で初めて概念を当てる。
順序について先に断っておく。本論考が用いる脱主体化という語は、著者自身が前段の三部作で構築した概念であり、外部から借りてきたものではない。だからこそ危険が大きい。自分の概念を新しい対象に投げて、当てはまったと言うだけの作業になりうる。それを避ける方法は一つしかない。材料を先に立て、概念をあとから当て、そのとき材料が概念に何を返したかを見ることである。三章ぶんの記述をここまで理論語なしで通したのは、そのためである。
概念の出自を明示する。脱主体化は、Ave Mujica を対象とする第三論考『脱主体化/抽出と運用のあいだで』で主題として構築された。そこでの定義はこうだった——自己同一性を能動的に保持しようとする近代的主体の対極にあり、自己を操作可能な平面ないし記号として外部へ置くことで成立する、あるいは外部へ置かれることで成立させられる、主体性のあり方〔註1〕。本来の使用文脈は、Ave Mujica 第13話における三角初華——ステージ上ではドロリス——の人形化の場面である。すなわち、仮面を外すことによってではなく、仮面という媒体の内部で生じる主体性の変質を記述するための語だった。
この定義を、第1章から第3章の材料に当てる。
杏子が第7話でしていることは、この定義の前半に正確に対応する。自分の過去を掌に収まる紙の人形として外部に置き、それを握り、回し、倒している。自己が操作可能な物として画面に存在し、操作する手と同じ画面に同居している。
さやかが第5話から第8話にかけて置かれているのは、定義の後半である。彼女は何も外部に置かない。周囲の水準のほうが彼女に近づき、第8話で彼女自身が二値の平面に均され、視点の組織からも外される。外部へ置かれることで成立させられる側にいる。
ここで、材料が概念に返したものを二つ記録する。これが本章の実質である。
第一に、前段論考の定義は「あるいは外部へ置かれることで」という括弧で、能動と受動をひとつの語の内側に畳んでいた。畳んでいたのは、Ave Mujica の材料がそれを分ける標識を与えなかったからである。まどか☆マギカの材料はそれを分ける。掌が握るか、握らないか。尺度が通約するか、しないか。同じ五秒のあいだに、二つの位置が別々に組み立てられている。括弧のなかに畳まれていたものが、二つの位置として展開された。
第二に、受動の側は一つの状態ではなかった。第7話のさやかは周囲が紙になってもセルの水準を保ち、第8話では周囲と同じ平面に均される。外部へ置かれることには深さの段階がある。前段論考の定義は、この深さを持っていなかった。
概念が材料を予測したのではない。材料が概念の粗さを指摘した。この方向でしか、同じ語を二つの作品に使うことは正当化されない。
したがって本論考における脱主体化は、前段論考の定義を次のように書き改めて用いる。自己が操作可能な平面ないし記号として成立する事態であり、それは自ら平面を操作する位置と、平面にされる位置とに分岐し、後者は隔たりの度合いによって段階をなす。 分岐と段階が加わった点が、本論考の再定義である。
ひとつ、隣接する語との混同を断っておく必要がある。脱主体化は存在論の水準の語ではない〔註2〕。またこの語を、個体化が構造的に衰えていくという既存の議論の言い換えとして読むこともできない。方向が逆だからである〔註3〕。
そして最後に、本章は概念を当てた地点で止まる。当てた瞬間に、同じ材料に別の読みが成り立ってしまうからである。それが次章の主題になる。
〔註1〕本概念は特定の思想家に帰属しない。「シモンドン的」「スティグレール的」といった形容詞による回収は本論考では用いない。動員する箇所では、どの典拠からどの水準の議論を引いているかを個別に明示する。
〔註2〕存在論の水準には、前個体的な準安定が再び前景化する事態を指す別の語(脱個体化)を著者は用いている。本論考の脱主体化は主体形成と社会の水準に属し、両者は層を分けて運用する。
〔註3〕ベルナール・スティグレール『象徴の貧困1』(メランベルジェ訳)三六頁において、当該箇所は個体化の構造的な衰退という記述的な訳出で示されており、単一の術語としては立てられていない。そこで語られているのは個体化が失われていく下降の運動であり、本論考の脱主体化が扱う二つの位置とは方向も水準も異なる。なお、シモンドン自身が用いた désindividualisation は稀語であり、邦訳の該当箇所を特定できず、体系的な術語として使われてもいないため、本論考では峻別の対象としない。使われていない語をわざわざ区別することは、その語を術語として重みづけてしまう誤りになる。
第5章|決定不能の温存——手放しか、囚われ続けるか

(魔法少女まどか☆マギカ 7話より)
前章で概念を当てた。当てた途端に、同じ材料が別の読みを支えはじめる。本章はその事態を解消せずに書き留めるためにある。
問いを二つの平叙文で立てる。術語は使わない。
第一の読み。杏子は自分の過去を紙にして手放している。過去は彼女の内側にあるのではなく、掌の上に外部の物として置かれ、握られ、回され、倒される。倒すことができるということは、そこから手を離せるということである。
第二の読み。杏子は自分の過去に囚われ続けている。彼女がしているのは、同じ出来事を紙の人形で繰り返し上演することである。上演は終わらない。掌が離れないのではなく、掌が離せないのだ。
この作品には、第二の読みを支える強い足場が作品自身の内部にある。石岡良治は、魔女という存在を、過去の記憶の残滓を繰り返し上映し続ける、未来を持たない存在として記述している(前掲、一六七頁)。上映という語が使われていることに注意したい。廃教会で杏子がしていることは、上演である。作品が魔女に与えた規定と、杏子の三分間とのあいだに、術語をひとつも介さずに橋が架かってしまう。
同じ足場をもう一人が別の角度から与えている。上尾は第7話の回想を、魔女の結界と似た死者蘇生の契機として規定した(前掲、一六九頁)。死者を再び現れさせる装置という点で、上演は結界と同類に置かれる。ただし上尾は同じ文の後半で、杏子がかろうじてそれを自身の手で制御していると書く。一つの文が二つの読みの両方を支えており、しかも「かろうじて」という限定が付いている。決定不能は本論考が持ち込んだものではない。先行する記述の側に、既に留保として現れている。
そして第一の読みを支える足場も、同じくらい強い。杏子は魔女ではない。彼女は上演の外側に掌を持っている。人形は掌の尺度に収まっており、彼女の身体と通約しない。第3章の三軸で言えば、彼女は分離を保っている。囚われた者は分離を保てない——第2章で見たさやかの深まりが示していたのは、まさにそのことだった。
材料は、どちらか一方を選ばない。
ここで一つ、術語の誘惑を退けておく。過去への囚われを、精神分析の語彙で名指す道は開いている。しかし本論考はその道を取らない。術語を立てれば、決定不能は術語同士の対立に見えはじめるからである。実際に対立しているのは二つの平叙文であり、それを支えているのは同じ三分間の画面である。術語なしのほうが、観察駆動の順序に忠実である。
では、二つの読みを分ける材料上の手がかりはないのか。一箇所だけある。第7話の十分三十三秒から十分五十三秒までの二十秒である。
ここで杏子は、蒼樹うめの絵柄のまま、自分の尺度を保ったまま、紙でできた魔女の空間の内側にいる。それまで彼女が保っていた位置——外側から掌を差し入れる位置——ではない。かといって、さやかのように座って見ているのでもない。同じ瞬間に、父が平面を出てセルになる。彼女が平面の内側へ入るのと、父が平面の外側へ出るのとが、同時に起きている。
第3章で立てた分類はここで機能しない。操作でも観客でもなく、被平面化でもない。二つの位置の区別が、杏子自身の身体の内側で崩れている。
この二十秒は、決定不能を解く鍵ではない。決定不能が画面の側に実装されている場所である。手放しているのか囚われているのかを分ける線が引けないのは、批評の記述が粗いからではなく、作品がその線を一度自分で崩してみせているからだ。
ここで、本論考が採らない道を明示しておく。筋書きの水準へ降りれば答えは出る。出来事の連なりを根拠にすれば、手放しの読みも囚われの読みも、どちらでも立証できてしまう。だがそれは第3章で自ら禁じた水準への後退である。分けるのは身体と平面の関係であって、出来事の推移ではない。筋書きに寄って得られた答えは、本論考の床の上では答えではない。
したがって本章は、決定不能を温存する。これは記述の失敗ではなく、記述の対象がそういう形をしているということである。前段の三部作でも同じ作法が取られた——抽出と運用、生と非生、喪失と再開。いずれも一方に畳まず、構造の特徴として保持した〔註1〕。
ただし、温存には条件がある。決定不能は、材料が決めない場合にのみ用いてよい作法である。自分の基準がすでに決めているのに温存を掲げるなら、それは態度表明の回避になる。本論考が終盤で一度この作法を捨てる箇所があることを、ここで予告しておく。結章がそれである。
〔註1〕『脱主体化/抽出と運用のあいだで』(Ave Mujica 論・第三論考)における決定不能の温存を参照。ただし本論考は同作法を機械的に反復しているのではない。まどか☆マギカの場合、温存の根拠は第7話十分三十三秒からの二十秒という具体的なカットにあり、方法上の一般原則から演繹されたものではない。
第6章|負荷の配分

ここまでの五章が扱ったのは、個人の身体と平面との関係だった。本章は水準を移す。第3章が得た五つの位置を、負荷の配分という観点から読み直す。位置の記述は身体と平面の関係の水準にあり、以下の三つの様態はそれを配分の水準へ翻訳したものである。同じ材料の別の読みではなく、別の水準への移送である。移動を明示しておくのは、以下で用いる語彙が社会理論の側から来るからである。前章までの三軸は身体と平面の記述語であり、これから導入する語とは層が違う。
先に結論を置く。本作が個人のスケールで提示した様態は、三つとも持続しない。順に不合格を出す。
一 集約——まどか
第4話でまどかが平面と一体になるとき、彼女に与えられている媒体は、杏子の紙とはまったく性質が異なる。それは自前で調達できるものではない。影を持たず、尺度は画面の枠の外へ及び、どこから発しているかを特定できない。杏子が掌に収まる大きさの紙を切り抜いて自分の劇場を立てたのに対し、まどかの平面は初めから彼女個人の身体の尺度を超えている。
この差は、美しさの差ではない。配分構造の差である。個人の尺度を超えた媒体を単独で引き受けるということは、他の全員がその負荷から解除されるということでもある。
ここでジョアン・トロントの語をひとつ導入する。『モラル・バウンダリー』(杉本竜也訳、勁草書房、二〇二四年)が用いる特権的無責任は、特権的な位置にある者が、自分の生活を支えているケアの労働に注意を払わずに済んでしまう状態を指す(一三四頁)。本来の使用文脈は、現実の社会における公私の線引きと、その線が誰に労働を押しつけているかの政治的分析である。
本論考はこの語を、虚構内の配分構造を測る道具として用いる。単一の存在が全体の負荷を一身に集約するとき、その構造は同時に、周囲の全員に無責任を配分している。まどかの位置は、そのように読める。彼女が引き受けたのではなく、彼女に委託されたのだと言い換えてもよい。
したがって、まどかを本作の到達点として読む筋道を、本論考は取らない。委託によって成立する構造は、委託先が一つである限り持続しない。これは頂点ではなく、臨界である。臨界という語で診断しているのであって、批判しているのでもない。ただし一点、批評の側の危険を明記しておく。第4話の平面は美しい。その美しさは診断の対象であって、記述の音域が美しさに乗った瞬間、本章は診断ではなく賛歌になる〔註1〕。
なお、第12話のまどかは本節の診断の対象に入らない。第3章の走査が示したとおり、そこで起きているのは個人と平面の関係ではなく、関係を規定する体系そのものの水準の事態である。層が違う。個人のスケールが尽きるという本章の帰結は、その層に対しては何も述べていない。本章が診断するのは第4話の位置であり、第4話の位置が持続しないことは、第12話について何かを含意しない。
二 吸収——さやか
第2章で見たとおり、さやかは何も外部に置かない。負荷は分散されず、彼女の身体そのものが負荷を吸収する容器になる。第7話でまだ保たれていた周囲との隔たりは、第8話で消える。
トロントは、ケアを四つの局面に分節している(一一六〜一一九頁)。関心を向けること、責任を引き受けること、実際に手を動かすこと、そしてケアを受け取ること。四番目の局面——受け取り——がなければ、ケアは循環せず一方通行になる。
さやかの側では、この四番目が起動しない。彼女は与える側にのみ立ち、受け取る側に立てない。吸収は配分ではない。
三 自足——杏子
杏子はどうか。彼女は自分の過去を掌の上に置き、自分で操作している。分散も委託もしていないが、吸収もしていない。三者のなかで最も自足して見える。
しかしこの自足には、配分の回路が存在しない。第1章で記述した三分間のあいだ、杏子の掌が触れているのは紙だけである。負荷は外部へ置かれているが、置かれた先は他者ではなく、彼女自身が切り抜いた平面である。掌の上で完結する上演は、誰にも負荷を渡さず、誰からも受け取らない。
トロントの四局面で測ると、この不在の形が特定できる。関心を向けること、責任を引き受けること、実際に手を動かすこと。この三つは杏子の側だけで成立している。彼女は自分の過去に関心を向け、それを引き受け、手を動かして人形を回している。起動しないのは四番目、受け取りである。受け取りは他者の局面であり、他者がいなければ起動しない。前節のさやかにおいて四番目が欠けていたのは、彼女が受け取る側に立てないからだった。杏子の場合は、渡す相手が最初から画面にいない。同じ四番目の不在が、別の理由で生じている。
外から接触が返ってくる瞬間は一度ある。第7話九分五十六秒、紙でできた緑の熊が彼女の手を握りに来る。だがそれは彼女自身が置いた平面の側からであって、人の側からではない。これは回路が外へ開いた証拠ではなく、回路が閉じていることの証拠である。返ってくる接触の出所が、自分の置いた平面しかない。
したがって、杏子の自足を解として立てることはできない。配分を扱う本章の水準において、自足とは配分の回路を持たない状態の別名だからである。不合格の根拠はこれで尽きている。上演の媒体が紙であることも、その紙がどのような経緯で彼女の手にあるかも、この判定には算入していない(第3章註2)。
ここで、杏子について正面から異なる読みが存在することを記しておく。上尾は、杏子が人間とは異なる種として自らを位置づけ、人間を間接的に捕食することで負債のバランスを取り戻そうとしている、と読む。魔女との闘いは、みずからが手放したものを、人間喰らいの魔女を挟んで人間たちから間接的に取り戻す食物連鎖である(前掲、一七一〜一七二頁)。これは杏子に回路を与える読みである。迂回してはいるが作動している回路が、そこにはある。
本節の判定はこの読みを否定しない。両者は同じ対象について、異なる材料を用いて、異なることを述べている。上尾がこの回路を組み立てている材料は、第七話と第八話の台詞、第五話の魔女との闘い、第七話のリンゴである。すなわち出来事と発話の水準に属する。本節が測ったのは第1章の三分間であり、掌が何に触れているかだけである。第3章末で宣言した分界線が、本論考をこの三分間の内側に留めている。上尾の読みは、本論考が自ら閉ざした領域で成立している。
対立する読みについて
以上の診断に対して、正面から対立する読みが存在する。上尾真道は、中盤以降で本作の問いの位相が変化すると読む。世界と矛盾した魔女の救済という問いから、救済を可能にする出会いが成り立つかという問いへ。上尾はそこから作品の仮説を再構成し、祈る行為そのものに赦しを与える対象との出会いによって、一方通行の願いの循環が円環として「閉じられねばならない」と述べる(前掲、一七九頁)。閉じることが救済の条件だという読みであり、本論考の路線とは相容れない。
ただしこの対立は、診断の共有の上に立っている。願いが一方通行であること、それが相手を縛ることを欠陥と見る点で、上尾と本論考は一致する。第二節でさやかについて確認した循環の欠如は、上尾が一方通行と呼ぶものと同じ構造を指している。分かれるのは処方である。上尾は円環の完結によってそれを解こうとし、本論考は、閉じた場合に負荷が誰に配分されるかを問う水準を別に立てる。
対立はもう一箇所ある。第三節で記したとおり、杏子の自足についても両者の読みは分かれる。ただしそちらの対立は材料の水準の違いから生じており、本節の対立とは性質が異なる。
この対立を弱めずに記しておく。上尾の読みには、作品の構造そのものが持つ強い引力が味方している。委託の構造は、それが完成した形で提示される限り、閉じたものとして読むほうが自然だからだ。本論考が閉じないのは、作品の構造に反しているからではなく、閉じた場合に周囲へ何が配分されるかを問う水準を、別に立てているからである。どちらが作品に忠実かという問いには、本論考は答えを持たない。路線を選ぶ根拠は忠実さの比較ではなく記述の順序にある——第3章の三軸走査が個人のスケールで測れる限界を材料から取り出し、その限界の外側を三軸が測れないと判明したがゆえに、本章は配分という別の水準の目盛りを立てている。答えを持たないまま、路線を選ぶ。
二つの留保
第一に、層の混同を避けるための注記。宇野常寛は『庭の話』(講談社、二〇二四年)において、他者への依存先を複数化することで成立する自立のあり方を、弱い自立と呼んでいる(三〇一頁)。本論考が向かう分散の議論と近接して見えるが、宇野の議論は現実社会に対する設計の提案であり、本論考が行っているのは虚構内の配分構造の診断である。層が違う。以下、この語は対比項としてのみ用い、本作への処方として持ち込まない〔註2〕。
第二に、ジェンダーについての留保。本章で不合格を出した三者はいずれも少女である。だが本論考が用いた三軸——接触と把持、尺度の通約性、次元の合一度——は、ジェンダーを測る目盛りを一つも持っていない。したがって本章の診断は「少女が」の水準では書かれておらず、「個人のスケールが」の水準で書かれている。
この留保は、本作にジェンダーの問題が存在しないという主張ではない。魔法少女というジャンルの性別限定も、少女の身体に負荷を集中させる文化的配置も実在する。それらは本論考の道具では測れない、というだけである。むしろトロント自身が、ケアを女性に固有の道徳として枠づけることの危険を論じている(八五〜一〇二頁)。ケアを女性のものとして名指した瞬間、それは再び私的領域へ押し戻され、政治の議題から外れる。本論考が「少女が」と書かないのは、この危険を避けるためでもある。
本章の帰結
個人のスケールで提示された三つの様態は、いずれも持続しない。集約は委託であり、吸収は循環を欠き、自足は回路を欠いている。三者のうち誰かを解として立てることはできない。
本章はここで止まる。では負荷はどこへ行くのか、という問いには、結章で答える。
〔註1〕この自己検査は方法上の要請である。診断の対象が美しい場合、記述の音域がそれに引きずられる。本論考は第4話の平面について、光・影の不在・尺度という三つの物質的特徴以外の形容を使わない。
〔註2〕「宇野的な弱い自立」といった形容詞的な回収は行わない。本論考が同語を用いる箇所では、三〇一頁の記述を指していることを明示する。
結章|応分の容量へ
第6章は問いを一つ残して閉じた。個人のスケールで提示された三つの様態がいずれも持続しないなら、負荷はどこへ行くのか。
三つの失敗の形はそれぞれ違っていた。集約は一つの身体に全体を委託し、吸収は循環を欠いたまま一つの身体に溜め込み、自足は配分の回路を持たないまま一つの身体の内側に閉じた。違うのは形であって、共通しているのは、いずれも一つの身体が全体を扱おうとしたことである。失敗の原因は個々の様態の欠陥ではなく、扱おうとしたスケールにある。
したがって答えは、個人のスケールには存在しない。負荷は、応分の容量で分散して配分されるほかない。
ここで、本論考は自分の作法を一度捨てる。第5章で予告したのがこの箇所である。
作品は分散を描いていない。まどか☆マギカの内部に、負荷が複数の身体へ応分に配分される実装は存在しない。本論考が上に書いた命題は、観察から導かれたものではない。三軸で走査して得られたのは、個人のスケールが尽きたという輪郭だけであり、その外側に何を置くかは画面が決めていない。材料が決めない以上、決定不能として温存する道もあった。
取らない。ここでは決める。これは本論考が最後に一度だけ行う価値判断であり、そのようなものとして読まれることを要求する。物質記述から積み上げた前六章と、この一文とは、水準が違う。混ぜて読まれては困る。
そのうえで、分散という語が何を意味するかを、誤読の余地なく書いておく。
分散とは、負荷が軽くなることではない。総量は減らない。減らないものが、これまで負荷を免除されていた側へも配られる、ということである。第6章で導入したトロントの語で言えば、分散とは特権的無責任の解除である。誰かが一身に引き受けてくれている限り、周囲は自分が何に支えられているかを見ずに済む。その見ずに済む状態が終わる、というのが分散の内容だ。
したがってこれは連帯の話ではない。分かち合いという語が呼び起こす温かさは、ここにはない。分散が要求しているのは、これまで何も引き受けていなかった者が、引き受けるということである。快い提案ではなく、不愉快な要求として書かれている。
もう一点、語を正確にしておく。応分の容量、と書いた。等分ではない。負荷を頭数で割ることは、容量の違いを無視して配ることであり、それ自体が別の種類の暴力になる。第6章でさやかについて確認したのは、受け取る局面を欠いた者に与える局面だけが集中する構造だった。等分はその構造を人数分に複製する。配分は容量に応じてなされなければならず、応分をどう測るかという問いが残る。本論考はその測り方を持っていない。持っていないことを、解決の代わりに置くつもりもない。ここは開いたままにする。
もう一つ、測らなかったものを記録しておく。第6章で不合格を出した三者はいずれも少女であり、負荷が誰に免除されているかという問いには、性別の分布が関わる。本論考の三軸はそれを測る目盛りを持たない。したがって、応分の容量で配り直せという要求が、負荷の性別化された配分に対して何を意味するかは、本論考の道具の外にある。別の目盛りを要する。これは本論考が測らなかった費用であり、測る必要がなかったという意味ではない。
測り方の欠落は、もう一箇所ある。この要求を書いている位置もまた、配分の外にはない。負荷を配れと書く者が、自分は配られる側の勘定に入っていないつもりでいるなら、その要求は特権的無責任のもう一つの形にすぎない。本論考は、自分の分をどう測るかについても手立てを持たない。二つは同じ欠落である。応分の測り方がないという一点で並び、片方を自覚として数えて達成の側へ繰り入れることはしない。ここも開いたままにする。
最後に、本論考が杏子について書いたことの帰結を確認しておく。
分散の要求は、彼女の技術を模範として広げよという要求ではない。第6章第三節で見たとおり、掌の上で完結する上演には配分の回路が存在しない。分散が要求しているのはまさにその回路であり、回路を持たない位置を模範に据えることはできない。杏子が保った分離は三軸が測った位置であって、配分の水準では解ではない。本論考が自足にも不合格を出したのは、この一点による。
本論考が敷いたのは床である。誰が平面を持ち、誰が平面にされ、その隔たりがどの程度であるかを測る三本の軸と、それによって得られた五つの位置。この床の上でなら、続編もまた同じ道具で読める。何が起きるべきかを本論考は予告しない。予告は診断ではないからだ。読むための床が敷かれた、というところで終わる〔註1〕。
負荷は減らない。減らないものを、応分の容量で配り直せ。それが本論考の唯一の価値判断である。
〔註1〕劇場版『叛逆の物語』、および続編を含むシリーズの継続という枠組みそのものを扱う議論は、本論考の背骨に属さない。作品外の制作史・産業構造・受容史も同様である。本論考はこれらを論拠に用いておらず、したがって本論はテレビシリーズ十二話の材料だけで成立する。


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