脱主体化/抽出と運用のあいだで —AveMujica  三角初音の人形化と弱い自立の臨界

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構築としての同一性——三角初音と豊川祥子の双数、あるいは共依存の診断 (前段論考)はこちら


要旨 本稿は、アニメ『Ave Mujica』第13話における三角初音の人形化を、脱主体化の一事例として分析する。この変容を「物への喪失」として一義化する批評的誘惑に抗し、本稿は初音の身分が、豊川祥子によって抽出された同意の証拠とも、初音自身が最後に運用した仮面の証拠とも読める決定不能な一点——物化の臨界点——に置かれていることを示す。変容の四局面が全篇3DCGで描かれ素顔(2D)を一度も経由しないという物質的観察から、脱主体化は仮面を剥がすことによってではなく仮面の内側で起きることが導かれる。イェンチュの不気味なもの(automatonの生/非生)、スティグレールのdésindividuationと自作概念「脱個体化-B」の対峙、アガンベンの包含的排除の台詞水準への限定という複数の層を通じて、生/非生・喪失/再開の決定不能性は硬化させず温存される。終章はこの宙づりの構造を、統一された自我を持つことの困難と弱い自立の失敗という現代的困難への、虚構を経由した応答として枠づける。

キーワード 脱主体化/物化の臨界点/決定不能性/不気味なもの・automaton/脱個体化/3DCGとミザンセーヌ/『Ave Mujica
※本稿における固有名詞、画像、楽曲名は全て㈱ブシロード、㈱サンジゲンに帰属します


序章|二本の前置き

(AvemMujica OP 「Killkiss」より 三角初音(初華)の操り人形化の表象)

本論が扱うのは、Ave Mujica 第13話における三角初音の一連の変容である。だが「初音が人形になった」と要約した瞬間、批評はすでに一つの決定を下している——変容の後に残ったものを「物」として確定し、そこへ至る過程を「喪失」として一義化する決定を。本論はこの決定を保留する。断っておけば、本論のいう脱主体化は臨界点の意——物か意志か、生か非生か決定できない一点——であって、一方向の喪失や剥離を含意する語ではない。脱個体化に対して後段で施す峻別と同じ用心を、主辞にも早く置いておく。

第一の前置き|抽出/運用の決定不能性。 初音の身分は、豊川祥子によって抽出された同意の証拠とも読めるし、初音自身が最後に運用した仮面の証拠とも読める。この二つの読みは映像上の同一の一点で重なったまま解けない。抽出と運用が同じ一点で起きるこの宙づりを、本論は物化〔*1〕の臨界点〔*2〕と呼び、脱主体化を論じる起点に据える。これは解くべき問題ではなく、温存すべき構造である。ただし温存は、宣言される主張ではなく、決着を試みたうえで材料が割れることの報告として立つ。抽出/運用の軸も、存在論の軸(第3章)と同じ負荷試験を経る(第2章)。運用の側へ倒して初音を「最後まで意志した主体」として確定することは、それ自体が一つの事故になる——終章で扱う睦の警告(非対称の逆向き再生産)が、まさにこの誘惑を名指していた。

*1|物化について。本論のいう物化は記述的な概念であり、ある存在者が「物」として確定される事態のみを指す。荘子「斉物論」の物化(物我の転化・胡蝶の夢に典型化される万物の変転)とは別であり、その語を借りるものではない。またルカーチが Verdinglichung(物象化)として展開した商品形態論的な物象化——人間関係が物の関係として現象する事態——も、本論は動員しない。臨界点における物化とは、抽出/運用の決定不能な一点で存在者が物へと確定される、その記述的事態を名指すにとどまる。

*2|臨界について。ここでいう臨界は物理学の相転移の隠喩である。相転移の臨界点では、区別されていた二相(たとえば液相と気相)が互いに識別不能になる。本論が物化の臨界点と呼ぶのも、抽出と運用という二つの読みが重なり、いずれとも決定できなくなる一点を指す。ある値を超えれば一方向への移行が完了する閾値(境界線)の意味ではない。

第二の前置き|3D貫通の連なり。 変容を構成する四つの局面——劇中劇の哀願、本編の要求、人形化、そして瞳の光の回帰——は、そのすべてが3DCGで描かれ、素顔=2Dの露呈局面を一度も経由しない。ここでいう2Dとは、サンジゲンのトゥーンシェードが平面的に見えることではない。前段第二論考が素顔の徴としたのは、トゥーン3Dではなく作画レジスター——ラインアートやカットインとしての線画——への移行であった。本論のいう3D貫通とは、四局面がトゥーン3Dの内部にとどまり、この作画レジスターへの移行を一度も起こさないことを指す。これは理論命題ではなく物質的観察であり、ゆえに冒頭に置いても観察駆動法に違反しない。ここから引き出される最小の命題は、脱主体化が、仮面を剥がすことによってではなく、仮面(3DCG=構築の媒体)の内側で起きる、というものだ。前段第二論考が確立した「3DCG=仮面/2D=素顔」の枠組みとの関係——継承と複雑化——は、観察章を経て終章(a)で枠づける。この二本の前置きは、そこで枠づけの層へ回収される。

方法論の位置。 もう一つ、本論は自らの位置を宣言しておかねばならない。初音を「読む」という行為そのものが、作品の外の一点から「彼女は何であるか」を決定する構築であり、その意味で一つの主権の行使だからだ。ここでいう主権は、AveMujica 13話の20:39※において作品が差し控えた主権の標識(祥子は画面外、王座に乗らない——第1章)とも、台詞水準でのみ補助的に呼び出すアガンベンの主権(第2章)とも、レジスターを異にする。それは解釈の位置がふるう主権、すなわち読みが対象を構築してしまう不可避の権能である。作品が20:39で主権の標識を差し控えたことと、本論が初音を確定した主体へと読み倒すことを差し控えることは、異なるレジスターにおける同型の身振りとして響き合う。これは理論的同一ではなく、本論が意図的に用いる構造上の照応である。

※参考  AveMujica 13話の20:39 の前後

この構築を構築として舞台に上げるために、本論の観察と読解は、単一の批評主体によってではなく、複数の批評用AIペルソナを運用することで組み立てられている。これらのペルソナは、AI との対話として運用された批評上の複数の位置であり、その各々が対象へ異なる読みの角度を差し向ける。ただし——ここに本論の規約がある——ペルソナの発話はいずれも典拠として機能しない。それらは対象を圧する批判材料であり対話であって、論考本文が動員する概念・引用は、すべて原典に確認を経てはじめて典拠となる。ペルソナは読みの位置であって、権威ではない。

この方法には構造的な限界がある。ペルソナが読みを差し向けうるのは、設計者の見聞がその読みを準備できている範囲に限られる。ゆえに、四つの位置を運用してもなお割れない一点は、対象の決定不能性の徴である場合と、設計者の見聞が及ばなかった徴である場合とがあり、本論はこの二つを最終的には判別しえない。方法の射程は、この判別不能を上限として持つ。

そして、複数の読みの位置を互いに緊張させたまま——いずれの位置にも最終判定を委ねず——保持するこの運用そのものが、読みが対象を構築するという事実を可視化する。単一の判定を下すことがすでに一つの主権の行使であるとすれば、判定を複数の位置へ散らし、抽出と運用のいずれにも倒さずに宙づりを維持することは、その主権を自然化せず舞台上に留める身振りである。これが、核心の決定不能性を解かずに温存するという本論の制約の、形式上の相関物にほかならない。この制約が倫理的賭金として何を畳み込むかは、終章で睦の警告とともに枠づける。

第1章|人形化

(Avemujica 13話 眼の光を落とし人形化するかのような三角初音)

第13話、20:39。まず観察を並べる。カットは全篇3Dで貫かれ、素顔の露呈はない——序章で述べたとおり、前段第二論考が素顔の徴とした2D=作画レジスターへの移行が、ここで一度も起きない。脱主体化は素顔をさらすことなく、仮面の媒体の内側で進む。初音の視線は観客方向へ向くのか虚空へ向くのか判定不能である。人形性は、終端の所作——首を約5度右へ傾げて停止する一動作——から始まり、身体全体の静止へと及ぶ。髪は停止後の慣性の揺れ戻りを見せず、呼吸の上下も微細な揺らぎもなく、瞬きも眼球の動きもない。ただしスカートの裾はほぼ画面外にあり、その不動は動かなくて自然な位置ゆえ、証拠には数えない。残る静止は、死体の弛緩ではなく、automaton(自動機械)の停止に近い。祥子は画面外にあり、同じ高さで、王座には乗らない。すなわち、この一点に主権の標識はない。音響は無音からではなく、初音がギターを把持する瞬間に開始する。声はドロリスのものだが、演じ分けはない。そして、母の形見の人形との図像的同型はここにはなく、両者に共通するのは髪色のみである。

もう一つ、光をめぐる観察がある。消失の直前まで、初音の瞳には四つの反射があった——黒目に映り込む、大小の複数の白い光点である。人形化でこの四つの映り込みがすべて消え、かわりに黒目の底が半球状に、内から一様に燈る。世界を映していた眼が、内から一様に光る眼に変わる。同じ瞬間、初音の皮膚——顔も肌も——は色調を落とすが、髪・衣装・ギターは天井の照明を動的に反射しつづける。生体の表面が世界の映り込みを失い、造形物だけが世界を映しつづける、という反転が起きている。

(Avemujica 13話 眼の光を落とし人形化するかのような三角初音)

これらの観察が共通して指し示すのは、生きているのか否かの決定不能性である。ここで本論は、不気味なもの(das Unheimliche)を映像診断の軸として立ち上げる。エルンスト・イェンチュ(1906)が「不気味なもの」の核心に置いたのは、自動機械を前にしたときの「これは生きているのか、生命なきものか」という不確実性(Unsicherheit)であった。イェンチュはこれを自動人形を思わせるホフマンの叙述一般に見てとるにとどまり、砂男やオリンピアといった特定の作中人物へは帰属させていない。フロイト(1919)はこの不確実性を「知的な不確実性(intellektuelle Unsicherheit)」と名づけ直し、さらに砂男の眼=去勢の主題へと特定して、automaton の生/非生という主題を副次へ格下げした。本論はこの特定+格下げを意識的に逆転させる——フロイトが副次に退けた automaton の生/非生の不確実性こそを、初音の人形化を診断する主線に採る。理由は映像に接地している。ここで宙づりにされているのはまさに automaton の生/非生であって、抑圧されたものの回帰ではない。瞳のレンダリング・髪の不動・呼吸の不在という物質的細部が名指すのは、生きた眼と造り物の眼のあいだの決定不能——イェンチュの不確実性が指した当のものだからである。フロイトの線は、後段で対照項として呼び出す。

そしてこの生/非生は、いま観察した瞳のレンダリングに物質的に刻まれている。世界を映す反射は不等質である——複数の光点が点々と映り込むこと、それが世界に開かれた生きた眼の徴だ。内から燈る発光は等質である——一様な内光は、世界を映さない造り物の眼の徴だ。四つの映り込みの消失から半球状の発光への転換は、生きた眼から造り物の眼への転換を、レンダリングの水準で見せている。イェンチュの不確実性は、ここでは概念ではなく、瞳の光の質として観察される。

重要なのは、この診断が「初音は物になった」の側へ倒れないことである。身体は全体で静止し、瞳は世界の映り込みを失う——automaton性は強い。だが automaton とは生と非生の決しかねる機械のことであって、死体=物ではない。内から燈る光はなお「点いて」おり、視線は判定不能のまま(観客方向か虚空か決着しない)である。生/非生の宙づりは、修辞的な留保ではなく、髪の不動・呼吸の不在・瞳のレンダリングという映像の細部に物質的に係留されている。automaton寄りではあるが、物への確定は与えられない。

同じことが主権の側でも起きる。祥子が画面外にあり王座にも乗らないという観察は、この一点を「主権者による物化の完成」として枠づける読みを、映像レベルでは裏づけない。抽出(祥子が同意を抽出した)の側へ倒す映像的証拠は、この一点では欠けている。ここでアガンベンの包含的排除を映像診断に持ち込む誘惑が生じるが、それは台詞水準の補助に限定し、映像診断の場には上げない(第2章)。

最後に、音響がギター把持で開始するという反転——無音から音への転換——を、死の静止としてではなく、何かの「開始」の徴としても読みうる余地として書き留めておく。先に観察した瞳の反射から発光への転換を、本論はここでは終端=死として一義化せず、予告として置く。消えた映り込みは、第3章で扱う回帰の局面において、「ゆこう」の一語とともに戻るからだ。瞳の光をめぐる縦糸は、次章末でさらに一段(閉眼→音響開始→光消失)を加えて、第3章へ通される。

第2章|発話「そばにいられるなら」

(Avemujica 13話 三角初音「そばにいられるなら」)

この発話は、本論の主線の蝶番である。ここで、抽出と運用の決定不能性は、単一の発話の内部で物質的に実演される。

観察を並べる。同じ願い——祥子の傍にいたいという願い——が、二つの場面で、対照的な編集として提示される。一方(劇中劇、20:10)。伏し目の哀願「そばにいられるなら…この哀しみすら忘れる」で初音は目を閉じる——声を発する主体というより、声を差し出す身体がある。だが場面は哀願で終わらない。数秒の祥子の溜めののち、初音は祥子を向き「ならば、剣を手に」と向き合い、直後、カットは見つめ合う二人の全身を、ギターを中央に挟んで一つのフレームに収める。ツーショットの相互正対であり、切り返しはなく、初音の側の切り返し発話もない。関係の相手(祥子)は別カットにではなく、同じ画面に、対等な全身として共にいる。他方(本編、14:41)。逐語は「祥ちゃんの傍に、居させてください!」から「あなたに…豊川の家に迷惑はかけませんから」へ続く。ここでは編集が反転する。初音の要求は切り返しによって三者へ配分される——正対して直視する初音、それを正面から睨む定治、傍らで驚き臍を噛む祥子。初音は要求の宛先である定治に頭部背面を見せ、正対と直視は画面=観客の側へ向かう。相手たちは同じフレームにではなく、切り返しによって別カットへ分離される。両者はともに3Dで描かれ、素顔の露呈を経由しない。

ここで編集そのものが、抽出と運用を分ける軸になる。ただしその軸は「切り返しの有無」ではない——劇中劇にも本編にも、別々の仕方で相手は現れるからだ。軸はむしろ、共在(ワンフレームの相互性=劇中劇)と分離(切り返しによる三者配分=本編)である。ここで一つ断っておく。切り返しそのものは、会話を撮る際の一般的な編集文法であって、それ自体が固有の意味を持つわけではない。固有なのは、ここでの切り返しが何を配分しているかである——通常の会話の切り返しが二者の応酬を配分するのに対し、本編の切り返しは、要求の宛先(定治)と反応の主体(祥子)を分離し、要求する初音を背面のみで抜く。配分されているのは応酬ではなく、要求主体の背面化と、その要求の祥子の受苦への回収である。そしてこの軸のどちらの項も、抽出とも運用とも読める。劇中劇の共在は、ギターを挟んで対等に向き合う相互性——初音がまだ物へ抽出しきられず、剣を手にする主体として祥子と対する運用の徴——とも読めるし、劇中劇という仮構の内側に二人が対等なまま封じ込められた徴——現実の関係から切り離された仮構での対等、すなわち抽出の予兆——とも読める。本編の分離は、切り返しが要求する主体を組み立てる徴——初音の要求が編集によって成立する運用——とも読めるし、初音が頭部背面のみを見せ、その要求が定治と祥子の関係の網の目へ回収されて初音自身は希薄化する徴——主体の抽出——とも読める。どちらの場面のどちらの読みも、映像だけからは決着しない。序章で据えた決定不能性が、ここで単一対象の内部に畳み込まれる——これが本章を本論の主線の蝶番たらしめる。

ここで、第3章と同じ規律を抽出/運用の軸にも課す。単に両義的だと述べるだけでは、決定不能性は主張にとどまり、達成にならない。ゆえに、運用(意志する主体)と読む側に重い立証責任を課し、単なる両義性を運用の勝ちとは数えない。運用を積極的に支持する材料は、本編の正対・要求・眉を上げた直視である。だがこの直視は、人形化の場面で確認される終端の所作(首を約5度傾げて停止するautomaton性)、演じ分けの不在、視線判定不能——いずれも抽出=物の側へ傾く材料——のただ中に置かれた一ショットにすぎない。運用は、この一ショットを超えて決定的には支持されない。かくして抽出/運用の宙づりは、決着を試みたうえで材料が割れることの報告として立つ。それは負荷試験を経た達成であって、試験を経ない主張ではない。

だが負荷試験には、まだ課していない材料が一つ残っている。本編の直視よりも強く運用を支持しうる映像が、人形化の直前にある。ギターを手に取る直前、初音はローアングル20度で捉えられる。カメラはギターの側に置かれ、初音はギター——劇中で「剣」と呼ばれる——から見上げられる形で画面に立つ。このカットで祥子は画面外にある。モノが人を見上げ、人がモノに見下ろされる位置に屹立する。ここでは初音が、意志して剣を取る主体として、主権の位置に一瞬置かれる、と読める。運用側は、ここにきて初めて、一ショットの直視を超える確たる映像を得る。

だが同じ材料が、運用を勝たせない。屹立のカットと、人形化のカット(瞳の光の消失=物化。第1章・第3章)は、間に別事象を挟まず隣接する。運用の頂点——剣を取る主権的屹立——と、物化——automatonへの沈下——が、カットを接して連続するのだ。より強い運用の証拠を得たまさにその一点で、物化がすぐ隣に置かれている。ゆえにこの屹立のカットは、運用の側へ倒す証拠にはならない。それは、運用の最も強い映像と物化とが同じ一点で隣り合うことの証拠であり、序章で概念として据えた物化の臨界点が、ここで編集そのものによって実演されている。運用の頂点で物化が起きるというこの隣接こそが、抽出/運用の決着不能を映像上に刻む。

映像の負荷試験がこの臨界点を編集の水準で確定したところで、同じ発話が言語の水準で何をしているかへ移る。ここで台詞の水準を、映像診断とは別の水準として分けて扱う。発話は言語=台詞の水準にある。「豊川の家に迷惑はかけません」という句は、自らを差し出しつつ、自らを負担から——すなわち家の内部の一項から——排除する構えをとる。排除されることが、かえって包含の様態になる——負担たる一項から締め出されることそのものによって、初音は祥子の家の圏域の内へと留め置かれる。人形化される初音とは、主体の座から排除される仕方で祥子の圏内に包含され続けるもの、すなわち「留め置かれるもの」にほかならない。この構造にかぎって、アガンベンの包含的排除を補助線として引くことができる。ただし厳密に限定する。第1章で確認したとおり、主権の標識は映像水準では差し控えられていた。ゆえにアガンベンは台詞水準とマクロな枠づけの補助にとどめ、映像診断の場には上げない。

章末に、瞳の光の縦糸を一段進める。本編の要求ののち、初音は目を閉じ、音響がギター把持とともに開始し、瞳の光が消失する——閉眼→音響開始→光消失の段。第1章では人形化と同カットの消失を予告として置いたが、本章はその消失へ至る時間的接近を記録する。この消失は、第3章で扱う回帰——「ゆこう」の一語とともに光が自発的に戻る局面——によって受けられる。ゆえに本論はなお、消失を終端=死として一義化しない。

第3章|瞳の光の消失と回帰

(Avemujica 13話「天球のmusica」歌いだしの三角初音は眼に光を取り戻す)

第3章は本論の存在論的主対決である。瞳の光をめぐって、二つの読み——脱個体化-Bとスティグレールのdésindividuation〔*5〕——が正面から衝突する。ここでの命題は、いずれか一方が勝つことではなく、同一の物質が両方の読みを等しく支え、どちらも材料を独占できないことである。

*5|本論はスティグレールの概念を原綴 désindividuation で表記する。「脱個体化」等の訳語を与える場合、それは本論による記述的訳出であって確立した定訳ではない。シモンドンの désindividualisation との綴りの差(-ation と -alisation)は原語どおり保存する(三者の峻別は*4)。

まず消失の側を確定する。瞳の光の消失は、人形化と同一カットで起きる(第1章で予告、第2章末で閉眼→音響開始→光消失の段として接近を記録した)。第1章で観察したとおり、この消失は世界を映す反射面から内発の発光体への転換であり、四つの映り込みが失われて黒目の底が一様に燈る変化であった。この消失を、本論は終端=死としても再起動の予兆としても一義化しない。回帰の観察が、いずれにも読めるからだ。回帰の側を並べる。瞳の光は第13話終盤(21:22)で戻る。3Dで描かれ、素顔の露呈はない。戻る契機は「ゆこう」の一語であり、外部から与えられるのではなく自発的である。この局面で祥子は連結されない——回帰は祥子との関係の再開としては描かれない。別カット・別時間に置かれ、独立した終曲を伴い、自我/主体の境界の標識を帯びる。そして瞳そのものにおいて、第1章で失われた四つの映り込みが戻る——消失で反射面から発光体へ転じた瞳が、回帰で再び反射面へ、世界を映す眼へ復帰する。声はドロリスのもので、演じ分けはない(第1章)。構築の媒体でありながら、そこには哀しみの痕跡がある。そして切断の標識は、瞳の光そのものの上にはなく、背景・楽曲・色調・編集という独立した軸の上に分布している。

対決に入る前に、二項の資格の差を明示しておく。脱個体化-Bは本論がシモンドンの個体化論から否定的に再鋳した概念であり〔*4〕、スティグレールのdésindividuationは公刊された概念である。資格が対等でない以上、立証責任は自作概念である脱個体化-Bの側に重く課される。とりわけ脱個体化-Bは「喪失中立」——喪失とも再起動とも決めない——と定義されるため、放置すれば判定不能な材料をすべて自らへ吸収しかねない。これを防ぐため、本章は脱個体化-Bを、材料が積極的に準安定・再起動を指すときにのみ支持されたとみなし、材料が単に両義的であることを脱個体化-Bの勝ちとは数えない。

*4|三つの語の峻別。本論の脱個体化-Bは、名の近い二つの既存概念と区別される。(一) スティグレールのdésindividuation=個体化の構造的な衰退(メランベルジェ訳p.36)。(二) シモンドン自身のdésindividualisation=藤井千佳世監訳「無個性化」(p.466、原書p.276)。超個体的なものへの上昇的・関係的な自己放棄を指し、個体が集団的なものへ開かれて個性を手放す運動だが、個体性そのものは残存する。(三) 本論の脱個体化-B=未完了の前個体性の再前景化、すなわち準安定な相の再開。無個性化(個体性を残して超個体へ上昇する)と脱個体化-B(前個体性へ差し戻り準安定を再開する)は運動の向きを異にする。三者はいずれも単一術語「脱個体化」を負わず、名称は衝突しない。ゆえに本論はこれらを「シモンドン的」「スティグレール的」等の形容詞で回収することを禁じ、それぞれ固有の綴り・訳語・出自において扱う。

この規律のもとで、回帰の各特徴を検分する。いずれの特徴も一方の読みに帰属せず、両方向へ読める。「ゆこう」の自発性は、脱個体化-Bには過去を負った位相の自発的な再起動として読めるが、désindividuationには、外部の契機なしに起動する自動反復——もはや誰が始めたのでもない機械的な再生——として読める。独立した終曲は、新たな一相がそれ自身の締めくくりを持つ徴とも、死後に惰性で流れる演奏とも読める。祥子非連結は、回帰が誰かへの回帰ではなく位相それ自体の再開であることを示すとも読めるが、他方で、個体化を支えていた関係そのものの切断=個体化能力の喪失の徴とも読め、この特徴はむしろdésindividuationへ傾きうる。automatonの停止(第1章)と光の消失は、désindividuationには機械化と喪失の徴だが、脱個体化-Bには準安定の一相・予告として読める。ドロリスの声に演じ分けがないことは、声の個体化的差異化の喪失としてdésindividuationを支えるが、脱個体化-Bには、差異化以前の準安定へ相を戻した状態とも読みうる。瞳の反射面復帰——第1章で失われた世界の映り込みが戻ること——は、この検分のなかで、脱個体化-Bを積極的に支持する数少ない材料である。世界を映す眼が戻ることは、世界との反射的交通の再開、すなわち準安定な相へ生きて戻る再起動として読め、脱個体化-Bに課された立証責任(材料が積極的に準安定・再起動を指すこと)を、この特徴は満たしうる。だが反射面復帰もまた、désindividuationを排除しない。中身を失った空虚な記号が、再び外光を機械的に反射しはじめるだけ——世界を映すのではなく、ただ世界に照らされるだけ——という読みが残るからだ。反射面復帰は脱個体化-Bへ最も明確に傾く材料だが、それでも決着は与えない。

構築の媒体が哀しみの痕跡を帯びること自体も、決着を与えない。痕跡は、なお残る情動として脱個体化-Bを支えるとも読めるが、désindividuationには、情動が中身を失い空虚な記号へ痩せ細った姿——哀しみの引用であって哀しみそのものではないもの——として読める。痕跡があることは、個体化がまだ生きている証にも、個体化が抜け落ちた後に残る記号の殻にもなる。

音響同期については、当初の見立てを訂正する。音響がギター把持で開始し独立した終曲を伴うことを、「死の静止には音がないはずだ」として死の一義化への反証とすることはできない。désindividuationが名指す喪失は、literalな死=沈黙ではなく、個体化の構造的な衰退——個体化能力の毀損、すなわち物への確定——だからである(メランベルジェ訳p.36)。空虚な記号はむしろ鳴り響きうる。音のある回帰は、なお自動反復としてのdésindividuationでありうる。ゆえに音響同期は、いずれの側にも決定を与えない中立の観察として置く。

負の観察——切断標識が瞳の光の独立軸の外にあること——も、両側へ等しく効く。この観察は二つのことを同時に告げる。第一に、切断は瞳の光そのものには刻まれていない。ゆえに光の消失を「切断=死」と直結する読みは、瞳の光に関するかぎり裏づけを欠く(désindividuationの、光への直接の帰属を制限する)。第二に、しかし切断の標識は、背景・楽曲・色調・編集という別の軸には確かに存在する。場面全体としては断絶が登録されているのだ(脱個体化-Bの、純粋な連続・再起動という読みを制限する)。したがってこの負の観察は、一方を利する装置ではない。断絶が瞳の光から場面の周縁へ移動して存在するという配置を記述するにとどまり、どちらの読みにも独占を許さない。

以上より、回帰の物質は、脱個体化-Bにもdésindividuationにも独占されない。同じ「ゆこう」、同じ終曲、同じ痕跡、同じ反射面復帰が、生きた再起動とも機械的反復とも読める。存在論的な宙づりはここで温存され、それは序章に据えた抽出/運用の決定不能性と同じ一点に接している——再起動と読めば運用(最後に意志した仮面)の側へ、機械的反復と読めば抽出(物として運用された同意)の側へ、それぞれ傾くのだから。第3章は、この二つの傾きのいずれにも倒れない。

終章|枠づけの層での止揚

観察三章は、核心の決定不能性を宙づりのまま置いてきた。終章は、それを解く章ではない。ここで止揚が働くのは枠づけの層においてのみであり、止揚とは決定不能性を「解けないもの」として枠づけることを指す。以下、四つの糸を回収する。

(a) 3D貫通の回収——第二論考枠の継承と複雑化。 序章で据えた3D貫通の連なりを、ここで前段第二論考の枠組みへ接続する。第二論考は「3DCG=仮面/2D=素顔」を確立し、素顔の露呈局面を脱主体化の徴として読んだ。本論はこれを継承しつつ複雑化する。初音の変容は四局面すべてで3Dに貫かれ、素顔(2D)を一度も経由しなかった。ゆえに本論において、仮面/素顔の二項は反転も剥離もしない。かわりに、構築の媒体そのもの(3DCG)が哀しみの痕跡を帯びる(第3章)ことで、仮面/素顔の対立は、仮面の内部での濃度差へと畳み込まれる。この濃度差は、いまや具体的に名指せる——仮面は剥がれないまま、その内部で瞳が世界を映す反射面と内から燈る発光体のあいだを往還し、生体の表面が世界の映り込みを失う一方で造形物は世界を映しつづける(第1章・第3章)。哀しみの痕跡とは、剥がれない仮面の内側で起きる、このレンダリング水準の濃度差のことである。これが継承かつ複雑化の内実である。

(b) 決定不能性の温存。 抽出/運用、生/非生、喪失/再開——三つの決定不能性は、各観察章で温存された。終章はこれを解かない。決定不能性は本論の判断保留ではなく、対象が物化の臨界点に置かれていることの正確な記述である。ただしこの「正確な記述」は無限定に名乗れるものではない。序章で述べた判別不能——割れているのが対象の徴か設計者の見聞の限界か決しえないこと——は方法の一般的な上限であり、負荷試験(第2章・第3章)を通過した一点にかぎって、決定不能は対象の側の徴として立つ。「正確な記述」と呼びうるのは、この一点に限定される。止揚は、これを「解けない」ものとして名指すことにおいてのみ働く。

(c) 睦論点1——三部作整合と相互不可侵性。

(Avemujica 9話 若葉睦「祥と、CRYCHICをもう一度、、、」モーティス「だから?私(という人格)が消えてもいいって?」)

ここで若葉睦の系列を対照に置く。第9話、2分48秒、若葉睦の自宅での発話が記録するのは、若葉睦/モーティスという二人格の溶解であり、その願望は関係志向的である——「祥と、CRYCHICをもう一度、、、」、すなわち祥子と共に、という志向。睦の溶解は他者(祥子)への関係の内で起きる。対して初音の瞳の光の回帰は、祥子非連結として描かれた(第3章)。回帰は誰かへの回帰ではなく、位相それ自体の再開だった。両者は、共に祥子を極としながら、駆動を異にする——関係志向(睦)対 関係の非連結(初音)。この差異が、三部作における各キャラクターの溶解類型の相互不可侵性を支える。初音の脱主体化を睦型の関係志向的溶解へ読み替えてはならない。そして睦自身が警告したのは、非対称の逆向き再生産だった。初音を「最後まで意志した主体」として運用の側へ確定することは、睦が名指したその非対称を、逆向きに再生産することになる。

(d) 社会層アガンベン撤回の帰結——「倒さない」倫理的賭金。

(Avemujica 13話 ギターから見上げられる三角初音/ドロリス)

01フェーズで、包含的排除は映像水準ではabsentと確認され、台詞水準の補助へ撤回された(第2章)。ここでいう撤回は、映像診断からの撤回であって台詞水準の補助を廃することではない——包含的排除は台詞水準の補助線としてなお保持される。この撤回は理論配置の問題にとどまらない。社会層でアガンベンを主権的枠として立てれば、初音は「主権者(祥子)による包含的排除の犠牲者」として確定され、抽出の側へ倒れる。本論はこれを差し控えた。第2章で観察したこの屹立のカットは、この差し控えを映像から補強する。主権の位置〔*3〕を一瞬占めるのは、祥子ではなく初音自身であった(ギターに見上げられる屹立)。主権者=祥子による犠牲という抽出の枠は、映像上そもそも成り立たない——見下ろす祥子はどこにもいないのだから。とはいえ、初音の一瞬の屹立を「主権の位置を占める意志的主体」として運用の側へ確定することもできない。屹立は直後の人形化と隣接し、主権の頂点と物化が同じ一点で重なるからだ(第2章)。この屹立もまた、いずれの側へも倒さない。倒さないこと——初音を犠牲者としても意志する主体としても確定しないこと——が、本論の倫理的賭金である。

*3|主権の二つの水準。本論がギターに見上げられる屹立の場面で「主権の位置」「主権的屹立」と言うのは、B=構図上の主権、すなわち見下ろす/見上げられるというカメラと配置の関係を指す。これは、C=アガンベンの主権(包含的排除・例外状態の枠)とレジスターを異にする。Cにおいて「例外状態に関して決断を下す者」に触れる場合、その規定はシュミット『政治神学』のものであり、アガンベン『ホモ・サケル』高桑和巳訳p.25が引用内引用として掲げるそれであって、アガンベン自身の定義ではない。ゆえに本論は、Bの不在——見下ろす祥子が画面にいないこと——をもって、Cの水準(アガンベン的な主権的犠牲)を単独で裁定しない。

(c)(d)の共鳴。 睦論点1(相互不可侵性)と「倒さない」賭金は、同じ身振りの二つの現れである。いずれも、初音を既存の類型——睦型の溶解、あるいは主権的排除の犠牲者——へ回収することを差し控える。差し控えることによって、初音の脱主体化を、それ固有の物化の臨界点として温存する。本論が記述したのは、初音が物になったことでも、初音が最後まで意志したことでもない。その二つが同じ一点で決定不能なまま重なる臨界点——脱主体化とは、その臨界点の別名である。

留保|母性的主権の劇という枠。 なお、初音の脱主体化が上演されるのは、忘却を代価とする劇中劇の枠——第二論考が母性のディストピアとして診断した祥子の主権が、その祝福として初音の物化を枠づける場——においてである。本論はこれを、20:39の人形化点で母性の標識が視覚的に不在であること(母の形見の人形との図像的同型は不在、主権の標識もない。第1章・終章(d))ゆえに、脱ジェンダー的な存在論の水準で扱った。だがこれは母性的主権による執行の否認ではなく、意図的な射程限定である。臨界点がなぜ女性の身体と母性的主権の劇において上演されるのか——この問いは、本論が引き受けなかった費用として、別稿へ送る。

社会層への枠づけ

(Avemujica 13話「天球のMusica」終盤より)

内的な枠づけ(a〜d)に続けて、枠づけの層をもう一段、社会へ向けて開く。観察三章は、初音の脱主体化を存在論的・美学的に解剖した。だがこの解剖を、ガールズバンドアニメの精読として閉じることは、本三部作の射程に反する。本論は初音の脱主体化を、現代日本社会で人々が直面する二つの困難への、虚構を経由した応答として受ける——統一された自我を持つことの困難と、弱い自立の失敗(箱庭)である。ただしこの社会的枠づけは、核心の決定不能性を解かない。解剖された宙づりの構造そのものを困難への応答として受けるのであって、抽出/運用のいずれかへ倒すのではない。

第一に、統一された自我の困難。第3章で存在論的対戦相手として立てたスティグレールのdésindividuationは、存在論的に中立な語ではない。それは消費資本主義の診断——象徴的貧困、文化産業による個体化能力の剥奪——である。第3章で記した「情動が中身を失い空虚な記号へ痩せ細った姿、哀しみの引用であって哀しみそのものではないもの」は、そのまま社会診断でもある。重要なのは、第3章の宙づり(再起動か機械的反復か)が、社会層でも宙づりのまま受けられることだ。再起動と読めば、初音は統一された自我を持ちえぬまま準安定に揺れ続ける個体の形象であり、機械的反復と読めば、個体化能力を掘り抜かれた主体の形象である。スティグレールはこの掘り抜きを、個(individu)が分割可能な断片(dividuel)へと解体される事態として描いた〔*7〕。いずれも、統一された自我を持つことの困難——本三部作を貫く主題——の異なる現れである。この個体化能力の剥奪という診断には、大塚英志『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン』の議論——消費や感情の発露それ自体をフリーレイバー=無償労働(p.101-102)とし、行動そのものを労働として搾取する仕掛け(p.107)として捉える視座——が日本語圏の傍証として重なりうる。大塚が二次創作をジェンキンズのファンフィク論の系譜に置く(p.10)ことも、この視座を支える。なお、この診断を「プラットフォーム搾取」と圧縮して呼ぶ場合、それは本論による圧縮語であって、大塚自身の術語ではない。社会層は、この困難への応答として、脱主体化の宙づりの構造全体を受ける。

*7|dividuel について。スティグレール『象徴の貧困』 p.143 は désindividuation を、個 individu が「分割可能な dividuel」となる事態——ナルシシズム的能力がまず激化したのちに掘り抜かれる過程——として記述する。この dividuel の語をスティグレールはドゥルーズ(=ガタリ)に帰す。本論はこれを désindividuation の消費資本主義的な機制の名として引くにとどめ、第3章の三者峻別(*4)を変えない——dividuel はスティグレール線の内部の細部であって、脱個体化-B・désindividualisation と並ぶ第四項ではない。〔典拠未確認:dividuel の初出はドゥルーズ「管理社会について」(1990)とされるが、スティグレールのドゥルーズ=ガタリ帰属との異同は現物要確認〕※宿題

第二に、弱い自立の失敗(箱庭)。宇野『庭の話』は、相互評価のゲーム(p.285)からの撤退の先に弱い自立(p.301)を置く〔*6〕。前段第二論考は、この弱い自立が失敗し自己が物へと封じられる極を「箱庭」と名づけ、その語彙で初音/祥子を、承認の経済から退却した薄い自己の解剖として読み、その終章はこう記していた——箱庭は、自己が採集され物へと封じられる、その最後の場所になる、と。第三論考の初音は、同じ初音が、その箱庭の底で物化する到達点である。承認経済から退却した薄い自己が、庭にも弱い自立にも達せず、物へ封じられる——第二論考が手渡した箱庭論の継続として、初音の脱主体化はある。この継続を、再ラベルにとどめず一つの機構として辿ることができる。相互評価のゲーム——たえず他者の評価に自己をさらし、値踏みされ値踏みし返す承認の往還——から、初音はまず撤退する。だが撤退の先に『庭の話』が置いた弱い自立は、初音には成らない。撤退した初音が退避したのは、複数の評価者へ開かれた庭ではなく、ただ一人の評価者(祥子)だけが値を決める閉域——祥子の箱庭——だったからだ。承認の往還からの離脱が、庭ではなく単一評価者へ閉じた箱庭へ着地するとき、弱い自立は成立しそこねる。そしてその箱庭の底が物化である。承認経済から退き、単一評価者の閉域へ退避し、その閉域の底で物へと確定される——撤退・箱庭・物化は、この順に連なる一つの機構をなす。初音の脱主体化は、この機構の終端に置かれている。ここでも決定不能性は保たれる。物へ封じられたのか(抽出)、自ら封じることを選んだのか(運用)は、社会層でも決着しない。弱い自立の失敗とは、まさにこの決着不能な物化のことである。

*6|「箱庭」の出自。弱い自立(p.301)と相互評価のゲーム(p.285)は宇野『庭の話』(講談社2024)の語である。だが「箱庭」は同書に見あたらず、宇野の術語ではない。本論のいう箱庭は、前段第二論考が弱い自立の失敗する極として立て、本論が引き継ぐ本論系列の語である。

対照として、ガールズバンドクライを一点だけ置く。その主人公は敗北を引き受けてなお否認し、穴だらけの翼で飛ぶことを選ぶ。その主体化の技法を、生活への帰還=小指と呼ぶ読解がある。初音には、この小指がない。生活へ帰還する道が、祥子の箱庭によって塞がれているからだ。敗北を否認して主体を再び立てることと、関係の代価として消えることを選ぶ(選ばされる)こと。叫びによる主体化と、沈黙による脱主体化。ガールズバンドクライの叫びは、初音が取らなかった主体化の道として対照の位置にとどまり、中心の理論ハンドルには入らない。

最後に、応援イデオロギーからの独立を確認する。初音の物化を「それでも意志した」と読むこと——運用の側、意志する主体の側へ倒すこと——は、応援イデオロギーが脱主体化という主題に忍び込む最後の入口である。社会層の枠づけはこの誘惑に抗する。統一された自我の困難も弱い自立の失敗も、初音を「それでも意志した主体」として救い出すことではない。それは、決着不能な物化の臨界点を、現代の困難への応答としてそのまま受けることである。

だが応援イデオロギーは、意志肯定からだけでなく、その対称からも忍び込む——消えることの美化、受動性の荘厳からも。ゆえに、物化を「消えることを選ばされた哀切」として読む側にも、意志肯定と同じ重い立証責任を課す。単に哀しく見えることを、哀切の勝ちとは数えない。哀切を積極的に支持する映像材料は、瞳の光の回帰に伴う「哀しみの痕跡」だが、それは第3章で既に両価化された——なお残る情動か、情動が抜け落ちた後の記号の殻か、決着しない。ゆえに哀切もまた、決定的には支持されない。消滅の美化は、意志肯定と対称に、達成としての決定不能性の下に置かれる。物化は本論の到達点ではなく、判別が閉じない臨界点である。そして本論の副題が「弱い自立の臨界」と呼んだのも、この同じ一点にほかならない。弱い自立が失敗へ傾くその臨界と、初音が物へと確定される物化の臨界点とは、別の名を負った同一の一点である。ただし断っておく——この二つの名はいずれも本論の記述枠であり、その一致は対象の側で独立に観察された二相の一致ではなく、本論の二つの枠づけが単一の物質点へ収斂することの謂いである。二つの名が名指すのは、Avemujica 13話の20:39の人形化——屹立と物化が隣接し瞳の光が転じるその一点である。相転移の臨界点で二相が識別を失うように、ここでは弱い自立と物化が、抽出と運用が、この一点において互いに区別を失って重なる。

参考文献

二次文献(頁は本文で動員した箇所)。

・イェンチュ「不気味なものの心理学について」1906年(独語原典/英訳 Sellars、邦訳なし。Unsicherheit=S.196-198)
・フロイト「不気味なもの」1919年(中山元訳、光文社古典新訳文庫、2011年。反復強迫=p.172)
・アガンベン『ホモ・サケル』高桑和巳訳、以文社、2003年(zoē/bios=p.7/主権の逆説=p.25/包含的排除=p.34)
・スティグレール『象徴の貧困1』メランベルジェ/メランベルジェ眞紀訳、新評論、2006年(個体化の構造的な衰退=p.36/消費資本主義診断・dividuel化=p.143)
・シモンドン『個体化の哲学』藤井千佳世監訳、法政大学出版局、2018年(無個性化 désindividualisation=p.466、原書p.276)
・宇野常寛『庭の話』講談社、2024年(相互評価のゲーム=p.285/弱い自立=p.301)
・大塚英志『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン』星海社新書191、2021年(フリーレイバー/無償労働=pp.101-102/搾取の仕掛け=p.107/二次創作=p.10)
・作品|『Ave Mujica』第13話・第9話。
・対照項(本文動員せず)|ガールズバンドクライ「叫び」(筆者小論 yamaryoweb.site 2025-03-16 を地平とする)。城輪アズサ論考も同様。

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