果てしなきスカーレット

アニメ

新しい童話と圧倒的美術意匠の衝突

◆所見
◆ハムレットとは
◆新しい童話と圧倒的美術意匠の衝突
◆総評


※以下ネタバレ含む
◆所見 
細田守が創りたかった現代の新童話にして、
現時点でのイラストルック3DCGアニメーションの最高峰。
※イラストルックCGについて ガールズバンドクライ 1, 参照

シェイクスピアのハムレット復讐劇と、ダンテ「神曲」を下敷きに、
男女逆転構造で現代社会への生と死、愛と復讐を問いかける。
冥府世界で過去欧州/女性/王女と、近現代/男性/看護師を対置して、復讐を恋愛で昇華する構図。

カタストロフ後の世界における人間の在り方を模索する方向性は明確。
ただ脚本は細田守でなく、虚淵玄や花田十輝など、
二項対立構造が得意な脚本家などへ分担すべきかもしれないが、、、

◆ハムレットとは
シェイクスピアの『ハムレット』は、
父王の死と母の再婚をきっかけに心の葛藤に翻弄されるデンマーク王子ハムレットが、
真実と復讐、自己の存在に苦悩する過程を描いた悲劇であり、
シェイクスピアのリア王、マクベス、などと並ぶ4大悲劇。

『ハムレット』では父である前王が毒殺され、
母親が急速に叔父クローディアスと再婚するという混乱の中、
王子ハムレットが父の亡霊から「復讐せよ」と命じられることで物語が始まる。
ハムレットは復讐の使命と人間的良心の間で迷い、行動の遅延、
自問自答(「生きるべきか、死ぬべきか」)を繰り返す。

人間の精神の分裂、理性と情熱の葛藤、行動の困難、倫理や真理の追求を中心に据え、
その迷いと苦悩は、近代的な自己意識の文学的原型と評価され、
“人はいかにして生きるべきか”という普遍的問いを突きつける。

中世ヨーロッパでは『ハムレット』は主に王権・正義・復讐といった主題の象徴、寓話だった。
封建社会では、王家の継承の正当性、公的義務としての復讐が強調され、
ハムレットの苦悩よりも正義の遂行や権力争いの物語として受容された。
シェイクスピアは従来の復讐悲劇の伝統を引き継ぎつつ、
個人の内面、精神の葛藤に重点を置いた点に特徴がある。
中世の読者や観客にとっては、秩序回復や因果応報といった宗教的・
道徳的価値が重要視された。

一方で2020年代における文藝的意義を敷衍すると、
社会や個人の不確実性、精神的アイデンティティの揺らぎへの共鳴がありえよう。
AIやSNS普及により、“自己とは誰か”“どこまでが本当の自分か”が問われる時代に、
ハムレットの自己探求が共感を呼ぶかもしれない。
また、多様な価値観、多文化化が進む現代社会では、
人間の内面、選択の自由、倫理的ジレンマが強調され、
ジェンダー論やメンタルヘルス、個人の社会的立場再考の素材として『ハムレット』が用いられよう。
批評や舞台も、コミュニケーション不全、孤独、アイデンティティ危機など
現代的課題と絡めて再解釈される傾向が見られる。

◆新しい童話と圧倒的美術意匠の衝突


本作「果てしなきスカーレット」においては、
ハムレットを女性主人公スカーレットに読み替えつつ、
復讐から赦しへと、対立から対話へと、その契機として、
現代社会日本男性看護師を死後世界へ転生させることで価値転倒を図る構造がある。

元々「おジャ魔女どれみ」「明日のナージャ」「ひみつのアッコちゃん」「デジモンアドベンチャー」
「ワンピース」など、所謂「ジャリバン」(児童向けアニメーション)を
得意としてきた細田守監督が、「時をかける少女」(リメイク)、「サマーウォーズ」
「おおかみこどもの雨と雪」などを経てメジャーアニメーション作家化した現状において、
それら欧州文芸作品の再解釈を試みるなら、
そのターゲットがどのような大衆であるかも判断基準のひとつとなろう。

出自の背景を考えるときに、「低俗」とされたり、限られた視聴者向けとされがちな
「深夜アニメ」やキッズアニメとは切り離された文脈=一般消費者向け
(ジブリ作品、2020年前後の新海誠作品、名探偵コナン劇場版シリーズなど)を考えると、
細田守はときに過剰に「作家」として振舞うことを求められてきた、
或る意味不遇な作家といえよう。
しかし同時に定期的に劇場大作をリリースできる貴重な作家ポジションとしても
細田守を起点に考えることは意義深い。

この文脈において本作は「新しい童話」であり、圧倒的美術意匠を武器に、
視聴者に迫ってくる構造となっており、
また代表的古典作品を引用元とする段階において、ある程度の玄人視聴者を想定しているだろう。

内容に踏み込むと、
カタストロフ後の世界における人間の在り方を模索する方向性は明確なのだが、
肝心の描かれる人物造詣が浅く淡白で機械的なために物語展開の説得性が薄く只管疑問符が湧いてしまう。
何より、復讐より赦しを、の分かりきった構図を、
淡白な人間が饒舌に捲し立てる様相は非常に視聴者に困難を強いるだろう。

あまりの葛藤の薄さに、原作者は本当に人間に興味があるのか、疑ってしまったことを告白したい。

復讐より赦しに至る契機が、スカーレットから聖への想いという構図も、
前後の説得性の薄さは基より、
ロマンスの妥当性を未だに見出すセンスの射程距離を感じてしまう。

もう少し主題について考えると、なぜ本作の主人公は、ハムレット=男性ではなく、
スカーレット=女性だったのか。
少なくとも監督は、現代における息子の親類殺しのリアリティではなく、
娘の親類殺しにこそリアリティを置いたからではないか。

であるなら、娘が立ち向かうべきは、現代において伯父=父=封建主義の残渣で良かったのか。
むしろ、最期に自ら物分かりよく発狂気味に対立した、諸悪の根源の片割れである、母にではないか。
母がその止まない愛情を求めて、夫=娘の父殺しに加担し、その欲望を達成した役割であることは明白だ。
作中、娘から母へのアプローチは皆無といってよく、
そのために娘=スカーレットは、伯父=クローディアを、復讐ではなく、
愛情(母が求めたものと同じ!)の援用による「赦し」として提示したのだった
(そして失敗したのだが)。



旧社会=封建主義の残渣である伯父と、その取り巻き(四天王のような様相)
を追撃するのに長尺を要するのであれば、
寧ろその母との対峙、母への赦しに検討を注いでこそ、
近現代社会の女性におけるある種の本質的問題に迫れるのではないか。

そしてそれは例えば、聖の看護的技術による、母の窮地を救うなり、
何かしら母的なもの=愛情に起因する復讐の連鎖を断ち切るような、
第三の道(趣味、実技など)であるだろう。

総じて、筆者の所感として、新しい童話と圧倒的美術意匠の衝突という要約が提示されることは、
ともに鑑賞していた妻子の不満爆発の状況と併せて記載しておきたい。

◆総評:72.8点 
STAFF
監督、脚本、原作 細田守
制作 スタジオ地図
作画監督 山下高明
キャラクターデザイン Jin Kim、上杉忠弘
CGディレクター 堀部亮、下澤洋平、川村泰
美術監督 池信孝、大久保錦一、瀧野薫
色彩設計 三笠修
撮影監督 斉藤亜規子
音楽 岩崎太整

演出: 9/10

絵コンテと音楽と作画が凄まじいのを説明的長台詞が全て推し殺す。
芦田愛菜推し構造。
岡田将生の演技は朴訥で判断に迷うレベル。
他にも多数の実写俳優を声優に起用する一方で、
宮野真守や津田健二郎をちょい役の墓守にあてがうのはどうか。

黄泉の世界の殺陣や、無数の腕に取り込まれるスカーレット、
押し寄せる溶岩流と形成物としての変遷地形の地上の地獄の表象、
天国/果てしなき世界へ立ち上る透明な階段など、物理法則とアニメ的快楽の意匠の追求は凄まじい

脚本: 5/10

分かりやすい二律背反構造の繰り返しで、
死生観、愛憎、復讐と恩赦、過去と未来、男女を配置する。
ハムレット復讐劇の俎上に載せる効果は今一つ出てこず、
寧ろ時代考証や美術探求の為に脚本を犠牲にしたかとすら思わせるほど、
場面毎の人間同士のやり取りや前後のシーンとの接続性やリアリティが支離滅裂。

細田守自身が言及するように、カタストロフ後世界の復讐劇であれば、
中世欧州ではなく中東やアフリカなども視野に入れるのが良かったのではないか。

「死語世界」「虚構だから」こそしっかり作り込んで欲しいのは我儘か。
最期にスカーレットが説得する民衆向け演説でダンスで纏めると満点だったかもしれない。
聖を中途半端に現代日本転生とさせず、クローディアの息子など設定変更すると面白みが増えそうである

絵コンテ: 10/10

冒頭の黄泉の透明な地平線におけるスカーレットと未知の男、
水面のスカーレットと直後の死者の群れに溺れるスカーレット、
ハムレット王を喜び迎え入れるスカーレットと、
直後の惨殺されるハムレット王に泣き叫ぶスカーレットなど、
分かりやすい対置構造の連続による主題の明確化がある。

具体と抽象の往復が多く寓話的だが児童向けとしては分かりにくいも、
聖への愛の表象である都会妄想のダンスシーンは笑ってしまうほど露骨に性的意匠の隠喩

キャラデザ: 5/10
現実世界のセル画、黄泉世界の3DCGが、視聴者に現実と虚構の融解感覚を迫る。
特に圧倒的な背景美術と溶け合うような3DCG造詣の黄泉の住人の仕上がりは
今世紀の白眉といえるのではないか。

一方でスカーレットの復讐以外への断念さ、聖の無根拠な優しさ、
敵役幹部コーネリアスやヴォルティマンドのチョロい説得への柔和、
山頂での剣戟に至る援護、スカーレットの聖への想いの芽生え、
スカーレットの演説に歓喜する民衆のチョロさと、全てが安易な人物造詣で笑ってしまう。

特にスカーレットが死とは、生とは、愛とは、と繰り返し問いかける傍らで、
インド風婆が同じ内容を繰り返す構図は見苦しいのみならず脚本の自信の無さすら感じさせる。

喋りすぎて人物造詣壊れる

美術: 10/10
イラストルック3DCGの黄泉の住人、現世の2D人物、雷鳴轟く海原のような空雲、
雷鳴の傷だらけの龍、砂漠の寂寞と緻密さ、砂漠の岩の瓦礫の山、
水中世界のスカーレット、山頂の造詣の細かさ、デンマーク王城の壁画の描き込み、
食堂の内装と食事のきめ細かさ、暖炉と燭台の暗さへの徹底、廃墟の教会のタイルの床絵、
その何もかもがハイクオリティで息を飲む。

現実世界のセル画、黄泉世界の3DCGが、視聴者に現実と虚構の融解感覚を迫る。
特に圧倒的な背景美術と溶け合うような3DCG造詣の黄泉の住人の仕上がりは今世紀の白眉といえるのではないか。

それらの要素により人物造詣の浅さは全てクリアにされる

音楽: 7/10

渋谷世界との連動で聖の口ずさむ祝祭のうた、
芦田愛菜の歌いは上手く表現されるが唐突感が否めないとともに、
無理矢理に死者と生者の世界接続を試みる断絶性があるのは新しいかもしれない

文藝: 5/10
カタストロフ後の世界における人間の在り方を模索する方向性は明確なのだが、
肝心の描かれる人物造詣が浅く淡白で機械的なために物語展開の説得性が薄く只管疑問符が湧く。

何より、復讐より赦しを、の分かりきった構図を、淡白な人間が饒舌に捲し立てる様相は非常に視聴者に困難を強いる。

復讐より赦しに至る契機が、スカーレットから聖への想いという構図も、
前後の説得性の薄さは基より、ロマンスの妥当性を未だに見出すセンスの射程距離を感じてしまう。

叔父クローディアスや母ガートルードも単なる嫌な奴で奥行きが無く、
復讐に駆動されるだけのスカーレットも稚拙で発展性が見えない。

生きるべきか死ぬべきかを繰り返し問いかけるが、
台詞よりアニメーションならではの構造的絵画的な価値転換で
無言で語りかけるのが良いように思われる。

生きたい、に結実するのもスイッチのオンオフのような展開の蓄積により、
説得性が低く脚本に従うピュグマリオンに矮小化されている印象。

スカーレットが男勝りでフェミニズム的に重要な造詣であるも、
聖のリードに「安心」するなど、結局ミソジニー温存に終止してしまう構造も勿体無い。

さらに天海から神罰の如く現れる傷だらけの龍のメタファーがご都合的に敵役を排除する構造は安易で稚拙。

もう少し主題について考えると、なぜ本作の主人公は、ハムレット=男性ではなく、
スカーレット=女性だったのか。
少なくとも監督は、現代における息子の親類殺しのリアリティではなく、
娘の親類殺しにこそリアリティを置いたからではないか。

であるなら、娘が立ち向かうべきは、現代において伯父=父=封建主義の残渣で良かったのか。
むしろ、最期に自ら物分かりよく発狂気味に対立した、諸悪の根源の片割れである、母にではないか。
母がその止まない愛情を求めて、夫=娘の父殺しに加担し、その欲望を達成した役割であることは明白だ。
作中、娘から母へのアプローチは皆無といってよく、
そのために娘=スカーレットは、伯父=クローディアを、復讐ではなく、
愛情(母が求めたものと同じ!)の援用による「赦し」として提示したのだった
(そして失敗したのだが)。

旧社会=封建主義の残渣である伯父と、その取り巻き(四天王のような様相)
を追撃するのに長尺を要するのであれば、
寧ろその母との対峙、母への赦しに検討を注いでこそ、
近現代社会の女性におけるある種の本質的問題に迫れるのではないか。

そしてそれは例えば、聖の看護的技術による、母の窮地を救うなり、
何かしら母的なもの=愛情に起因する復讐の連鎖を断ち切るような、
第三の道(趣味、実技など)であるだろう。

参考文献:
果てしなきスカーレット パンフレット(東宝)
「現代アニメ「超」講義」 石岡良治、PLANETS
「娘が母を殺すには?」三宅香帆、PLANETS

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