個体化の揺れとアイデンティティの手放し――MyGO!!!!!/Ave Mujica 論

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~新世代の「弱い自立」を構える~

※本論考の全てのBanGDream! Ave MujicaMyGO!!!!! の関係固有名詞、画像は㈱ブシロード、サンジゲン㈱に所属します。
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序章 射程・方法・理論ハンドル

1 射程――ガールズバンドアニメ批評としてではなく

本論考は、BanGDream! MyGO!!!!! Ave Mujica を、ガールズバンドアニメというジャンルの内部批評として読まない。
現代日本社会で人々が直面している問題への、虚構を経由した応答の批評として読む。
問題とは二つある。統一された自我を持つことが困難になった人々と、承認経済に疲弊した人々である。
二作は、この二つの問題への精緻な虚構的応答の一つとして位置づけられる。

2 方法――観察駆動

本論考は観察駆動の順序を採る。物質的細部――カット、時刻、空間配置、音響、色彩、編集――の記述から出発し、そこから仮説を引き出し、最後に理論的概念へ接続する。理論は観察に先立って動員されない。各章は本文の内部でもこの順序を保ち、理論ハンドルは観察から引き出された仮説の接続先としてのみ登場する。動員する概念は、いずれも原典を典拠とし、その出自・本来の使用文脈・本論考での再定義を明示する。なお、監督インタビュー(柿本広大、Megami Magazine 2025年5月号 p31)が示す作家の意図は、作品の事後的正当化を避けるため、本論考では観察の根拠として動員しない。インタビューは観察とは別文脈の資料として扱う。

本論考の方法は、作者の意図を作品の真意とする読み(考察)にも、作者を消去してテクストの自律性のみを扱う読み(テクスト中心主義)にも与しない。前者は監督インタビューに正解を求め、後者は映像を作者から切り離された記号体系として閉じる。本論考が観察するのは、どの単一の作者――サンジゲン、監督、脚本、音楽――の意図にも還元できず、しかし作者の不在へも解消されない、映像物質の余剰である〔1〕。

3 理論ハンドル――三層と一界面、統合しないこと

本論考の理論ハンドルは、三つの層と一つの界面から成る。存在論層には、Simondon が定式化した準安定性・前個体性・位相のずれ(déphasage)を主軸に置き、真木悠介『自我の起原』〔2〕を、その存在論から現代日本社会の「自我」への接続環として、Combes の Simondon 解釈における超個体化を、身体的レジスターの補助線として用いる。記号論層には、Kristeva の過程としての主体(sujet en procès)・ル・セミオティーク・コーラ・定立(thétique)を置く。記号論層と社会層の界面には、バレットの構成主義的情動理論を置く。社会層には、Butler のパフォーマティヴィティと、宇野『庭の話』の中心概念(プラットフォームと庭、相互評価ゲームからの撤退、弱い自立)を置く。

重要なのは、これらの層を哲学的に統合しないことである。各層の駆動原理は異なる――Simondon の非否定的な位相のずれ、Kristeva の否定性に駆動された定立、バレットの構築主義、Butler の否定性駆動の引用。とりわけ Simondon と Kristeva の界面では、界面項を前-分節的なリズムと振動に固定したうえで、両者の時制の差異(前個体性は未来へ向かう余剰、コーラは遡及的に措定される過去の痕跡)と駆動原理の差異を、括弧に入れず異質性として温存する。本論考が試みるのは統合ではなく、異質な複数の層が同じ物質に与える複数の記述を、その差異を保ったまま重ねることである。

(生成AIで製作イラスト)

4 四つの語の使い分け

「自我」「個体」「主体」「アイデンティティ」を互換的に用いない。「自我」は真木悠介『自我の起原』からの語彙であり、進化生物学的・社会学的な厚みを持つ。「個体」は Simondon の individu の訳語であり、存在論的に物理・有機・心的を貫く。「主体」は Kristeva の sujet の訳語であり、精神分析的・記号論的な過程性を持つ。「アイデンティティ」は Butler の identity の訳語であり、社会学的・パフォーマティヴな構築物を指す。

5 動員にあたっての三つの予防

第一に、バレットの動員には原典の射程を超える批評的拡張が含まれる。バレット原典の主体観は法的責任主体に偏る(第11章)が、本論考は楽曲演奏における身体運動と予測変更の連鎖(第9章)、および情動コミュニケーションと社会的影響(第7章)を、音楽的主体性から社会的主体性への橋渡しとして読む。これは本論考独自の拡張であり、原典の射程を超える運用である。あわせて、バレットの繰り返すメタテーゼ「変化が標準である」が、前段論考第6章で確立した準安定性・揺れ続ける位相と呼応する(「変化が標準である」は第13章。高橋洋訳『情動はこうしてつくられる』紀伊國屋書店、2019)。

第二に、Butler の動員は『触発する言葉』の発話行為論的水準に限定し、『ジェンダー・トラブル』のジェンダー特化部分は動員しない。これは、本論考の主体形成の議論を、ジェンダー読解へ性急に還元することを批評の内部で予防するためである。

第三に、本論考が扱う「映る装置」(鏡)は、像を反射するのではなく生成する。したがってそれをラカンの鏡像段階――反射による誤認の場――へ回収しない(Kristeva の定立がフッサールの thèse/Setzung 由来であることも、この回収の回避に資する)。

6 前段論考からの継承と、本論考の問い

本論考は前段論考『Ave Mujica』論――仮面、鏡、床の連続性の継承であり発展である。前段論考は、二つの媒介(視覚層と音響層)を通じて個体化の準安定性へ収束し、末尾に一つの問いを開いた――個体化の揺れは、なぜ二つの異なる映像的形式を要請したのか。

本論考はこの問いに、二軸反転として答える。MyGO!!!!!Ave Mujica は、統一された自我が困難な現代において、個体化の揺れという共有された準安定の基層の上で、演じられた同一性への関係――役・仮面・人形劇・模倣――を媒体として、個と共同性の二つの軸で相互に反転する応答を上演する。睦型(Ave)は両軸の負極を占め、個を無へ溶かし、共同性を消滅させる。燈型(MyGO)は両軸の正極を占め、社会的可読性を手放して還元不能な〈僕〉を屹立させ、崩壊から共同性を再結する。なお、なぜ他作ではなくこの二作なのかは、両作が同一の崩壊(CRYCHICの崩壊)を分有し、豊川祥子と若葉睦が両作にまたがるという作品の物質的事実に拠る(結章§4で詳述)。時間性と構造性は、この反転の本質ではなく、形式的署名である。以下の各章は、この命題を、観察から段階的に立ち上げていく。


第1章 基層〈個体化の揺れ〉――関係的・超個体的

(AveMujica  7話より)

基層に置くのは、個体化の揺れである。それは孤立した個の内部に宿る性質ではなく、他者との関係のなかで起こり、観る者へ伝播する。本章は、この揺れの起源・伝播・署名を、Ave Mujicaの三つの場面に物質的に読み取る。揺れが最も露わに物質化するのはAve側であり、MyGO側の揺れ(燈の震える声、正解も普通も掴めないという分からなさ)は第3・4章の材料が担う。基層をまずAveの明確な物質で立て、図の二章が両作をこの基層の上に置く。

1 起源――封じ込められた希求

Avemujica 7話、睦の自室。鏡を挟んで、睦は祥子に会わせてほしいと懇願し、モーティスはそれを「守ってあげている」と保護として拒む。揺れの起源は、他者(祥子)への希求が封じ込められることにある。個体化の不安定は、ここで単独の心理としてではなく、不在の他者への向きと、それを封じる力の拮抗として現れる。

2 伝播――観ることで起こり、「私も」で相互化する

(AveMujica  10話より)

Avemujica 10話の劇中劇。睦/モーティスが各員を役名で呼び起こすなか、にゃむだけが応じない。髪を撫でられて覚醒したにゃむは、瞳孔を拡大させ、左右に振れ、口を戦慄かせて睦/モーティスの肩を掴み、愛しても愛しきれない・愛されないという不可能な愛を涙声で告白する(涙は不可視)。睦/モーティスは「私も」と応える。

ここから仮説を引く。にゃむの揺れ――あたしとは何か、という問い――は、この告白において、睦/モーティスを観ることを通じて起こり、「私も」によって相互化される。揺れは一人のうちに完結せず、観る者と観られる者のあいだで往復する。個体化の揺れは関係的であり、主体を越えて分有される。ただし、この「私も」を母性的な相互受容と読んではならない。それを発するのは「守ってあげている」と封じ込める図(睦/モーティス)であり、にゃむが告白するのは愛しても愛しきれない・愛されないという不可能な愛である。超個体的な伝播は、健全な無条件受容の成就ではなく、封じ込めの図を介した不可能な愛の交換として上演される。

3 署名――両義そのもの

署名とは、観察者が映像の物質――配光、輪郭、鏡面の運動、モーションの方向――の上で、個体化の位相状態およびその軸的位置と対応づける、識別可能な現れを指す(以下、署名)。これは表現論的な意味で主体が残す記号ではなく、作品の差異を生み出す原因(本質)でもない。観察者が物質を読んで位相状態と対応づける手続きの相関物である。ここでの署名は、Derridaのsignatureおよび差延の痕跡(trace)とも、因果的接触を前提とするインデックス記号論(Peirce、バルト「ça a été」)とも独立した、本論考内部の観察語である。

13話EDの手鏡。鏡像は微笑の直前に青白く虚ろになり、微笑へ転じて輪郭を得る。この運動を「生まれかけ」と読むことも、「残余=痕跡の浮上」と読むことも、物質はどちらをも等しく許す。揺れの署名とは、この決定不能そのものである。像が一方に決まらないこと――前へ向かう緊張とも、過去の痕跡の回帰とも読めること――が、基層が準安定であることの物質的な裏書きとなる。

4 仮説

個体化の揺れは、第一に関係的である(起源は不在の他者への希求とその封じ込め)。第二に超個体的である(にゃむの揺れは睦/モーティスを観ることで起こり、「私も」で相互化される――揺れは主体間を伝播する)。第三に、その署名は決定不能である(手鏡の両義は、どちらかへ解決されるべき不全ではなく、揺れの在りようそのものである)。この基層は両作に共有される。MyGO側では、正解も普通も掴めないという燈の分からなさと震える声が、同じ準安定を別の物質で実装する。そして揺れが超個体的であること――主体間を伝播すること――は、個が他者へ開かれ集団形成へ向かいうる潜在性でもある。だがそれは共同体化の必然ではない。同じ超個体性が、軸の極性次第で集団を再結へも消滅へも導く。その分岐の物質は、第4章(詩超絆=再結の正極/共同消滅=消滅の負極)が担う。

5 理論ハンドル接続

基層の揺れは、Simondonが定式化した準安定性(métastabilité)として記述できる。登場人物の主体性は、安定でも不安定でもない第三の状態――揺れ続ける位相――として実装されている。本論考はこの概念を心的個体化に限定して動員する(藤井千佳世監訳『個体化の哲学』法政大学出版局を参照標準とする)。

起源の場面(7話、封じ込められた希求)が物質化しているのは、Simondonの言う前個体的なもの(le pré-individuel)である。それは個体の内部に持ち越される未解決の緊張であり、未来へ向かう余剰として超個体的なもの(le transindividuel)の形成を駆動する潜在性である。睦の祥子への希求が「守ってあげている」という保護のもとに封じ込められるとき、その希求は解消されも実現されもせず、緊張のまま個体内に保持される。把持とは、前個体的緊張を未解決のまま握りしめる身振りである。

伝播の場面(10話、モーティスの「私も」)には、Kristevaのsujet en procès(過程としての主体/審理されている主体)が接続する。procèsは過程と審理の二重の意味を担い、主体は形成の途上にあると同時に、他者の前で絶えず審理されている。にゃむの揺れ(あたしとは何か)は、睦/モーティスを観ることを通じて起こり、「私も」によって相互化される。揺れが主体間を往復するこの局面を、本論考はSimondon-Kristeva界面の界面項――前-分節的なリズム/振動――として記述する。にゃむの瞳孔の拡大、口の戦慄、涙声という身体的・情動的レジスターは、CombesのSimondon解釈における超個体化の身体的レジスター読解(MIT Press英訳を参照標準)が描く、前個体性を「能動的準安定」として読む層に対応する。

(AveMujica  10話より)

署名の場面(13話、手鏡の両義)は、この界面の異質性そのものを物質化する。鏡像の虚ろから微笑への運動を「生まれかけ」と読むなら、それはSimondonの前個体性――未来へ向かう未解決の緊張――に対応する。同じ運動を「残余=痕跡の浮上」と読むなら、それはKristevaのコーラ(chora、プラトン『ティマイオス』52A-B由来、脚注明示)――主体が成立した後に抑圧されたものとして遡及的に措定される場――に対応する。両者は時制において逆を向く(前個体性=未来志向の余剰/コーラ=遡及的・過去痕跡)。そして駆動原理においても逆である(位相のずれ=déphasageは非否定的な生成、定立=thétiqueは否定性駆動。thétiqueはフッサールのthèse/Setzung由来であり、ラカン鏡像段階との等価視は回避する、脚注明示)。本論考はこの両者を哲学的に統合しない。手鏡の両義が一方へ決まらないこと、それ自体が、界面の二つの異質なレジスターが括弧に入れられず温存されていることの物質的な裏書きである。揺れの署名とは、この温存された異質性である。


第2章 媒体層〈演じられた同一性への関係〉――生成する鏡と、演技への三つの関係

基層の揺れは、つねに何かを媒体として現れる。その媒体が、演じられた同一性――役・仮面・人形劇・模倣――である。揺れは生のままでは現れず、演じられた同一性への関係を通じて姿をとる。本章は、この媒体層を二つの柱で記述する。第一の柱は映る装置であり、第二の柱は人形劇・役名と、演技への三つの関係である。

1 第一の柱――映る装置は反射でなく生成する

(AveMujica  13話より)

Avemujica 7話の化粧台の鏡は、睦の像を生む。割れたガラス片にはモーティス自身が断片的に映り、抑圧が自己像を砕く。13話の無傷の手鏡では、鏡像のみが自律して動き、背面の身体は静止したまま、全き面影が生まれる。重要なのは、ここで鏡が反射していないことだ。背面の静止した身体を写し取るのではなく、身体から独立した像を生成している。したがってこの装置は、像と自己との誤認が起こるラカン的な鏡像段階の場ではない。それは生成的な封じ込めの膜であり、向こう側に何かを生んで閉じ込める媒体である。断片化したモーティスの鏡像(7話)から、全き面影を生む無傷の手鏡(13話)へ――鏡・像の弧は、反射の主題ではなく生成の主題として読まれる。

2 第二の柱――人形劇・役名・演技への三つの関係

(AveMujica  「八芒星ダンス」より)

Ave Mujicaは同一性を人形劇として媒介する〔3〕。7話で鏡破壊の場に流れる人形舞踏曲は、3話で睦が十三体の人形を演じた劇場と同曲であり、かつて人形を演じた睦が、いま鏡の向こうの人形のように封じられる。10話の劇中劇では、各員が役名で呼び起こされる。役名――ドロリス、ティモリス、アモーリス、オブリビオニス、そしてモーティス――は、それぞれ悲嘆・恐怖・愛・忘却・死を意味するラテン語名詞(dolor, timor, amor, oblivio, mors)の単数属格である〔11〕。格が属格である以上、各役名は情動そのものではなく「(仮面の)…の悲嘆」「…の恐怖」「…の愛」「…の忘却」「…の死」として読まれる――ペルソナは、それが帯びる情動に帰属し、あるいはそれに憑かれている。役名による呼びかけ(10話)は、各員を情動への属格的紐帯によって定義された仮面へと召喚するのであり、人形劇による同一性の媒介は、命名の水準において、一個の身体をある情動の憑依下に置くことにほかならない。

演じられた同一性への関係は、観察上、三つの型に分かれる。第一は睦型――役による溶解。睦/モーティスは無表情で役をまとい消える(13話「八芒星ダンス」の集団的無表情の一部であり、個別に突出した徴ではない)。第二は燈型――模倣の放棄。社会的に読み取り可能であることを手放す(第3章で見た区Dの外部規範からの転回)。第三はにゃむ型――知って演じる者。にゃむは役名の呼びかけに応じず(10話、役の召喚への抵抗)、しかし演技の枠の内側で最も素の情動を噴出させ、Avemujica 13話では観客/カメラへ向けてウィンクする。役をまとって消える睦型とも、模倣を捨てる燈型とも異なる、演技への第三の関係である。なお初華型――役へ投入して関係を築く構築の型――は、媒体層の意図された縁として本論考では留保し、後続論考の腹案へ送る。

3 仮面の多数化

第3章で個の軸から外して保留した「顔~AlterEgo~」の拡散は、ここに帰属する。単一の身体が、無表情・ウィンク・不敵な笑み・困惑と怒りといった、睦単体では見せない多数のペルソナを循環する運動は、個が無へ溶ける個の軸の現象ではなく、演じられた同一性が一から多へ増殖する媒体層の現象――仮面の多数化である。睦型は、役によって消えるだけでなく、単一の身体のうちに多数の演じられた顔を増殖させもする。溶解(個の軸・負極)と多数化(媒体層)は別のレジスタに属し、両者を「どちらも無への道」と統合してはならない。これにより、拡散の軸帰属は決着する。


https://youtu.be/6umH5XQpXws
(Avemujica 13話 「顔 ~Alter Ego~」



4 仮説

媒体層とは、演じられた同一性への関係として揺れが媒介される層である。映る装置は反射ではなく生成として働き(生成的封じ込め膜)、人形劇と役名が同一性を媒介し、演技への関係は睦型・燈型・にゃむ型の三つに分かれ、仮面は単一身体のうちで多数化しうる。基層の揺れは、つねにこの媒体を経て図へと現れる。生のままの個体化の揺れは、画面には決して現れない。

5 理論ハンドル接続――役の反復と、噴出するル・セミオティーク

媒体層の観察を、二つの理論ハンドルへ接続する。

第一に、演じられた同一性への関係――役名による呼びかけ(10話)、人形劇としての媒介(3話・7話)、役の反復――を、Butler が論じた引用(citation、竹村和子訳『触発する言葉』岩波書店、2004)およびパフォーマティヴィティとして記述する。同一性は、あらかじめ在る実体ではなく、規範の引用と反復の効果である。Ave Mujica が役名でメンバーを呼び起こし、睦が人形を演じ(3話)、いままた鏡の向こうの人形のように演じられた同一性へ封じられる(7話)とき、同一性は引用され反復される媒体の上で立ち上がっている。ただし、この引用が極性によって反復・失敗・拒否のいずれへ向かうか――その三様態は、図の二章(第3章§6、第4章§5)で個と共同性の軸ごとに記述する。媒体層が確定するのは、同一性が引用と反復の媒体を経てのみ現れること、すなわち演じられた同一性への関係が引用の場であることに尽きる。

第二に、演技の枠の内側で噴出するにゃむの素の情動――瞳孔の拡大、口の戦慄、涙声(10話告白)――を、Kristeva のル・セミオティーク(le sémiotique、原田邦夫訳『詩的言語の革命 第1部』勁草書房、1991、第I章2節 p.15)の噴出として記述する。にゃむは役名の呼びかけに応じない――役の召喚、すなわち le symbolique への不同調である。だが応じないにゃむの身体は、台詞となる手前の前-分節的な情動を噴き上げる。役という le symbolique の枠の内側で、それに回収されない身体的・情動的なリズムが噴出する。この局面を、前段論考が睦/モーティスの仮面崩壊で動員した「言語と感情のズレ」(le sémiotique と le symbolique の不一致)と同じ界面に置き、本論考はにゃむの噴出として記述する。

第三に、映る装置については、§1で確認した通り、それが反射ではなく生成であることを理論導入の水準で明記しておく。鏡像が背面の身体を写し取らず、身体から独立した像を生成する以上、この装置を像と自己との誤認の場=ラカンの鏡像段階へ回収しない。Kristeva の定立(thétique、原田訳 第I章5節 pp.36-37)がフッサールの thèse/Setzung に由来すること(脚注明示)も、この回収の回避を支える。媒体層の鏡は、誤認の構造ではなく、生成的な封じ込めの膜として読まれる。


第3章 図・個の軸――握って散る極と、地に残る図

個の軸は、否定命令〈〜ないで〉の起源と反復を背骨として立つ。一方の極(睦型)では、握りしめる命令が反復のたびに声を増やし、ついには握る手そのものを解いて主体を無へ落とす。他方の極(燈型)では、社会的に読み取り可能であることが手放されてなお、消えずに図として残る個が屹立する。本章はまず否定命令の系列を物質的に記述し、次いで二極の反転を図地と終局性の差として記述し、最後にこの反転を理論ハンドルへ接続する。

1 中軸――否定命令〈〜ないで〉の起源と反復

(AveMujica  7話より)

起源はAvemujica 7話、睦の自室である。化粧台の鏡を挟んで、手前に鏡像のモーティス、「鏡の向こう」に睦がいる。睦は境界線に手を当てて祥子に会わせてほしいと懇願し、モーティスはこれを拒んで睦に沈黙を命じる。注目すべきは、その命令が「守ってあげている」と保護として正当化されることである――封じ込めが庇護として語られる。睦の手が境界をまたいで現実側へ伸び、月光に照らされてその影が一瞬現実に落ちる(部分的越境)。動揺したモーティスは振りかぶって鏡を割り、砕けたガラス片にはモーティス自身の頭・腕・腰が断片的に映る。流れているのは、3話で睦が十三体の人形を演じた劇場の場面と同じ人形舞踏曲である。沈黙の命令は、ここで人形劇の音楽に乗って発せられる。

(Avemujica 9話より)

反復はAvemujica 9話、池袋サンシャインシティとそれに続く精神世界である。否定命令はここで〈取らないで〉へ姿を変え、三度反復される。ただし反復のたびに、奪われまいとする対象が移っていく。一度目は現実の妄想のなかで初華が単数で叫び、その対象は人(祥子)である。二度目はその直後の精神世界で睦がギターの争奪のなか単数で発し、対象は楽器(ギター)へ移る。三度目は精神世界で巨大な睦の影が高低複数の同時声として反復し、対象は同じく楽器(ギター)である。対象が人から楽器へ移っていくにもかかわらず、奪われまいとする把持の文法だけは同型に保たれる(楽器=演奏主体性の物質化という媒体層の論点とも接続する)。反復のたびに手摺が破壊され、睦は背面から闇へ落下し、パレイドリア状に増殖した睦/モーティスの群れが歓声を上げる。発話の主体は、初華から睦へ、単数の睦から複数声の巨大な影へと膨張し、主語は「若葉睦」から「若葉睦/モーティス」の融合体へと変容していく。

2 睦型の負極――溶解

(AveMujica  10話より)

否定命令の弧の終点が、睦型の負極である。Avemujica 10話「ImprisonedⅩⅡ」が溶解の起点となる。実体(3D)であった人格が輪郭(2D)へと移行する。この移行は同一カット内の連続的なフェードではなく、カット間の切替として提示される――睦がまず輪郭となり、次カットでモーティスも輪郭のみとなって相互に輪郭化し、抱擁して額を合わせたのち、画面下方の闇/水底へ沈下する。残存するのは、唯一実体を保つ3Dギターのみ。ここで起きているのは、図(実体としての人格)が地(闇・水底)へ呑まれていく沈下であり、輪郭化はその通過状態である。そして消滅そのものは精神世界(不可視)で起き、実舞台へは、戻った直後のギター音質の変化と、それに気づく海鈴の驚き・にゃむの呆然として、聞こえるが見えない仕方で浮上する。


https://youtu.be/1_0LTMNKYGo?t=4

(Avemujica 10話「ImprisonedⅩⅡ」より)

Avemujica 13話EDの手鏡カット(26:05-26:08)では、この沈下が一個のカット内に畳み込まれる。背面の身体が金縁の手鏡を目線へ掲げ、鏡像は微笑の直前に青白く輪郭が虚ろになり、26:07で微笑へ転じて輪郭が明確化する。動くのは鏡像のみで、背面の身体には、この約3秒(26:05–26:08)のあいだ知覚可能な動作は認められない。配光のレジスタは2話最期「果てる」と同一であり、直後に照明が落ちて身体が暗転し、画面中央でAve Mujica衣装の初華へ切り替わる。図は地(黒背景・赤い玉ボケ)の側へ傾いていく。

(同じ13話「顔~AlterEgo~」の、単一身体に多数の確信的・不敵なペルソナが循環する拡散は、第2章で媒体層の「仮面の多数化」に帰属することが決着した。個の軸の負極は、ここでは溶解の一系列で記述する。)

3 燈型の正極――屹立

(MyGO!!!!!  12話より)

これに対し、燈型の正極はMyGO!!!!12話「迷星叫」〔4〕に集約される。冒頭に旧オーナー(楽奈の祖母)の「あの子は居場所を見つけた」という枠が置かれてから演奏に入る。2メロでは、暗転した客席に散らばる無数のサイリウムが、埋没していく外部規範と、前を見る〈今の僕〉とを対照化する。2サビ〈僕になる〉の位置で、燈(およびそよ)は一度ぼやけてから輪郭が明瞭化し、左手にマイク・右手で胸を押さえて目を閉じ、再び客席を向く。大サビでは逆光の単身から強い照明で顔全体が照らされ、集団へ溶けることなく客席=君へ歌う。震えはなく、反復句のあとも叫びは安定している。そして終端は、二拍で解決する。第一拍は、演奏終了の残響ののち、青白い舞台照明が画面全体を青く染め、等間隔の五人が全身で並び、全員が青白く、しかし輪郭のみが白く残り、それ以外は黒へ沈む(スーパーロングショット、逆光・寒色・明部約25%・影は深い)。ここでは冷色が地(画面全体の青/黒)の側へ回り、白い輪郭が図として地から抜き出る。第二拍は、その直後のカット――額から胸上までの燈のスーパークローズドショット(順光・暖色・明部75%超・影は浅く顎裏と首筋のみ・一定光)である。逆光・寒色・低明部の集団像から、順光・暖色・高明部の単身の燈へ。終端は、青白い輪郭の抜き出し(第一拍)を経て、暖色・順光の燈の持続(第二拍)へと解決する。

4 仮説――握って散る極と、地に残る図

否定命令〈〜ないで〉の文法は、ことごとく把持である。失うな、手放すな、という掴みの身振り。起源では沈黙の封じ込めとして(喋るな)、保護を装った支配の形をとり、反復では所有の主張として(取るな)、単数の声から複数の声へ膨張しながら繰り返される。把持は、握りしめるほどに声を増やし、主体を単数から複数へと散らしていく。そしてこの把持の弧は、Avemujica 7話の沈黙の封じ込め→9話の所有の膨張→10話の溶解という順序で、最後に握る手そのものを解き、実体を輪郭へ薄め、図を地へ沈める。睦型の負極とは、把持の弧の自壊である。握ることが散らすことになり、ついには落ちることになる。

ここで反転対の核を、観察から正確に取り出しておく。睦型と燈型の差は、「輪郭が消えるか残るか」ではない。両極とも、身体は等しく輪郭のみへと還元される。反転が成立するのは、その輪郭が二つの差異において逆向きに振る舞うからである。第一に図地の極性――睦型では図(実体としての人格)が地(闇・水底・黒)へ呑まれ、輪郭化は地へ沈む通過の相であるのに対し、迷星叫では冷色が地へ回り、白い輪郭が図として地から抜き出る。第二に時間的終局性――睦型の輪郭は沈下=消滅へ向かう途上の相にあり、迷星叫の輪郭は演奏後の残響に置かれた静止の終端にある。一方は消えていく途中、一方は残った果てである。


https://youtu.be/B8k6JtF6WrU?list=RDB8k6JtF6WrU

ただし、反転を構成するこの二つの差異に、もう一つ、反転には収まりきらない非対称が付帯する。死のレジスタの有無である。睦型のED手鏡は寒色・一定光で、Avemujica 2話最期「果てる」(逆光・寒色)と寒色において通底する(光源方向と明部比率は両者で異なるが、色温度の寒さが共通する)。溶解はこの寒色の配光を帯び、しかもED手鏡では直後に暗転して被写体が初華へ差し替わる――像の消去を伴う。これに対し迷星叫の終端は、別の配光体制へ解決する。集団像(第一拍)は逆光・寒色・低明部で「果てる」と隣接するが、終端はそこに留まらず、直後の燈のクローズドショット(第二拍)は順光・暖色・明部75%超・一定光であり、寒色で終わる「果てる」系とは別の配光体制をなす。睦型は寒色の配光のもとで地へ沈み(ED手鏡はさらに像の消去を伴い)、燈型は暖色・順光の配光のもとで図として持続する。この非対称――寒色・消去で終わる溶解と、暖色・持続で終わる屹立――は、二極を「同一軸の正負」と読むことに留保を促し、「死に憑かれた溶解」と「死を欠いた屹立」という質の異なる二現象である可能性を開く。本論考はこの留保を温存する。

燈型の正極が手放すものは、模倣を捨てる一個の所作としては描かれない。手放されるのは社会的可読性――迷星叫の2メロで、埋没していく外部規範に対して〈今の僕〉が前を見るという対照のなかに、それは置かれる。正解や普通として読み取られることからの離脱が起き、その離脱の果てに、消えるのではなく図として残る個が、2サビ〈僕になる〉と終端の輪郭保持で確証される。手放されるのは社会的可読性であり、残るのは還元不能な〈僕〉である。ただし、この屹立は自己根拠的ではない。迷星叫は冒頭で旧オーナー(楽奈の祖母)の「居場所を見つけた」という外部の枠に枠づけられており、還元不能な〈僕〉は他者の祝福を地として立つ。屹立を純粋な英雄的個人主義として読むことはできない。これは詩超絆の祝福枠と対応する摩擦であり、睦型が病理化され燈型が理想化されるという非対称は、この留保によって均される。否定命令を発し続けてついに握りを解いて散る睦型に対し、燈型は否定命令を発しない――迷星叫が置くのは肯定であって掴みの命令ではない。反転はここで、否定命令(把持)/肯定(屹立)の対としても書ける。


https://youtu.be/QkG7tIGYgSw?list=RDQkG7tIGYgSw
(MyGO!!!!! 10話「詩超絆」より)

最後に決着の射程を限定する。迷星叫が確定するのは、個の軸に正極が在ること――個が地へ呑まれずに図として残る相が存在すること――に尽きる。試金石(手鏡)内部の両義、すなわち虚ろから微笑への運動を「生まれかけ」と読むか「残余の浮上」と読むかの不決定は、ここでは閉じない。基層の署名を「揺れそのもの」に置く第1章の路線は温存される。迷星叫は試金石の像の意味を決めるのではなく、個の軸に図として残る極があることを示すことで、軸の極性だけを確定する。

5 理論ハンドル接続――界面の二つのレジスター

個の軸の反転対は、この界面の二つの異質なレジスターに、それぞれ材料を与える。

睦型の負極――把持の弧の自壊――では、準安定性が一方の極へ崩落する。否定命令〈〜ないで〉の把持は、前個体的緊張を握りしめ続け、反復のたびに単数の声を複数の声へ膨張させ(Avemujica 9話)、ついに握る手そのものを解いて実体を輪郭へ薄め、図を地へ沈める(10話・13話)。この崩落は否定性に貫かれている。Simondonの位相のずれが非否定的な生成であるのに対し、睦型の溶解は、審理のなかで失うまいと応え続けた把持が自壊して無へ落ちる――否定性駆動の運動である。したがって本論考は、睦型の溶解を、界面のうちKristevaが定式化した否定性駆動・遡及的なレジスターへ寄せて記述する。前-分節的なリズム/振動が、ここでは溶解する。

燈型の正極――地から残る図――では、揺れが一方の極で図として停止する。社会的可読性の手放し(迷星叫の2メロ、外部規範からの転回)は、Kristevaの語彙では、procèsの審理――読み取り可能であれという他者の審理――への応答の停止として記述できる。そして審理に応えることをやめた後に図として残るもの、還元不能な〈僕〉は、Simondonの前個体的余剰が、消滅へではなく屹立へと向かって立つ相に対応する。これは非否定的な位相のずれの側のレジスターである。したがって燈型の屹立を、本論考は界面のうちSimondonが定式化した非否定的・未来志向のレジスターへ寄せて記述する。

ここで一つ、誤読を予防しておく。睦型の溶解を否定性駆動のレジスターへ、燈型の屹立を非否定的レジスターへ寄せるこの対応は、批評的運用上の対応であって、理論的同定ではない。睦をクリステヴァ的主体、燈をシモンドン的主体と読むこと――形容詞的回収――は禁じられる。界面はあくまで開いたまま温存され、二つのレジスターは作品の二極に材料を見出すが、両者を統合する第三の像が存在するわけではない。その統合の不在を保証するのが、第1章の署名=手鏡の両義であり、それゆえ試金石の像の意味は決定されないまま置かれる。迷星叫が確定するのは、個の軸に図として残る極が存在することのみであって、手鏡の両義を一方へ閉じることではない。反転対は界面の二つのレジスターを舞台化するが、界面そのものは決定不能のまま温存される。

6 理論ハンドル接続――社会層(引用の反復・失敗・拒否)

理論導入にあたり一点を明示する。本論考はButlerの動員を『触発する言葉』の発話行為論的水準に限定し、『ジェンダー・トラブル』のジェンダー特化部分(第一章のフェミニズム論、第三章の身体論の大部分)は動員しない。これは、本論考の主体形成の議論をジェンダー読解や百合スタディーズの批評的射程へ性急に還元することを、批評の内部で予防するためである。

睦型の把持の弧は、Butlerが論じた引用(citation、竹村訳)の三様態のうち、反復から失敗への滑落として記述できる。アイデンティティは規範の引用と反復の効果であり、その反復(reiteration)が通常は主体性を維持する。否定命令〈取らないで〉の三例――初華、単数の睦、複数声の巨大な影――は、所有を確保しようとする引用の反復である。だがこの反復は、繰り返されるほどに主体を維持するどころか散らしていく。発話主体が単数から複数声へ膨張し、主語が若葉睦から融合体へ変容することは、引用が意図された効果(所有の確保)を生まず、意図と結果がずれていく引用の失敗にほかならない。睦型は引用を拒否しない。最後まで引用を反復し続け、その反復が自壊する。反復から失敗への系列が、把持の弧である(引用=citationの動員はDerridaの反復可能性=iterabilityを前提とするが、本論考はButlerの引用概念に絞り、Derridaの反復可能性は脚注で典拠明示するに留め、独立動員はしない)。

燈型の手放しは、これに対し引用の拒否(refusal)として記述できる。社会的に読み取り可能であれという規範――正解・普通――の引用を、能動的に停止すること。これが可能性三〈アイデンティティの手放し〉の社会層における中核である。迷星叫の2メロにおける外部規範からの転回、そして燈の能動的沈黙は、引用の反復でも失敗でもなく、引用そのものの能動的な停止である。

ここで層またぎを正確に管理する。燈型の手放しは、社会層では引用の拒否として、記号論層では過程としての主体(sujet en procès)の審理への応答停止として記述される。両者は同一場面の異なる層の記述であって、統合された一つの像ではない。さらに、引用の拒否(Butler)が能動的に切り開く場に、消滅へではなく図として残る前個体的余剰(Simondon)が屹立する――これも社会層の記述と存在論層の記述の重ね合わせであって、合成ではない。Butlerはヘーゲル–ラカン–デリダ系譜の否定性駆動であり、Simondonの非否定的個体化とは原理的に異なる。本論考は両者を同層に並べず、駆動原理の差異を温存する。手放しは、引用の拒否=審理への応答停止という複層的経路として記述され、各層の異質性は保たれる。


第4章 図・共同性の軸――音で消える関係と、音で再結する関係

共同性の軸では、関係そのものが一方の極で消え、他方の極で再結する。睦型では二者の関係が音を蝶番として消滅し、残るのは楽器だけになる。燈型では崩壊した関係が音を蝶番として再結し、残るのは絆の結晶である。本章は両極を物質的に記述し、その反転を図地と音の対称として記述し、さらに「絆の回復=救済」という予定調和への嫌疑を、作品が内部に抱える摩擦――強制と空席――として引き受ける。

1 睦型の負極――共同消滅

(AveMujica  10話より)

Avemujica 10話「ImprisonedⅩⅡ」の二番開始で、実舞台から睦/モーティスの精神世界の二階へディゾルブ遷移が起きる。これはショット間の光学的ディゾルブであり、実舞台の黒い床面とアンプが黒化したショットへ、抜け落ちた精神世界二階の手摺と床のショットが重なって現れる――床が層の蝶番として働く。二階でギターの取り合いが起こり、睦は手摺を突き破って背中から一階の闇へ落下し、モーティスは抜け落ちた床から真っ逆さまに身を投げる。水中では、実体のモーティスが輪郭だけの睦の背を右手で抱え、睦が目を開いて微笑むと、次のカットでモーティス自身も輪郭のみとなって微笑み返し、涙の粒が泡のように画面上部へ昇る。二人は抱き合って額を合わせ、唯一実体として残った三次元のギターとともに水底へ沈む。両者は同時に消滅し、ギターの実体だけが残存する。

消滅は精神世界(不可視)で起きる。実舞台には、戻った直後に睦/モーティスがギターを掻き鳴らすその音質の変化として、そして前日まで指南していた海鈴の驚きと、にゃむの呆然・寂しげな歯噛みとして、聞こえるが見えない仕方で浮上する。共同性の消滅は、見える消失ではなく、楽器の音と証人の反応によって事後的に確認される。

2 燈型の正極――共同再結

(MyGO!!!!!  10話より)

MyGO!!!!10話「詩超絆」〔5〕は、崩壊の後の局面に置かれている。MyGOを終わらせに来たと言うそよに対し、燈は観客席後方の彼女に駆け寄り、抵抗するそよの両腕を掴んでステージ袖へ引きずる。愛音がそよの左手を掴み、楽奈がベースを渡して演奏が始まる。海鈴はおらず立希がドラムに就いて、五人全員が在席する。

冒頭は暗転から楽奈のみに光が当たり、燈が震える声で歌い始める――分からなさ、正解も普通も掴めないこと、世界が遠いこと(趣旨)。歌い出してまもなく、燈はそよの右手を自身の右手で掴む。一番のなかばでは、自分が壊した、力なく手を放してしまったという悔恨と、それでも失いたくないという主題(趣旨)が歌われる。やがて会場全体が白く明るくなり、五人が白光に包まれる。楽奈を除く各員が落涙する。

(MyGO!!!!!  10話より)

転換点は、暗転から燈がサビを歌い出す瞬間である。以降ほぼ全カットで五人全員の輪郭線が点滅しながら白く光り輝く(点滅=明暗の時間的交替と、持続的なグロウとが併存する、と観察される)。歓声が増大する。サビが長く伸びるなかで、CRYCHIC期の記憶――一話の解散(祥子離脱)、中学CRYCHICの幸福な日々(祥子・睦を含む)――が現在の歌唱と白いカットアウト/インで交錯し、〈離れない〉という主題(趣旨)が長く伸ばされる。クライマックス手前でそよの涙が四本の線となって額で合一し白く光り、最終盤では「手と手をつなぐ・ほどきたくない・〈ぼく〉が〈ぼくら〉へ」という主題(趣旨)のもと、カメラが切り替えなしで五人を旋回し続ける(約20秒、燈を起点に そよ・愛音・楽奈・立希を順に各一周し、螺旋を重ねるように360度のフルサークルを描き続ける)。終端で固く残るのは、燈の身体と顔、そして五人の絆である。

(MyGO!!!!!  10話より ※上記5枚全て「詩超絆」)

3 仮説――音で消える関係と、音で再結する関係

共同性の軸の反転は、第3章で立てた図地と終局性の差を、関係のレベルで反復する。睦型では関係が輪郭化=二次元化し、下降して暗く冷たい水底へ沈み、後に楽器という物が残る。燈型では関係が輪郭の結晶化として白く光り、上昇・輝き・直立し、主体と絆が残る。図が地へ呑まれる極と、地から図が抜き出る極の対が、ここでも成立している。ここで輪郭化と結晶化は、同一の「輪郭のみへの還元」を逆向きに駆動する一軸の二極である。輪郭化は実体の薄まり(2D化)として図を地へ沈める運動を、結晶化は輪郭の固化(光による図としての強調と残留)として図を地から立たせる運動を指す。両語は第3章の図地反転と同じ一軸の上にあり、本論考を通じてこの逆極関係で用いる。

決定的なのは、音が両極の蝶番であることだ。睦型では消滅が音で起きる――関係の消失は、ギターの音質の変化として実舞台へ浮上する。燈型では再結が音で起きる――崩壊した関係は、サビ入りの燈の歌声を起点として再結する。共同性は、消えるときも結ばれるときも、音を介して生起する。

そして残余の質が反転する。第3章で見たように、迷星叫の個の軸では〈僕〉が単独で図として残った。共同性の軸では、残余は孤立した〈ぼく〉ではなく、五人の輪郭が共に光る〈ぼくら〉である。個の軸では〈僕〉のまま、共同性の軸では〈ぼく〉が〈ぼくら〉へ。

ここで、第3章で結章へ送った本丸の非対称が、共同性軸で具体的な形をとる。睦型は関係を手放して消す(手放しの完遂・相互の脱物質化)。燈型は関係を手放さず取り戻す(手放しの拒否・再把持)。詩超絆において〈手放し〉は、力なく手を放してしまったという過去の悔恨=克服対象として現れ、楽曲の運動はその反転である。掴む手の連鎖――燈がそよの腕を掴んで引きずり、愛音が手を掴む――は、関係へ引き戻す再把持である。Ave側が七話の把持から十話の手放しへ向かうのに対し、MyGO側は手放しから再把持へ、逆向きに動く。共同性の軸において、睦型と燈型は同じ「手放し」の正負ではなく、手放しの完遂と手放しの拒否という、質の異なる二つの運動として対をなす。

4 反対論の内蔵――強制と空席

ここで章は、最も予想される二つの反対論を外から退けるのではなく、内部に引き受ける。第一は母性ディストピア再生産の嫌疑。ただしこの嫌疑を「優しい無条件の相互受容・充溢のユートピア」としてだけ受け取ってはならない。母性のディストピアとは、優しさである以上に、包み込んで離さないこと・分離を拒むこと・失われた融合への退行(母の胎内への回帰)の謂いでもある。第二は説教ポルノ〔6〕の嫌疑――詩超絆を「崩壊した絆が回復し、皆が救われる」物語として読めば、それは「箱庭を破壊しない作者」による予定調和であり、「絆は素晴らしい」という教説へ純化される。この二つは別の嫌疑であり、作品はそれぞれに別の仕方で関わる。手がかりは、作品自身が残す二つの摩擦――強制と空席である。

第一に、強制である。再結はそよの自発から始まらない。終わらせに来たと抵抗する彼女を、燈は物理的に引きずり、愛音は手を掴む。救済が同意からではなく強制から始まること自体が、「絆=無条件の善」という予定調和を内側から軋ませる。作品は再結を、合意された円満な回復としてではなく、暴力的な引き戻しとして始めている。

(MyGO!!!!!  10話より)

第二に、空席である。クライマックスでカメラが旋回し始めるとき、舞台中央には最も強い照明が集まるが、その中心は無人である――愛音も楽奈も本来の位置を離れ、皆がそよへ近づくことで中心が空く。最終盤でも、約20秒に及ぶ360度の旋回が各員を周縁で順に捉えるあいだ、照明の集まる舞台中央は無人のまま保たれる――旋回の長さと全周性が、空席を中心に据える構図を持続させる。再結は、満たされた円ではなく、空席を中心に置いた円として成立する。そしてサビの持続のなかでCRYCHIC期(祥子・睦を含む)の記憶が交錯することを併せれば、この照らされた空席は、失われたCRYCHIC=もうそこにいない者の不在の場所として読める。共同性の再結は、不在を中心に抱えたまま、完全な回復には届かないものとして演出されている。

(MyGO!!!!!  10話より)

強制と空席は、第一の嫌疑=母性ディストピア再生産を却下しない。むしろ逆である。「終わらせに来た」そよを物理的に引きずり戻す強制は、分離を拒んで囲い込む母性像そのものであり、失われたCRYCHIC(祥子・睦)を中心に据えて回り続ける空席は、失われた融合への喪=退行的母性のもう一つの時制である。優しい無条件の包摂という狭い母性像でなら却下できても、包み込んで離さないこと・喪としての融合という本来の射程に照らせば、強制と空席はむしろ嫌疑を裏書きする。したがって本論考は、詩超絆の再結が退行的母性の引力を帯びていることを認める。否認するのではなく引き受けたうえで、しかし作品の支配的な物質そのものに、その融合が完遂しえないことの徴を読む。再結の支配的装置――最強の照明と、20秒・360度のフルサークル――は、先に空席として見たとおり、その中心を無人に保ったまま回り続ける。融合であれば中心は満ちる。中心が空いたまま持続する円は、退行的母性が要求する融合――母の胎内への完全な回帰――が構造的に完遂しえないことを意味する。睦型の共同消滅が個を区別なき融合へ溶かす(中心の満ちる完全な退行)のに対し、詩超絆の再結は、満たされぬ中心の周りを回る未完の融合である。これは融合優位のなかに残る細い抵抗ではない。融合の形式そのものが、埋めえない中心を抱えて構造的に未完であることの、支配的物質による裏書きである。

説教ポルノの嫌疑は、これと地続きである。詩超絆は困難(強制・不在)を一度提示してから情動的に解消してみせる――この「見せてから回収する」二重運動は説教ポルノの典型的構造でもある。回収(会場を満たす白光、サビ以降ほぼ全カットの輪郭白光、増大する歓声、涙の合一、最終盤の20秒・360度旋回)は尺・光量・音響のすべてで最大化されており、物質は回収=救済の極へ明白に傾いている。だが説教ポルノからの区別を、提示と回収の量比――摩擦が薄いか厚いか――に置くことはできない。困難を見せて解消する二重運動はほぼあらゆるドラマが行うのであって、説教ポルノの定義的特徴は、その解消が教説(絆は素晴らしい)を消費可能な情動として完結させる点にある。区別の足場は量ではなく構造――作品が教説の完成を阻んでいるか否か――にしかない。そしてその阻却子が、母性の段で見た空席である。回収の支配的装置そのものが、埋めえない中心の周りで救済の形式を上演する以上、救済は形式として演じられて完結しない。教説は閉じきれない。第1章の手鏡が現象的両義(どちらに読んでも作品の位相評価は動かない)であったのに対し、ここでの両義は評価的であり、しかも対称ではない。受容側がこの二重運動を消費可能なメッセージへ純化するとき、それは作品が中心に開けたままにした空席を塞ぐ読みであって、作品自身の未完の形式を一方へ閉じることである。作品の形式の未完と受容の閉じは別の層にあり、後者を批評対象とすることは、作品が救済へ傾いていること自体を免責しない。

5 理論ハンドル接続――社会層(意味づけなおしと、引用の外部の不可能性)

共同性の軸では、Butlerの引用概念は別の様態をとる。第3章で見たように、燈型の個の軸は引用の拒否(手放し)であった。だが共同性の軸の燈型は、引用の拒否ではない。詩超絆は手放しの拒否・再把持であり、ここで働くのは意味づけなおし(resignification、竹村訳。「再意味化」「再意味付与」は採らない)である。崩壊したCRYCHICの関係――力なく手を放してしまったという過去の引用の失敗――が、新たな意味を与えられ、〈ぼく〉から〈ぼくら〉への別の絆として取り直される。引用の失敗が新たな意味を生むこの経路こそ、Butlerの言う意味づけなおしである(この概念がバレットの再分類と構造的に接続する点は、本章§6の註〔8〕で示す)。

そして強制から始まる再結は、Butlerの枠組みにおいて欠陥ではなく条件として読める。Butlerにおいて、引用の体系の外に立つことは原理的に不可能であり、引用の拒否すらも体系内部での運動である。詩超絆の再結が、そよの自発からではなく燈の強制(引きずる手、掴む手の連鎖)から始まることは、意味づけなおしが、引用の連鎖の外部に出た自由な創設としてではなく、つねに制約の内側での組み替えとして起こることの物質的な現れである。意味づけなおしに外部の足場はない。だからこそ再結は強制を伴い、§4で見た空席を中心に抱えたまま成立する。ここでも、見田が与える「自己への閉じからの解放」(『自我の起原』pp.147-148)は救済の語彙へは滑らない。

これに対しAve10「共同消滅」では、引用が意味づけなおされるのではなく、停止し消滅する。関係が脱物質化し、引用すべき規範ごと水底へ沈み、残るのは演奏装置だけになる。意味づけなおしによる再結(詩超絆)と、引用の消滅(共同消滅)が、共同性の軸の二極をなす。

6 理論ハンドル接続――集合的個体化と、その身体的界面

詩超絆の再結を、社会層(§5)とは別の層で記述する。観察に戻る。サビ以降、ほぼ全カットで五人全員の輪郭線が点滅しながら白く光り、クライマックス手前でそよの涙が四本の線となって額で合一し、最終盤では切り替えなしのカメラが約20秒・360度のフルサークルで五人を順に一周する。個の軸(第3章)では〈僕〉が単独で図として残ったのに対し、ここで図として残るのは、輪郭が共に光る五人――〈ぼくら〉である。

ここから仮説を引く。共同再結とは、個が消えて全体へ融けることではない。五人の輪郭はそれぞれ保たれたまま、関係のなかで同時に図として立つ。個体が独立性を失わずに、しかし他者との関係を通じてのみ成立する――この局面を、本論考は集合的な個体化として記述する。

存在論層では、この集合的個体化――本論考が観察から立てる記述語――は、Simondonの集団的個体化(individuation collective)に対応する。両者は対応するが同一ではない。集合的個体化は本論考の記述語であり、集団的個体化はSimondonの術語である。個体は孤立した実体としてではなく、各々が抱える前個体的な余剰――未解決の緊張――を介して、より高次の個体化へ参与する。ここで過程と基礎を取り違えない。集団的個体化は過程であり、超個体的なもの(le transindividuel)はその過程が立脚する基礎である〔7〕。詩超絆において五人の輪郭が個別性を保ったまま共に結晶化するのは、各人の前個体的余剰が超個体的なものとして共有され、集団的個体化の過程が起動するからである(藤井千佳世監訳『個体化の哲学』第二部第三章「超個体的なものの基礎と集団的個体化」章扉 p.481・本文 p.499)。

この過程には身体的・情動的なレジスターがある。CombesはSimondonの前個体性を能動的準安定として読み、超個体化を身体的レジスターで記述する(MIT Press英訳 pp.31–33、章「The Transindividual Relation」p.25–)。詩超絆の再結が、台詞や説明ではなく、掴む手の連鎖と、輪郭の点滅・涙の合一・旋回という身体的・情動的な物質を通じて起こることは、この身体的レジスターに対応する。

記号論層と社会層の界面では、同じ身体的レジスターをバレットの構成主義的情動理論が別の経路で記述する〔8〕。バレットにおいて、身体を動かせば脳の予測が変わり、それによって経験が変わり(第9章)、情動は他者とのあいだで構築され伝播する社会的現実である(第7章)。詩超絆の合奏という身体運動――楽器を弾き、声を合わせ、掴み合う運動――が予測を変え、情動を別様に組み替え、ステージ上に集合的な情動を立ち上げる。ただし本論考はここで原典の射程を超える運用を行っていることを明示する。バレット原典の主体観は法的責任主体に偏り(第11章)、音楽的・集合的主体性を主題化していない。本論考は楽曲演奏における身体運動と予測変更の連鎖を、音楽的主体性から社会的主体性への橋渡しとして読む。これは本論考独自の批評的拡張である。

これらの層は統合されない。Simondonの集団的個体化は非否定的な位相のずれを、バレットの情動構築は構築主義を、それぞれ駆動原理とする。同じ物質――五人の結晶化――への異なる層の異なる記述として重ねるのであって、一つの像へ合成しない。とりわけバレットとKristevaは、衝動・情動が言語以前に実在するか否かをめぐって正面から対立するため、本論考は両者を同じ段落に並べず、Kristevaを記号論層内に、バレットをこの界面に置く。

集合的個体化に「他者性」という具体的内容を与えるのが、見田の個体性の関係的起源である。自我の起原を孤立した内面にではなく他者との関係=性的個体性に置く視座(真木悠介『自我の起原』p.70)は、〈ぼくら〉が他者との関係においてのみ成立する自我であることを言い当てる。ただしこれを「愛による救済」として読むことはしない。真木の言う自己への閉じからの解放は救済譚ではなく脱個体化の論理であり(pp.147-148)、詩超絆の〈ぼくら〉もまた、§4で見た強制と空席を抱えたまま成立する関係であって、充溢した救済ではない。

最後に、集合的個体化を落涙の一様性として読まないことを明記する。会場が白光に包まれる場面で落涙するのは、楽奈を除く各員である。集合的個体化は全員の情動が同一化することを意味しない。楽奈の非落涙は、この再結への参与が一様でないことの物質的な徴であり、その参与の質をどう読むかは本章では断定せず、観察事実として留め置く。


第5章 形式相関――時間と構造は二軸の署名である

(MyGO!!!!!  1話より。
MyGO!!!!! ではCRYCHIC時代の池袋近郊のスタジオ、Studio RinGの練習室、同楽屋裏と、物語の進行に並走して鏡の位置づけが変遷する)

二作の最も目立つ対照は、時間と構造にある。だがそれは、すでに見た物質――反射の装置と反復の形式――の上に、逆向きの曲線として刻まれている。

MyGO!!!!!の鏡は、練習空間に恒常的に常駐する日常的・反復的な装置である。その機能曲線は、五人が鏡像内に完全に並列する最大値から始まり、離脱の伏線、部分集団、個別鏡像のみの描出、ギターのみで人物不在を経て、最終話では鏡が画面から退場する。鏡が役割を終えること、すなわち自己を映し他者と並べる可読性の装置を手放すことが、迷いの受容として上演される。

Ave Mujicaの鏡は逆に、事件的・特異的に立ち上がる。鏡は割られ、最終話の鏡像は未形象の像を映す。鏡は日常へ退くのではなく、崩壊の事件として前景化し、砕け、溶解の場となる。反復の形式も同じ向きを描く。Aveの「取らないで」の三度の反復は過去へ回帰し、MyGOの詩超絆は前方の再結へ向かう。

(AveMujica  13話より)

二作の時間の向き――Aveは事件的崩壊と溶解へ、MyGOは循環のなかで鏡を手放し迷いを受容へ――は、独立した物語的事実として与えられているのではない。それは、個と共同性の軸的位置を定義しているのと同一の物質、すなわち反射の装置と反復の形式の上に、逆向きの曲線として担われている。鏡を手放すMyGOの曲線は燈型の個の軸(社会的可読性の手放し)を、鏡が事件として立ち上がり砕けるAveの曲線は睦型の溶解を、それぞれ担う――同定ではなく、同一の物質の上に引かれた逆向きの曲線として。

したがって、二作の時間的・構造的対照――事件的時間構造と循環的時間構造――は、本論考が立てた二軸の署名である。署名とは、第1章で定義した通り、観察者が映像の物質の上で個体化の位相状態と対応づける識別可能な現れであって、作品の差異を生み出す原因(本質)ではない。中心命題が「時間性・構造性は本質ではなく形式的署名である」と述べたのは、この意味においてである。二作の最も目立つ対照が時間的・構造的なものであることは事実だが、それは深層の主題ではなく、その表層の徴である。

手鏡の決定不能(第1章)と鏡の機能曲線の方向性(本章)は、いずれも鏡面の上で起こり、背面の身体とは独立した運動として観察される。この物質的な共通性において、両者は同一の署名の二つの現れ方として読まれる。位相が定まらない段階では決定不能として、位相が一方向への移行を開始した段階では方向性として現れる――前者は準安定に、後者は個体化の開始に対応する。


結章 社会層と射程――弱い自立としての手放し、そして二軸反転の応答

本章は、ここまでの三層+界面の記述を社会層で締め、二作を現代日本社会への虚構的応答として位置づける。

1 手放しの社会的実装――三層をまたぐ一つの経路

可能性三〈アイデンティティの手放し〉は、三つの層を貫く一つの経路として記述できる。記号論層では、過程としての主体(sujet en procès)の審理――他者の前で読み取り可能であれという審理――への応答停止として。社会層では、規範の引用(citation)の拒否として(Butler)。そして同じ運動が、現代日本社会の具体的様態においては、相互評価のゲームからの撤退として現れる(宇野常寛『庭の話』第11章)。宇野は丸山眞男の「である/する」論(p.281。「である」=共同体内で与えられる承認、「する」=社会における評価)を承けて、人びとが「人間間の相互評価のゲーム」に埋没すると説く(p.285)。その相互評価のゲームの勝者でも、グローバル資本主義の勝者でもない場所への退き――これが、承認経済に疲弊した人々への虚構的応答の社会層における名である。MyGO!!!!!の燈の能動的沈黙、Ave Mujicaの祥子の素顔崩壊と仮面選択は、この界面で記述される。

ここでButlerと宇野は、抽象度と射程の異なる二つの動員として並列される。Butlerが引用の構造(普遍的・否定性駆動)を扱うとすれば、宇野は引用の現代日本における具体的様態(SNS時代の承認経済)を扱う。両者は補完的であって、同一ではない。

2 弱い自立――揺れ続ける主体性の社会的実装

社会層の中核に置くのは、宇野の言う弱い自立(『庭の話』第12章)である。完全な自立でも完全な依存でもない中間状態。本論考はこれを、社会層から見た「揺れ続ける主体性」――基層に置いた個体化の揺れ(準安定性)の、現代日本社会的実装――として読む。弱い自立は、Simondonが定式化した準安定性、およびKristevaの過程としての主体と構造的に呼応する(ただし駆動原理は異なり、呼応に留める。形容詞的回収はしない)。

二軸反転は、この弱い自立の地平で読み直せる。睦型(両軸の負極)は、自立も依存も超えて無へ溶ける――弱い自立の臨界を、それが破れる方向へ通り抜ける。燈型(両軸の正極)は、個の軸では〈僕〉のまま君へ開き(完全な自立=孤立でも、完全な依存=溶解でもない)、共同性の軸では空席を抱えた〈ぼくら〉として再結する。後者は、空席を抱えたまま個の輪郭を保って関わる――第4章§4で見たとおり、その融合は埋めえない中心を抱えて構造的に未完であり、全体への完全な融合とも孤立とも異なる〔10〕。ただし、ここで準安定と弱い自立の身分を取り違えない。準安定は選べない存在論的所与であるのに対し、弱い自立は相互評価ゲームに抗して選び取られる規範的達成である。燈型は弱く自立しているのではなく、もし当てはまるならそれを達成しているのであり、本論考はこの呼応を所与の自然化としてではなく達成の記述として用いる。燈型は弱い自立を生き、睦型は弱い自立が破れる極を生きる。

(MyGO!!!!!  12話より)

3 迷子の倫理――神ではない第三の道

手放しの中核を、前段論考が構築した迷子の倫理が貫く(継承概念。三層構造を貫く)。迷子とは、審理への応答を停止し(記号論層)、引用を拒否し(社会層)、相互評価ゲームから退いて(現代日本社会)なお、図として残る主体のあり方である。重要なのは、燈の最終選択が神=超越への飛躍ではなかったことだ。宗教的実存への飛躍とは異なる第三の道として、迷子は弱い自立と重なる。

4 二軸反転という虚構的応答

二作は、統一された自我を持つことが困難になった人々(基層の個体化の揺れ)と、承認経済に疲弊した人々(相互評価ゲーム)への、二軸反転という形での虚構的応答を上演する。同じ準安定の基層の上で、睦型は両軸の負極へ(溶解と消滅)、燈型は両軸の正極へ(屹立と再結)、正反対の応答を演じる。なぜ他の作品ではなく、この二作なのか。両作が、同じ一つの虚構的事件――CRYCHICの崩壊――への、両極からの二つの応答だからである。豊川祥子と若葉睦は両作にまたがり、詩超絆は失われたCRYCHIC(その中心の空席として現れる祥子・睦)を悼み、睦の弧はそのCRYCHIC崩壊の余波そのものをなす。これは作家の意図ではなく、同一の人物が両作に現れ同一の崩壊を分有するという作品の物質的事実であって、二軸反転を批評者の外挿ではなく作品に内在する対構造として支える。時間性と構造性は、この反転の本質ではなく形式的署名である。これがガールズバンドアニメというジャンル内批評ではなく、現代日本社会の問題群への虚構的応答の批評として、本論考が二作を位置づける所以である。

5 図の再規定――〈手放し〉をヒンジとする組み替え、「何者でもない」をめぐる対照

ここで、本丸の決着を置く。図の総称を「演じられた同一性/社会的可読性への関係の組み替え」とし、その下に〈手放しの完遂〉(睦型・両軸)と〈選択的な手放し+再結〉(燈型・個軸で手放し/共同性軸で再把持)を置く。

ここで〈手放し〉という語の身分を、総称「組み替え」と機能的に区別しておく必要がある。〈手放し〉は組み替えの一つの種ではない。それは、四つのセルすべてがそれに対する位置で測られる共通の零点――ヒンジ――である。睦は手放しを完遂し、燈は個の軸で社会的可読性を手放し、燈は共同性の軸で一度力なく手を放してしまったものを拒否して再把持する。詩超絆の再結すら、先行する手放しに対して定義されている(克服対象としての手放しの反転)。四つのセルは、いずれも〈手放し〉という零点に対する距離と向きで決まる。したがって、タイトルおよび図の名における〈手放し〉は全セルの共通参照点(ヒンジ)であり、本文総称「組み替え」はその零点に対して働く操作の名である――両者は別の機能の語として区別される。この区別により、総称を「組み替え」としつつタイトルを〈手放し〉に保つことの不整合(種を属の名で冠すること、燈の共同性軸の「拒否・再把持」を手放しの属下に置けないこと)は解消される。タイトルと図の名は〈手放し〉のまま維持する。

ここに一つの対照を足す。宇野が公共と呼ぶ場所――『庭の話』第10章(p.242-243)の、複数の共同性が共存でき「誰であるか」を問わない場所――と、睦型の「何者でもない」への溶解は、逆を向く。公共は「誰であるか」を問わずに人を場所へ留めて肯定するが、睦型の溶解は場所ごと無へ落とす。手放しの完遂(睦)は、問われずに留め置かれ肯定されることとは別の運動である。燈型の選択的手放しは、社会的可読性を手放してなお図として残り、空席を抱えた〈ぼくら〉として関わる。ただしこの〈ぼくら〉は、特定のCRYCHIC(そよ、そして不在の祥子)に紐づいた、誰であるかに飽和した結びつきである。それは「誰であるか」を問わない公共ではなく、その対極にある親密圏に属する。睦型の溶解が公共の無差別な肯定の外にあるのと同じく、燈型の再結もまた公共の外にある――両極はともに、理由を異にして公共には属さない。

この親密圏を、本論考は手放しの正の社会的達成――承認経済からの撤退の成就――として数えはしない。特定の人々と失われた対象に束ねられた閉じは、大きな承認経済から降りて小さな承認経済を作る退避でもありうるからだ。親密圏の内部にはむしろ高密度の相互評価がある。したがって燈型の再結は、相互評価ゲームからの撤退の達成であると同時に、より小さな評価圏への退避という症状の側面を分有する。存在論的には正(個が他者との関係において共に形成される集合的個体化)でありながら、社会的には開かれていない。本論考はこの分裂を糊塗せず引き受ける。ただし、この閉じは自足した閉域には固着しきれない。中心が、塞ぐことのできない不在(祥子)だからである。縫合できぬ中心を抱えるかぎり閉じは完成せず、退避は安住に達しない。社会的な開放性は、ここでも物質に支えられない――物質が支えるのは、閉じが自足に達しえないという一点だけである。コレクティフを本文に動員しなかった理由(融合へ傾く物質との不整合、巻末註〔10〕)も、つまりはこの自己限定の別表現にほかならない。

6 射程の限定と、留保



本論考の射程を、ここで慎ましく限定しておく。二作が現代日本社会の問題群への精緻な虚構的応答の一つであるという本論考の請求は、主題的・形式的な水準のものである。二作は、統一された自我の困難と承認経済の疲弊に、フィクションとして精緻な形を与えた。これは形式の達成についての主張であって、二作が日本社会の象徴界を社会変革的に侵犯したという主張ではない。MyGO!!!!!が侵犯したのは、第一にBanG Dream!シリーズの箱庭であり、第二に、けいおん・ラブライブ以降の日常系アニメが共有してきた〈日常の肯定〉という象徴秩序である(徳田四(「『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ」|
PLANETS Mail Magazine:PLANETSチャンネル(PLANETS/第二次惑星開発委員会) – ニコニコチャンネル:社会・言論)の「日常の不可能性」論を、日常系という文法の水準へ敷衍した読み)。後者は一フランチャイズの箱庭より広いが、日本社会の象徴界の全体ではなく、また社会変革的介入でもない。

副軸として一点を後続の課題に送る。二作は、日本社会の外部にある複数の象徴秩序――中国語圏の儒教的家父長制、欧米のクィア/ニューロダイバージェント受容など――に、意図せず接触し摩擦を生んだ。これらは「複数の象徴界への差異的侵犯の束」と呼びうるが、作品が意図して達成した社会変革ではなく、受容の場に生じた摩擦の記録である。これが「社会的ル・セミオティーク」〔9〕の水準に触れる可能性については、受容の経験的検証を欠いたまま侵犯を請求することは観察駆動の射程を超えるため、本論考は積極的な請求を行わず、脚注水準の指示にとどめて後続の課題とする(副軸4)。

最後に留保を一つ。演技への第三の関係のうち、初華型――役へ投入して関係を築く構築の型――は、本論考では媒体層の縁として留保し、後続論考の腹案へ送る。


巻末註

〔1〕加藤典洋は『テクストから遠く離れて』(講談社、2004)p.303で、作者の機能を「差異をあらしめる実定的な作者」と「差異を排除する実体的な作者」の二層として捉える。本論考の方法的構えはこの二層性の手つきと部分的に響き合うが、対話の相手を「映像物質の余剰」に置く点で加藤の射程を超える批評的拡張である。

〔2〕『自我の起原』は見田宗介が真木悠介名義で刊行した著作である(岩波書店、1993/岩波現代文庫、2008)。本論考は、書名を引く際は刊行名義の真木悠介を、思想家として論及する際は見田宗介を用いる。動員する中心テーゼは二つ――個体性の関係的起源(自我の起原を性的個体性=他者性に置く)=岩波現代文庫版 p.70、自己への閉じからの解放(エゴイズムと愛の弁証法・脱個体化)=pp.147-148。

〔3〕本章の三つの観察――人形的身体、輪郭への還元、精神世界の物理空間からの分離――は、1980年代以降のビジュアルカルチャーの系譜に脚注水準で接続しうる。人形的身体は永野護のキャラクターデザインにおける関節の明示的な継ぎ目と、輪郭への還元は天野喜孝的な半透明で揺らぐ輪郭表現(輪郭のみで十全な存在が肯定されうるという前提)と、精神世界の物理空間からの切断は新房昭之/シャフトの心理的空間演出と、それぞれ同型の問題系を持つ。これらの横断参照は本論考の射程を超えるため、接続点の指示にとどめ、本格的な比較は後続論考の課題とする。

〔4〕「迷星叫」は「まよいうた」と訓む。MyGO!!!!! の楽曲名は、漢字表記に対し慣用の音訓と異なる読みを当てる義訓の構造を共有する(たとえば「迷路日々」は「メロディー」と訓む)。

〔5〕「詩超絆」は「うたことば」と訓む(義訓)。

〔6〕「説教ポルノ」は、ニコニコ動画の批評座談会「違国日記」(2023年8月22日放送)における宇野常寛の発言に由来する批評語である。

〔7〕Simondon系の三語を呼び分け、原綴と一致させる。集団的個体化(individuation collective)=集団における個体化の過程(藤井監訳第二部第三章タイトル後半)。超個体化(transindividuation)=個体間関係を通じて個体を超える次元への移行の過程(Combesの身体的レジスター動員語、本節中段で動員)。超個体的なもの(le transindividuel)=その基礎(同章タイトル前半、初出は第1章§5で原綴併記)。藤井監訳は両者を並置するが同一視しない。本論考の記述語〈集合的個体化〉は観察から立てる語で、集団的個体化(individuation collective)に対応するが同一ではない。

〔8〕バレットの再分類(reclassification、第9章)とButlerの意味づけなおし(resignification、§5)は、既存の意味づけを別様に組み替える運動として構造的に接続する。ただし駆動原理が異なる――Butlerは否定性駆動で、引用の体系の外に立つことは原理的に不可能とし、組み替えも体系内部の運動とする。バレットは構築主義で、概念システムの能動的変更が可能とする。両者は異なる経路で同じ運動を扱う二つのモデルであり、本論考は同一視せず並列する。

〔9〕「社会的ル・セミオティーク」は、クリステヴァのle sémiotique(前エディプス的・身体的・情動的次元)を社会・文化的水準へ拡張使用した、本論考の操作的概念である。クリステヴァ原典の語の意味範囲を超える運用であることを明記する。

〔10〕宇野が援用するジャン・ウリのコレクティフ(『庭の話』第4章 p.119)――個々が独立しつつ全体に無理に従わない異質性の維持――は、本論考では動員しない。詩超絆クライマックスの物質が同期・融合の側に強く傾く以上(§4)、異質性の維持を原理とするコレクティフとは整合しないためである。

〔11〕五役名はいずれもラテン語第三変化名詞の単数属格である。Lewis & Short, A Latin Dictionary (Oxford 1879), s.v. dolor (gen. dolōris, m., 悲嘆), timor (timōris, m., 恐怖), amor (amōris, m., 愛), oblīviō (oblīviōnis, f., 忘却), mors (mortis, f., 死); cf. OLD² (2012) 及び田中秀央『羅和辞典』各 s.v. 同一の属格形は IAU 月面命名にも正典的に現れる――Lacus Doloris (Gazetteer Feature 3205), Lacus Timoris (3220), Lacus Oblivionis (3213), Sinus Amoris (5559), Lacus Mortis(Riccioli 1651 由来、1935 IAU 採択)。役名は情動そのものではなく「(仮面の)…の悲嘆/…の死」という属格構造をなす。

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