宇宙よりも遠い場所

アニメ

地続きの不可能




宇宙よりも遠い場所が、南極だという。
しかし本作を見終えたとき、問いは逆転する。
宇宙より遠くまで行っても届かなかったものが、なぜ
一枚の画面に映し出されたとき、こんなにも近い。
——「遠さ」と「近さ」をめぐる、この作品の問いは、今も終わっていない。


Contents

◆所感——「南極」という不可能の地続き
◆速度の芸術としてのアニメ——川口茂雄の視座
1,アニメにおける速度・加速度の自由
2,3.11以後・SNS時代の「遠さ」の危機
3,「宇宙よりも遠い」とは何か——距離の概念的転倒
◆花田十輝という脚本家——情動への信頼
1,衒いのない人物造詣という方法
2,「間違ってない」という情動への肯定
3,踵を返さない覚悟——花田十輝のテーゼ
◆終わらない喪の作業——しらせと母の電波
1,喪の作業(Trauerarbeit)とは何か——フロイト的基底
2,未読メールという「接続の幻」——12話精読
3,サンピラーという自然の「区切り」——悼みの地平線
◆「娘が母を殺すには?」——三宅香帆と花田十輝の接続
1,相互自立と「母殺し」の可能性
2,南極というラディカルな「趣味の模索」
3,旅が生む自己拡張——キマリという「器」の成長
◆友情の解剖——虫明元と情動的・認知的共感性
1,友情とは「共通体験」である
2,キマリと結月——手触りの言語
3,しらせの転向——「仲間」への優先順位の移行
◆各話精読——情動の星座図
1〜4話/5話/6話/8話/9話/10〜11話/12〜13話
◆背景美術と絵コンテの解像度——現実が展延する様
◆結論——豊かな世界は、すぐそこに
◆参考文献


◆所感——「南極」という不可能の地続き

©YORIMOI PARTNERS「宇宙よりも遠い場所」(2018年、監督:いしづかあつこ、シリーズ構成・脚本:花田十輝)

2018年放送のアニメ『宇宙よりも遠い場所』
(監督:いしづかあつこ/シリーズ構成・脚本:花田十輝)は、
「南極」という目標をめぐって四人の少女が出会い、成長し、そして何かを取り戻す物語だ。

「ロマンの象徴の宇宙より遠く、地続きで未知の『南極』を目指す」
本作の本質的な特異性は、一言で言えば、
「宇宙」は遠いが「夢」だが、対して「南極」は遠いが「現実に存在する」——
実際に砕氷船に乗れば着くことができる、この地球上の物理的な場所だ。
その「地続きの不可能」を目指すことが、本作の出発点だ。

「自分と向き合う『旅』であり他者/世界と向き合う『道』の蓄積が未来」——
この命題が本作の哲学的核心だ。
旅は空間的移動であり、道は時間的積み重ねだ。
南極という「宇宙よりも遠い場所」を目指す行為は、
同時に「自己のより深い場所」への降下であり「他者のより近い場所」への接近でもある。

本稿は川口茂雄の論考「速度の芸術としてのアニメ——宇宙よりも遠い場所」
(『アニメ・エクスペリエンス——深夜アニメ研究の方法』所収)が提示する
「遠さと近さをめぐる苦悩、遠さと近さを取り戻すための苦闘」という視座を中心軸に据えながら、
花田十輝の脚本論、
三宅香帆の「母殺し」論、
フロイトの喪の作業論、
虫明元の友情論という複数の補助線を通じて、本作の深度を測ることを試みる。


◆速度の芸術としてのアニメ——川口茂雄の視座
1,アニメにおける速度・加速度の自由

川口茂雄論文の核心——「映るあらゆるものの速度・加速度は、あらかじめ決まっていない

川口茂雄は『アニメ・エクスペリエンス』において、
アニメというジャンルの本質的特性を次のように定義する——
「アニメにおいて、映るあらゆるものの速度・加速度は、あらかじめ決まっていない。
一つ一つの物体はカットごと、スペースごとにいちいち措定され、ゼロから創られる」。

これはアニメが「実写映像」と根本的に異なる理由だ。
実写では物体の運動は物理法則に縛られる——
石が落ちれば重力加速度9.8m/s²に従う。
しかしアニメにおいて「石の落下」は毎フレーム、アニメーターが再設計する。
速度の恣意性とは、物語が要求する「感情の速度」に運動を従属させる自由だ。

本作においてこの「速度の自由」はどう機能するか。
たとえば、しらせがキマリを引きずって全力疾走するシーン——
その疾走の速度は物理的リアリズムではなく「感情のリアリズム」として設定される。
あるいは南極の極夜における時間の重さ、砕氷船の揺れの緩慢さ——
これらは全て「感情の時間」を映像化した速度の選択だ。
「4匹のイモムシ」(4話)が南極に向かう旅のプロセスは、
加速と減速の繰り返しとして設計されており、
その速度の変化が少女たちの内面の揺動を映像的に体現する。

2,3.11以後・SNS時代の「遠さ」の危機

「ウェブ以降の時代、空間の距離は電波の速度によってことごとく凌駕された」——川口茂雄

川口茂雄の論考が提示する最重要な問いは、以下のテキストに凝縮されている——
「ウェブ以降の時代、空間の距離は、電波の速度によってことごとく凌駕された。
通信網は広がり、世界は狭くなった。
何千㎞離れた遠い他国のウェブサイトでも瞬時に見れる一方で、
近隣の友人からの『既読』のつく・つかないのわずかな時間経過に人は心をとらわれる。
通信の高速は必ずしも活発を意味せず、
動かしがたさ、停滞、翻弄として絡みつく。
日本から14000㎞離れた南極でも変わりはない。」

2010年代後半という本作の制作背景を考えるとき、この洞察は不可欠だ。
東日本大震災(2011年)以後、
そしてスマートフォンの普及が完了した時代において、
「遠さ」と「近さ」の概念は根本的に変容した。

かつて「遠さ」は物理的な距離として機能した——
遠くにいる人に手紙を送るには時間がかかり、
その「時間の遅延」が「距離の感覚」を生産した。
しかし通信の瞬時化によって、この時間的遅延は消去された——
何万キロ離れていても「リアルタイム」でつながれる。

しかし川口が指摘するのは、
この「物理的遠さの消去」が「心理的遠さ」を増大させたという逆説だ。
「既読がつかない」という経験——
相手がすぐそこで画面を見ているはずなのに、返信がない。
これは物理的距離の問題ではなく「意志的な断絶」の問題だ。
この「意志的な断絶」という新たな形の「遠さ」が、
2010年代の人間関係の核心的苦悩として浮上した。

3.11という文脈においては、さらに別の「遠さ」が生まれた——
被災地の「遠さ」は、物理的には「国内」でありながら、
SNSを通じて映像として瞬時に共有された結果、「遠さの質」が変容した。
「知っているが行けない」「見えているが触れない」——
この非対称的な「遠さ」が、本作における「南極に行くこと」の意味と共鳴する。

3,「宇宙よりも遠い」とは何か——距離の概念的転倒

タイトル「宇宙よりも遠い場所」の「宇宙より遠い」という逆説は、
川口の視座から初めて完全に解読できる。

物理的に言えば、南極は宇宙より近い——
国際宇宙ステーションが地上約400kmにあるのに対し、南極は地球の表面上にある。
しかしSNS時代の文脈において「遠さ」を「電波が届かない度合い」と定義するなら、話は逆転する。

「既読」がリアルタイムでつく近隣の友人より、南極の方が「電波的には遠い」——
南極は通信インフラが極めて限定的であり、
「既読がつかない」「返信が来ない」という状態が物理的な現実として成立する。
本作において論考が指摘する「日本にいた時にも振り切ってきたはずの人間関係が、
瞬時に、不意打ちでこの氷の大地にまで追いついてくる」という逆説は、
この「電波的遠さ」の問題だ。

南極まで行っても、人間関係の問題は「ついてくる」。
なぜなら、人間関係の問題はもはや「物理的距離」ではなく
「心理的・意志的な断絶」として存在するからだ——
スマートフォンを持っている限り、どこへ行っても「既読の問題」は消えない。
「宇宙より遠い」のは、この「心理的断絶」からの距離だ——
それは物理的には達成不可能であり、だからこそ「宇宙よりも遠い」。

◆花田十輝という脚本家——情動への信頼

1,衒いのない人物造詣という方法

「心の叫びの生々しさ」(2話)、
「本当に巧い造詣」(6話)、
「花田十輝の手腕に改めて脱帽する」(5話)
——花田十輝の「巧さ」とは何か。

「衒い(てらい)のない人物造詣」という筆者の所見は「自意識の不在」だ。
脚本において「自意識」とは「キャラクターが自分の感情を説明しすぎる」傾向として現れる——
視聴者に理解させようとするあまり、
感情の説明が先行し、感情そのものが失われる。
花田十輝の脚本においては、
キャラクターは自分の感情を説明しない。
感情は行動として、あるいは「行動しない沈黙」として、
あるいは「関係のない言葉の連鎖」として現れる。

「キマリの素直さや爛漫を澱みなく描けるからこその感情的行動(抱きつき)は根源的」(3話)——
「抱きつき」という行動は説明を必要としない。
しかしそれが「巧い」理由は、
その行動が「キマリが素直で爛漫であること」を全話にわたって積み重ねた結果として成立しているからだ。
「根源的」という言葉の選択は正確だ——
この行動は個々のエピソードではなく、キャラクターの「存在論的根拠」から発生している。

2,「間違ってない」という情動への肯定

6話でしらせが「間違ってない」と言い放つシーンは、本作の情動的核心のひとつだ。
この言葉は論考において「ガルクラ(ガールズバンドクライ)の井芹仁菜」との接続で言及可能だが、
ここには花田十輝という脚本家の一貫した倫理的立場が表れている。

「間違ってない」は「正しい」とは異なる。
「正しい」は外部基準との照合だ。
しかし「間違ってない」は内部からの確認——
感情が、衝動が、自分の中で正当であるという宣言だ。
ここに「情動への信頼」という花田十輝の倫理的立場が凝縮されている。

ジョナサン・ターナーは感情社会学において
「感情は社会関係の接着剤だ」と論じた。
感情が「間違い」として抑圧されるとき、社会関係は崩壊する。
花田十輝が「情動への信頼」を倫理的基盤として持つとき、
彼の脚本において感情は社会的・文化的な「正しさ」に先行する——
これが「衒いのない人物造詣」の根拠であり、「心の叫びの生々しさ」の源泉だ。

3,踵を返さない覚悟——花田十輝のテーゼ


11話において想起される「響けユーフォニアム3期の原典」という接続は、
花田十輝という脚本家の一貫したテーゼを示している。
「勝負か共存か」——この二項対立は彼の脚本世界において反復される根本的問いだ。

「踵を返さない覚悟」とは「退路を断った前進」だ。
しかしここで重要なのは、これが「確信」ではなく「覚悟」である点だ——
確信は「正しいと知って進む」こと、
覚悟は「正しいかどうかわからないが、それでも進む」ことだ。
「箱庭の中で靄と戦い敗れ続ける姿勢こそ真摯で未来を見据える」——
敗れることを前提として、それでも戦い続けることへの讃美。
これは花田十輝の倫理学の最も圧縮された表現だ。


◆終わらない喪の作業——しらせと母の電波
1,喪の作業(Trauerarbeit)とは何か——フロイト的基底

「終らない死の延長が不可能を可能にし、現実の認識を更新する」——
12話は、フロイトが「悲哀とメランコリー」(1917年)において提示した
「喪の作業(Trauerarbeit)」の概念と精密に共鳴する。

フロイトは喪の作業を「喪失対象との心理的絆を一つ一つ断ち切り、
その喪失を現実として受け入れていく過程」として記述した。
しかしこの過程は線形ではなく、しばしば「完了しない」——
喪の対象が「まだそこにいる」かのような幻想を通じて喪失が否認され続けることで、
喪の作業は延長される。

しらせ(篠原)の物語は、この「完了しない喪の作業」の映像化として機能する。
母・貴子が南極で行方不明になったことが「死」として確定されないまま、
しらせは「南極に行く」ことを自らの存在理由とする。
この「行く」という行為は、喪の作業を「完了させようとする行為」であると同時に
「喪の作業を延長し続けることで母を生かし続ける行為」でもある——
この逆説こそが、しらせというキャラクターの最も深い層だ。

川口茂雄の視座で読み直せば、しらせの「喪の延長」は3.11的な問題でもある——
「行方不明」という状態は、死亡が確認された喪失よりも喪の作業を困難にする。
遺体が発見されず、「どこかにいるかもしれない」という電波的な存在様式——
スマートフォン時代において「既読がつかない」状態は、
ある種の「行方不明」に似た感触を持つ。
しらせの母への想いは、
「返信が来ないが既読がついていない」状態として理解できる——
存在を信じながら、しかしその存在を確認できない「遠さ」として。

2,未読メールという「接続の幻」——12話精読

「遺構基地で発掘されるPCに観る無数の未読メール」——接続の幻の物質的痕跡

12話において遺構基地で発掘されたPCに映し出される「無数の未読メール」——
これは本作において最も鮮烈な映像的命題だ。

「未読メール」という事実が持つ二重の意味に注目しよう。
第一に「送られたが読まれなかった」——
しらせが母に送り続けたメールは、母がそれを読まないまま行方不明になったことを示す。
第二に「送られることで届こうとした」——
未読であることは「送らなかった」とは異なる。
しらせは「届かないとわかっていても」送り続けた。

この「届かないとわかっていても送り続ける」という行為こそが、
川口が指摘した「遠さと近さを取り戻すための苦闘」の最も純粋な形態だ。
スマートフォン時代において「既読がつかない」ことは「相手がそこにいない」ことを意味する——
しかししらせにとって「未読でも送る」ことは「母がそこにいること」を保持するための儀式だった。

「無数の」という量的な強調は重要だ——
一通ではなく、「無数」の未読メールが存在することは、
しらせが「何年もの間、毎日のように」送り続けたことを示す。
その量的な痕跡が、しらせにとって母への「想いの大きさ」の物質的証拠として機能する。

ここでロラン・バルトの「喪のノート」(1977年)と接続したい。
バルトは母の死後、毎日短いノートを書き続けた——
それは記録でも分析でもなく、母の不在を「書くことで存在させようとする」試みだった。
しらせの「未読メールを送り続けること」は、このバルト的な喪の実践と同型だ——
相手がいないことを知りながら、「宛てること」によって相手を存在させ続ける。

3,サンピラーという自然の「区切り」——悼みの地平線


「サンピラー(太陽柱)」——
これは南極特有の大気光学現象で、太陽の光が氷晶に反射して垂直の光の柱として見える。
この現象が「世界の終り」と「しらせ母の死の確認を迫る」ものとして機能するとき、
それは「自然が喪の区切りを与える」という文化的・宗教的構造を持つ。

世界中の文化において、自然現象は「死者との別れ」の象徴として機能してきた——
虹は死者の魂が渡る橋であり、流れ星は死者のメッセージとして受け取られる。
サンピラーという垂直の光は「天と地をつなぐ柱」として、「この世とあの世の接触点」として機能する。

しかし川口の視座から読み直せば、このサンピラーはより現代的な意味も持つ——
それは「電波が届かない場所」における「別の種類の繋がり」の象徴だ。
スマートフォンが通じない南極の空に現れるサンピラーは、
デジタル的な「繋がり」ではなく「身体的・自然的な繋がり」として機能する。
「電波を超えた場所での接触」——これが「宇宙よりも遠い場所」における喪の作業の完成形だ。

◆「娘が母を殺すには?」——三宅香帆と花田十輝の接続
1,相互自立と「母殺し」の可能性

「花田十輝は、ある意味、彼女たちに母殺しの可能性を観ていた」——三宅香帆論との接続

三宅香帆の「娘が母を殺すには?」という問いは、
母と娘の共依存的関係から自立する「暴力性」を「殺す」という極端な比喩で表現したものだ。
これは「母を嫌いになる」ことでも「母を否定する」ことでもなく、
母(および母が体現する規範・価値観・期待)から分離することへの根源的な問いかけだ。

三宅の論考において「趣味などの模索が相互自立を促す」とされる——
娘が母とは「別の世界」を持つとき、
その世界において娘は「母の娘」ではなく「自分自身」として存在する。
これが「相互自立」を可能にする。

本作において「南極への旅」はこの「趣味などの模索」の最もラディカルな形態だ——
「日本から14000km離れた南極」という物理的極点は、
「母との関係から最も遠い場所」という心理的極点でもある。
キマリにとって南極は「後悔しない青春」への欲求から始まるが、
それは同時に「普通の高校生というカテゴリー(母が期待する娘)」からの逸脱でもある。
ひなたにとって南極は「正義のための復讐」として始まるが、
それは「過去の被害者というアイデンティティ(母のいじめられた娘)」からの解放でもある。

2,南極というラディカルな「趣味の模索」
三宅香帆的文脈
趣味の模索 → 相互自立 → 「母殺し」の可能性

母から独立した「自分の世界」の構築

本作における実践
南極行き = 極端な「趣味の模索」

物理的・心理的極点における「自己の発見」


「南極に行く」という選択は、「母殺し」の最もラディカルな形態として機能する。
家庭という「母の支配圏」から最も遠い場所に、
自分の意志で、自分の費用で、自分の責任で赴くこと——
これは「自立」の最も具体的な表現だ。

しかし本作の深さは、
この「母殺し」が「母への愛」と矛盾しないことを示す点にある。
しらせにとって南極行きは
「母殺し(喪の完了)」と「母への愛(喪の延長)」が同時に成立する行為だ——
母のいた場所に行くことで母を「殺す(死を確認する)」と同時に
「生かす(記憶を更新する)」。
この逆説が、しらせというキャラクターの最も豊かな層だ。

三宅香帆が「直近では職場での関係性を見出していた」という指摘は、
本作の予言的性格を示唆する——
2018年のアニメが描いた「南極という趣味の模索による相互自立」は、
2020年代において「職場という社会的文脈での相互自立」として継続・発展する問いとなっている。
花田十輝は三宅より数年早く、この問いをアニメとして結晶させていた。

3,旅が生む自己拡張——キマリという「器」の成長
キマリ(玉木マリ)は本作において最も「無垢」なキャラクターとして設計されている——
「個人的背景(トラウマ等)も事情(自我探し)も無い、情動と明るさと躊躇いの普通の女の子」だ。

この「何もない」という設計は、キマリを「器」として機能させる戦略だ——
空の器だからこそ、旅の経験が注ぎ込まれる。
しらせの悲しみも、ひなたの怒りも、結月の孤独も、
キマリという「器」を通過することで変容する。
「何者でも無いこその肯定に秘めた説得性と世界線を考える」——
この「何者でもない」ことが、キマリが「何者でもある」ための根拠となる逆説。

「五感による知覚の拡大」——
南極という「電波の届かない場所」において、
失われた電波的接続を補償するのは身体的・感覚的な経験だ。
氷の感触、極夜の暗さ、砕氷船の振動、南極の空気の味——
これらは「データ」として共有できないが、
「共有した経験」として仲間との紐帯を強化する。
川口の言う「遠さを取り戻すための苦闘」は、この「データを超えた身体的共有」において部分的な解決を見出す。

◆友情の解剖——虫明元と情動的・認知的共感性
1,友情とは「共通体験」である

10話において虫明元(神経科学者)の友情論が想起される——
「友情は一言で表す以上に共通体験であり、情動的共感性、認知的共感性、コンパッション(人助け)である」。
この三層構造の友情論は、本作における四人の関係性の精密な解析ツールを提供する。

「情動的共感性」——相手の感情を自分の感情として経験する能力。
しらせが泣くとき、キマリが一緒に泣くのはこれだ。
「認知的共感性」——相手の立場から物事を理解する認知的プロセス。
キマリがしらせの「南極行きの意味」を理解しようとするのはこれだ。
「コンパッション(人助け)」——
相手の苦しみを軽減しようとする行動への動機付け。
ひなたがキマリの「南極行き」を実際に手伝うのはこれだ。

本作において四人の友情は、
この三層を全て経由することで「完成」する。
感情的に共鳴し(情動的共感性)、
理性的に理解し(認知的共感性)、
実際に行動する(コンパッション)——
この三層が揃ったとき、友情は「言葉を超えた関係」(10話)となる。

2,キマリと結月——手触りの言語
「手触りの描写」という印象は、本作の映像的成就を示す。
白石結月(声:花澤香菜)は「アイドル的な孤独」を持つキャラクターとして設計されている——
完璧さのゆえの孤立、「素の自分」を持てない閉鎖性。
この「孤独」は言語的コミュニケーションでは突破できない——
言葉は結月の防護壁に跳ね返される。

しかしキマリは「手触り」によって結月に接触する——
「抱きつき」という身体的行為(3話)が、
結月の防護壁を「言葉ではなく身体」で解除する。
これはキマリの「素直さや爛漫」が生む根源的な行為だ。
言語以前の「接触」として。

川口の「速度の芸術」論に接続するなら、
「手触り」は「電波の速度」によって届かないものだ——
SNS的コミュニケーションにおいて「手触り」は存在しない。
南極という「電波の届かない場所」において、
キマリと結月の関係が「手触りの言語」によって深まることは、
川口の問いへの映像的な回答だ——
「電波を超えた遠さと近さの取り戻し」は、身体的な手触りによってのみ可能だ。

3,しらせの転向——「仲間」への優先順位の移行
しらせというキャラクターの設計において最も精妙なのは「意固地」の機能だ——
意固地は通常「欠点」として描かれるが、
本作において意固地は「方向を決めて進み続ける推進力」として機能する。
しらせが南極行きへの意固地を保持し続けることで、四人の「旅」が失速しない。

「自画像の劣位を惜しみなく認める強かさ」——
6話において、しらせが「自分は間違っていた」を認めることなく
「仲間が大事だ」を認める。
これは「反省」ではなく「転向」だ——
価値の優先順位が「南極→仲間」ではなく、
「南極のための仲間」から「仲間のための南極」へと移行する。
この転向は論理的な説明を持たない——
それは「情動」として発生する。
「間違ってない」という言葉がここで再び機能する——
しらせの転向は「間違っていたから」ではなく「仲間が大事だと感じたから」だ。

◆各話精読——情動の星座図
1〜2話——地続きの不可能と少女たちの解像度

「解像度が凄まじい少女達が展延する現実」——
これは美術的方法論の核心を捉えている。
「展延(てんえん)」という選択は精確だ——
少女たちは「現実の空間」を「占有」するのではなく「広げる」。
彼女たちが存在することで、
館林の古い商店街は単なる背景から「彼女たちが生きた場所」として意味的密度を獲得する。

「目標に対する侵入角度の違いで、キマリ、しらせ、ひなたの魅力が多角的に浮かびあがる」(2話)——
「侵入角度」という表現が望ましい。三
人は同じ「南極」という目標に向かうが、その向かい方が異なる。
キマリは「後悔しないために」、
しらせは「母を確認するために」、
ひなたは「正義を証明するために」
——この角度の違いが、三つの物語的ラインを生み出す。

3〜4話——イモムシたちの情動とコアの形成

「イモムシ」という比喩の選択は深い——
イモムシは蛹を経て蝶になる存在だが、イモムシの段階においては「何になるかわからない」。
四人の少女たちが「旅の前の段階」においてイモムシとして描かれることは、彼女たちの変容可能性を示す。

「キマリの『南極じゃなくちゃダメだ』の徐々にコアが固まる様相」——
これは花田十輝の脚本論的に見て最も重要な過程だ。
キマリは当初「南極でなくてもいいかもしれない」状態から始まる。
しかし旅のプロセスを通じて「南極じゃなくちゃダメだ」というコアが形成される——
これは「理由が変わる」のではなく「理由が深まる」過程だ。
「夜明けの雲海の美しさと絶妙に染り」という表現が示すように、
このコアの形成は「論理」ではなく「美的経験」と連動している。

5話——「水」の比喩と嫉妬の自壊

5話の「水」の比喩は本作最高水準の批評的言語だ。
「水がそれ以外と出会い澱み激流となり全てを飲み込みまた清流となるように」——
このプロセス論は嫉妬という感情の「自然史」を描いている。

嫉妬は「澱み」として始まる——
澄んだ感情に「黒い他者」が混入して濁る。
その澱みは「激流」として爆発し「全てを飲み込む」——
破壊的な感情の放出として。
しかしそれが「また清流となる」——
感情が全て出し切られたとき、澄んだ状態に戻る。
この比喩が「花田十輝の手腕」として称揚されるのは、
嫉妬という「恥ずべき感情」を「自然の運動」として描くことで、
道徳的判断から解放しているからだ。
「恥も外聞も無く」という評価はここから来る——
嫉妬を「恥ずべきもの」として隠さず、「自然として流れるもの」として描く。

6話——「間違ってない」とシンガポールの夜景

「ギャグの面白さは情動の根源への理解の深度である」——
この命題は花田十輝の脚本論として最重要の洞察だ。
ギャグと感動は通常「対立するもの」として扱われる——
ギャグはシリアスな感情を解除し、感動はギャグによって薄まる。
しかし花田十輝においては、
ギャグは「感情の圧力を開放する弁」として機能し、その開放によって感情の密度が増す。

「場面転換での情動との衝突への想像力」——
これは脚本術の高度な技術だ。
シーンAの感情がシーンBの感情と「衝突」するように場面転換を設計することで、
両方の感情が相互に増幅される。
シンガポールの夜景という「外の世界の広大さ」と、
ホテルの部屋という「内の世界の狭さ」の衝突——
川口の「遠さと近さ」論と接続すれば、
この「外/内」の衝突は「電波的な遠さと身体的な近さ」の衝突でもある。

8話——何者でもないキマリの「肯定」

「何者でもないことの肯定」——
これはポスト・アイデンティティ論的な問いだ。
20世紀の「アイデンティティの政治学」において、
自己のアイデンティティ(性別・民族・経験)が言葉の根拠として機能した——
「私はこういう存在だから、こう言える」。
しかしキマリは「何者でもない」——
トラウマも自我探しもなく、ただ「情動と明るさと躊躇い」だけを持つ。

その「何者でもない者」が「選択を前向きに肯定する」とき、
その言葉は「アイデンティティの根拠」ではなく「純粋な情動の根拠」として機能する——
これが「説得性」の源泉だ。
「何者でもないこその肯定」は、
「何者かであることの肯定」よりも普遍的に届く。
なぜなら、「何者でもない」という状態は全ての人間が経験したことがある状態だからだ。

9話——プロジェクトXと世代交代の感動

「ざまあみろ=様を見ろ=今を観て今を超える自らへの鼓舞」——
この言葉の解体は本作の批評において最も鮮烈な瞬間だ。
「ざまあみろ」という通常「他者への勝利宣言」として機能する言葉が、
「自らへの鼓舞」として内転される。

「様を見ろ」——
すなわち「見よ、このような様を」という指示が、
「他者に見せる」のではなく「自分が今の自分を見る」という自己観察として機能するとき、
「ざまあみろ」は「今この瞬間の自分を証人として確認すること」の宣言となる。
南極大陸に足を踏み入れるその瞬間の「様」を——
誰でもなく、自分が見ている。

「世代交代的構造」の感動は、川口論文の3.11文脈と接続する——
大人たちが「守りきれなかったもの」を、
若い世代が「引き継ぐ」という構造は、
震災後の「次世代への引き継ぎ」という問いと共鳴する。

12〜13話——終わりと始まり

「変わらない日常は無く」——
これは「変化を受け入れよ」という命令ではなく「変化を怖れるな」という宣言だ。
日常は変わる——それは恐ろしいことではなく、「異なる自分を見出すための素材」だ。

「宇宙よりも遠い場所でも、近い場所でも 豊かな世界は、すぐそこに」——
この最終命題は、
川口の問い「宇宙より遠いのは、なにか」への本作の回答として読むことができる。
「豊かな世界」は「遠い場所」にあるのではなく「すぐそこに」ある——
しかしその「すぐそこ」に到達するためには、
「宇宙より遠い場所」まで行かなければならなかった。

これは逆説ではなく弁証法だ——
遠くまで行くことで、近いものが「近い」と気づく。
14000km先の南極まで行ったしらせが見つけた母の想いは「ここにあった」——
スマートフォンの画面の向こうにあったのではなく、
未読メールという物質的痕跡として、「ここ(南極の基地)」に存在していた。

◆背景美術と絵コンテの解像度——現実が展延する様

本作の背景美術について、
「砕氷船、館林の古い商店街、公園、歌舞伎町、自動車と凄まじい解像度の背景と絵コンテ」(2話)と評する。
この「解像度」という言葉の選択は、デジタル時代の批評語として適切だ——
「精密さ」ではなく「解像度」という概念は、「どれだけ細かく見えるか」という視覚的な密度の問題だ。

実在の館林市(群馬県)をロケ地として精密に再現した背景は、
「フィクションとしてのアニメ」に「現実の地続き性」を与える。
「地続きで未知の南極」という1話評の言葉は、この美術的方法論とも共鳴する——
「地続き」とは「実在する場所の連続として設計されている」ということだ。
館林から東京へ、東京からシンガポールへ、シンガポールから南極へ——
この「地続きの移動」が、美術レベルで支えられているとき、
「南極に行く」ことの現実性が担保される。

川口茂雄が論じる「速度の芸術としてのアニメ」の観点から見れば、
この「解像度の高い背景」は「速度のゼロ点」として機能する——
キャラクターが速度を持って動く「前提」として、
背景は「静止した密度」として存在する。
「凄まじい解像度の背景」とは、
少女たちの速度(感情の速度)を際立たせる「高密度の静止」として機能するのだ。

◆結論——豊かな世界は、すぐそこに

川口茂雄の問いから本論を閉じよう——
「宇宙より遠いのは、なにか。
この時代における、遠さと近さをめぐる苦悩、
あるいは、遠さと近さを取り戻すための苦闘という、2010年代後半においてまさに、
いくつものジャンルで誰かが何かの形で取り組み表現しなければならなかった事柄を、
この『宇宙よりも遠い場所』は、卓越した繊細な表現によって、
〈速度〉の表現に真価を有するアニメというジャンルの本質を比類なく駆使して、作品化している」。

本稿が示そうとしたのは、
この「遠さと近さをめぐる苦闘」が、
本作において複数の層で展開されているという事実だ。

第一の層として、「電波的遠さ」と「身体的近さ」の弁証法——
SNS時代において「電波は速く、心は遠い」という逆説が成立するとき、
「電波の届かない南極」においてのみ「身体的な手触り」による本当の近さが回復される。
川口の洞察はここに集約される。

第二の層として、「喪の作業」の空間論——
しらせにとって「南極」は「未読メールが届いた場所」であり
「喪の作業を完了させる場所」だ。
「終わらない死の延長」という形で保持され続けた母の存在が、
サンピラーという自然の「区切り」によって「悼むことが可能な死」として更新される。

第三の層として、花田十輝の「情動への信頼」という倫理——
「間違ってない」という言葉が示すように、
感情は「正しい/間違い」という外部基準に従属しない。
感情は「ある」こととして先行し、その「あること」を肯定することが、
友情の、旅の、成長の根拠となる。

第四の層として、三宅香帆的な「母殺し」の可能性——
南極という「趣味の模索の極限形態」が、
母との共依存的関係から少女たちを解放し「相互自立」を可能にする。
花田十輝がこの問いを三宅香帆より数年早く映像として結晶させていたという事実は、
「アニメという媒体の予言的性格」の証拠だ。

「宇宙よりも遠い場所でも、近い場所でも 豊かな世界は、すぐそこに」——
この最終命題は、「どこへ行っても変わらない」という諦念ではなく、
「どこへ行っても可能性がある」という宣言だ。
その「すぐそこ」に辿り着くためには、時に「宇宙よりも遠い場所」まで行かなければならない。
しかしそれもまた、地続きに続いている。

◆参考文献

宇宙よりも遠い場所 TVアニメ(2018年、制作:マッドハウス、監督:いしづかあつこ、脚本:花田十輝)

川口茂雄「速度の芸術としてのアニメ——宇宙よりも遠い場所」『アニメ・エクスペリエンス——深夜アニメ研究の方法』叢書パルマコン・ミクロス

川口茂雄「遠さを取り戻すための旅——3.11以後の、スマートフォン・SNS時代の映像表現『宇宙よりも遠い場所』」森茂起・川口茂雄編著『〈戦い〉と〈トラウマ〉アニメ表象史』日本評論社

三宅香帆『娘が母を殺すには?』

ジークムント・フロイト「悲哀とメランコリー」(原著 “Trauer und Melancholie”, 1917年)

ロラン・バルト『喪のノート』(原著 Journal de deuil, 1977年执筆、2009年刊行)

虫明元『前頭葉は脳の社長さん?』等、友情の神経科学関連論考

ミハイル・バフチン「小説における時間と時間・空間的座標」(原著1937–38年執筆)

エドワード・サイード『オリエンタリズム』(参照:川口論文の空間論との接続)

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