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※本論考の全てのBanGDream! Ave Mujica 、MyGO!!!!! の関係固有名詞、画像は㈱ブシロード、サンジゲン㈱に所属します。
※注記
本論考はBanGDream!AveMujicaの物語内容の核心を扱うため、未見の方は、視聴後の読解をご検討お願い致します。
序章|双数という単位と診断という構え

(Avemujica 10話より 豊川祥子のトルソーと共に横たわる三角初音)
三角初音〔固有名の規律:「初音」は構築を行う本名の主体、「初華」は構築された表層・舞台上の名を指し、本論はこの区別を一貫させる(術語は本節末で詳述)。〕の私室に、衣装がひとつ、無人のまま起立している。トルソーに着せられたそれは、初華自身が舞台で纏うものではない。オブリビオニス——豊川祥子がAve Mujicaの舞台に立つときの衣装である。祥子はそこにいない。私室にあるのは、祥子の身体の輪郭だけを留めて無言で立つ、無人の衣装だ。そして同じ私室で、その衣装とともに、初音自身が身を横たえている。起立しているのは祥子の空虚な輪郭であり、伏しているのは生身の初音だ。これを愛と呼ぶこともできる。だが愛と呼ぶ前に、まず記述しておくべきことがある——ここで他者は、関係の相手ではなく、私室に据えうる物の位置に置かれている。
この物の位置を、もう一歩記述する。初音が私室に置いているのは生身の祥子ではなく、祥子の形をした、着せ替え可能な依代である。なぜ依代なのか。生きた祥子は、初音の意のままにならないからだ。祥子は自らの脚で山を登り、自らの口で初音を承認し、自らの意志で名乗る——初音に命じられてではない。初音に命じうる相手として手元に残るのは、ゆえに、生きた祥子ではなく、物言わぬその代理だけである。依代は所有の像ではない。所有しそこねの像である。本論はこの一個の物に、追うべき双数の非対称——自らの脚で動く祥子と、動かぬ代理を抱える初音——の縮図を見る。そしてこの物の位置から、初音——初華という構築をまとう、その本名の主体——の構築を読みはじめる。
本論が分析の単位とするのは、三角初音と豊川祥子の双数である。個々の登場人物ではなく、二人が互いに宛て合う構築の関係そのものを単位に取る。ただしこの双数は、対等な二主体の対ではない。一方の極の豊川祥子は、外なる権威に依らず自らの内から意味を立てる自己立法的な主体である。他方の極の三角初音は、核を最初から備えた主体ではない。借りた名・借りた記憶・借りた役を重ねることで、現実の核を後から蓄積してゆく主体である。初音の自己は薄く、他律的で、他者の光に照らされてはじめて像を結ぶ。だが空ではない。重ねられた虚構は、反復されるうちに沈殿し、現に在る——薄くとも、知り、抵抗し、選ぶ——一個の自己を成す。これが本論の表題が言う構築としての同一性の謂いである。同一性は、核から発するのではなく、構築の堆積として、後から現実になる。本論はこの非対称——内から意味を立てる祥子と、構築を重ねて核を蓄える初音——を、関係の途中で生じる傾きとしてではなく、双数を最初から構成している条件として扱う。そして共依存とは、この非対称が噛み合う錠の名である。初音が蓄える核は、祥子に照らされ係留されてはじめて現実になる、関係に依存した核だからだ。満たされることを能動的に懇願し所有する初音の係留と、それを呑んで余りある祥子の供給とが、互いを閉域へ閉ざす。そしてこの錠が極まる地点——初音が重ねて蓄えた自己が、祥子の手で、その構築を解かれて一個の物へと封じられる地点——を、本論は双数の終端として、自らの管轄で診断する。その先になお残る問い——自己同一性を、関係を経由せずにいかに手放し、あるいは手放させられるか——のみを、次論考へ送る。これは前段二論考の方法——CRYCHICの崩壊を共有事件とし、燈型と睦型を対として読む二軸の地図——を継承するが、本論が扱うのは、そこから取り出した初音/祥子の層に限る。一つの作品の内部に複数の異なる構築の様態が併走しており、本論が追うのはそのうちの一本——所有する者と君臨する者の双数である。

(Avemujica 11話より 左から幼児期の豊川祥子、三角初華(≒初音))
そして本論の構えは、擁護ではなく診断である。本論はこの双数による同一性の構築を、共依存——相互評価のゲームからの撤退が、他者に寄りかかりつつ自立する「弱い自立」へではなく、密閉された箱庭へと閉じてゆく失敗の様態——として診断する。診断という語を、本論は弁明の対義語として用いる。すなわち本論は、初音の所有や祥子の主権を、批評家が外から距離を供給して救い出すことをしない。それが、前段二論考が「説教ポルノ」と呼んで斥けた手つきだからだ。本論が診断でありうるのは、その根拠を批評家の足し算にではなく、作品自身が引く線に置くからである。作品は初音の構築と祥子の構築を、ただ肯定的に上演しているのではない。燈と初音の詩の対照において、仮初という自己刻印において、閉ざされたSUMIMIのレジスターにおいて、作品は自らこの双数の閉鎖を標識している。この作品自身の線を記述することが診断であり、その実演は第3章に置かれる。
本論はガールズバンドアニメというジャンルの内部批評ではない。MyGO!!!!!/Ave Mujicaを、現代日本社会で人々が直面している問題群——統一された自我を保持することが困難になった人々、承認の経済に疲弊した人々——への、虚構を経由した応答の、最も精緻な実装として読む。この射程において、初音と祥子の双数は、承認の経済からの退却が母性的な抱擁へと閉じてゆく現代的な誘惑の、虚構による解剖図である。退却そのものが誤りなのではない。問題は、退却した先が庭であるか、閉じた箱庭であるか、にある。
最後に術語の規律を定める。本論は「自我」「個体」「主体」「アイデンティティ」の四語を互換的に用いず、それぞれを固有の典拠に紐付ける。「自我」は真木悠介『自我の起原』(岩波現代文庫、二〇〇八年)の語彙であり、自己が他者との関係において関係的に成立することを指す(七〇頁)。「個体」はシモンドンのindividuの訳語であり、完成した実体ではなく、準安定性・前個体性・位相のずれ(déphasage)を通じて生成し続けるものを指す(藤井千佳世監訳『個体化の哲学』法政大学出版局、二〇一八年、準安定性一四三頁・前個体的なもの六〜七頁・位相のずれ七頁)。「主体」はクリステヴァのsujetの訳語であり、過程であると同時に審理でもあるという二重の含意において、固定されえない過程としての主体(sujet en procès)を指す(Julia Kristeva, « Le sujet en procès », in Polylogue, Seuil, 1977, pp. 55-106。本書の邦訳は存在せず、原綴で動員する)。「アイデンティティ」はバトラーのidentityの訳語であり、引用と意味づけなおしを通じて構築され、反復・失敗・拒否の三様態に開かれた社会的構築物を指す(竹村和子訳『触発する言葉』岩波書店、二〇〇四年、意味づけなおし三七頁)〔注1〕。また、フロムとリースマンを補助線として動員する〔注2〕。なお固有名の運用を一つ定める。「初華」は構築された表層の名・舞台上の名を、「初音」はその構築を行う本名の主体を指し、本論はこの区別を一貫させる。
そのうえで、社会層において本論が最も慎重に扱う一つの概念——ケアの倫理——に、あらかじめ二重の歯止めを据える。本論はケアを、ジョアン・トロント『モラル・バウンダリー』(杉本竜也訳、勁草書房、二〇二四年)の脱本質化された水準で動員する。すなわちケアを、女性的な特性として担われるものとしてではなく、ケアの労働が特定の——しばしば女性化された——形象へと構造的に配分される、その配分の問題として扱う。これが第一の歯止めである。だがこの脱本質化は「特性論」の裏口を塞ぎはするが、もう一つの裏口——救済する全能の母という形象——を塞がない。失敗した父の秩序の埋め合わせとして全能の母の抱擁へ退却するという図式は、宇野常寛『母性のディストピア』(ハヤカワ文庫、二〇一九年、接触篇四五頁)が名指した形象そのものであり、トロントの脱本質化はこれを覆わない。ゆえに本論は第二の歯止めを据える——祥子のケアを母性的・主権的な救済として肯定的に読まない。祥子が「神になる」と宣言する口と、初音を「なかったことにして」抱え込む手とが融合するとき、本論はそれを救済としてではなく、主権的なケアの危うさとして記述する。この二つの歯止めの上でのみ、ケアの倫理は本論において、双数の共依存を尊厳化する装置ではなく、それを批判的に診断する装置として機能する。

(「母性のディストピア」)
序章 注
注1(術語の規律) 各語の典拠は本文の動員箇所ごとに脚注で明示し、「シモンドン的個体化」「バトラー的アイデンティティ」のような形容詞的な回収は本論を通じて禁則とする。
注2(補助線の動員) 本論が補助線として動員するフロムの愛の四要素とリースマンの社会的性格類型は、いずれも原典の規範的射程や類型論そのものを継承するのではなく、四要素は愛の達成目標ではなく記述の座標として、三類型は個人の心理ではなく社会が産む性格構造の手掛かりとして動員する。祥子を三類型の外に置く判断も、リースマンの継承ではなく本論の読みである。
第1章|初音の構築——所有・幽閉・嘆願

https://www.youtube.com/watch?v=0YNMV7xljD4
(Avemujica 10話 Imprisoned Ⅻより)
序章はひとつの物——初音の私室に立つ祥子の依代——から本論を始めた。本章はこの物の論理を、初音の構築の全体へと延ばす。初音の構築とは何か。本章はこの問いに物質から答える——そして取り出されるのは、自分ではない者を素材として組み立てられた自己、という像である。
まず名がそうである。「初華」は初音が発明した名ではない。初音の実妹の名である。11話の独白劇で初音が語るところでは、祥子との思い出として初音が携える挿話——虫を採った夏の記憶——の大半は、初音自身の経験ではなく、妹の初華から夏の夜に聞かされた話である。初音が自分のものとして持ち歩く過去は、妹のものを借りた過去だ。初音は妹の名を名乗り、妹の記憶を着て、舞台ではドロリスという役を纏う。名・記憶・役の三層が、いずれも他者から借りられている。妹の初華は作中に姿を現さない。その死も喪失も、作品は描かない。だから初音の借用は、失われた者を悼んで生かし続ける喪としては、作品の側から支えられていない。借用は、生きた他者の名と記憶を、その不在のまま身に着ける運動である。そしてこの借用が祥子へ及ぶとき、それが領有であることがはっきりする。依代が、その形だ。生身の祥子を意のままにできない初音は、祥子の形をした物を私室に据える。借りうる他者——妹の名、妹の記憶——の列に、祥子もまた、物として加えられる。
この領有が祥子に向けられるとき、それは幽閉の形をとる。同じロフトで初音は祥子へ宛てた詩を綴り、後にそれを弾き語る。曲名は「Imprisoned XII」——幽閉。そのイメージの構造は明瞭である。翼のない相手を堕とし、逃げられぬよう閉じ込める。愛が、所有として、幽閉として書かれている。初音にとって祥子を愛することは、祥子を手元に閉じ込めることと、区別されていない。シャワーの場面で初音が漏らす独白——祥子を「離したくない」、燈に「とられちゃう」——は、この幽閉の論理を、喪失への恐れの側から照らす。流れる水が排水溝へ絶えず飲み込まれて消えてゆく画が、その独白に重ねられている。

(Avemujica 9話より 若葉睦に対して激昂する三角初音)
そしてこの幽閉は、動く歌や独白だけでなく、静止した一個の図像にも書き込まれている。同じロフトで二人が並んで寝そべる、ある朝の場面で、二人のスウェットの胸には、対をなす天体の図案が入っている——祥子の胸に星、初音の胸に三日月。そして初音の三日月は、祥子の小さな星を抱き込むように囲っている。みずから光を放つ星と、その光を受けてはじめて輪郭を得る月。照らす者と、照らされる者。その照らされる側の月が、自分を照らす光源そのものを、弧の内側へ囲い込む。歌詞のイメージや私室の依代という動的な実演に加えて、衣に入れられた一点の図案においても、初音の所有と幽閉は、静止した紋章として図像化されている。

(Avemujica 12話より。祥子の胸に星、初音の胸に三日月。そして初音の三日月は、祥子の小さな星を抱き込むように囲っている)
所有と幽閉は、初音の側からの一方的な差し出しとして現れる。発声練習の場面で、初音は祥子の背に向かって、自分の人生を「ぜんぶあげたい」と語りかける。全的な自己譲渡である。だが祥子は背を向けたまま応えない。気まずい間がそこに残る。初音が全を差し出し、祥子が受けも返しもせず逸らす——この非対称が、双数の核にある。カフェの場面はそれをさらに尖らせる。初音が「祥ちゃん、Ave Mujicaやろう、ずっと一緒にいよう」と請うと、祥子は睨んで「帰ります」と去る。初音は「わたし、自分勝手なこと言って、ごめんなさい」と追うが、祥子は振り向かない。初音は立ち尽くす。画面の明暗差が、二人の断絶を画として刻む。初音が祥子へ絞り出す「嫌いに、ならないで」が、この場面の底にある情動を名指している——嘆願である。嘆願と自己知は、同時に起きている。初音は「自分勝手なことを言って」と言う。自分の請いが自分勝手だと、初音は知っている。知らずに請うているのではない。自分の係留が一方的で身勝手だと知りながら、なお「嫌いにならないで」と請う。この、知りつつ請うという同時性が、初音の構築の核心にある。

(Avemujica 10話 三角初音(初華)「私、自分勝手なこと言って・・・」「ごめんなさい・・・」)
初音の渇望には、根がある。11話の独白劇が遡るのは、幼い初音が祥子と星空を見上げた夜だ。祥子は初音の正体を知らぬまま、いつもは陽のように明るいあなたが今日は月のように優しい、と言う。初音は答える——光が満ちた、生まれ変わったような気がした、ずっとずっと照らされたかった、と。初音が祥子にまず求めているのは、照らされること、見られることである。自分では光を持たず、他者の光に照らされて初めて自分になる——この受光の構造が、初音の渇望の根にある。そしてこの一夜には、初音の構築の悲劇が畳まれている。祥子が見たのは、太陽のように明るい妹・初華の影に隠れていた月——初音そのものだった。一度だけ、初音は初音として見られた。ところが初音は、その見られた月にとどまらない。祥子の傍に在り続けるために、初音は太陽=初華になる。妹の明るさを演じて関係を保ち、まさに祥子が見たはずの月の自己を、構築の下へ埋めてしまう。見られることを求めた者が、傍に在るために、見られた自己を消す。この自己知が最も暗い形で外在化されるのが、11話の分裂の場面である。幼少期、祥子が小豆島を去り、独白の初音が仮面を着けるその瞬間、初音の身体は一、二分のあいだ二体に分裂する。仮面を着けた側は、祥子への思いを叫ぶ。仮面を着けない側は、それをなじる。だがなじりの内実は、単なる自己憐憫ではない。羨望——「初華だけずるい」。自己劇化の暴露——自分は「かわいそうなわたし、悲劇のヒロイン」を演じているにすぎない。そして最も鋭いもの——「祥ちゃんは悲劇の舞台装置」だ、「大っきらい」、「祥ちゃんを騙し続ける自分が気持ち悪い」。仮面を着けない側の声は、初音の渇望を脱神秘化する。お前は本当に祥子を好きなのか、それは祥子を自分の悲劇のための装置として道具化しているだけではないか、と暴く。ここに、初音の構築の成り立ちが露出する。「初華」という構築は、この暗い裏面——羨望・憎悪・道具化、そしてそれを見抜く自己知——を、舞台の外へ追放することで成り立つ。分裂は一つに戻る。だが対等な融合としてではない。祥子に「会いたい」と泣き叫ぶ仮面の側が残り、なじる素顔の側は画面の右へ歩き去り、画面外となって消える。構築の純粋さは、暗部を否認することによってではなく、暗部に声を与えてから、それを目に見える形で追放することによって作られる。残るのは、純化された渇望——「祥ちゃんに会いたい」——だけである。

(Avemujica 11話より。分裂する三角初音(素顔)、三角初華(仮面)「祥ちゃんは悲劇の舞台装置」)
だがこの追放は、暗部を消しはしない。締め出されたものは戻りうる。そして本論にとって決定的なのは、構築そのものが剥がれる終点で、その下から現れるものの正体である。独白劇は最後まで仮面を保ったまま終わり、第10話末の場面——父・豊川定治が娘を呼ぶ場面——へ接続する。そこには仮面がない。父は「初音、帰りなさい」と、本名で娘を名指す。だが初音は応えない。発声しない。沈黙する。注意深く見れば、構築の二つのマーカーがここで同時に消えている。視覚のマーカーである仮面と、聴覚のマーカーである声——初音の声は独白劇を通じて、演技された声から現実の声色へと少しずつ降りてきていた——が、終点で揃って失われる。構築の剥奪が、物質として確定する。ところが、剥奪の先にあるのは「素の初音」ではない。沈黙である。本名「初音」は、彼女が自ら取り戻すのではなく、父によって、外から課される。構築された表層(初華)が声を持ち、現実の深層(初音)は無声で、他律的に名指されるだけだ——深層にこそ素の自己が眠っているという想定が、ここで反転する。そしてこの沈黙は、二通りに読める。応答の停止としての沈黙——父の秩序への積極的な拒否。あるいは、構築を剥がれた者の崩落と服従——東京を追われ小豆島へ帰着する敗北。本章はこの沈黙を、どちらか一方へ倒さない。倒せないことそれ自体を記述として登録する。沈黙が拒否であるか崩落であるかは、初音が祥子の承認に媒介されて声を取り戻す次章まで、宙づりのまま預けられる。
ここまで積み上げた物質を、理論の手で読み直す。初音の構築は、存在論から社会的性格にいたる幾つもの層で、同じ一つの運動を反復している——開かれているべきものを閉ざそうとし、そして閉ざしきれない、という運動である。
存在論の底から始める。シモンドンにとって、個体は完成した実体ではなく、前個体的な緊張を孕んでまだ解決されきらない、準安定的な位相にある(藤井千佳世監訳『個体化の哲学』法政大学出版局、二〇一八年、準安定性一四三頁・前個体的なもの六〜七頁)。個体化とは、この緊張が位相のずれを通じて生成し続ける開かれた過程であり、しかも前個体的な緊張は、どの個体化によっても汲み尽くされない。初音もまた準安定的な主体だ。彼女の自己は定まっていない。初音の構築は、この未決の緊張を、借りた名・記憶・役で組まれた一つの固い形へと固定しようとする企てである。だが、シモンドンの存在論が告げるのは、その固定が成就しえないことだ。前個体的な緊張は汲み尽くせない以上、いかなる構築もそれを完全には収めきれない。収めきれなかった緊張は、分裂の場面で素顔役として噴き出し、終点で構築が剥がれるとき、沈黙として残る。素顔役も沈黙も、否定弁証法の産物ではない。それは、構築が解決しきれずに残した前個体的な緊張の、回帰である。閉ざしは、存在論の底で、すでに破れている。
記号論の層では、この閉ざしが、審理の打ち切りとして現れる。クリステヴァの「過程としての主体(sujet en procès)」は、過程であると同時に審理でもあるという二重の含意を持つ(Julia Kristeva, « Le sujet en procès », in Polylogue, Seuil, 1977, pp. 55-106。邦訳は存在せず原綴で動員する)。主体は完成せず、絶えず審理にかけられ続ける。11話の分裂は、この審理を文字どおり舞台化したものだ。仮面を着けない素顔役が、初音の渇望を被告席に立たせる——本当に好きなのか、それは祥子の道具化ではないのか、と。だが初音は、この審理にとどまらない。彼女は被告であり続けることをやめ、審理そのものを終わらせる。告発する素顔役を画面外へ歩かせ、締め出すことで、審理を打ち切る。残された純化された渇望は、審理を経て鍛えられた確信ではなく、審理を追放して得られた、見かけの純度である。
社会層へ移る。バトラーにとって、アイデンティティは引用(citation)の堆積である。固定した本質ではなく、先行する規範や役を反復=引用し続けることで、その都度かろうじて構築される(竹村和子訳『触発する言葉』岩波書店、二〇〇四年、意味づけなおし三七頁)。初音の構築は、この引用の論理を極限まで露わにしている。彼女のアイデンティティは、引用しかない——妹の名の引用、妹の記憶の引用、ドロリスという役の引用。だが引用には、本来、ずれと失敗の余地がある。引用は完全には反復されず、その失敗の隙間にこそ、意味づけなおしの可能性が宿る。初音の引用は、この失敗を許さない。素顔役という失敗——引用がほころび、構築の道具化が露呈する瞬間——を、彼女は意味づけなおすのではなく、追放する。だが、その追放によって初音が引用の外へ出るわけではない。バトラーにおいて、引用の体系の外に立つことは原理的に不可能であり、失敗の追放そのものが、体系の内部でなされる否認の一手にすぎない。初音の引用は、自らの失敗を否認しながら、なお閉じた反復であり続ける。
この閉じた引用が他者に対して犯すのが、尊重の失敗である。フロムは、愛を配慮・責任・尊重・知の四要素から成るものとし、尊重を、相手をあるがままに見て自分の必要のために利用しないことと定義した(『愛するということ』鈴木晶訳、紀伊國屋書店、二〇二〇年、配慮・責任・尊重・知の四要素は第二章四六〜四七頁)。初音は祥子を愛している。だがその愛には尊重が欠けている。祥子は「悲劇の舞台装置」であり、私室の依代であり、全的に差し出される自己譲渡の宛先であって、あるがままに見られる他者ではない。フロムにおいて、尊重を欠いた愛は、支配と所有へ堕する。初音の幽閉の歌は、まさにその堕落の、作品自身による命名である。
そして、この構築全体を社会的性格の水準で支えているのが、他人指向である。リースマンの言う他人指向型とは、本来、ある社会が生み出す性格類型であって、個人の心理特性ではない。自らの内に方位磁針を持たず、他者の視線と承認から、その都度、自分が何者であるかを受け取る——その性格の構造を、初音は極端なまでに体現している(『孤独な群衆』加藤秀俊訳、みすず書房〈始まりの本〉、二〇一三年、三類型〔伝統指向・内的指向・他人指向〕の定義は上巻一七頁)。初音の「ずっとずっと、照らされたかった」は、その体現の最も純粋な定式である。初音は自ら光を持たない。祥子に照らされ、見られ、承認されることによってのみ、自分になる。受光の構造——他者の光と承認に依存して初めて像を結ぶ自己——が、初音の構築の社会的な根である。
幾つもの層が、同じ一つの帰結を指している。初音の同一性構築とは、閉ざされた自己劇である。それは、審理を打ち切り、引用の失敗を否認し、他者を素材へと領有し、準安定の開かれを封じようとすることで成り立つ。11話がその形式を物質として提示していた——初音は、無数の無人座席に向かって、たった一人で芝居を演じる。観客はいない。唯一の他者であるはずの祥子は、対話の相手としてではなく、舞台装置として、依代として、劇の中に据えられている。これは他者と分かち持たれた世界ではなく、他者を素材に組み上げられた、一人だけの密閉された劇場だ。本論が双数の初音の極を共依存と診断する、その根拠の半分が、ここにある。
もう一点、確かめておく。これまで積み上げた物質——借りた名、借りた記憶、借りた役、私室の依代、そして自ら光を持たず照らされてはじめて像を結ぶ受光の構造——は、初音が、核を内から備えた厚い主体ではないことを指している。だが、核を持たないのではない。初音は、借り物の虚構を重ねることで、現実の核を後から蓄積してゆく主体である。妹の名を名乗り、妹の記憶を着、祥子をめぐる挿話を反復するうちに、その借り物は沈殿して、現に在る一個の自己になる。「初華」という構築は、空虚を覆う仮面ではない。反復された虚構が現実の核へと凝固してゆく、その堆積の名である。だからこそ初音は、知り、抵抗し、選ぶ——「自分勝手なことを言って」と自らの渇望を裁き、「許されない」と忘却を拒む。これらは核なき器のふるまいではない。構築によって蓄えられた、薄くとも現に在る自己の声である。ただし、この自己には決定的な脆さがある。それは内から立つのではなく、照らされ、係留されることによって現実になる、関係に依存した核なのだ。祥子の光が引かれれば、蓄えられた現実は支えを失う。この、構築によって蓄えられながら関係に依存した自己という初音の身分が、本論の双数を、対等な二主体の対ではなく、最初から非対称な対——内から立つ主体と、構築を重ねて立つ主体——として規定する。そして人形化は、13話に突如訪れる主体の喪失ではない。重ねて蓄えられてきた自己が、その構築の支え——祥子の係留——を、祥子自身の手で断たれて、封じられる到達点である。
だが、この閉ざされた自己劇は、本章の終点で剥がされた。仮面と声が同時に失われ、後に残ったのは、素の自己ではなく沈黙だった。閉ざされた構築が剥がれたあとの、あの宙づりの沈黙——拒否なのか崩落なのか——を、初音は一人では決して埋められない。それを埋めるのは、初音ではなく、初音を初音として承認しにくる、もう一人の極である。次章は、その極——豊川祥子——の構築へ向かう。
第2章|祥子の構築——主権的・包摂的ケア

(Avemujica 12話より 豊川祥子は三角初音の手を引き、旧邸宅を後に「二人で生きていく」決意を固める)
第1章は、剥がれた構築の下に残った初音の沈黙で終わった。その沈黙を埋めにくるのが、豊川祥子である。そして祥子は、初音がしたことのことごとくを、逆向きに行う。初音が他者を領有したところで、祥子は自らの拠り所を手放す。初音が他者を道具として閉じ込めたところで、祥子は他者をあるがままに見て承認する。初音が照らされることを乞うたところで、祥子は自ら光源になろうとする。本論の重心は、ここにある。能動に構築し、承認し、宣言するのは、初音ではなく祥子だ。だが本章が示すのは、この能動が、初音の閉鎖とは別の仕方で、やはり一つの閉鎖へ向かうということである。
まず、祥子は降りる。12話の冒頭、雨の空港で、祖父・豊川定治——第1章末で初音を本名で呼んだ、あの父——は祥子にスイス留学を命じる。豊川の秩序が敷いた進路だ。祥子は「これが、神様が決めた運命だとでもいうんですの」と漏らし、「抗っても、抗っても、全て濁流に流される」と続ける。言葉は敗北を語っている。だが身体はそうしない。プライベートジェットの階段を登る途中で振り向き、祥子は脱げた靴をそのままに、空港を後にする。祥子は、運命に抗えないと言いながら、運命を残して歩き去る。後の対決の場面で、この身振りは言葉になる。祖父の前で祥子は言い切る——「もう、おじいさまの言いなりにはなりません。二人で暮らします」。祥子は、豊川という評価と承認の秩序を、自ら降りる。

(Avemujica 11話より 小豆島を眺める三角初音)
降りた祥子が向かうのは、小豆島だ。祥子は単身で島へ渡り、徒歩で三笠山を登り、別荘の管理人として住み込んだ初音を探し当てる。第1章で父に本名を課されて沈黙した初音は、ここでは自ら口を開く——だがそれは承認の言葉ではなく、拒絶の言葉だ。初音は出自を明かす。自分は妾の子であり、豊川祥子の実父・豊川清告の失脚に一端で関わった者であり、祥子の側にいる資格はない、東京へ帰ってほしい、と。初音は自らを、祥子から遠ざけようとする。祥子はそれを聞かない。祥子は初音を三笠山の頂へ連れ出し、幼少期に二人で星空を眺めたあの夜の記憶において、星を愛したその者こそ初音だと言い当てる。そして本名で呼び戻す——「初音!帰りますわよ」。呼称が変わる。「初音さん」が「初音」になる。
ここで起きていることを、正確に記述しておく。祥子の承認は、初音の自己規定を外から覆す行為である。初音は「資格がない」と、自らを祥子から退けていた。祥子はその自己規定を聞き入れない。お前が誰であるかは、お前自身ではなく私が決める——とでもいうように、祥子は初音の自己拒絶を斥け、星を愛したその者こそ初音だと、上から認定する。これは、第1章で初音自身が果たせなかった構築と現実の同一化を、祥子が初音の外から与える、力強い承認だ。だが同時にそれは、承認される者の自己理解を、承認する者が書き換える行為でもある。尊重と主権は、ここで既に一つになっている。

(Avemujica 12話より 三角初音の手を引き、名指し、共に歩もうとする豊川祥子)
この承認が、第1章の終点で宙づりにされた沈黙を解く。父の名指しへの初音の沈黙は、拒否でも崩落でもなかった。それは、承認してくれる他者を待つ沈黙だった。祥子の承認を経て、初音はようやく声を取り戻す。祖父の前で初音が発する本編初の反論——「祥ちゃんと一緒にいさせてください」——が、その声である。ただし、取り戻された声が言うのは「私は初音だ」ではない。「祥ちゃんと一緒にいさせてください」だ。初音の声は、自律の宣言ではなく、対他の渇望のままに発される。沈黙を破ったのは初音の自律ではなく、祥子の承認に媒介された関係的な起動である。この第三の形の内実には、第3章で立ち入る。
この上から目線の認定は、苦しみをめぐる場面で、最も剥き出しになる。山頂で初音は、自らを卑下して祥子を遠ざけようとする——祥子と過ごせて幸せだった、幸せなんて言える立場ではないけれど、「この思い出があるから、生きていける」、だから、と。生きていけると言いながら、初音はその同じ口で、自分にはここに居る資格がないと、関係から降りようとする。祥子はそれを「ご自分のことばかりですのね」と斥ける——自分の資格のなさばかりを数え、ひとりで身を退こうとする初音を、だ。そして船の上で、祥子は提案する——「なかったことにしません?」。何を、なかったことにするのか。祥子は明示する。「あなたと私をとりまく不幸と後悔、しがらみの全て」を、だ。注意深く見れば、祥子が消そうとするのは初音という存在ではない。初音をめぐる苦しみである。祥子は初音の存在を肯定し、その苦しみだけを忘れさせようとする。だが初音は、その消去を拒む——「そんなこと、できないよ。許されない」。なかったことにすることが、初音には許されない。祥子のケアは、この拒否を聞き届けるのではなく、それを越えて、忘れさせ、なかったことにして始めようとする方へ傾いてゆく。
祥子のケアは、それゆえ、二つの相を分かちがたく抱えている。一方でそれは、苦しむ他者を見捨てず、その存在を丸ごと肯定する、力強いケアである。他方でそれは、救われる者の自己審判を、救う者が上から書き換えるケアでもある。初音は、自分には資格がないと自らを裁き、消去の提案には「許されない」と抗う。祥子はその裁きも拒みも聞き届けて共に背負うのではなく、忘れさせ、なかったことにし、運命など何だというのかと退ける。祥子のケアは、初音の声を聞き届ける応答であるよりも、初音に代わって解決を引き受ける主権の行使の方へと、傾いてゆく。
この主権が契約の形をとるとき、それは王国になる。祥子がAve Mujicaを束ねる言葉は、結婚の誓いの定型をなぞる——「私たちは運命共同体、病めるときも健やかなるときも、運命を共にして頂きます」。そして——「今後何があろうと脱退は認めません。これは契約ですわ」。一人ひとりの人生を、祥子は一つの運命へと束ねる。脱退は許されない。これは、水平に開かれた共同体ではなく、一人の主権者のもとに全員が契約で結ばれた、王国の形である。そして12話の終幕、その主権は頂点に達する。祥子は睦・海鈴・にゃむ・初音を集め、宣言する——「運命を甘んじて受け入れる必要は無い。神様などいない。ですから、わたくしが神になります」。事務所が、定治の意を汲んで再結成を止めようとする。祥子は退けない。「わたくしを誰だと思っていますの。Ave Mujicaのオブリビオニス、豊川祥子ですわ」。意味を保証する神がいないなら、自分がその神になる。祥子は、役と本名を——オブリビオニスと、豊川祥子を——一息の自己名指しに畳む。第1章で初音が果たせなかった、本名と構築を自らの口で名乗ること。それを祥子は、ためらいなく行う。

(Avemujica 12話より 豊川祥子「豊川祥子ですわ!」)
ところが、神になると宣言するその同じ口が、その王国が永続しないことを知っている。アパートの静かな場面で、祥子は独りごちる——運命にも世界にも背を向けたところで、何かが変わるわけではない、と。この小さな世界は、いつか終わる——「朝、夢から覚めるように、突然。否応なく」。けれど、もう少しだけ「まどろみに浸っていたい」、と。神になるという宣言は、永続する王国の宣言ではない。それは、いつか覚める夢だと知りながら、その覚醒をなお先延ばしにして見つづける、仮初の構築である。ここで「仮初」とは、祥子自身が口にした語ではない。いつか覚めると知りつつなお見つづけるこの夢の構造を、本論が名指す術語である。ここに、本論が作品自身の線と呼ぶものの一つがある。作品は、祥子の神=主権の位置を、ただ勝ち誇って提示しているのではない。祥子の口に、この王国を「夢から覚めるように」終わるものとして語らせることで、その王国がいつか覚める夢であることを、作品は刻んでいる。

(Avemujica 12話より 夢の終焉を示す珈琲の湯気と立体感、それに先立つ豊川祥子「嫌いですわ」)
ただし、この刻印がどこまで効いているかは、本章では倒さない。この夢とまどろみの述懐は、終幕ではなく、それに先立つアパートの場面に置かれている。回を実際に閉じるのは、その述懐ではない。事務所の制止を「わたくしを誰だと思っていますの。Ave Mujicaのオブリビオニス、豊川祥子ですわ」と斥ける、昂然たる自己名指しだ。そして、その言葉と同時にOPが流れて、回が閉じる。覚める夢の述懐は終幕に先立つ場面に伏せられ、終幕を飾るのは、勝ち誇った宣言とそれを寿ぐOPである。ここで、王国が自らの仮初性を掘り崩すのではなく、ただ昂然と勝ち誇って終わっているのではないか、という反論がありえる。ただし、ここにもう一段の屈折がある。終幕に流れるこのOPは、本来なら回の冒頭を飾るべき主題歌が、終わりの位置へ後置されたものだ(冒頭には、OPの代わりにEDが前置されていた)。終わりの位置で始まりの歌が鳴る。この編集の逆説は、勝ち誇る王国が、実は一つの終わりから立ち上がる再出発にすぎないことを、構造の側から刻んでいるとも読める。つまり、台詞の水準で果たされなかった仮初性の刻印を、OPの後置という編集の水準が、代わりに担っている可能性がある。勝ち誇りが仮初を呑むのか、編集の逆説が勝ち誇りを掘り崩すのか——その判定は、画と光と音の演出の水準を見なければ決められない。ただし、ここで一点だけ、OPそのものについて確かめておける。終幕に後置されるこのOPは、回の達成を特別に変奏した凱旋曲ではなく、従前と同一の映像が、ただ位置を移して鳴らされたものにすぎない。勝ち誇りを寿ぐべく新たに作られた特別な映像ではないのだ。しかも、後置されたOPの楽曲そのものが、勝ち誇りの音楽的標識を欠いている。そのイントロは、旋律を下降させ、和声を解決ではなく緊張へ向かわせる——上昇と解決という凱旋の定型とは逆向きである。OPは、位置において終わりへ後置されるだけでなく、楽曲の運動そのものにおいても、勝ち誇りを寿いでいない。残る画と光と音の精査は、次節が、描写媒体の対比とあわせて引き受ける。
その画と光と音の精査は、描写媒体の対比とあわせて、ここで行える。作品はこの精査の場を、登場人物がどの媒体で描かれるかという、最も物質的な水準にも用意している。まどろみの場面で、祥子と初音の二人は、ふだんの3DCGを離れ、脱色的な2D作画で描かれる。室内の事物——二つのマグ、天窓、スマートフォン——が3DCGのまま留まるなかで、生身の二者だけが、別の描線へと転位する〔注1〕。

(Avemujica 12話より 2D描写される三角初音、豊川祥子)
3DCGの身体が、Ave Mujicaという構築の表層——仮面の側——にあるとすれば、2Dへの転位は、その表層が剥がれて生身が露わになる契機を、描写媒体そのものの水準で刻む。「まどろみに浸っていたい」と漏らし、覚醒の匂いに「嫌いですわ」を向ける祥子の述懐が、仮面を脱いだ素顔の告白として、描かれ方そのものに標識されている。そして終幕、事務所の制止を斥けて「豊川祥子ですわ」と名乗る祥子は、2Dの述懐を離れ、ふたたび3DCGの身体——構築の表層の媒体——へ戻る。だが、戻ったその身体は、勝ち誇る画として演出されていない。背後に玉座様の構造物も壇もなく、背景は事務所の日常空間——レンガ壁と観葉植物——であって、垂直方向に祥子を持ち上げる高位も象徴物もない。祥子が纏うのは仮面でも舞台衣装でもなく、最も素顔に近い制服のままである。カメラは見上げる低角を退け、水平のアイレベルから最も寄ったスーパークローズアップで彼女を捉え、その視線はまっすぐこちらへ向けられる。強調する照明もない。役(オブリビオニス)と本名(豊川祥子)を一息に畳むその名乗りの台詞そのものには、BGMのピークすら置かれず、高鳴りは台詞の前後へと逃がされている。だが、ここで退けられているのは、低角の煽り・玉座・台詞上の楽曲のピークという、凱旋のレジスターの標識であって、熱量一般ではない。最も寄ったスケールと正面からの視線は、凱旋とは別種の——親密でありながら対峙的な——強度を、むしろ差し向けている。構築の表層は、3DCGという描写媒体の水準では回復されながら、視覚的な仮面としては現れない——仮面は、ただ「オブリビオニス」という名乗りの言葉の水準においてのみ、呼び出される。覚める夢の素顔(2D)が先に伏せられたのち、終幕を占めるのは、仮面の勝利ではない。構築の表層の媒体へ戻りながら、なお凱旋の昂揚を退けた、抑制された名乗りである。身体の描かれ方が2Dから3DCGへ転じることが告げるのは仮面の勝利ではなく、その移行が凱旋の昂揚を退けること自体であり、それが、OPの後置が時間の配置で告げていた仮初を、演出の水準からもう一度支えている。
第1章と同じく、積み上げた物質を理論の手で読み直す。だが祥子の構築は、初音の構築の単なる裏返しではない。初音が欠如によって閉じたところを、祥子は過剰によって閉じる。初音に欠けていた尊重を、祥子は持っている。初音が持てなかった自律を、祥子は行使する。にもかかわらず、その尊重も自律も、一つの主権へと凝固し、やはり閉じた王国を立ち上げる。理論は、この過剰による閉鎖を、層ごとに記述する。
まず尊重から。フロムは愛を、配慮・責任・尊重・知の四つの要素から成るものとした。第1章で見たように、初音の愛にはこのうち尊重——相手をあるがままに見て、自分の必要のために利用しないこと——が欠けており、知もまた欠けていた。初音は祥子を、悲劇の装置という幻像のままに扱い、あるがままに知ろうとはしなかった。祥子は、その正反対である。祥子は初音を幼少から深く知り、初華という偽りごと、あるがままに見て、これこそ初音だと認める。祥子の愛は、欠けているのではない。四つの要素が、揃いすぎているのだ。だからこそ、危うさの所在が反転する。フロムにおいて、愛を支配へ堕させない歯止めは、ほかならぬ尊重である。相手をあるがままに見るがゆえに、愛は相手を所有しない。ところが祥子においては、その尊重そのものが、主権の方へと傾けられている。祥子が初音に与える「あなたこそ初音だ」という像は、初音自身の自己規定——私には資格がない——を斥けた上で、外から与えられる。ここで一つの問いが立つ。初音の真の自己を見定めるのは、誰か。初音自身か、それとも祥子か。祥子の認定は、初音の自己嫌悪を超えてその真の姿を見抜く、より深い尊重とも読める。だが同時にそれは、相手が誰であるかを相手の外から決める、尊重の主権への転化とも読める。本論はこの両義を、どちらか一方へ倒さない。倒さないまま記しておけば足りる——祥子の愛は、欠けているから危ういのではない。満ちているからこそ、その満ちた愛が支配になりうるのだ。
この主権が最も鋭く現れるのが、ケアの局面である。本論は序章で、ケアをトロントの脱本質化された水準で——ケアの労働が特定の形象へ構造的に配分される配分の問題として——動員すると定めた。トロントにおいて、ケアの十全さは、ケアする者の都合ではなく、ケアを受ける者の応答(responsiveness)によって測られる。これは、ケアが受け手を支配するパターナリズムへ転落することへの、歯止めとして置かれている(杉本竜也訳『モラル・バウンダリー』勁草書房、二〇二四年、ケアの四局面は第四章一一六〜一一九頁、とりわけ受け手の応答を扱う第四局面〈ケアの受け取り〉が一一九頁、脱本質化=ギリガン批判は第三章八五〜一〇二頁)。祥子のケアは、この歯止めの線を越える。初音は、消去の提案に「許されない」と抗い、自分には資格がないと身を退こうとする。これは受け手の応答だ。トロントの規準に従えば、ケアはこの応答を聞き届け、共に背負うところから始まる。だが祥子は、それを聞き届けない。祥子は初音の苦しみを「なかったこと」にし、その拒みと自己卑下を「ご自分のことばかり」と退ける。受け手の応答を勘定に入れず、救う者が解決を上から課す——この構造は、トロントが名指したパターナリズムへとケアが傾く、その傾きの物証である。ただし、それをパターナリズムと最終的に名指すかどうかを、本章ではまだ倒さない。祥子のケアは、力強い。その力が、応答を聞く力なのか、それとも応答を上書きする力なのか——その両義の判定は、双数が集団の規模へ拡大される終章まで、宙づりのまま預ける。
祥子のケアが応答を上書きする側へ傾き、契約によって全員を一つの運命へ束ね、自らを神と宣言するとき、それは一つの見覚えのある形象に結晶する。失敗した父の秩序——豊川清告——を斥けた娘が、その埋め合わせとして、自らを救済する全能の母=神としてインストールする。これは、宇野常寛が「母性のディストピア」と名指した形象にほかならない。ただし、ここで母性のディストピアという語が名指すのは、祥子の本質が母だということではなく——祥子の主権は後述のとおりむしろ自己立法の形をとる——その自己立法的な主権が、失敗した父の埋め合わせとして引き受ける〈救済する全能の母〉という性別化された図像の水準である。ただし、この母性の性別化を画面で標識するのは、神宣言の包摂の所作(手を広げる・囲む・中心に立つ)ではない——祥子はそのいずれも行わない——後述する図像、すなわち母の形見人形・EDの劫火・庭の囲みである。ここで本論は、序章で据えた第二の歯止めを働かせる。本論は、この形象を肯定的な救済として読まない。祥子が神になり全員を運命共同体へ包摂することを、悪い父からの解放として称揚すれば、本論自身が母性のディストピアを再生産することになる。本論は逆に、祥子の神=母の位置を、救済ではなく、主権的なケアの危うさとして診断する。悪い父を斥けた地点に立ち上がるのが、水平に開かれた庭ではなく、自らを善き母として立てる一人の主権者の王国であるなら、退却は完遂されていない。父の主権が、母の主権に置き換わっただけだ。
この性別化された図像は、本論が外から祥子に着せたものではない。作品自身が、母性の形象を画面に配置している。旧邸宅の朝の場面で、室内には一体の人形が据えられている——金髪に深紅のドレスをまとった、母の形見の人形である。カメラは室内の暗がりからこれを捉え、人形にピントを置く。その視線の先、窓の外の明るい庭では、祥子と初音が戯れている。人形は単に置かれているのではない。室内の暗さと窓外の明るさを隔てる窓を挟んで、楽園の戯れを見つめる視線の主体として配置されている〔注2〕。失われた母の、凍結された形見が、祥子と初音の楽園を見守る母として、室内に据えられている。〔注3〕

(Avemujica 12話より。失われた母の、凍結された形見が、祥子と初音の楽園を見守る母として、室内に据えられている)
そして回の冒頭、ED「Georgette Me, Georgette You」が前置されるとき、同じ母の形見人形が、今度は水墨の静止画として現れ、劫火に焼かれて終わる。見守る母(庭の場面)と、焼かれる母(EDの劫火)。母性の形象が、回の内部と両端に、見守りと破壊の両方で書き込まれている。失敗した父の家——祖父の豊川が君臨し、実父が失脚した家——に残された、ただ一つの母の痕跡が、この形見の人形である。その母はもう動かない。動かぬ母の形見が見守る楽園で、祥子は自らを、動いて救済する全能の母として立てる。本論が母性のディストピアと呼ぶ性別化は、こうして批評家の外挿にではなく、作品自身の図像に係留する。ただし、ここでも歯止めを効かせる——作品が祥子の主権を母性の図像で形象化していることと、ケアが本質的に女性のものであることとは、別である。人形が支えるのは前者であって、後者ではない。
社会的性格の水準では、祥子は初音の正確な対極にある。初音が、自らの内に方位磁針を持たず他者の光に照らされて初めて自分になる他人指向の体現だったとすれば、祥子は、外の権威に依らず自らの内から意味を立てる——祖父の権威を斥け、神がいないなら自分が神になると宣言する——自己立法の体現である。だが、この自己立法を、リースマンの言う健やかな自律型と短絡してはならない。リースマンの言う自律型とは、その社会の行動面での規範に同調する能力をもちながら、それに同調するか否かについては行動の自由を保つ者のことである(『孤独な群衆』加藤秀俊訳、みすず書房〈始まりの本〉、二〇一三年、下巻一三八頁、第三部「自律性」)。能力をもったうえで従うか否かを選ぶ、その成熟が自律型の核にある。祥子の「私が神になる」は、その成熟ではない。それは、リースマンの三類型にも自律型にも収まらない——他人指向でも内的指向でも自律でもなく、自己立法の形をとりながらその外へはみ出す何かだ、というのが本論の読みである。祥子は、他人指向からは解放されている。だが、その解放の宛先は自律ではなく、外なる権威に代わって肥大した自己を据える、もう一つの過剰である。
幾つもの層が、一つの帰結を指している。祥子の構築とは、主権的・包摂的なケアである。尊重として始まり、相手の自己理解を上書きする認定となり、応答を上書きする力へと傾き、全員を一つの運命へ束ねる王国となり、自らを神として立てる自己神格化に至る。その傾きをパターナリズムと最終的に名指すか否かは、終章まで両義のまま預ける。これが、本論の言う重心反転の内実だ——双数において能動に構築し、承認し、宣言するのは祥子であり、その能動が、初音の欠如による閉鎖とは別の、過剰による閉鎖を立ち上げる。
そして、この主権的なケアを、作品は無条件に寿いではいない。祥子の口に、王国がいつか「夢から覚めるように」終わると語らせ、終幕のOPを後置することで——終わりの位置で始まりの歌を鳴らすことで——作品は、勝ち誇る王国が一つの終わりから立ち上がる再出発にすぎないことを、構造の側から刻もうとしている。そしてこの刻印が勝ち誇りを掘り崩すに足る強度を持つかは、もはや演出層の宿題ではない。本章はそれを描写媒体の水準で精査し、終幕の自己名指しが昂揚を欠いて演出されること——勝ち誇りそのものが抑制されていること——を確かめた。刻印は、仮初の側を支えるに足る強度を持って、本章を出る。
残るのは、双数の非対称である。祥子は抱え、見て、束ねる。初音は乞い、閉じ込め、道具化する。一方が過剰によって、他方が欠如によって、同じ一つの密閉された箱庭を作り上げる。この非対称が、いかにして共依存という一つの構造に噛み合うのか——そして作品自身は、その共依存と、そこから閉ざされた別の道とを、どこで線引きしているのか。それが、次章の問いである。
第2章 注
注1(媒体の腑分け) 2Dは作中で事務所の人物像など別の文脈にも現れる。ここで決定的なのは2Dの出現そのものではなく、ふだん3DCGで造形される主要な二者が、構築の表層が剥がれて素顔・本音が露わになる局面で2Dへ転じるという有標の逸脱である。それは、本まどろみの場面(祥子・初音がともに2Dへ)と、祥子が初音の真の自己を言い当てる山頂の場面(初音のみ2Dへ)に現れる。背景美術における2D(山頂の木々、庭の庭木)は理想化空間の絵作りに属し、ここで言う有標性は、ふだん3DCGで造形される人物身体が2Dへ転じる点に限定される。ただし両場面で標識のメカニズムは異なる。まどろみの場面では二者の2Dが室内の無機物の3DCGと対比をなす(figure-groundの媒体コントラスト)のに対し、もう一方では背景もまた2Dゆえこの対比はなく、素顔の機能は台詞と祥子の承認が担う。媒体コントラストによる強い映像的標識は、まどろみの場面に固有である。
注2(観察手続き) 人形が庭を見る主体として機能するか、単なる静物にとどまるか——本論は両結果を等しく観察した上で、前者と判定した。
注3(メロドラマ系譜) 暗い室内から窓越しに外の幸福を見つめる母という図像は、家族メロドラマ研究が、感情を台詞ではなくミザンセーヌへ拡散させる pathos の典型——語りえぬ・抑圧された母の情動が、窓辺や形見の物というミザンセーヌの細部へ転位する displacement の構造——として論じてきた系譜に連なる(Thomas Elsaesser, “Tales of Sound and Fury: Observations on the Family Melodrama,” 1972, in Marcia Landy ed., Imitations of Life, Wayne State University Press, 1991, pp. 68–91;情動が音楽とミザンセーヌへ転位するという定式は Geoffrey Nowell-Smith, “Minnelli and Melodrama,” Screen 18:2 (1977), pp. 113–118、当該箇所 p. 117 に明示的に与えられる)。とりわけ『ステラ・ダラス』(King Vidor, 1937)終景で、娘の結婚式を窓越しに見つめ、群衆に押し出されながら立ち去る母の図像は、Linda Williams, “‘Something Else Besides a Mother’: Stella Dallas and the Maternal Melodrama,” Cinema Journal 24:1 (1984), pp. 2–27 が母性メロドラマの範例として精密に分析している。邦語で参照可能な概説として、ジョン・マーサー/マーティン・シングラー『メロドラマ映画を学ぶ——ジャンル・スタイル・感性』中村秀之・河野真理江訳、フィルムアート社、2013年〔該当頁要確認〕も参照。本論はこの系譜を、診断の根拠としてではなく、母性図像の映像史的な裏づけとして脚注水準で動員するにとどめる。
第3章|双数の非対称と共依存——線はどこに引かれるか

(Avemujica 11話より。始めての豊川祥子との出会いを偽りとして刻印する三角初音)
第1章は初音の閉鎖を、第2章は祥子の閉鎖を、それぞれ別々に記述した。一方は欠如によって、他方は過剰によって閉じる、と。本章はまず、この二つの閉鎖が、別々の二つの病理ではなく、一つの構造であることを示す。鍵は、両者の閉鎖が互いの空隙にちょうど嵌まることにある。
初音が乞うたのは、照らされることだった。自ら光を持たず、他者の光に照らされてはじめて像を結ぶ——「ずっとずっと、照らされたかった」。初音の閉鎖は、与えてくれる他者を絶対的に必要とする、受け手の側の閉鎖である。祥子が欲したのは、その正反対——光源そのものになることだった。神がいないなら自分が神になる。与え、照らし、束ねる、贈り手の側の過剰。この二つは、ちょうど噛み合う。照らされたい者と、照らしたい者。見られたい者と、あるがままに見たい者。一方の欠如が求めるものを、他方の過剰がちょうど供給する。
だが、この噛み合いを、相補的な出会いと取り違えてはならない。供給は、需要にぴたりと応じて止まるのではない。それを越えて、あふれる。初音は「許されない」と、なかったことにすることを拒み、消されえぬものとして過去を握りしめた。祥子はその拒みを、初音の求めを越えて、「なかったことにして」上から呑み込もうとする。初音が保とうとしたものまでを、祥子の供給は呑み込む。健やかな相互依存であれば、供給は相手の求めに応じて止まり、相手はなお相手のまま残る。ここでは、供給が相手の求めを越えて相手を呑み、相手を閉域へ溶かす。錠と鍵が嵌まるように見えて、その嵌まりは出会いではなく、密閉の機構そのものなのだ。一方の病理が、他方の病理の養分になっている。二人の双数を一つの——本論が共依存と呼ぶ——閉域たらしめているのは、この越えてあふれる供給と、それを呑み込ませる欠如の、噛み合いである。
だが、ここで本論は最も慎重にならねばならない。退却そのものは、誤りではない。承認の経済に疲弊した者が、相互の評価で値踏みし合うゲームから降りること——それは、むしろ前段の主論考が肯定的に読んだ運動だった。問題は、降りた先にある。降りた先が、誰であるかを問われずに居られる水平な場であるなら、それは退却の正しい完遂である。降りた先が、一人の主権者に密閉された閉域であるなら、退却は別の檻へと閉じている。この二つを分かつ線——どこまでが健やかな退却で、どこからが閉鎖か——を、批評家が作品の外から供給するなら、それは作品が持たない距離を代行する説教ポルノの手つきに堕する。本論が診断でありうるか否かは、この線を作品自身が引いているか否かにかかっている。
作品は、引いている。10話、初音は祥子への詩を綴る。だがその詩は、孤立して書かれたのではない。それに先立つ9話、初音はプラネタリウムで、燈の「うた」を見せられている。燈もまた、祥子を想って詩を書いた者だ。二つの詩は、ともに祥子へ宛てられている。そして、その愛し方が正反対なのだ。燈の詩のイメージは、相手の翼を、ただ見つめる——手を出さず、飛ぶに任せ、相手の自由をそのまま肯定する。初音の詩のイメージは、翼のない相手を堕とし、逃げられぬよう閉じ込める——密閉し、所有する。逐語は措く。構造だけを取り出せば、見守る翼と、幽閉する翼。手放しの肯定と、密閉する所有。作品は、この二つを、祥子への二通りの愛し方として対置している。
しかも、この対置は静的な並置ではない。それは運動として引かれている。初音は、燈のモードを9話で受け取り、それを10話で反転させて書く。見守る愛を見せられた者が、幽閉する愛を書く。線は、双数の外から借りてこられたのではない。双数の只中で、初音自身が燈の手放しを受け取り、それを所有へと撓めるその運動として、作品の内側に引かれている。本論が「作品自身が引く線」と呼ぶものの、これが最も鮮明な実例である。批評家は、見守る/幽閉するという対照を発明していない。作品が、燈の翼と初音の翼を並べ、後者が前者の反転であることを、物語の運動として示している。〔注1〕
一つ、対抗読みを処理しておく。初音の幽閉のイメージは、文字通りの所有欲ではなく、Ave Mujicaというバンドのゴシック的な役の美学——暗く耽美な世界観の修辞——にすぎない、とも読める。だがこの読みは、同じ時期に並ぶ物質によって退けられる。初音の私室には祥子の依代が立っており、その同じ時期に、初音は「Imprisoned XII」を自らの手で作詞している。幽閉は、与えられた役の様式ではない。初音自身が綴った詩であり、初音自身が私室の依代として物に実演している、文字通りの所有の構造である。ゴシックの美学は、その文字通りさを覆う表層であって、それを免責する根拠ではない。
最後に、第2章で宙づりにした初音の声を、ここで開く。父の名指しへの沈黙を破って初音が取り戻した声は、「祥ちゃんと一緒にいさせてください」だった。この声を、本章は初音の「第三の形」と呼ぶ。それは、前段の主論考が立てた二つの極——燈型(自律的な手放し、迷子の倫理)と睦型(無への溶解)——のどちらでもない。初音の声は、無へ溶けるのでも、自律して手放すのでもなく、祥子の承認に媒介されてはじめて起動する。だが、この第三性こそが、診断の核なのだ。取り戻された声が言うのは「私は初音だ」ではなく「祥ちゃんと一緒にいさせてください」である。自律の宣言ではなく、対他の渇望のままの起動。初音の自己は、他者に寄りかかりつつなお自己であり続けるのではない。他者に密閉されることを通じて、はじめて自己になる。寄りかかりと、溶け込みは、違う。前者では自己が残り、後者では自己が他者との閉域に解ける。初音の第三の形は、後者の側にある。そしてこの「密閉されてはじめて起動する自己」こそが、祥子の主権的なケアとちょうど噛み合い、双数を一つの閉域へと閉じる。
この第三の形は、第1章で取り出した初音の身分——構築を重ねて核を蓄える、関係に依存した自己——の、関係の側から見た相にほかならない。初音の自己は、内から立って寄りかかるのではない。照らされ、係留されることによってはじめて現実になり、その現実を関係のうちに蓄えてゆく。だからその自己は、寄りかかってなお残るのではなく、関係が断たれれば蓄積ごと崩れる。弱い自立では、厚い自己が寄りかかってなお残る。共依存では、関係を通じて蓄えられた薄い自己が、関係の閉鎖とともに溶けきる。初音の第三の形は、後者の——弱い自立の正しい失敗形の——側にある。ここで双数の非対称は、対等な二者の関係ではなく、内から立つ主体と、構築を重ねて関係のうちに立つ主体との、最初からの非対称として確定する。ただし、この自己がたどる脱主体化が睦型の無への溶解と何によって分かたれるのかは、終端の像が出揃う終章まで預ける。分かつのは、たどり着く像でも、誰がその像を書くかの純度でもなく、その自己が関係の道を降りてゆくという、降下の斜面そのものである。

(Avemujica 12話より。三角初音「祥ちゃんと一緒にいさせてください!」)
ここまで自然言語で記述した噛み合いと線を、宇野常寛『庭の話』の語彙で読み直す。
宇野は、現代の承認の場を、プラットフォームと呼ぶ。そこでは人は、互いに値踏みし合う相互評価のゲームに絶えず巻き込まれ、その評価の獲得によってしか自己を確証できない(『庭の話』、相互評価のゲーム、二八五頁)。このゲームから降りること自体は、病ではない。宇野が庭と呼ぶのは、この評価の場から退いた先に開かれる、もう一つの場——他者の値踏みに依らず、ただ何かを制作し続けることのできる、自律の場である。そして庭は、孤立ではない。それは、そこに集う者が互いに「誰であるか」を問われずに居られる、開かれた公共と接続している(同、公共、二四二〜二四三頁)。〔注2〕
祥子は、このゲームから明示的に降りた。「もう、おじいさまの言いなりにはなりません」——祖父・豊川の評価秩序を、祥子は自らの口で拒絶する。退却は、起きている。問題は、その先だ。祥子が降り立ったのは、誰であるかを問われない開かれた庭ではなかった。一人の主権者が君臨し、全員が契約で束ねられ、脱退の許されない、密閉された閉域だった。プラットフォームの評価ゲームから逃れながら、庭の開かれにも公共にも達せず、一人の主権者のもとに閉じてゆく、密閉された退却の場——これを本論は、庭の対比物として箱庭と呼ぶ〔注3〕。撤退の先は、庭か、箱庭か。祥子の退却は、後者へ閉じた。
宇野が庭に住まう主体のあり方として描くのは、弱い自立である(同、弱い自立、三〇一頁)。それは、何者にも依存しない強い個人ではない。他者に寄りかかりながら、なお自己であり続けるあり方——依存を引き受けつつ、その依存に溶けはしないあり方である。本論が共依存と呼ぶものは、この弱い自立の、ちょうど失敗形にあたる。ここで一つ、術語を限定しておく。本論は共依存を、臨床心理学が用いる診断概念としてではなく、宇野の弱い自立の否定形として——相互評価のゲームからの撤退が、弱い自立(庭)へではなく、密閉された箱庭へと閉じてゆく、構造的な失敗様態として——用いる。弱い自立では、他者に寄りかかってなお自己が残る。共依存では、自己が他者との閉域に溶ける。初音の第三の形が——祥子に密閉されてはじめて起動する自己が——示していたのは、まさにこの溶解だった。
そして、ここに本章の——本論全体の——蝶番がある。弱い自立と共依存を分かつこの線を、批評家が作品の外から引いたのではない。作品自身が、引いている。燈の翼と初音の翼——見守る愛と幽閉する愛——の対照が、それだ。見守る翼は、相手の自由を手放しで肯定する。それは、寄りかかってなお相手を相手のまま残す、弱い自立の側の愛である。幽閉する翼は、相手を密閉して所有する。それは、相手を閉域へ呑み込む、共依存の側の愛である。作品は、この二つを、初音が燈のモードを受け取って反転させる運動として、自らの内側に並べた。線は、批評家の足し算ではない。作品の物証である。
この一点が、本論を説教ポルノから分かつ。本論が共依存という診断を下しながらなお説教ポルノに堕さないのは、診断の根拠を、批評家がどれだけ厳しく作品を裁いたかという程度にではなく、作品自身がどこに線を引いたかという構造に置くからである。分節は、程度ではなく構造で成立する。批評家は、初音の愛がどれほど病んでいるかを外から測っているのではない。作品が、燈の翼を初音の翼の隣に置き、後者を前者の反転として書いたという、その構造を記述しているにすぎない。
だが、ここで一つの反問がありうる。作品には無数の線がある——依代、仮面、仮初、OPの後置。そのうち燈/初音の翼の対照を診断の基軸に選んだのは、結局のところ批評家ではないか。どの線を診断的とみなすかという選択そのものが批評家の操作であるなら、「程度ではなく構造で成立する」という分節は、選択という名の程度判断を裏口から呼び戻しているにすぎないのではないか。これに二段で答える。
第一に、燈/初音の対照が他の物証と決定的に異なるのは、それが批評家による静的な並置ではなく、作品自身が演じる時間的な運動だという点にある。本論は、見守る翼と幽閉する翼という二枚の絵を外から並べ、後者を前者の反転と名づけたのではない。作品が、9話で初音に燈の見守りのモードを受け取らせ、10話でそれを幽閉へと反転させて書かせた。受容と反転が、物語の継起として作中で実演されている。本論はこの一本を選び取ったのではなく、作品がこの一本を運動として引いたのを、後から記述しているにすぎない。選択の基準は、批評家の趣味の側にではなく、作品の運動の側にある。そして本論は、この作品が引く線と、本論が綜合する読み——庭と箱庭の対比、プラットフォームと相互評価のゲームの接続——とを、論文の内部で一貫して分節し、後者には脚注で綜合の旨を明示してきた。診断の重みは綜合の側にではなく、作品が運動として引いた線の側に置かれている。綜合の線はそう明示し、診断の線は作品の運動に係留する——この区別を守ることが、本論が説教ポルノから独立する条件である。
この分節は、二つの査定の穴を塞ぐ。第一の穴は、祥子のケアの危うさを指摘する根拠が、批評家の裁きにすぎないのではないか、という疑いだった。だが、いま見たとおり、根拠は批評家の裁きではない。祥子の供給が初音の求めを越えて初音を呑むこと——初音が保とうとした裁きまでを「なかったことにして」消すこと——は、作品が描く物証であり、その呑み込みを幽閉として反転的に名指すのも、作品自身が初音の翼に書きつけた線である。ただし、塞がれるのは、この物証が批評家の外挿か否かという穴であって、その物証をパターナリズムと最終的に名指す判定そのものは、なお終章まで両義のまま預けられている。根拠が作品にあることと、判定を急がないことは、両立する。第二の穴は、祥子の王国の仮初性が、終幕のOPの高鳴りに呑まれて、自己陶酔の勝ち誇りに留まるのではないか、という疑いだった。この穴は、もはや宙づりではない。第2章が描写媒体の水準で精査したとおり、終幕の自己名指しは制服・仮面なし・照明強調なしで演出され、台詞そのものにはBGMの高鳴りすら重ねられていない。後置されるOPも、回を特別に変奏した凱旋曲ではなく、従前と同一の映像の位置移動にすぎない。勝ち誇りは、演出の内実において抑制されており、仮初の刻印を呑んではいない。診断が係留するのは、どれほど温かく描かれようと変わらない二つの事実である〔注4〕。第一に、王国の終わりは、批評家が美の質から読み取るのではなく、祥子自身が命題として口にする——この世界は「朝、夢から覚めるように、突然。否応なく」終わる、と。生き延びる王国は、こうは語られない。閉鎖を標識するのは美の色合いではなく、祥子の口から出るこの命題であり、命題は画面の温度に左右されない。第二に、すぐ後に見る燈/初音の翼の反転——見守りを受け取って幽閉へ撓める運動——もまた、描線の温度に対して不変である。人物がどれほど愛おしく描かれていても、初音が燈の見守りを受け取って幽閉へ反転させた継起そのものは動かない。そして、その終わりが外から訪れる悲劇ではなく王国それ自身の密閉に帰されることは、閉じる必要のなかった開かれた道——燈が現に歩いてみせた道——が、その傍らに置かれていることが告げる。さらに、作品が自らの儚さを先んじて上演し、批評家が外から指摘するはずの距離を奪うとしても、それは診断の失敗ではない。作品が自分で線を引ききるとき、その線を記述するほかない批評は、外部の距離を供給しそこねているのではなく、作品自身の線に係留するという本論の条件を、最も純粋に満たしている。穴は、仮初の側で塞がれた。そして、いっそう決定的なのは、本論の診断が、そもそもこの精査の結果に人質を取られてはいなかったことだ。かりに仮初の刻印が演出層で勝ち誇りに呑まれていたとしても、双数を共依存と診断する根拠は、すでに別の物証——燈/初音の詩の対照——によって、独立に支えられている。診断は、一つの演出問題の決着に依存してはいない。複数の作品自身の線によって、多重に担保されている。

https://www.youtube.com/watch?v=FWXkipC-vqs&list=RDFWXkipC-vqs&start_radio=1
(Avemujica OP「Kill kiss」より。最後に歌唱者:三角初音は底なしへと堕ちてゆく)
残るのは、この共依存が、双数の二人だけにとどまらないという事実である。祥子の箱庭は、初音一人を閉じ込めて完結しはしない。それは、契約によって五人を、やがては観客を、そして作品自身の神話においては宇宙をも束ねる、一つの王国へと拡大してゆく。双数の共依存が、集団の規模へと拡大されるとき、それは何になるのか——そして、その拡大された箱庭の外に、作品はどんな別の道を、燈の翼として残しているのか。それが、終章の問いである。
第3章 注
注1(越境分節) 初音が燈のうたを受け取る場はAve Mujica9話内部だが、燈の詩の作曲そのものはMyGO側に属する可能性がある。ゆえに本論が「作品が内在的に線を引く」と言いうるのは、初音が燈のモードを受け取り反転させる運動がAve Mujica内で起きる限りにおいてであり、franchise横断の主張には踏み込まない。
注2(連関の典拠) 庭と公共の接続は『庭の話』二四二〜二四三頁の「誰であるか」を問わない公共に係留する(同書二三四頁が SNS を公共空間として扱う水準とは区別する)。プラットフォームと相互評価のゲームを一極に束ねる接続は、宇野の個別概念を本論が綜合した読みとして明示する。
注3(術語注) 「庭」「プラットフォーム」は宇野の語。「箱庭」は本論が庭の対比として立てる語で、宇野の用語ではない。庭の典拠は『庭の話』第一章五八〜五九頁および第十章二三四頁
注4(抑制の審美をめぐる対抗読み) 勝ち誇りの抑制は、それ自体が一つの審美的価値——醒めた美しさ、終わりを抱いた静けさ——を立ち上げる。ならば抑制は、王国への耽溺をいっそう上等な陰翳で覆っているだけではないか、という対抗読みがありうる。この場面が——双数をめぐる場面の多くが——作り手の愛情をたっぷり注いだ筆致で人物を慈しむように描かれていること、その醒めた美しさが自キャラ愛の発露でもあるという読みを、本論は退けない。手をかけて美しく描くことと、自らの人物を愛でることとは、画面の上では見分けがつかない。だが自キャラ愛は描線の温度を説明するにとどまり、本文の二つの事実——終わりを祥子自身が命題として口にすること、燈/初音の翼の反転という運動——を消すことはできない。審美的な共感と閉鎖の標識とは、この温度不変の層において両立する。
終章|存在をめぐる対と包摂の王国——共依存の社会的射程

https://www.youtube.com/watch?v=GMn4qO7zT0E
(Avemujica 13話より 天球のMusica)
第3章は、双数を一つの共依存として閉じた。終章は、この共依存の最も深い底と、その最も大きな広がりとを、同じ作品の物質から取り出す。底とは、存在をめぐる二人の対であり、広がりとは、双数を越えて集団を呑む包摂の王国である。
まず、底から。第2章で記述した祥子の「なかったことにしません?」を、もう一度その対象において見る。祥子が消そうとするのは、初音という存在ではない。「あなたと私をとりまく不幸と後悔、しがらみの全て」——苦しみである。祥子は初音の存在を肯定し、その苦しみだけを忘れさせようとする。祥子にとって、苦しみは存在から切り離せる。これに対して初音は、その切り離しを拒む。祥子の消去の提案に、初音は「そんなこと、できないよ。許されない」と返す。ここで「許されない」が掛かるのは、初音という存在ではなく、なかったことにするというその行為の方である。過去を、苦しみを、消してしまうこと——それが、初音には許されない。初音は、消されえぬものとして過去を握りしめ、忘却を拒む。双数の非対称は、まずこの一点に現れる——祥子は苦しみを存在から切り離して消そうとし、初音はその消去そのものを拒む。
ところが、12話の現実で忘却を拒んだその初音を、作品は13話で、忘却を誓うドロリスとして上演する。13話のライブに組み込まれた劇中劇——忘却の女神オブリビオニス(祥子)が臣下に祝福を授ける神話劇——において、初音=ドロリスは女神の前へ進み出る。だが、ただ祝福を受けるのではない。ここに決定的な物質がある。ティモリス・アモーリス・モーティスが忘却を受け取るなか、ドロリスだけが遅延する。「待って」と引き止め、ここへ来たのは初めてだと否認し、女神に「あなたはわたくしの騎士ではない」と斥けられてなお、「ただ、会いたくて」と懇願する。四人のうち、初音だけが、忘却の前でためらい、抵抗する。そして、その抵抗の果てに初音が誓うのは、全的な忘却である——「あなたを忘れる、この哀しみすら忘れる」、それで「そばにいられるなら」。誓いと引き換えに、初音の瞳から光が消え、その身は人形と化す。作品は、12話の現実で握りしめられた「許されない」が手放される瞬間を、13話の神話的上演として差し出す。
この上演において、双数の最も深い非対称が完成し——そして、その完成が、双数そのものの終端になる。祥子は、苦しみだけを存在から剥がして存在を抱えた。初音は、その切り離しができない——哀しみと自己とを一つに括ったまま、その括りごと差し出す。差し出した果てに、初音の瞳から光が消え、その身は人形と化す。ここで本論は、自らの診断単位が触れる限界に、正面から触れる。本論は双数を——二人の主体が互いに宛て合う関係を——分析の単位としてきた。共依存も箱庭も、二つの主体が閉域に噛み合う、関係の診断である。だが人形と化した初音は、もはや関係の一方の項ではない。瞳の光が消えるとは、主体という位置が空くということだ。台座に陳列される標本がそうであるように、人形は、君臨される臣下ではなく、採集され所有される物である。ここで双数は項を一つ失う。残るのは、二つの主体の関係ではなく、採集する者と、その手の中の物である。
この終端を、二つの方向から記しておく。一方で、初音がこの終端へ至る道は、なお関係の道である。彼女の消失には「そばにいられるなら」という条件があり、関係を経由せず存在の重みそのものから消えようとする睦/モーティスの「ぜんぶ、忘れてしまいたい」とは、道が違う。初音が手放すのは、ゼロになるためではなく、祥子の傍に在り続けるためである——第3章で開いた、構築を重ねて関係のうちに立つ第三の形が、ここでその最後の帰結に達する。だが他方で、達した先の像は、もはや起動の像ではない。瞳の光の消えた人形を、なお「起動したまま」と読むことは、物証に逆らって主体を読み戻すことだ。道は睦型と違っても、達した終端の像において、初音の人形化と睦の消失とは、同じ脱主体化の一点で出会う。
では、終端の像が睦型と合流するなら、初音の第三の形は、睦型へ至る経路の変種にすぎないのか。否。両者を分かつのは、消去の作者性の純度ではなく、そこへ至る斜面である。睦の溶解は、関係を経由しない直接の自己消去だ——存在の重みそのものから垂直に降りる。初音の脱主体化は、関係の道を降りる。初音は、構築を重ねて蓄えた自己を、その自己を支えていた当の関係のなかで——「そばにいられるなら」という条件のもとで——手放してゆく。睦が垂直に落ちるところを、初音は関係という斜面を降りる。独自性は、終点の像にではなく、この降下の経路にある。

(Avemujica 13話、「天球のMusica」の直前において三角初音は人形と化す)
そして、この終端の消去がどう書かれているかを見ておく。初音は「あなたを忘れる、この哀しみすら忘れる」と誓い、「そばにいられるなら」と条件を選ぶ。だが、この誓いを自由な共著と読んではならない。劇中劇の継起を見れば、初音=ドロリスはまず抵抗し——「待って」と引き止め、ここへ来たのは初めてだと否認し、女神に「あなたはわたくしの騎士ではない」と斥けられ——その斥けの果てに、ようやく忘却を誓う。同意は、女神が祝福のすべての札を握る枠の内側で、近接の代価としてはじめて抽出される。これは自由な共著ではない。条件付きアクセスの下の同意——初音は、祥子が支配する枠の内側でのみ、自らの消去を著作する。そして、瞳の光を実際に消すのは、初音の誓いではない。女神=祥子の祝福である。初音が蓄積の解体に同意し、祥子がそれを執行する。この同意の非対称は、欠陥ではなく、診断の核である。それは、初音の自己がそもそも関係依存の核——祥子に照らされ係留されてはじめて蓄えられた核——であったことの、首尾一貫した帰結だ。共に蓄えられた自己は、帰属の代価として、その帰属を握る者の手で解かれる。箱庭の最も冷たい貌は、ここにある——留まることの代価として、自らの消去への「同意」を抽出すること、それだ。
そしてこの構造が、この終端を本論の管轄に留める。人形化は、関係が自動的に自らを取り消した跡ではない。初音が構築を重ねて蓄えてきた自己が、その蓄積を支えていた当の関係を、祥子自身の手で断たれて、封じられた跡である。初音は、第1章で祥子の依代を私室に据え、他者を所有する者だった。その所有のモードが、いま反転して、初音自身に適用される。蓄えた自己を解かれた初音は、みずからが据えていた依代と同じ、誰かに所有される一個の物——人形——と化す。採集する者が、いまや採集される。これは関係の自己無化ではない。物化する関係の完成である。箱庭の最も底にあるのは、密閉された関係でも、関係が自らを取り消した跡でもない。構築によって蓄えられた自己が、その構築を解かれて、一個の物へと封じられた、その到達点である。
次に、この劇中劇は、もう一つのものを露わにする。構築の二つの水準である。12話で祥子は、共有された星の記憶において「星が好きなのは初音だ」と初音を言い当て、構築(初華)と現実(初音)を一つに統合した。これは、生きられた現実の水準で起きる構築だった——偽りを生きてきたその者が、そのまま現実の初音である、と。ところが13話の劇中劇では、初音がドロリスという役になる条件は、忘却である。現実を、過去を忘れることで、役になる。これは、上演のなかの上演という、神話的な水準で起きる構築だ。同じ初音の上に、作品は二つの構築を重ねている——生きられた現実としての構築と、忘却を代償に立ち上がる上演・仮初としての構築。「構築としての同一性」という本論の表題が問うていたものが、ここで作品自身の二層構造として返ってくる。本論はこの劇中劇を、作品の内在的な神話=上演として記述する。忘却の女神の祝福がもたらす救済を、本論は外部の理論で意味づけて読みはしない。作品が自らの神話として上演しているその構造を、記述するに留める。
そして、広がりへ移る。13話のライブで、双数の共依存は、二人の閉域にとどまらない。それは集団の規模へと拡大する。劇中劇でオブリビオニス(祥子)は、ティモリス・アモーリス・モーティス・ドロリスの四つの役へ、忘却の女神の祝福を授ける。一人ひとりを忘却によって生まれ変わらせ、自らの王国の臣民とする。そして祥子は宣言する——「この黄昏の楽園に、わたくしは君臨し続ける」。作品が「楽園」と呼ぶこの場を、本論は王国と呼ぶ——万人を忘却によって迎え入れ、一人の主権者が君臨する、密閉された包摂の場として。12話の「私が神になる」が、ここで「君臨し続ける」という持続の宣言へと完成する。王国は、双数の二人を、Ave Mujicaの五人を、ライブの観客までを束ねる。第3章で診断した箱庭が、ここで王国の規模へと膨らむ。初音一人を閉じ込めた密閉が、集団を、観客を包摂する密閉へと拡大する。だが、この包摂は、最後まで連続しはしない。「君臨し続ける」と宣べたその直後——黄金の幕と玉座を背に、強い発光のうちに王国の頂点が示されたその直後——作品は、初音へのスーパークローズアップで画面を断ち切り、レジスターそのものを切り替える。楽曲「天球のmusica」の終曲が、そこから始まる。舞台は同じだが、玉座の強調は解かれ、黄金の幕は宇宙的な紫一色へ、その奥から白い星座が立ち昇る構図へと変わる。終曲は独立した一曲として区切られる。主音を保ったまま旋法の色が変わり、アルペジオを基調とする新たなギターが和声として重なる。色調も、君臨の黄金から、宇宙の紫へ移る。作品は、ここを王国の続きとしてではなく、画と音と色で画した別の位相として、標識している。

(Avemujica 13話 「天球のMusica」より。ストーリーラインを断ち切り、三角初音は目に光を燈し、楽曲を歌い上げ始める)
その画した位相の内で起きるのは、君臨の解体である。退いた祥子は、舞台左端のピアノに、他の四人と同じ高さで横並びに着く。もはや見下ろす視線も、叙任の所作もない。星は祥子の手から放たれるのではなく、点源を欠いたまま画面に遍在し、祥子自身もまた、その光に照らされる一人になる——照らす者から、照らされる者の一人へ。見る主体と見交わされる者の切り返しは、祥子と海鈴のあいだで対等に分かたれる。一人の主権者が屹立していた中心は、ここで横並びの合奏へ解ける。
そして、先に物化した初音の瞳に、光が戻る。だがその戻りは、祥子が与えるのではない。祥子は初音に何の所作も向けない。光は、「天球のmusica」の歌いだし「ゆこう」とともに、初音の側から自発的に灯る——人形化の一拍とは別のカット、別の時間において。しかも戻った初音の顔は、忘却で漂白された無垢ではない。眉間に皺を寄せ、眉を下げ、訴える口元で、哀しみの痕跡をなお宿している。「この哀しみすら忘れる」と誓ったその哀しみを、戻った構築は手放さずに負っている。忘却の誓いの後に、忘却されなかった自己が、自らの声で再起動する。
この再起動が双数の閉域を越えうるかを、作品は両義のまま示す。眼差しの見交わしそのものは、なお初音と祥子の双数に閉じている。だが二人はそれぞれ、何度か観客席を眼差す。そして終曲のクライマックス——「ゆこう、世界へと……美しいときよ」の前後で、会場全体に白い星の光が降りそそぎ、直後、天井からのハイアングルのスーパーロングショットが、奏者の五人と一階の観客席の全景を一息に照らす。その一カットだけ、五人はみな白い輪郭となり、観客もまた一斉に白い光を掲げ、幕の奥では紫の宇宙に白い星座が立ち昇って消える。画面のすべてが、白い星の輪郭になる。所有する視線は、ここで非人称の光の場へ移り、その場のなかで、輪郭を保った主体どうしの見交わしと、輪郭を光へ手放す遍在とが、同じ一カットに置かれる。この点源なき星光は、双数の見交わしのショットにも、クライマックスのスーパーロングショットにも、同一の光の素材として現れる。両ショットは、同じ光の素材を分有する。だが、この分有が双数の閉からの抜けなのか、それとも閉をなお覆う宇宙的な被膜なのかは、ここでは決めない。連続は物証であり、その意味は——本章の末尾で改めて引き受けるとおり——未定のまま残す。
この位相を、本論は、現在の物証に係留して、こう記すにとどめる——王国を成り立たせていた主権と所有の枠が、作品自身の手で断たれた、と。ただし、戻る光は、先の物化を取り消さない。関係の只中で初音が一個の物へ封じられたあの一拍は、すでに起きた。ここで断たれるのは、人形化の事実ではなく、人形化を可能にしていた主権と所有の枠そのものである。そして、その枠が断たれた先に開くもの——非人称の光に媒介された、あの見交わしのコスモス——が何であるかは、本章の末尾で改めて引き受ける。
ここから、前半の物質を理論と射程の手で読み直す。まず、包摂の王国が何の拡大版であるかを名指す。第2章は、祥子の主権を、12話の親密圏において母性のディストピア——失敗した父の秩序の埋め合わせとして立ち上がる全能の母の形象——として診断した。母の形見人形・EDの劫火・庭の囲みという母性の図像は、いずれもその親密圏に係留していた。だが13話のライブで包摂が集団の規模へ拡大するとき、画面が結ぶのは、もはや母性の図像——抱く腕・囲む光・中心に立つ母の身体——ではない。そこにあるのは、忘却の祝福を授ける叙任と、高所から「君臨し続ける」と宣べる主権者の君臨である。ゆえに13話の包摂の王国は、母性の拡大版ではなく、祥子の主権が、双数の二人を越えて、バンドを、観客を呑む、主権的君臨の拡大版である。父の主権を斥けた娘が立てたものは、12話の親密圏では母の主権の貌をとり、13話の王国では主権者の君臨の貌をとる。本論は、序章で据えた第二の歯止めを、この最終局面まで効かせる。この王国を、悪い父からの解放として、あるいは見捨てられた者たちの救済として称揚すれば、本論自身が、母性であれ主権であれ、一人の救済者への閉鎖を肯定的に再生産する。本論は称揚せず、診断する——包摂の王国は、双数の共依存が集団の規模で反復された、主権的君臨の拡大版である(母性のディストピアの要旨は前掲『母性のディストピア』接触篇四五頁)。
この診断は、ガールズバンドアニメの内部にとどまらない射程を持つ。序章で述べたとおり、本論はMyGO!!!!!/Ave Mujicaを、現代日本社会の問題群への、虚構を経由した応答として読む。初音と祥子の双数は、その応答の一つの精緻な実装だ——承認の経済に疲弊し、互いに値踏みし合うゲームから退却した者たちが、水平に開かれた庭ではなく、一人の主権者の母性的な抱擁へと閉じてゆく、現代的な誘惑の解剖図である。退却が誤りなのではない。本論が繰り返し確かめてきたとおり、誤りは退却そのものにではなく、退却した先が箱庭であったことにある。承認の経済から降りた先に、なお自己が残る庭を作れるのか、それとも自己が溶ける箱庭へ閉じるのか——この問いは、初音と祥子の物語の外側で、現にこの社会を生きる者たちの問いでもある。
そして本論は、作品自身が、閉ざされなかったもう一方の道を標識していることを、最後に確かめる。双数が箱庭へ閉じる一方で、作品はもう一人の形象に、別の道を歩ませている。高松燈だ。前段の主論考が記述したとおり、燈の最終的な選択は、神になることではなかった。燈は神ならず、迷子のまま、手を放す。ただし、ここでの「手を放す」を、関係を断つことと取り違えてはならない。燈が手放すのは、相手を所有し支配することであって、相手とのつながりではない。燈は、誰をも所有しないが、誰をも見捨てない。所有・支配を手放すことと、つなぎ続けることとが、燈において両立する。これが、前段の主論考が燈型に見た、迷子のまま手を取り合う再結束のあり方であり、しかも作品が物語の運動として現に歩ませてみせた道である。本論の診断の重みは、この歩まれた道の側にある。12話で祥子が燈へ宛てる手紙——かつて「離さないで」と願ったあなたの手は、今は「だれの手も離さない」——は、その既に歩まれた道を当人の言葉がなぞる傍証であって、診断がそこに根を下ろす最後の根拠ではない。
そして同じ手紙で、祥子は自らの道を、燈の道とは別のものとして書きつける——「燈のようには出来ないけれど」、わたくしは「わたくしなりに、自分のバンドを守っていきます」。この一節は、二つの道の対比を当人の言葉で確認させる。ただし対比そのものは、祥子の自己描写が作り出すのではなく、既に物語の運動として歩み分けられている——燈は所有を手放してなおつなぐ道を現に生き、初音と祥子は密閉された箱庭の道を現に生きた。誰をも所有せずに誰の手も離さない燈の道と、自分のバンドを一つの王国として神のごとく抱え込む祥子の箱庭の道と。燈の道は、他者に寄りかかってなお自己が残り、つながりを断たぬまま相手を相手のまま残す、弱い自立の——開かれた庭の——側にある。双数が閉ざした道のもう一方を、作品は燈において、開いたまま残している。
物語の運動として歩み分けられたこの対比が、本論の診断を、外からの断罪から隔てる最後の根拠である。批評家が、初音と祥子を箱庭へ閉じたと外から裁いているのではない。作品自身が、燈という開かれた道を現に歩ませて双数の傍らに置くことで、双数の選んだ道が閉ざされた道であることを、標識している。診断の線は、ここでも作品が引いている。
そして、ここでようやく、第2章以来宙づりにしてきた判定を閉じることができる。祥子のケアが、応答を聞く力なのか、応答を上書きする力なのか——その両義を、作品は、燈という開かれた道を並べて置くことで決した。閉ざされた道の側に置かれた祥子のケアを、本論はいま、その力強さと分かちがたい主権的なパターナリズムとして——救済の貌をした閉鎖として——名指す。両義が消えるのではない。祥子のケアが力強いことは、最後まで本論の認めるところだ。だが、そのケアがどちらの極で結実したかを、作品自身が引いた線が、最後に指し示している。
最後に、この双数を、前段の主論考が描いた二軸の地図の上に置いて、本論を閉じる。主論考は、燈型を二つの軸の正極——迷子の倫理と手放し——に、睦型を負極——無への溶解——に置いた。本論の初音は、この地図の上で、一つの蝶番として差し込まれる。初音は、燈の手放し(正極のモード)を受け取りながら、それを所有と幽閉(負極)へと反転させた者だった——正極のモードを負極へまたぐ蝶番。そして本論が最後に見たのは、その蝶番が振り切れる先である。初音は、負極をどこまでも行って、ついに睦型の終端——無への溶解、主体の消失——に、関係の道を通って合流した。燈の正極から出発した一人が、関係の只中で所有へ反転し、その所有が極まる果てで、関係そのものを失って物と化す。蝶番は、地図の端から端までを、ひとりで渡りきった。
ここに、本論の診断が行き着く果てがある。共依存は、内から立つ主体と、構築を重ねて関係のうちに立つ主体との、非対称な関係の診断だった。その関係は、終端で対象を失うのではない。逆だ——関係が初音の蓄えた自己を解いて物へと封じきるその瞬間こそ、この診断が極まる頂点であり、所有・標本・受光として第1章から積まれてきた構造が、一個の物として完成する到達点である。そしてここで、本論は箱庭の最終的な代価を、自らの語彙で名指すことができる。承認の経済から退却した者が、庭にも弱い自立にも達せず、一人の主権者の箱庭へ閉じるとき、最後に失われるのは、自由でも対等性でもない。退却が守ろうとした当の自己——構築を重ねてかろうじて蓄えた、あの薄い現実——そのものである。箱庭は、自己を守る退避所であるどころか、自己が採集され物へと封じられる、その最後の場所になる。これが、庭にならなかった退却の、最終的な代価だ。
ここで、本論の方法そのものに一つの反問がありうる。終端の診断は瞳の光の消失に懸かっていた。ならば、その同じ瞳に光が戻る局面を「別の位相」として切り分けるのは、同一の視覚軸の上に、診断の都合で線を引いただけではないか——作品の運動を人形のフレームで止め、その先を発送する、批評家の停止ではないか、と。これに、作品自身の物証で答える。その局面を別の位相として画したのは、本論ではない。最も鋭い離散的な切れ目は、初音へのスーパークローズアップによる断ち切りと、終曲を独立した一曲として区切る編集である。これに、背景の総体的な転換——玉座の強調解除、立ち昇る星座、金から紫への色相——が重なり、楽曲もまた、主音を保ったまま旋法の色を移す。標識の強さは一様ではない。編集の切れ目が鋭く、背景の転換がそれを支え、楽曲の移りはより弱い。だが、これらの標識はいずれも、係争中の瞳の光とは別の水準にある。だから、ここでの分節は、批評家が供給した停止ではない。複数の異なる水準にまたがって作品が引いた境界である。本論がこの局面を次の問いへ送るのは、物化を最終的代価に保ちたいからではなく、作品自身がそこに別の位相を画したからだ。
そのうえで、ここから先へは引き継がない問いがある。睦の自己著作の溶解、燈の自律的な手放し、そして本章の後段で見た、主権と所有の枠が作品自身の手で断たれたあの星のコスモス。これらに共通するのは、関係を単位とする本論の診断が捉えきれない、脱主体化と非関係のレジスターである。とりわけこの局面は、本論の手のなかで両義のまま残る。退いた祥子、自ら灯る初音の光、双数を越えて観客までを照らし出す星の遍在——それは、主権と所有の閉域を真に踏み越えて、誰であるかを問わぬ庭の、相互の見交わしの側へ抜ける開けなのか。それとも、たった今上演された物化を、宇宙的調和の美で覆って見えなくする、もう一つの上書きにすぎないのか。哀しみを負って自ら灯る初音の光は、封印からの解放なのか、それともコスモスによる別の塗り込めなのか。関係を単位とする本論の双数は、この問いを裁定できない。本論はそれを握り潰さず、作品が現にそこまで進んだことを記述した。だが、その先の裁定——および、この脱主体化に理論の名(物象化、アブジェクシオン、脱個体化など)を与えること——は、自己同一性を関係の外でいかに手放すかを主題とする次論考の仕事である。構築としての同一性は、開かれた庭にも、密閉された箱庭にもなりうる。そして箱庭は、その底で、重ねて蓄えられた自己を、構築ごと解いて、一個の物へと封じることがある。Ave Mujicaの初音と祥子は、その箱庭の道を最も精緻に生き、初音は、構築によって蓄えた薄い自己が、関係の手で解かれて物となるその到達点までを、作品自身の手で線を引かれながら、生きてみせた。そして作品は、その物化の後にもなお、先へ——星の遍在と見交わしのコスモスへ——進んでみせた。その先で何が残るのかを問うことは、関係を単位とする本論の仕事ではない。それは、次に開かれるべき問いである。

(Avemujica 13話 「天球のMusica」終局場面より)

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