トイ・ストーリー5

アニメ

~魔法円とその外部――遊びの境界と排除、デジタルは遊びの庭になりうるか~

※注記 本論にはネタバレを含みます。ご鑑賞後にご覧ください。



序――遊びを問い直す映画
『トイ・ストーリー5』は、遊びを主題にした映画ではない。遊びの境界を主題にした映画である。

物語の骨格は単純だ。八歳になったボニーのもとに、タブレット型デバイス「リリーパッド」(リリー)がやって来る。子どもを虜にする最新テクノロジーを前に、玩具たちは自らが不要になる予感に脅かされ、ウッディとバズが再び手を組む。ディズニー&ピクサーのチーフ・クリエイティブ・オフィサー、ピート・ドクターは本作のログラインを「Toy meets Tech」と表した。

だが本作の批評的な急所は、玩具とテクノロジーの対立そのものにはない。急所は、その対立を成立させるために、作品が何を画面から締め出したかにある。本稿は、この排除の構造を、ヨハン・ホイジンガの遊戯論――とりわけ「魔法円(magic circle)」の概念――を補助線として読み解く。そして、三つの異なる排除が一つの構造を共有していることを示し、最後に、その構造が指し示す一つの問い――デジタルは遊びの庭になりうるか――へ至る。

なお、本稿がホイジンガを動員する水準を、あらかじめ限定しておく。本稿はホイジンガの文化理論の全体を継承するのではなく、遊びの二つの規定――無償性(何の利益のためでもないこと)と魔法円(日常から切り離された固有の時間・空間の圏域)――のみを、作品を読むための座標として用いる。「ホイジンガ的な遊び」といった形容詞的な回収は行わない。


一 ――魔法円という境界

ホイジンガにとって、遊びは無償である。それは何かの手段ではなく、それ自体のために行われる。目的のための手段になった瞬間、遊びは遊びであることをやめる。そして遊びは、魔法円のなかで起こる。競技場、舞台、盤面、遊戯の輪――日常の秩序から切り離された、固有の規則が支配する圏域。この圏域は、境界を引くことによってのみ成立する。何かを外に締め出すことで、内側の遊びの純度が保たれる。

ここに、魔法円の逆説がある。境界なき遊びは存在しない。だが境界が完全に閉じ、内側が確定しきると、遊びは終わる。遊びは、境界を持ちながら、その内側が未決であり続ける限りにおいて、遊びであり続ける。決着した瞬間、魔法円は檻になる。

本稿は、この逆説を軸に据える。『トイ・ストーリー5』は、魔法円を維持しようとして、その内側で三度、異なる仕方で境界を閉じる。以下、三つの排除を、それぞれ固有の物質から記述する。


二――三つの排除

排除A――遊べないデジタルの選別
まず、作品がデジタルをどう描いたかを見る。リリーは、ボニーに友達を作らせ、成長の目標を達成させ、その関心を最大化するよう設計された装置である。徹頭徹尾、手段としてのデジタルだ。ホイジンガの無償性の基準に照らせば、これは定義上、遊びになれない。目的のための手段は、遊びの資格を持たないからだ。

一方、玩具の側は無償の想像遊びの純粋形として描かれる。バズが率いる馬の軍団、大量のドローンを象る縦横無尽のアクション、そしてボニーのごっこ遊び。ここには目的がない。ただ遊びがある。

つまり作品は、玩具とデジタルの勝敗を、どちらのデジタルを画面に選ぶかという時点で半ば決めている。規則を共有して一つの世界を立ち上げる遊び――協働的なオンラインの遊戯空間のような、魔法円としてのデジタル――ではなく、関心を最適化するプラットフォームとしてのデジタルを選んだ。前者を画面に出せば、デジタルはただちに遊びの資格を得てしまい、玩具対デジタルの二項対立そのものが溶ける。作品は、対立を保つために、遊べないデジタルを選ばねばならなかった

だが、ここで一つの反対論が要る。公平なデジタルは、実は脇役として存在している。旧式のテック玩具たち――トイレの玩具、GPS装置、カメラ玩具――は、かつて遊びの一部だった日々を懐かしむ、いわば「遊びたがるデジタル」である。動物・玩具・デジタル・人間が位相を越えて遊びの相手に変わる相転移は、この脇役たちの上でこそ起きている。したがって作品は、デジタルの遊戯的な可能性を捨ててはいない。ただ、それを主筋に担わせなかった。主筋は最適化するプラットフォーム(リリー)が占め、遊べるデジタルは副筋へ回された。排除Aの正体は、無視ではなく格下げである。デジタルを二つに割り、遊べないデジタルを敵に、遊べるデジタルを玩具の側へ回収した、選別としての排除だ。


排除B――打倒から養子縁組へ
この排除Aの意味は、アンドリュー・スタントンの前作と対比したとき、最も鮮明になる。スタントンは本作の監督・脚本を務め、シリーズ第一作から全作の脚本に関わってきた。そして彼は、二〇〇八年に『ウォーリー』を撮っている。

『ウォーリー』は、消費資本主義と自動化への告発だった。人類はスクリーンに餌付けされ、椅子から動けぬ身体になり、巨大企業と自動操縦システムに管理される。だがあの映画には外部があった――地球、土、身体、植えるという労働。船長は自らの脚で立ち上がり、機械仕掛けの権威を打倒して、土へ帰る。ウォーリーとイヴの愛は、無言で、触覚的で、アナログだった。二〇〇八年のスタントンは、スクリーンの外側からスクリーンを対照化することができた。

二〇二六年には、その外側がない。本作を配給するのは配信プラットフォームを擁する企業であり、作品はアテンション経済に最適化された主題歌を抱え、観客である親たち自身がスクリーンとともに生活している。プラットフォームを外側から断罪する映画は、もはや作りにくい。だから本作は「バランス」に落ちる。『ウォーリー』が土へ帰れたのは、まだ帰るべき外部があったからだ。本作が調和に落ちるのは、その外部が囲い込まれたことの、正直な登録である。

この対比は、機械の性差という軸でさらに尖る。『ウォーリー』の機械はであった――打倒すべき権威。本作の機械はである――ケアし、最適化し、和解すべきもの。『ウォーリー』は機械の父を打倒し、本作は機械の母を養子に迎える。「リリーもボニーを愛していた」と赦し、家族の圏域へ組み込む。打倒から養子縁組へ。離脱の物語から保存の物語へ。ここに排除Bがある――外部を排除するのではなく、外部を内部へ回収する排除だ。遊べるデジタルを玩具の側へ吸収し、最適化する母を家族の一員として受け入れる。ここではデジタルの想像力の水準で「破壊しない/できない箱庭」が反復されている。

本稿は、この排除Bを、スタントンの度胸の欠如としては読まない。むしろそれは、彼の作家性の一貫性の裏面である。スタントンは一貫して身体を持つものへの愛の作家だった――『ウォーリー』の機体、『ファインディング・ニモ』の海、そして玩具の物質性。身体を持つテクノロジー(ロボット)になら、彼は魂を与えられた。だが本作のリリー=タブレットは、身体を持たない純粋なスクリーンである。身体中心の哲学は、身体なきスクリーンを主体として愛することができなかった。排除Bは、作家の後退ではなく、身体の作家が身体なきものを前にして突き当たった限界の、正直な表れである。


排除C――余白を閉じる確定
三つ目の排除は、作品分析からではなく、一人の観客の直感から取り出される。本稿の筆者の娘(11歳)は、劇中のバズとジェシーの結婚式を観て、こう言った――あれは、二人それぞれを個別に愛する者への配慮が足りない、と。

これは笑い話の形をした、立派な受容批評である。バズとジェシーは、長らく開かれた曖昧さとして置かれてきた。じゃれ合いはあるが確定しない関係。受容者は、その未確定を、それぞれの想像の余白として遊ぶことができた。誰と結ばれてもよい、まだ決まっていない、という遊戯の余白。ところが結婚は、その余白を一方的に閉じる。娘が「配慮が足りない」と言うのは、これだ――遊べた開放性を、確定した終点が消費してしまった。

魔法円の逆説を思い出せば、この抗議の正しさが見える。遊びは、内側が未決である限りで遊びであり続ける。バズとジェシーの関係という魔法円は、じゃれ合いという未確定のうちにあるとき、受容者が遊べる圏域だった。結婚は、その内側を一点へ確定させ、余白を消し、遊びを終わらせる。ホイジンガの言葉を借りれば、魔法円は決着した瞬間に閉じる。排除Cとは、この余白の消滅である。可能性を一つに決めることが、他のすべての可能性を締め出す。


三――三つの排除を貫く型

三つの排除は、向きが異なる。
排除A(遊べないデジタルの選別)は、外部を二つに割り、一方を敵に、一方を味方に配分する。排除B(養子縁組)は、外部を内部へ回収する。排除C(結婚式)は、内部をさらに一点へ閉じる。選別、回収、確定――方向は三者三様だ。

だが三つとも、魔法円を維持・純化しようとして、かえって遊びを損なうという同一の型を共有している。遊びを守ろうとする身振りが、遊びを殺す。これが三つを貫く構造である。

順に確かめる。排除Aは、玩具の魔法円を純粋に保つために、遊べるデジタルを副筋へ退けた。魔法円は純化されたが、その純化はデジタルの遊戯的可能性を主筋から締め出すことで得られた。排除Bは、玩具の魔法円を豊かに保つために、外部(デジタル)を打倒せず家畜化した。魔法円は豊かだが、その豊かさは外部を飼い慣らすことの代価を払っている。排除Cは、バズとジェシーの魔法円を安定させるために、関係を結婚で確定させた。魔法円は安定したが、確定によって遊びそのものが終わった。

純化・家畜化・確定。三つの排除は、魔法円の三つの失敗の様式である。だが、ここで断罪へ急いではならない。魔法円は境界を必要とする。境界なき遊びは存在しない。したがって、あらゆる遊びは何かを排除する。排除それ自体は、遊びの罪ではなく、遊びの条件である。問うべきは「排除したこと」ではなく、「何を排除し、何のために排除したか」だ。

この視点に立てば、三つの排除は、一つの文化的な困難を、それぞれ別の角度から登録していることが見えてくる。私たちは、プラットフォームとしてのデジタルの像を無数に持っている。だが、魔法円としてのデジタル、遊びの庭としてのデジタルの像を、ほとんど持っていない。だから作品は、唯一の遊びの庭を、アナログの玩具へと退避させるほかなかった。三つの排除は、デジタルの庭を想像できないという文化の空白を、正直に登録している。超えてはいないが、登録している。


四――娘の位置――受容から届く声

三つの排除を「同じ構造」だと言うとき、その根拠を批評家の抽象化に置くなら、批評はたちまち痩せる。三つを束ねるのは、批評家の頭のなかの相同性ではない。三つの排除は、いずれもその排除に抗議する受容者の位置を生むという、具体的な事実によって束ねられる。

排除Aが副筋へ退けた「遊べるデジタルを愛する者」、排除Bが家畜化した「デジタルの外部を求める者」、排除Cが締め出した「未確定を推す者」。三つの排除は、いずれも締め出された誰かの位置を作り出す。そして娘は、その受容者の位置を、11歳の直感で占めてみせた。彼女は結婚式という一点(排除C)を突いたが、その一点が、残る二つの排除へ遡って光を当てる。作品分析(排除A・B)は、作品が何を締め出したかを外から論じる。だが娘の抗議(排除C)は、締め出された側の位置から声を上げている。

筆者が主題の水準で見出した「開いていたものを閉じる構造」を、娘はカップリングの水準で、独立に見つけた。親子が、別々の層から、同じ構造を突いている。批評家が三つを束ねるのではない。受容者が一点を突き、その一点が残り二つへ遡及的に光を当てる。三つの排除の相同性は、この受容の事実に係留する。


五――到達点か、黄昏か

ここで、本作の位置づけをめぐる一つの決定不能を、決定しないまま提示しておく。

本作は、遊びを主題化するシリーズの到達点である。トイ・ストーリーというシリーズ全体が、玩具という「遊びのための物質」を通じた、遊びの映像的な探究だった。同時に本作は、無生物に魂を吹き込むというピクサーの営みの、自己言及的な総括でもある。ピクサーはCGという「デジタル」を用いて、玩具という「物質」に魂を与えてきた。本作でデジタルと玩具を対立させることは、ピクサーが自らの技術と自らの主題を対決させることにほかならない。

だが「到達点(culmination)」という語は、頂点であると同時に終点でもある。本作をシリーズの頂点と呼ぶことと、フランチャイズの消耗の徴と呼ぶことは、同じ一点の裏表である。真の到達点であるためには、ピクサーはこの自己言及を最後まで引き受けるべきだった。すなわち、デジタルにもまた魂を与える――リリーにウォーリー的な魂を認める――ところまで行けば、ピクサーの哲学は完成しただろう。だが本作はデジタルを敵(最期は味方)の側に留めた。ピクサーは自らの技術を敵として描きながら、その敵に魂を与えることを拒んだ。

頂点か、黄昏か。本稿はこれを決定しない。決定を急げば、批評は断罪へ滑る。本作の抱える甘さは、作家の力量の低下ではなく、外部が消えた時代の症状である。その症状を、頂点の輝きと読むか、終わりの翳りと読むかは、材料の上では割れる。割れたまま、次の問いへ渡す。



結語――娘の感性を、どこへ発展させるか

本稿は、本作を排除の映画として裁くために書かれたのではない。遊びは排除なしに成立せず、その排除の様式にこそ時代が刻まれる、という一点を示すために書かれた。アニメ(2025夏完結)/漫画「よふかしのうた」の夜の貧困、本作のデジタルの家畜化、結婚式の余白の消滅――排除の様式の違いが、二〇二〇年代の「遊びの境界をどこに引けるか」という文化の困難を、それぞれ別の角度から登録している。

そして、この困難のただなかに、娘の抗議がある。彼女は、確定が遊びを終わらせることを、身をもって知っていた。未確定の余白こそが遊びの圏域であることを、理論の言葉を経ずに掴んでいた。この感性を、どこへ発展させるか。それが、本稿の最後の問いである。

本作が描けなかったもの――魔法円としてのデジタル、遊びの庭としてのデジタル――を、娘の世代は、作品ではなく生活のなかで発明しうる。デジタルは、関心を最適化する母(プラットフォーム)であることをやめ、規則を共有して未決の世界を立ち上げる遊びの庭になりうる。協働で世界を築く遊戯空間、物語を分岐させ書き換える創作の場、他者とルールを取り決めながら未確定の圏域を維持する営み――そこでは、デジタルは手段ではなく、無償の遊びの魔法円になる。

大切なのは、その魔法円の内側を、確定させないことだ。娘が結婚式に抗議したあの感性――余白を閉じるものへの違和――は、デジタルの遊びを設計する原理にそのまま転用できる。答えを一つに決めないこと。可能性を開いたまま保つこと。他者を一つの位置へ囲い込まないこと。それは、本作が排除によって手放したものであり、そして次の世代が、デジタルの庭を育てるための鍵である。

『トイ・ストーリー5』は、遊びの庭をアナログの玩具へ退避させた。だが退避は、敗北ではない。それは、まだ育てられていない庭が、どこにあるかを指し示す身振りでもある。デジタルの庭は、まだ想像されていない。それを想像し、育てるのは、結婚式に「配慮が足りない」と言った、あの感性の側である。


参考文献
「ホモ・ルーデンス」ホイジンガ 著/高橋英夫 訳 中公文庫
「ゲームスタディーズ 遊びから社会と文化を考える」吉田真、井上明人、松永伸司、マーティン・ロート編 フィルムアート社



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