トラペジウム

アニメ

祈りとして光る――二〇二六年の女児向けアニメにおける発光の条件、あるいは想像力の着陸点

~虚構の発展性と、その現実への降り方をめぐって~

※本稿にはネタバレを含みます。ご鑑賞後にご査読ください。

## 序――発光する女児

二〇二六年の女児向けアニメ『おねがいアイプリ』において、少女がアイドルとして最も輝く瞬間は、「バズリウムチェンジ」と呼ばれる。衣装が光り出す変身の演出であり、この作品において「光る人になる」ことの、最も直接的な視覚的実装である。

本稿が着目するのは、この発光が、誰にでも、いつでも起こるわけではないという一点である。作中で初めてバズリウムチェンジに失敗した人物――熱海ナナ――の存在が、この作品の構造を露わにする。ナナは町で一番の豪奢な屋敷に住む令嬢であり、強い意志と情熱を持ってアイドルの世界へ踏み出す。だが、自らの情熱で発光を達成しようとする限り、光は起動しない。彼女に欠けているのは技術でも資質でもない。発光を起動させる、ある条件である。

本稿は、この「発光の条件」を軸に、二〇二六年の女児向けアニメが、虚構を通じてどのような想像力を育てているか、そしてその想像力が現実のどこへ着陸しうるかを問う。分析は観察から始め、理論はそこから引き出す。動員する概念は、いずれも作品を読むための補助線であって、その原典の版・頁の確定は別途要する。

## 一――光の二分類

発光を論じるために、まず光の様式を二つに分ける。この区別は、抽象的な理論からではなく、複数の作品の演出の物質から引き出される。

自ら光を放つ光――恒星の光。他の光源に照らされて初めて輝く光――惑星の光。前者を自発光、後者を照射光と呼ぶ。この区別は、近年のアイドルを主題とするアニメ・アニメ映画を横断すると、繰り返し立ち現れる軸である。

『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の高松燈は、演奏のさなか、言葉になる手前の情動を噴き上げる。その瞬間、彼女は自ら光る。だがその発光は一瞬であり、持続しない。アニメ映画『トラペジウム』の東ゆうは、その自発光に憧れながら、光を演出する技術――SNS、好感度の計算、望ましい自己の記号的な呈示――を極める。その果てに彼女が置かれるのは、自然光や星空ではなく、スタジオの人工照明である。自ら光る恒星になろうとした者が、視聴者の視線に照らされて反射するだけの惑星に転落する。デビュー前の自然光から、デビュー後の室内光・鈍色の揺蕩いへ。照明のレジスターの反転が、この転落を演出の物質として刻んでいる。

ここで一つの逆説が浮かぶ。アイドルになるとは、光る人になることのはずだった。ところがデビューして実際に置かれるのは、人工的に供給され、消費されるための光の下である。自ら発光しているように見えて、実は人工光を浴びせられ、それを反射しているだけの惑星に転落する。輝く光を消費しているのは、視聴者――すなわち我々である。我々が照らすからこそ、彼女は自ら光ることをやめる。

(映画「トラペジウム」番宣ポスターより)

この光の二分類を携えて、女児向けの発光へ進む。

## 二――熱海ナナ、自己都合の失敗と祈りにおける成功

『おねがいアイプリ』の熱海ナナは、この光の問題を、女児向けアニメの構造そのものとして提示する。

(「おねがいアイプリ」 15,16話を架けて「バズリウムチェンジ」にようやく成功する熱海ナナ)

観察を先に置く。ナナは何度もライブを行うが、バズリウムチェンジを達成できない。自身の情熱で、なんとか発光を成し遂げようとする。だが起動しない。彼女の発光が起動へ向かうのは、他者のおねがいを叶えようとする文脈においてである。作品は、この失敗と成功の対を、物語のルール――発光の成否――として実装している。

ここから仮説を引く。ナナの発光は、自己の情熱――自我の内部から意志的に起動される熱量――によっては起動しない。他者のおねがい――自己の外部から到来する呼びかけ――に応答するときにのみ起動する。自己都合の発光は失敗し、他者への祈りにおける発光は成功する。これが、この作品が発光の条件として提示している構造である。

この構造を、先の光の二分類に接続する。自己都合で光ろうとするナナの情熱は、実は照射光の起動法である。自らを見せる、自らを輝かせる、自らが中心に立つ――これは、東ゆうが極めた「演出としての発光」と同じ論理であり、視線に消費されるための光を、自分で起動しようとする試みにほかならない。だから起動しない。あるいは起動しても人工光にしかならない。他者への祈りにおいて起動する発光だけが、自発光――恒星の光――たりうる。

ここに、東ゆうの悲劇の、女児向けにおける陽画がある。東ゆうは自己都合の演出を一秒も止められず、人工光に囚われて一瞬を失った。ナナは、自己都合では光れないという失敗を通じて、他者への祈りにおいてのみ光れることを学ぶ。『トラペジウム』が暴いた偽物の光を、『おねがいアイプリ』は、子どもに分かる形で反転させ、解決してみせる。

なお、本作の主人公・好実いのりの発光にも同じ構造が伏在している。その決め台詞は、あふれる好意を他者へ届けることを名指す形をとる。発光が自己表現ではなく他者への贈与として起動することが、主人公の水準でも標識されている。ナナの失敗は、この構造を、失敗という否定形で最も鮮明に露出させた事例である。

## 三――発光の起動条件をめぐる三つの補助線

(「トラペジウム」より アイドル解散の危機に瀕して放つ衝撃の発言状況の東ゆう)

「他者への祈りにおいてのみ発光する」というこの構造を、三つの理論的補助線で照らす。いずれも作品を読むための補助線であって、原典の確認は別途要する。三つは競合するのではなく、同じ構造の異なる面を照らす。

第一に、贈与の論理である。ある人類学の贈与論は、贈与を「与える・受け取る・返す」の循環として捉え、見返りを計算する交換とは区別した。ナナの発光が他者のおねがいを叶える文脈でのみ起動するのは、発光が自己表現ではなく贈与だからである、と読める。東ゆうのSNS投稿は、贈与の形をとった交換であった――好感度という見返りを計算した記号操作である。だからその光は、交換のために供給される人工光になる。ナナの光は、見返りを計算しない祈りにおいてのみ起動するがゆえに、自発光たりうる。自己都合(交換)の発光は照射光に堕し、純粋な贈与の発光のみが恒星の光になる。

第二に、生命の躍動という論理である。ある生の哲学は、生命の創造的な力を、外部から与えられるものではなく、内部から予測不可能に噴き上がるものとして捉えた。この視点からは、ナナが自己都合で光れないのは、発光を意志的に――計算によって――起動しようとするからだ、と読める。生の躍動は意志で起動できない。それは自己の外部との遭遇において、予測不可能に噴き上がる。ナナが他者のおねがいという自己の外部に触れたとき、初めて光が起動する。これは、のル・セミオティークの噴出――言葉になる手前の情動が意志の手前で漏れ出ること――と、同じ構造を分け持つ。もナナも、意志で光ろうとして光れない。意志の外部に触れたときに光る。

第三に、他者の呼びかけへの応答という論理である。ある倫理の哲学は、主体が「他者の顔」の呼びかけに応答することによってはじめて倫理的な主体になると論じた。ナナの発光が他者のおねがいにおいて起動するのは、発光が他者の呼びかけへの応答だからだ、と読める。自己の内部からは光は起動しない。他者に呼びかけられ、それに応答するとき、光が起動する。ナナの発光は、自己表現ではなく、他者への応答責任の視覚化である。

三つの補助線は、一つの命題へ収束する。真の自発光は、自己の内部――情熱・意志・自己呈示――からは起動しない。それは、自己の外部から到来するもの――他者のおねがい、他者の顔、詩的言語の噴出――への応答においてのみ起動する。自己都合の発光は、人工光に堕すか、起動しない。

ここで、形容詞的な回収を避けておく。ナナを「贈与的主体」「生命躍動の主体」「応答責任の主体」と名づけて済ませることはしない。三つの補助線は、作品が引いた一本の線――自己都合では光れず、他者への祈りで光る――を、異なる角度から照らすものであって、そのいずれかへ作品を回収するためのものではない。

## 四――女児向けという場と、想像力の発展性

(映画「トラペジウム」より、メンバーの異性交際発覚にぶち切れる東ゆう)

ここで、本稿の主題――虚構の発展性に資する想像力の可能性――へ向かう。

『おねがいアイプリ』が、この「発光の条件」を女児向けの構造として提示していることには、固有の意義がある。前作の系譜にあたる『前橋ウィッチーズ』は、他者へのケア(認知療法的な傾聴)を魔法の起点として描きながら、同時に、ヤングケアラーの貧困という物質的・経済的な課題を画面に抱え込んでいた。関係的な救済と、物質的な闇とが、絡み合っていた。

『おねがいアイプリ』は、女児向けであるがゆえに、物質的な軸――貧困・再分配――を最初から画面に持ち込まない。残るのは、純粋に関係的・象徴的な軸――「他者のおねがいを叶えることで光る」という発光の構造――だけである。ここに、女児向けアニメの想像力の場としての特質がある。それは、最も年少の観客に向けて、発光の条件を、物質的な夾雑物なしに、最も純粋な形で手渡す。

手渡されるのは、次の想像力である――あなたが最も輝くのは、あなた自身のためにではなく、他者のおねがいを叶えるときである。これは、自己呈示や自己実現とは逆を向く想像力である。近年、承認の経済が、自己を絶えず他者に呈示可能な記号へ変換しつづける労働として、人々を疲弊させてきた。東ゆうの悲劇は、その疲弊の虚構的な解剖図であった。『おねがいアイプリ』が女児に手渡すのは、その疲弊の手前で、発光を自己呈示から祈りへと組み替える想像力である。

この想像力を「発展性に資する」と呼びうるのは、それが最も年少の観客に、形成的な構造として与えられるからである。承認の経済に囚われる前に、発光が自己都合ではなく他者への祈りにおいて起動するという構造を、遊びとして受け取る。ナナの失敗と成功は、その構造を、勝ち負けの物語として子どもに提示する。ここには、虚構が現実に先立って想像力の型を差し出す、という発展性の契機がある。虚構は、現実の後追いではなく、現実がまだ与えていない想像力の型を、先んじて育てる場になりうる。

## 五――着陸点――物質の軸は光では照らせない

(映画「トラペジウム」番宣ポスターより)

だが、ここで留保を据える。この留保こそが、本稿の主題の後半――現実への着陸点――に関わる。

『おねがいアイプリ』が物質的な軸を捨象できるのは、女児向けだからである。逆に言えば、捨象したがゆえに、その発光の想像力は、現実の物質的な闇には届かない。他者への祈りにおいて光ることは、関係的・象徴的な水準の達成である。だが、その祈りの光は、貧困を、再分配の失敗を、経済的な閉塞を照らせない。車椅子を押す身体に後光が差しても、その車椅子を必要とする家族の介護の費用は、後光では支払えない。

これは、『前橋ウィッチーズ』が抱え込んだ留保と同じ構造である。ユイナの認知療法的なケアは、三俣チョコが「しんどい」と言えるようになることを助ける。気持ちの水準では、光が差す。だが、チョコのヤングケアラーとしての困難の本質は、政府の再分配政策の失敗という構造的な問題であり、友達主義や認知療法では解決されない。気持ちは解決され、環境は多少良くなっても、構造は固定されたまま残る。

ここに、二つの軸の分水嶺がある。関係的・象徴的な軸――祈りや詩的言語で救える軸――と、物質的・経済的な軸――再分配でしか救えない軸――の分水嶺である。女児向けの発光の想像力は、前者の軸においては、真の前進である。自己呈示から祈りへと発光を組み替える。だが後者の軸――物質の闇――は、発光では照らせない。

したがって、想像力の現実への着陸点は、虚構の内部にはない。それは、虚構が育てた想像力を、現実の制度――再分配、支援の仕組み、ケアラーの交流の場――へ接続したときに、初めて確保される。『前橋ウィッチーズ』を論じた批評が、花屋という職場を「ケアラーの交流センター」にすることを提案し、諸外国のヤングケアラー支援制度――自治体と地域の支援事務所の連携、奨学金――にまで踏み込んだのは、この着陸点が、後光ではなく制度でしか確保されないことを知っていたからである。

女児向けの発光の想像力は、その着陸点の半分――関係的・象徴的な軸の想像力――を提供する。残りの半分――物質的な軸の制度――は、虚構の外部に、宿題として残る。虚構は、想像力の型を育てることができる。だが、その想像力が現実に着陸するための地面――再分配の制度――は、虚構が敷くことはできない。

## 結――娘の世代へ

(映画「トラペジウム」の最期近辺、夕陽に立つ、解散したメンバーに暁を射す構図)

本稿の主題は、二つの問いであった。虚構の発展性に資する想像力とは何か。そして、その想像力は現実のどこへ着陸するか。

第一の問いへの答えは、こうである。二〇二六年の女児向けアニメは、発光を自己呈示から他者への祈りへと組み替える想像力を、最も年少の観客に手渡している。あなたが最も輝くのは、あなた自身のためにではなく、他者のおねがいを叶えるときである――この構造を、熱海ナナの失敗と成功は、勝ち負けの物語として子どもに提示する。承認の経済に囚われる前に、発光の別の起動法を、遊びとして受け取ること。ここに、虚構が現実に先立って想像力の型を育てる、発展性の契機がある。

第二の問いへの答えは、留保を含む。この想像力は、関係的・象徴的な軸においては着陸する。だが、物質的・経済的な軸――再分配の闇――には、発光では届かない。祈りの光は、恒星の光を取り戻す。だが、恒星の光は、再分配ではない。想像力の真の着陸点は、虚構の内部ではなく、虚構が育てた想像力を、現実の制度へ接続する、その接続の場にある。

だから、女児向けアニメの発光の想像力に対する態度は、二重でなければならない。それが手渡す想像力――祈りとして光ること――を、軽んじてはならない。それは、自己呈示に疲弊した現代への、虚構による、確かな応答である。だが同時に、その光が照らせない物質の闇を、見失ってもならない。虚構が育てた想像力を、現実の地面へ着陸させるのは、光ではなく、制度と、その制度を求める我々の側の仕事である。

娘たちの世代が、この発光の想像力を遊びとして受け取るとき、彼女たちが学ぶのは、他者への祈りにおいて光るという、美しい構造である。その構造を、気持ちの水準の慰めに留めず、現実の再分配の地面へ着陸させること――それが、虚構の外部にいる我々に残された、想像力の着陸点をめぐる責任である。虚構は、想像力を育てた。その想像力に地面を与えるのは、我々である。

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