機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女

アニメ







「待てる文化」の産業的定着と「時間」の価値

Contents

・所感
・1. 「待てる文化」の産業的定着と「時間」の価値
・2. 「魔女(キルケー)」による「論理(ロゴス)」の解体と情動の復権
・3. 「性表現」のメタファー化と高度なコンテクストへの昇華
・4. 「異物としての3DCG」を用いた内面描写の視覚化
・総評



・所感

洗練された虚構/理想/ハサウェイへ、現実/情動/ギギ+ケネスが侵蝕する構造が凄まじい。
贖罪の理論に逆襲されるハサウェイと来るべき審判の予感に泣きそうになる。

本作では、2021年時点で観られた「懸念」や「期待」に対し、非常に自覚的かつ高度な回答を提示してきた。
これを踏まえ、2026年代の表象文化・社会情勢において掘り下げるべき(4つの)項目を提示する。

・1. 「待てる文化」の産業的定着と「時間」の価値

(Gemini Bananaにて生成)


2021年の公開から「待てる文化」が、5年という歳月を経て実証された点。
2021年の予見:** 「評判が悪ければ手仕舞い可能な実験」として始まったプロジェクトが、
クオリティ担保のためなら数年の待機も許容されると予測された。

本作は、第1部から5年を経ても「公開初日に総興行収入3億円突破」を記録しており、
「待てる文化」の定着がある程度証明されたといえよう。
では、ファストなコンテンツ消費が加速する2020年代において、5年という「時間」をかけた熟成が、
逆に作品を「消費」から「体験/記憶」へと昇華させる唯一の対抗手段となったのではないか。

そのメカニズムとは、「ロゴス」を飛ばして「パトス」させる、
「アトラクション的体験」と「普遍的感情への接続」にあろう。

1-1. 「意味」以前に圧倒する「アトラクションとしての強度」
ライトな視聴者にとって、難解な政治劇やニュータイプ論は「ノイズ」になりがちだが、
本作はそれらを無視しても成立する「生理的な快楽と恐怖」を映像と音響の主軸に据えた。
第1部から評価されていた「重低音の物理感」や「18m級の鉄がぶつかる恐怖」は、知識不要で身体に響く体験だ。
第2部でも「劇場版初代以上に抑揚を考え抜いた音響」が弾丸音などの臨場感を高めており、
観客はストーリーを追う前に、戦場や空間のただ中に放り込まれる「VRアトラクション」のような没入感を味わえるだろう。
背景やメカに用いられる3DCGの「異様なリアリティ」は、アニメ的な記号論(お約束)を知らない層に対し、
実写映画に近い「リッチな映像美」として直感的に訴求しえるだろう。

これは「すごい映像を見に来た」という一見さんの期待に対し、予備知識なしで快楽を与える要素となる。

1-2. 「恋愛リアリティショー」として消費可能な人間ドラマ
ガンダムというSF設定の皮を剥ぐと、本作の骨子は極めて普遍的で俗っぽい
「男女の情動のもつれ」であり、予備知識のない層が最もアクセスしやすい入り口となる。
ハサウェイ、ギギ、ケネスの関係性は、「贖罪や理想に囚われる男」と
「それを揺さぶる運命の女(ファム・ファタール)」、そして「大人の男」という古典的な構図。

第2部における「肉欲に抗い葛藤し妄想に苛まれるハサウェイの青臭さ」や
「恋敵へのセクハラ抑制攻撃」といった描写は、SFを知らなくとも「恋愛リアリティショー」や
「トレンディドラマ」の文脈で、「人間臭いドロドロしたドラマ」として楽しむことができる。
「観光映像的実在感」は、第2部でも「ナイトプール」や「極彩色的渦巻き」といった意匠で継承される。
これらは「物語の意味」を考えずとも、単に「エモい」「美しい」風景として消費可能であり、
ライト層の感性をつなぎとめるアンカーとして機能しえよう。

1-3. 「論理より情動」という世界観によるハードルの低下
第2部の特徴である「論理より情動」という構造は、
逆説的に「論理(複雑な設定や理屈)がわからなくても大丈夫」ということになる。
「運」という分かりやすさ:** 作戦の成否や命運が、
難解な戦術論ではなく「運」や「情動」で決まる描写(猫とギギが運の交換要素に見える等)は、
戦史や設定に詳しくない観客にとっても「なんとなく凄いことが起きている」
「感情の流れで勝った/負けた」という直感的な理解を許容しえる。
終局が「GUNS N’ ROSES」のようなロックな高揚感で締めくくられる点も、
最後は理屈ではなく「感情の爆発」で持っていく作劇であることを示しえよう。

1-4. 「参加すること」自体が価値となる「イベント性」
2026年の社会情勢において、本作は単なる映画ではなく、参加必須の「社会現象」化している可能性がある。
祝祭としての消費。
「公開初日に3億円突破」という数字は、本作が「ファンのための映画」を超え、
「今話題のイベント」になっていることを示す。
ライト層にとっての視聴動機は、5年待ったという文脈自体が、
「伝説の瞬間に立ち会う」という付加価値に変換される。

まとめると、『閃光のハサウェイ』第2部は、熟練ファンには「解釈の深み(能動的体験)」を提供しつつ、
一見さんには「超高画質・高音質の映像ドラッグ(アトラクション)」
および「普遍的な男女の愛憎劇(メロドラマ)」として機能する二重構造を持つ。
この「入口の広さ(感覚的快楽)」と「奥行きの深さ(解釈の要求)」の両立こそが、
幅広い層を劇場に惹きつけ、体験として成立させている要因であるといえよう。


・2. 「魔女(キルケー)」による「論理(ロゴス)」の解体と情動の復権

(Gemini Bananaにて生成)

第1部で評価された「リアリティ」が、第2部では「情動」という形の「現実」として、
ハサウェイの「理想(虚構)」を侵食する構造へと深化する。
前作ではハサウェイの「千年先の理念」と「目先の行動」の乖離や、
ギギの「動的な再解釈」が為された。
本作では、ハサウェイの「洗練された虚構/理想」に対し、
ギギやケネスといった「現実/情動」が侵蝕する構造が指摘されよう。
特にケネスが「運という非論理に勝機を見出す」点や、
モビルスーツ戦において「論理より情動」の世界観が強調される点は重要。
社会全体が過度なポリティカル・コレクトネスや効率化(論理)に疲弊する中、
フィクションにおいて「魔女(ギギ)」や「運(ケネス)」といった不確定で情動的な要素が、
システム(連邦/論理)を打破する力として再評価されえるのか。

2-1. 【正の側面】「窒息する正しさ」への身体的抵抗としての情動
過度なポリティカル・コレクトネスや効率化(論理)が支配するシステム(連邦)は、
争いを回避し安定をもたらす反面、人間の「生の実感」や「身体性」を抑圧。
この文脈において、不確定な情動は「人間性の回復」として機能しえる。

魔女」というエラー(バグ)の価値。
前作でギギは「恥ずかしさを感じさせない説得力」を持ち、
「大人の世界に子供っぽさの残るスピード感を置く」存在として評価された。
第2部『キルケーの魔女』において、ギギは「現実=情動」として、
ハサウェイの「洗練された虚構(理想論)」を侵蝕する。
システム(連邦)が排除しようとする「ノイズ」や「エラー」であるギギが、
予定調和を崩すことで、ハサウェイ(および観客)は
「論理的に正しい死」ではなく「理不尽だが鮮烈な生」を再発見できる。
これは、管理社会で麻痺した身体性を呼び覚ます「正の情動感染」と言える。

また、ケネスは「周到な作戦の仕上げに情動/運という非論理に勝機を見出す」ように描写される。
すべてがアルゴリズムや論理で予測可能な世界において、
「運」や「勘」に頼ることは、システムによる決定論への抵抗である。
これにより、個人の主体性や「やってみなければ分からない」という未来の不確定性(可能性)が確保される。

2ー2. 【負の側面】「キルケーの魔法」による理性の溶解と野蛮化
一方で、情動の優位は、共通言語(論理・法)の崩壊を招き、
「獣への退行(人間性の喪失)」を引き起こすリスクがあります。
副題の「キルケー」が、人間を豚(獣)に変える魔女であることは示唆的だ。
「論理より情動」が招くポピュリズムと暴力。
本作の世界観が「論理より情動」を強調している構造に読める。
論理よりも「感情的な納得感」や「熱狂」が優先される世界は、
政治的にはポピュリズムや暴徒化(モブ化)に直結する。
対話不能な「感情の殴り合い」による相互破壊のリスクである。

「魔女」による破滅への誘引として、
ギギは「生存手段として男性を冷徹に眼差しつつ悪戯さも魅せる」存在であり、
ハサウェイは彼女(現実/情動)と理想の間で引き裂かれる。
ギギが喚起する情動は、必ずしも建設的な未来を志向せず、
ハサウェイを破滅的な英雄行為や、無謀な戦闘へと駆り立てる
「死のドライブ(衝動)」として機能する。

情動はエネルギーだが、方向性を持ちえない。
それが「悪感情の共有」として機能した時、システムを打破する力はそのまま「社会の崩壊」へと転じる。

2-3. 結論:「解決」ではなく「相克の悲劇」
情動的な要素は「正義」としてそのまま再評価されえない。
本作の批評的な価値は、システム(論理)の窒息感に対する特効薬として
「情動(魔女/運)」を用いつつ、その副作用(理性の溶解)をも冷徹に描く
「アンビバレントな視点」にある。

ハサウェイは「虚構と現実の融解に苦しむ」存在として描かれるが、
彼は論理(連邦の腐敗を正す理想)を捨てきれず、
かといって情動(ギギや戦闘の快楽)にも身を委ねきれない。
本作は、情動を「システム打破の救世主」として安易に肯定するのではなく、
「行き詰まった論理を打破するには、劇薬(毒)としての情動を使わざるを得ない時代の悲劇」
として提示していると言える。

それゆえに、我々はカタルシス(システム破壊の快感)と同時に、
深い不安(理性の喪失への恐怖)を感じ取り、
それが「来るべき審判の予感」に泪するという複雑な鑑賞体験に繋がっていくだろう。


・3. 「性表現」のメタファー化と高度なコンテクストへの昇華

(Gemini Banana生成)

最大の懸念点とされた「富野由悠季的な性表現(セクハラ含む)」の現代的翻訳に対し、
本作は「隠喩(メタファー)」と「抑制」による洗練という回答を示した。
原作小説にある「大佐の性癖」等の台詞をどう処理するか、
現代的な倫理観(ポリコレ)との衝突が懸念された。

本作では、水や渦巻きを用いた「極彩色的渦巻きが隠喩する性的意匠」や、
「必要充分な隠喩的性描写」によって表現が完遂された。
また、メイス・フラゥアーとギギの描写においても
「恋敵へのセクハラ抑制(小声)攻撃の絶妙さ」が評価できよう。
直接的な性描写や暴言を排除しつつ、
映像演出(シンボリズム)によって逆にエロティシズムや緊張感を高める手法
(「肉欲に抗い葛藤し妄想に苛まれるハサウェイ」)は、
表現規制が厳格化した2020年代後半における、アダルトな表現の新たな「勝ち筋」を示しているのではないか。

この手法は単なる「規制逃れ」ではなく、「視聴者の想像力を共犯関係にする」ことで、
直接描写以上の没入感を生む高度なエンターテインメント技法として、有力な「勝ち筋」となりえる。

3-1. 「コンプライアンス(規制)」を「クオリティ(品格)」へ転換する逆転の発想
表現規制が厳格化する中で、多くのクリエイターは「萎縮(自主規制)」に陥りがち。
しかし、本作の手法はその制約を逆手にとり、作品の価値を高めることに成功している。
「見せない」ことによる普遍化:
直接的な性描写や暴言は、視聴者に生理的嫌悪感を抱かせたり、
視聴場所や相手を選ばせたりするリスクがある。

これを排除し、シンボリズム(水、渦巻き、視線、距離感など)に置き換えることで、
「生理的な不快感」を「美的な緊張感」へと浄化しえる。
これにより、本来ならニッチな「アダルト表現」であったものが、
一般視聴者が公共の場(映画館やリビング)で鑑賞しても恥ずかしくない「アート」へと昇華され、
ターゲット層が飛躍的に拡大する。

「行間を読む」快感の提供:
すべてを映像で見せてしまうポルノグラフィ的な手法とは異なり、
隠喩は「今、何が起きているのか?(何が暗示されているのか?)」を視聴者に推測させることで、
知的で能動的な鑑賞態度を引き出すことは、コンプライアンス遵守の結果ではなく、
作品の「品格」として評価される。

3-2. 「タイパ(タイムパフォーマンス)」時代における「密度の濃い体験」への渇望

2020年代後半の視聴者は、説明過多で分かりやすいコンテンツ(ファスト映画的なもの)に慣れきった一方で、
それに飽き足らず、より「本質的で濃密な体験」を求めてるかもしれない。
情報の圧縮と解凍:
例えば、「二人が関係を持った」ことを台詞や行為で示すのに数分かけるよりも、
象徴的なカット(波紋や視線の交錯など)を数秒挿入する方が、情報量は圧縮される。
視聴者の脳内でその数秒が「解凍」され、豊かなイメージとして広がる時、
それは非常に効率的かつ満足度の高い(タイパの良い)体験となる。
「多くを語らずとも、すべてが伝わる」という演出は、時間の価値を重視する現代人にとって最高級の贅沢だ。

3-3. グローバル展開を見据えた「文化的摩擦」の回避
日本のアニメーションが世界市場(ハリウッドや中国市場など)を
強く意識せざるを得ない2026年において、この手法は最強の武器となりえる。
レーティングの壁を越える:
直接的な性暴力や差別的言動は、
国やプラットフォームごとのレーティング基準に抵触しやすく、流通を阻害。
しかし、映像美やメタファーに変換された表現は、
これらの検閲フィルターを「芸術表現」というパスポートで通過することができる。

文脈の共有:
直接的な暴言などのスラングは言語依存度が高いが、
「水」や「視線」、「距離」といった非言語的なシンボルは、
文化圏を超えて直感的に理解されやすい普遍性を持つ。
これにより、翻訳のニュアンスに左右されず、
世界中の視聴者に「大人の緊張感」を届けることが可能に。
本作の手法は、規制に対する「敗北」や「妥協」ではなく、
表現の自由度をむしろ「内面(精神)」へと拡張する進化だ。
2020年代後半において、この「勝ち筋」を採用できる作品だけが、
コンプライアンスの波に飲まれることなく、
「大人も楽しめる一般向けエンターテインメントという、最も収益性が高く、
かつ文化的価値のあるポジションを独占できるだろう。


・4. 「異物としての3DCG」を用いた内面描写の視覚化

(Gemini Banana生成)

前作で評価された「MSの異物感」が、
第2部では主人公の精神的乖離(虚構 vs 現実)を可視化する演出装置として機能した。
前作ではCGの「人肌のなさ」を逆手に取り、MSを「異物」として描くことに成功した。
本作では、3DCGの「異様なリアリティ」と、美樹本晴彦デザイン(アニメ調)の対比が、
「虚構と現実の融解に苦しむハサウェイの内面描写の強調」として機能していると考えられる。
3DCGと作画のハイブリッド表現が、単なる省力化やアクションの迫力のためではなく、
精神的分裂や認知の歪みを表現する「映像文学的ツール」として確立された点。

これは「アニメーションならではの『虚構と現実』の技法」という評価に直結する。
本作における「3DCGと作画のハイブリッド表現」が達成した「映像文学的ツール」としての特異性は、
2020年代に評価されたフル3DCG作品
(『ガールズバンドクライ』や『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』)との比較を通じて、より鮮明になりえる。
これら他作品が3DCGを用いて「客観的な実在感
(そこに『いる』感覚)、及び直後の日常との断絶」を追求したのに対し、
『閃光のハサウェイ』は3DCGと作画の「質感の乖離(ズレ)」をあえて強調し、
「主観的な認知の歪み(世界が『違って』見える感覚)」を表現した点において、
最初から異なるベクトルへの進化を遂げる。

4-1. 『ガールズバンドクライ』『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』における「客観的リアリティ」の追求

これら2020年代前半の傑作群は、
3DCGを「虚構(アニメ)を現実(リアル)に近づけるための接着剤」として機能した。

ガールズバンドクライ』12話(日常シーンの過剰なCGクオリティ): ※東映


この作品における「過剰なCGクオリティ」は、
キャラクターの微細な感情の機微や重力を完全にシミュレートすることで、
視聴者に「彼女たちは実在する」と信じ込ませるための装置だ。
日常芝居の密度を上げることで、アニメ特有の記号性を排除し、
「没入感(イマージョン)」を最大化させる演出と言える。

BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』7話(「モニタリング」的画角): ※ブシロード


楽屋での修羅場を、手持ちカメラ風の揺れや、
物陰から覗き見るような「モニタリング」画角で捉える手法は、
ドキュメンタリー的な「生の情報の提示」だ。
そこには「カメラ(観察者)と被写体(現実)」という客観的な関係性が存在し、
視聴者は目撃者としてその場に立ち会う感覚を得ます。

両者に共通するのは、「3DCGを用いて、アニメの世界を
(直後の断絶を含有しながら)『矛盾のない一つの現実』として統合する」という志向だ。

4-2. 『閃光のハサウェイ』における「主観的ディストーション(歪み)」の表現
対して『キルケーの魔女』は、3DCGを
「虚構(理想)と現実(システム)の裂け目を可視化する異化効果」として使用する。
「統合」ではなく「対比」させるハイブリッド:
本作の美術・CG演出は、あえて統合されない。
「ENGIを始め随所で設る3DCGの異様なリアリティ」と「アニメ調の美樹本晴彦デザイン」が同居することで、
「虚構と現実の明確な対比」が画面内で発生する。
これは、ハサウェイという人物が「美樹本デザイン(=ガンダムという理想/虚構の住人)」でありながら、
「異様なリアリティを持つ3DCG(=冷徹な現実/連邦のシステム)」の中に放り込まれ、
適合できずにいるという「精神的・肉体的な違和感」を視覚的に表現しえる。

「覗き見」ではなく「内面への侵食」:
BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』のような客観的な「覗き見」ではなく、
本作の3DCGはハサウェイの認知そのものをハックする。
「現実と虚構の融解に苦しむハサウェイの内面描写の強調」として機能しており、
背景の3DCGがリアルであればあるほど、
手描きのハサウェイの「浮き上がり(居場所のなさ)」が際立つだろう。
つまり、3DCGはリアリティを高めるためではなく、
「世界が自分(理想)を拒絶している感覚」や「自分が世界から遊離している感覚」という、
統合失調的な認知の歪みを観客に体感させるための「ノイズ」として機能している。

4-3. 「映像文学」としての到達点

ガールズバンドクライ』『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』:
3DCGによって**「ここに現実がある」と信じさせる(肯定の演出)。
『閃光のハサウェイ』:3DCGと作画のギャップによって「この現実はどこかおかしい
(あるいは、自分が狂っている)」と感じさせる(否定・葛藤の演出)。

『閃光のハサウェイ』は、3DCGの「異物性(人肌のなさ)」を隠そうとするのではなく、
むしろ強調して作画キャラクターとぶつけることで、
ハサウェイが抱える「贖罪の理論(脳内の虚構)」と「情動(目の前の現実)」の乖離を、
セリフなしで描き出しえる。
この「映像の質感の不一致」を「心理描写のツール」へと転用した点こそが、
村瀬修功監督による「無言の独白」であり、
アニメーションでしか成し得ない高度な「映像文学」的技法であるといえよう。

4-4.
「咀嚼音」という聴覚的テクスチャ:他者の「肉体」への拒絶や、
「俯瞰のMS」という視覚的テクスチャ:自己の「拡張」の否定
ハサウェイの示す「ケリアの咀嚼音への不快感」は、
音響演出における「質感の不一致」の極致として提示される。
通常のアニメや映画であればBGMや環境音に埋もれるはずの微細な生体音を、
あえて「異様なリアリティ(高解像度)」で強調することは、
ハサウェイがケリアとの思想の溝、それに重畳される
他者の「生々しさ」に対して抱く生理的な拒絶反応を、
視聴者の鼓膜に直接「不快感」として共有させる。
これは、「抽象的な人類」と、目の前にいる「具体的な人間(の肉体)」との間に横たわる、
埋めがたい溝(認知の歪み)の隠喩となる。

また本作のMS戦は「華麗さやマチズモ(万能感)」を排除し、3DCG特有の「異物感」を強調する。
本作の「俯瞰図から描写される異物のようなMS」は、
ハサウェイの情動とは無関係に、
物理法則と軍事論理で動く冷徹な「システム(破壊装置)」として描かれる。
3DCGによる硬質で無機質なテクスチャは、ハサウェイ(作画/人間)が、
MS(CG/異物)と一体化できていないことの視覚的証明でもある。
彼は英雄的なパイロットではなく、
巨大な破壊システムの中に組み込まれた「部品」に過ぎないという無力感が、
あの「よそよそしい俯瞰の画角」と「馴染まないCG」によって演出される。

これらは、ハサウェイの心理において「アブジェクション(異化・排除したいもの)」として統合される
ハサウェイは、美しい作画世界(理想)」の中に留まりたいにもかかわらず、
高解像度の音響(咀嚼音)や高精細な3DCG(MS)といった
「解像度が高すぎる(=生々しすぎる)現実のテクスチャ」が、
常にノイズとして彼の世界に侵入する。

本作における「質感の不一致」とは、単なる映像技法ではなく、
「世界を生々しく感じすぎてしまうハサウェイの神経症的な知覚」を、
視聴者に生理レベルで体験させる(感染させる)ためのサイコ・シミュレーション装置となりえる。
視聴者が「咀嚼音が不快だ」「CGのMSが怖い(異質だ)」と感じた瞬間、
我々はハサウェイの思想を理解する以上に深く、彼の「世界に対する居心地の悪さ(身体的苦痛)」を共有しているだろう。


・総評

・演出

作品全体の中盤であり虚構と現実、理想と撤退、宇宙と地球、成熟と未熟の対比が最も鮮烈でありながらアニメーション的意匠の緩急が最も求められる「難所」と言うべきシリーズ作品のヤマ場の次回作。脚本、絵コンテ、キャラデザ、美術、CG,音響がほぼ完璧に調和し、尚且つアニメーションならではの「虚構と現実」の技法を遺憾なく発揮された傑作として後世に語り継がれる出来栄えだろう。

さらに公開初日に総興行収入3億円突破という、2021年の当初放映から5年という期間を経てなお動員力を持ち得る「待てる文化」の定着が観られたものとしても、記憶されるべきだろう。

・脚本

明確なハサウェイ=理想の貫徹とケリアとの別離を経た中盤、贖罪意識が過去の幻影と交錯する様相を、コクピット=モニター越しの虚構とギギという現実=情動が揺さぶる終盤、 周到な作戦の仕上げに情動/運という非論理に勝機を見出すケネスが巧い。

猫とギギが運の交換要素に見える

・絵コンテ

様々な水/海と極彩色的渦巻きが隠喩する性的意匠の洗練表現がOPからナイトプールの終盤まで完遂される。艦長へのクレームとしてのノースリーブの女性メカニックのジュリア・スガ、ギギの恋敵へのセクハラ抑制攻撃の絶妙さ、必要充分な隠喩的性描写(シンボリズムや着衣水泳等)、肉欲に抗い葛藤し妄想に苛まれるハサウェイの青臭さの全てが巧い

・キャラデザ

ケリアへの残滓を叫ぶハサウェイの驟雨、生存手段として男性を冷徹に眼差しつつ悪戯さも魅せるギギ、軍規とギギとの折り合いの悪さを乗りこなすケネス、テロリスト化した息子の消息を微塵も負えないブライトとミライ、全てが愛しく哀しいのは、積年の臍を嚙む視聴者を照らし返す構図でもある

・美術

ENGIを始め随所で設る3DCGの異様なリアリティはアニメ調の美樹本晴彦デザイン、つまり虚構と現実の明確な対比。 それ以上に現実と虚構の融解に苦しむハサウェイの内面描写の強調でもあり、過剰な情報構成を抑制的に提示する監督の村瀬修功の無言の独白にも見える。モビルスーツ戦闘の華麗さの排除と全体感の描写は、情動描写の緻密さとともに「論理より情動」の世界観を強調する世界観の提示に読める。ハサウェイとレーン・エイムとの戦闘における刺殺寸止めが象徴的であり、何度も噛み締めたくなる美術と絵コンテの融合がある

・音響

劇場版初代以上に抑揚を考え抜いた音響が素晴らしい。。弾丸音に重畳する序盤中盤の臨場音響、老父の悲哀に虚無の浪費で応えるギギの部屋作りの協奏曲。

GUNZ  N ROSESで締める終局も良いw





参考文献
機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ 劇場版
・『ガールズバンドクライ
・『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!
『BanG-Dream-Its-MyGO』の達成-アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ|徳田四
・批評座談会 機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ PLANETS ニコニコ動画






















































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