『『Ave Mujica』論――仮面、鏡、床の連続性』

アニメ



※英語版はこちら
※総評はこちら

Contents
第 0 章:導入
第 1 章:口の二極性
第 2 章:声優の身体という媒介
第 3 章:床の連続性とカメラ距離
第 4 章:ディゾルブとカットの逆説
第 5 章:視覚層の補完――2D/3D の使い分けと収束
第 6 章:結語:開かれた問い

※本論文で利用される画像、AveMujicaやBanGDream!に関する固有名詞の著作権は全て㈱ブシロード、サンジゲン㈱に所属します。

第 0 章:導入

(BanGDream!AveMujica 1話より)
Ave Mujica では、少女たちは最初から仮面を被っている。仮面は少女たちを匿名化する装置であるはずだ。しかしその仮面は、第1話の終盤で、物語の早すぎる段階で剝がれる。剝がれた後の少女たちの顔に、何かが残っている。あるいは、何かが失われていない。彼女たちの身体には、どこかヴェールがかかっているようだ。そして第3話、睦の精神世界に、仮面とは別の装置が現れる。口を過剰に動かす、モーティスという人形――あるいは人型の人格。

(BanGDream!AveMujica 3話より)

ここに、二つの装置がある。仮面と、モーティスの人形。仮面が剝がれた後に残る「ヴェールのような身体」と、精神世界に唐突に現れる「饒舌な人形」。これらは何の装置なのか。

この問いに応えるために、設定や物語の筋、キャラクターの心理の層から始めることもできる。しかし本論では、映像と音の物質的細部から始める。口がどう動くか。声がどう響くか。カメラがどこに寄り、空間がどう処理されるか。現実と精神世界がどう繋がれ、どう切られるか。四つの層を順に見ていく。

まず、口の動きから始めよう。


第 1 章:口の二極性

(BanGDream!AveMujica 1話より)

Ave Mujica の第1話は、唐突に大型施設でのライブから始まる。メンバーは全員、仮面で素顔を隠している。しかしそれぞれが異なる意匠、異なる形状の仮面だ。口を覆わない仮面を着けているのは、リーダー兼狂言回し役の祥子、自己主張の強いにゃむ、ボーカル兼ギターの初華。口元がかろうじて透けるベースの海鈴。対照的に、顔のほとんど全てを仮面で覆っているのが睦である。Ave Mujica というバンドが演じる劇中でも、その後のインタビュー場面でも、睦の口元は一切動かないように見える。かろうじて、第1話で祥子を気遣う場面に明確な口元の変化があるが、その場面でカメラは祥子に寄っていて、睦の口は画面の中心にない。

大きな転換点は、第1話終盤のにゃむによる仮面剥奪劇である。仮面を剽ぎ取られた睦は精神的衝撃を受け、両手で口元を覆う。以降、彼女の口元の変化は、睦の母・森みなみの関連や、みなみの登場に引き寄せられるように起こる。ほぼ常に、口元が引き攣りつつ微かに開く。母による執拗な睦のプライヴェート空間への侵入が、インタビューでの母関連の話題に触れる瞬間、災いを引き起こす契機となる。睦が口を開くとき、周囲と彼女自身の精神的調和が崩壊するのだ。

(BanGDream!AveMujica 2話より)

それは2話のライブシーン直前で頂点に達する。彼女の疑似引退発言、周囲への呵責による過呼吸とパレイドリア症候群、無数の無口の睦に囲まれ、遂に睦は舞台で事切れる。事切れた彼女の口元は常時弛緩しているように見える。常人であれば他者との対話に用いる、口元の弛緩。それが睦においては、常軌を逸する境界線となっている。

ここに大きな転換点がある。現実世界で口を閉ざす睦は、しかし、ある場面では口元を豊かに演出する。ライブの中断後、楽屋裏での激しい口論のあと、睦は自宅でギターと悔恨を抱える。そのとき、彼女の目の前にモーティス――睦の人型人形人格――が現れる。精神世界において、睦は幼児の姿に退行しながら、目の前のモーティスに向けてギターを差し出している。雨の降る、グリッド状の地面。大人の姿のモーティスと、幼児化した睦。睦は呻きに近い形で口元を動かす。モーティス劇場と呼ばれるこの精神世界において、児童に退行した睦は、極めて自然体に、口元と感情表現を一体的に表現している。

(BanGDream!AveMujica 3話より)
さらに、モーティスが睦的な造詣を獲得することで、この描写は加速する。饒舌に口元と表情を動かすモーティス。対照的に呻く睦。彼女たちは仮面の有無に拘わらず、いや、仮面が無いからこそ、精神世界の強い影響の下で、抑制と発散を繰り返している。

睦は仮面を付けなくても、対人場面では口が抑制される。しかし、睦の過去描写には、饒舌に動く口元がある。現在の対人場面で動かない口と、過去の描写で動く口。この対比は、抑制と発散が時間的次元でも反転することを示している。現在=抑制、過去=発散。この時間的二極性は、本稿の主題をひとまず「共存」として提示した後の、後続の布置を示す伏線となる。

口は見られる対象であると同時に、声を発する器官でもある。ここまでは、見られる対象としての口を記述してきた。次に、声を発する器官としての口に入る――そこには、別の二極性が待っている。

脚注 1:第3話で睦が祥子に追いつめられる場面において、睦の口元には微かに臍を噛む描写が見られる。「俯き」という主たる観察に対して、抑制極の内部での緊張の印として機能する。


第 2 章:声優の身体という媒介

(BanGDream!AveMujica 3話より)

口の動きから、声の質へ。Ave Mujica では、睦と、睦の精神世界に現れるモーティスが、同一の声優によって演じ分けられている。
渡瀬結月。
二人の声は明確に異なって聞こえる。睦の声は低く、抑えられ、途切れがちだ。対して、人型のモーティスの声は不自然に明るく、浮ついている。人形の系列はこれに留まらない。精神世界には、鶏人形、熊人形、猫人形、ペンギン人形、九官鳥、蛍、海月、ハリネズミ、睦の母人形、父人形、ギター人形、そしてナレーター――それぞれの奇形的な声色を持つ人形群が住み着いている。これら全てを、渡瀬結月が一人で演じ分けている。しかも、ここには技術的な加工がない。EQ による帯域操作も、ピッチシフト(音高の変更)も、リバーブ(残響)による空間演出も使われていない。声色の変更のみによって、十三通りの声が作り分けられている。

音響処理を用いて声を加工するなら、加工後の声は元の声とは別のものとして扱える。ボイスチェンジャーで変換された声は、変換前の声とは異なる音響的実体として流通する。しかし Ave Mujica の場合、加工がない。同じ声優の、同じ声帯から、同じ呼吸で、十三通りの異なる声が出てくる。それぞれの声の差異は、音響機材の差異ではなく、身体器官の動員の差異である。

ここに一つの逆説がある。「睦とモーティス(たち)を演じ分ける」という行為は、明らかに意識的である。渡瀬結月は、どの声を出すかを選択している。それは演技という象徴的な行為である。しかし同時に、声の差異を実装しているのは、声帯の張り、呼吸の深さ、口腔と鼻腔の共鳴のさせ方――これらの身体器官の物質的な動員である。意識的な選択が、身体器官の物質的な動きを通してしか実現されない。演技という象徴的な行為と、身体器官の物質的な動員が、同時に起きている。

象徴的な行為の内部で、身体がその行為を支えている。このような状態を、ジュリア・クリステヴァはル・セミオティーク(le sémiotique)と呼んだ。象徴秩序の内部で、しかし象徴秩序とは別の層で、身体のリズムや律動が働いている状態。クリステヴァはこの層を、詩や音楽における意味以前の響きの働きとして記述した。Ave Mujica の声の処理は、この le sémiotique の一つの映像的実装として読める。声の差異を作るのは役の象徴的な差異(睦、モーティス、鶏、母、父、ナレーター……という別の登場者)だが、その差異を物質的に支えているのは同一の身体器官なのだ。

(BanGDream!AveMujica 3話より)

この読解には、視聴者の側からの傍証がある。Ave Mujica の第 3 話の ED クレジットで、十三通りの配役が全て渡瀬結月一人によって演じられていることを知らされたとき、視聴者の多くは驚愕する。筆者も驚愕した。本編の視聴中、それぞれの声は別の存在の声として受け取られていた。しかし ED でその同一性を知らされる。この驚愕は、声の差異が「別の存在の声である」という象徴的レベルで受け取られていたこと、そして事後的に「同一身体からの声である」という物質的レベルが前景化することを意味している。象徴的な差異と身体的な同一性の両方が、視聴者経験の中で重なりながら共存している。十三通りの声を切り分ける構造は、正しく狂気の沙汰として視聴者に刻まれる。

そして、4 話以降で重要な変化が起こる。人型モーティスが睦を乗っ取った後、その声色は、ますます不自然に明朗になっていく。人形の虚構感が、より強く前景化する。これは、人形が人間の身体性を獲得していく方向ではない。むしろ逆である。人間の身体が人形的な虚構の声を発するようになる。身体は同じ――渡瀬結月の声帯である――が、その身体から出る声は、人間の声から離れていく。身体と象徴の関係は、単なる「身体が象徴を支える」状態を超えて、身体が象徴的虚構そのものに変形していく過程として実装される。

(BanGDream!AveMujica 4話より)

声優の身体を経由して、作品は個体の輪郭を不安定化する。象徴秩序の内部で身体が働き、役の差異として受け取られる声が、同時に同一身体からの生成として響く。そして、その身体自体が虚構の声へと変形していく。次に、この不安定化が空間においてどう実装されるかを見ていく。声が身体という器官を媒介にしたように、空間もまた何らかの媒介を経て、個体の輪郭を揺るがす装置となっているはずだ。

脚注 2:le sémiotique は吉本隆明の「自己表出」と響き合う部分があるが、理論的根拠は異なる。吉本は前言語的意識の自己表出として、クリステヴァは前エディプス的身体の衝動として、それぞれ別の理論的文脈で展開された概念である。ここでは両者の同型性に注目するのではなく、Ave Mujica の声の処理を記述するための道具としてクリステヴァの概念を借りる。le sémiotique と chora の概念は、Kristeva, La Révolution du langage poétique (1974)(邦訳:『詩的言語の革命 第1部 理論的前提』、原田邦夫訳、勁草書房、1991年)に詳しい。


第 3 章:床の連続性とカメラ距離

祥子との衝突から、にゃむと祥子の諍い、追いつめられる睦の目線、ギターの弦の水平線、その延長線上に浸水する舞台、傘を差し出す人型人形モーティス――。床は切れない。睦の現実感覚として、床は途切れない。目線は俯きがちだが、現実も、精神世界すらも、彼女を追いつめる地続きの現実として逃れられない。

こうして遷移した精神世界に、モーティスたちが侵入する。人型人形モーティス、ペンギン人形モーティス、鶏人形モーティス、ウサギ人形モーティス、熊人形モーティス。さらには父人形、母人形までもが、同じ床の上に次々と現れる。ここには奇妙な入れ子がある。視聴者が観ているのは Ave Mujica という作品であり、その作品の中で睦が生きている現実があり、その現実の中に睦の精神世界が入り込んでいる。しかし床が切れないために、これら三つの層の境界が曖昧になる。視聴者が観ている作品世界と、睦の現実と、睦の心象風景が、同じ床の上で重なっている。どこから精神世界で、どこまでが現実か、判然としない構造になっている。

それでも、ここで注意深く観察すべきことがある。カメラは、精神世界に入ったからといって、睦に近づくわけではない。遠ざかるわけでもない。現実場面で祥子に追いつめられる睦を撮るときと、精神世界で幼児化した睦を撮るときで、カメラの距離は変わらない。これは重要な処理である。アニメ批評においてしばしば、「主人公の内面世界」はクローズアップや特別な構図で特権化される。近づくこと、あるいは遠ざかることで、「これは内面である」と標識される。しかし Ave Mujica は、その標識を付けない。精神世界は「より親密な本来的空間」として特権化されていない。精神世界は、現実と同じカメラ距離で、同じ床の上で、ただ位相だけが変容した空間として扱われている。

le sémiotique は、声として観察された。同じ構造を空間として捉えるとき、クリステヴァはこれをコーラ(chora)と呼ぶ。プラトンの『ティマイオス』に由来する語で、形相を受容するもの/場を指す。プラトンが『ティマイオス』で形相を受容するものとして提示した chora を、クリステヴァは前エディプス的な情動的・身体的次元として理論化する。クリステヴァの chora は母性的、身体的、情動的で、象徴秩序に先立つが、象徴秩序によって遡及的にしか捉えられない。chora は「場所」ではなく「過程」として働き、「外部」から来るのではなく象徴秩序の「内部」から侵入する。

Ave Mujica の精神世界の処理は、この chora の映像的実装として読める。床は切れない――象徴秩序の物質的基盤は保たれる。しかしその床の上に、別の法則で動くものが侵入する。雲が、傘が、モーティス人形たちが――物理的に存在するはずの物体が、物理法則から逸脱した動きで、不自然に、現れる。

(BanGDream!AveMujica 3話より)
層状雲が渦を巻く。空の色彩が睦の表情と呼応する。雲群れは現実の空の上に、現実の空とは別の法則で動くものが重ねられている。それは chora の「内部侵入」の直接的な映像的実装だ。雲は本来的に、個別具体的な造詣と力学にもとづき、個別具体的に遷移、運動する。しかし睦の精神世界においては、睦の内面運動と呼応するように、カオスそのものとして、視聴者に不穏な印象を与えるだろう。

ここで床の連続性という観察の意味が、はっきりしてくる。もし精神世界が別の場所として描かれるなら――床が切れ、ジャンプカットで別空間に飛び、異世界の地面が現れるなら――それは chora ではなく、単なる「外部」になってしまう。精神世界は外部ではなく、現実の延長に重ねられた別の位相なのだ。舞台の床は地続きのまま保たれる。象徴秩序の物質的基盤は切断されない。その代わり、その上の位相だけが変容する。色彩が急変し、雲が渦を巻き、人形群が現れる。しかし床は変わらない。これが、chora が「内部侵入」として実装されるということの、映像的な意味である。


床は切れない。カメラ距離も変わらない。しかし時間は――どうだろうか。睦の児童退行。頻出するモーティス人形の群れ。あまつさえ侵襲するモーティス人形としての睦父や睦母。時間軸は不可逆的に進行するのか。それとも仮面のように、もう一度始まりに戻るような揺らぎとして、揺蕩うのか。

第 4 章:ディゾルブとカットの逆説

(BanGDream!AveMujica 2話より)
床は切れなかった。カメラ距離も変わらなかった。しかし、編集処理としての遷移に焦点を絞ったとき、何が見えてくるだろうか。ここでの起点は舞台上でのにゃむと祥子の諍いである。諍いの根本に置かれる睦は、自責と呵責から、回想における睦たちの断絶の端緒、それに連なる精神世界への移行として描かれる。ここで導線の視覚的連続が利用されている。睦の目線は俯き、回想における祥子の雨天での嘆きを見送る睦へ移る。続くカットではギターの弦への雨、弦のような配置とともに浸水する床に出現する人型人形モーティスへ繋がる。映像とともにここでは音響の二重性が生じている。外界音の後退、反響音の精神世界、しかし雨脚が両方にあるために連続するような視聴経験があるだろう。一方で視聴者は、切断音の挿入により、現実との断絶を見つける。回想における祥子の雨の嘆きに差し込まれる強烈な切断音は、睦の心的外傷の印として機能するだろう。筆者はこれらを、初見ではディゾルブとして受け取り、後の視聴での分析により、カットの要素を見出した。

(BanGDream!AveMujica 3話より)

ここで起きていることを、もう少し分解してみよう。視聴者が最初に受け取るのは連続の感じであり、後に発見するのが切断の構造だった。視覚的には、ギターの弦から浸水した床への水平線が切れ目なく繋がれ、視聴者は「連続している」と感じる。音響的には、外界の音が完全には消えず、反響音の世界と重なって響く。両者が共同で「感じとしての連続」を作り出している。しかし同時に、何かが切れている。現実の楽屋から精神世界の床へ、物理的に同じ場所ではない。カメラは一度切れ、別の空間に飛んでいる。そして祥子の雨の嘆きに差し込まれる強烈な切断音――これは視聴者の耳が明確に受け取る「構造としての不連続」である。感じとしての連続と構造としての不連続が、解消されないまま共存している。この共存こそが、本章の主題だ。

このような状態を記述するために、ジルベール・シモンドンの語彙が役に立つ。シモンドンは個体化(individuation)の過程を、安定した状態への到達として捉えるのではなく、準安定性(métastabilité)の維持として考えた。準安定とは、安定でも不安定でもない、その両方を含む第三の状態である。エネルギー的には均衡から外れているが、崩壊には至らない。崩壊しないが、安定もしない。むしろ、この不均衡が保たれていることが、個体化の条件なのだ。熱力学における過冷却水を想像すると近い。零度以下でありながら結晶化せずに液体のままの水は、微細な刺激で一気に氷へと相転移する。均衡の外にあり、しかし崩壊せず、潜在的な変化を孕んだまま持続している。

脚注 3:Simondon の個体化と準安定性の概念は、Simondon, L’individuation à la lumière des notions de forme et d’information (1958/2005)(邦訳:『個体化の哲学――形相と情報の概念を手がかりに』、藤井千佳世監訳、近藤和敬・中村大介・ローラン・ステリン・橘真一・米田翼訳、法政大学出版局、2018年)に基づく。本論考では準安定性の概念を、Ave Mujica の遷移処理を記述するための道具として借りる。

Ave Mujica における現実から精神世界への遷移は、この準安定性の視聴体験的実装として読める。感じの連続と構造の不連続が、どちらも同時に視聴者の身体に到達する。視覚が連続を伝え、音響が連続を伝え、しかし空間の切断と切断音が不連続を伝える。この二つは解消されない。視聴者は最初の視聴で連続として受け取り、何度かの視聴を経て切断を発見する。しかし発見した後も、連続の感じは消えない。感じと構造が、同じ視聴体験の中で重なりながら共存する。ここで重要なのは、この共存が解消されないことである。どちらか一方に収束しない。視聴者の経験の中で、個体化の位相が揺れ続けている。前章で見た床の連続性が「空間の持続」として個体化の揺れを実装したのだとすれば、本章の編集処理は「時間の切断」として同じ揺れを別の位相で実装している。両者は異なる位相で働きながら、同じ一つのこと――個体化の準安定性――を記録している。

ここで、本論考の主題がはっきりしてくる。第一の層で観察した口の二極性、第二の層の声優の身体による媒介、第三の層の床の連続性、そして本章の編集処理。四つの観察が記録していたのは、個体化の揺れ、すなわち主体が安定した一つの存在として確立する過程の不安定性である。Ave Mujica は、少女たちが安定した個体になる過程を描いているのではない。そうではなく、個体化がどこまでも準安定のまま揺れ続ける、その過程そのものを映像と音の物質で記録している。


第 5 章:視覚層の補完――2D/3D の使い分けと収束

(BanGDream!AveMujica 3話より)

ここまで四つの層を順に見てきた。第一の層では、口の二極性が抑制と発散の共存として観察された。第二の層では、声優の身体が同一の声帯から十一通りの声を生成し、le sémiotique の映像的実装として読まれた。第三の層では、床の連続性が chora の内部侵入として読まれた。第四の層では、編集処理が準安定性の視聴体験的実装として読まれた。

しかし、四つの観察は、もう一つの観察を要請する。これまで本論考が触れずに残してきた、視覚層のもう一つの実装である。Ave Mujica の視覚的構成は、2D 手描きと 3DCG の使い分けによって組み立てられている。床の連続性とカメラ距離が視覚層の空間的媒介を扱ったのに対し、2D/3D の使い分けは視覚層の物質的媒介を扱う。両者を合わせて、視覚層の媒介が完成する。

Ave Mujica において、虚構と現実の描写は、2D と 3D の対立軸として示される。一般的なアニメ表現では、2D(手描き)は虚構的、3D(実在感)は現実的に利用される。例えば MyGO!!!!! 以前の BanG Dream! における取り扱いがそうだろう。ロボットアニメの直近の例(機動戦士 GUNDAM GQUUUUUUX、水星の魔女)も同様だ。しかし Ave Mujica では奇妙な捻れが生じる。3D = 虚構(劇中劇、ライブ、精神世界、人形性)、2D = 現実、あるいは崩壊する自意識、精神を実装した肉体、として示される。さらに重要なのは、睦における「静的な 2D/動的な 3D」の逆説的構図があることだ。これは第3話の、睦を喰らうモーティスの場面で明確化する。モーティス喰い前:発散としての静的な 2D(白抜き、瞳孔拡大、徹底的な描き込み)、抑制としての動的な 3D(硬直した睦、画面構成的な揺動)。モーティス喰い後:抑制としての静的な 2D、発散としての動的な 3D(他メンバーと同列の描写へ転向)。本論考の第1章で論じた「抑制と発散の共存」が、3DCG の使い分けによって個体化の最終段階で反転する。

決定的なのは、第3話の睦の精神世界描写における白抜き線画の睦という事実だ。「傘を差しだすモーティスが異様に 3D であり、対照的に白抜きの線画の睦が、傘へ手を差し出す直前に 3D に戻る」―― これは個体化の準安定性の最も鮮烈な視覚的瞬間だ。空白(= 2D 極限)から実在(= 3D)への移行が、モーティスに喰われる直前という、個体の輪郭が最も揺れる瞬間に起きている。

(BanGDream!AveMujica 3話より)

ここで、五つの層が一つの位相に収束する理由を明示しよう。音響層の媒介(声優の身体)と視覚層の媒介(床の連続性と 2D/3D の使い分け)は、それぞれ独立に働きながら同じ位相を実装する。なぜか。両者ともに、象徴秩序の差異を実装する物質的基盤として働いているからだ。声の差異は同一身体から、視覚的差異は同一作品の枠内から生成される。差異が物質的同一性の上に乗っているという構造が、両層に共通している。この共通構造こそが、五層の観察が個体化の準安定性という一つの命題に収束する理由である。

Ave Mujica が描いているのは、安定した個体ではない。安定でも不安定でもない、揺れ続ける位相としての個体化である。そしてこの位相は、物語のレベルでは語られない。映像と音の物質的な細部、口の動き、声の質、床の連続性、編集の処理、2D と 3D の使い分け――これらの細部が、理論命題を直接支持している。物語が描くのは少女たちの関係や心理だが、批評が記述すべきは、その関係や心理を実装している物質的層なのだ。本論考が試みたのは、その物質的層を観察することで、Ave Mujica が記録している個体化の準安定性に到達する道筋だった。

脚注 4:本章で扱った 3DCG の使い分けが「演出的選択」であることの傍証として、サンジゲン公式サイトの表現方針(3DCG による再現性の高いキャラクター描画と手描きの誇張された表現を組み合わせ、実在感のあるカメラアングルやキャラクター描写を実現する。https://www.sanzigen.co.jp/ )、監督・柿本広大とサンジゲン代表・松浦裕暁の公式インタビュー(ITmedia「アニメ『Ave Mujica』制作の舞台裏――監督と制作会社代表に聞く、“圧倒的な内製化”がもたらしたもの」2025年4月18日、https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2504/18/news111.html )、および Anime Feminist の評価反転(人形のような硬さへの初期の疎外感が、作品テーマと結びついた表現として成立していくという論立て、https://www.animefeminist.com/bang-dream-its-mygo-ave-mujica-and-the-doll-in-asian-feminism/ )を挙げておく。


第 6 章:結語:開かれた問い

(BanGDream!AveMujica 13話より)

Ave Mujica について、ここまで見てきたことをもう一度確認しよう。口の二極性、声優の身体、床の連続性、編集の処理――四つの観察は、二つの媒介(音響層の声優の身体/視覚層の二要素)を通じて、同じ一つの位相を実装していた。個体化の準安定性、揺れ続ける位相。Ave Mujica は、少女たちが安定した個体になる過程ではなく、個体化が準安定のまま揺れ続ける、その過程そのものを記録している。本論考が試みたのは、その物質的層を観察し、批評の形式そのものに反映することだった。ここで第1章の観察に立ち戻る。口の二極性には、空間的な共存だけでなく時間的な反転――現在=抑制、過去=発散――の側面があった。この時間的次元こそが、MyGO!!!!! との対比への架橋となる。

Ave Mujica の前日談である『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』では、別の個体化が描かれていた。MyGO!!!!! の燈は、過去への呵責を乗り越え、生来の言語と感情のズレを積極的に利用する。迷うことを迷わない――迷いそれ自体が進むべき道を拓くという、迷子の倫理を構築する。詩的言語の次元における情動の共有と、それによって一瞬だけ立ち上がる共感可能性。これは、人間関係の分離と統合という止揚を経て、時間的な過程として描かれた個体化である。劇中曲「迷路日々」の「ちいさな一瞬集めたい」、あるいは燈の「一瞬一瞬を重ねたら、永遠になるんだと思う」という台詞にそれは表れている。MyGO!!!!! は個体化の時間的過程を描き、Ave Mujica は個体化の構造的位相を描いた。二作品の関係は時間性と構造性の一軸で対比される。

ここで本論考は閉じる。しかし、一つの問いが残る。MyGO!!!!! が時間的過程として描いた個体化と、Ave Mujica が構造的位相として描いた個体化――この二つの実装は、補完するのか、対立するのか、それとも別々の路を通って同じ場所に到達するのか。本論考はその答えに踏み込まなかった。それは別稿の課題として残されている。最後に、一つの問いを開いたまま残しておきたい。個体化の揺れは、なぜ二つの異なる映像的形式を要請したのか。

脚注 5:もう一つの劇中曲「詩超絆」もまた、MyGO!!!!! の時間的過程としての個体化を支える楔である。「こころを叫ぶ 言葉を超えるため たったひとつのやりかただから」――この歌詞は、言語以前の情動の共有という詩的言語の次元を直接的に表明する。「詩超絆」は、MyGO!!!!! における作品思想の核心であり、脚本、絵コンテ、3DCG、音響、劇中劇、キャラクターデザインの統合点として、BanG Dream! シリーズの一つの達成を示している。本論考の主題は Ave Mujica における構造的位相であるため詳述は避けるが、「詩超絆」を経由しなければ MyGO!!!!! 論は成立しないことを明記しておく。


その他参考文献
・友人の社会史 石田光規
・現代社会の理論 情報化・消費化の展開 見田宗介
・How Emotions Are Made: The Secret Life of the Brain(邦訳『情動はこうして作られる』)
Lisa Feldman Barrett(リサ・フェルドマン・バレット)
・自我の起源 愛とエゴの適応戦略 見田宗介
・庭の話 宇野常寛
BanG Dream! It’s MyGO!!!!!, Ave Mujica, and the Doll in Asian Feminism
Ave Mujica at the Edge of the World
The Anime BanG Dream! Ave Mujica – The Die is Cast Portrays Dissociative Identity Disorder With Respect
『Ave Mujica』“史上最狂のバンドアニメ”はどこへ向かうのか 衝撃の展開を一気に振り返る 徳田要太

コメント

タイトルとURLをコピーしました