劇場版ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス

~推し合いの結節点~

Contents
・にわかにゾンビブームの兆し
・ゾンビランドサガとは
・結論
・ゾンビとは何か
 A.予め未来を奪われた人間の動物化した存在 
 B.過去の幻影の反復
 C.非人間的秩序の存在として時代性を超越したもの
・アイドルとは何か
 A.時代とともに欲望の幻想を映すもの
 B.フェミニズムの表象として
 C.擦り切れる偶像として
中結論:アイドルとはゾンビでありカオスである
・地方自治とアイドル(あるいは偶像
 A.地域おこしと、地方アイドル、地域アニメ
 B.佐賀県という地方
・地方自治と自意識 
 A.自治とアイデンティティ
 B.自我の起源
C.おたえ、という自意識の抑圧装置
・おたえ とは
 A.唯一の原理的なゾンビ
 B.アイドルの現代的表象
 C.自意識の現在地
・おたえが示したもの
 A.超越的なものへの憧憬
 B.価値の転換点
 C. 推し合う人の結節点
・結論
・見解 推しと制作
・総評
 

・にわかにゾンビブームの兆し

突然理不尽に襲ってくる対話不能のゾンビの群れは、しばしば疫病や災害、戦争、異なる宗教や民族との衝突といった惨禍や社会不安の象徴としてとらえられる。
ゾンビは人の形をしているが、以前とは違う存在だ。
人間や社会のメタファーとして、現実と地続き感があり、大きな魅力となる(岡本健教授)。
また、ゾンビの背後には、私たちの根深い死への恐れがある。
ゾンビ作品は、制御不能な死の現実や他者への恐れをフィクションの中で物語化し、それらを受け入れる装置として機能しているだろう(堀江宗正教授)。
さらにゾンビには現代人の状況が反映されているともいう。
それは「自分が死んでも悲しまれないという諦め」
「いっそゾンビになれば無敵という逃避的願望」
「この世には死んでもいい人間がいるという排他主義・暴力性」。
社会に漂う雰囲気と共振しているといえるかもしれない。

大阪のテーマパーク、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンでは、9〜11月のハロウィーン・ホラー・ナイトの期間中、夜になるとパーク内のあちこちから数百体のゾンビが出現し、彷徨い歩く。
観客は銘々の遣り方で楽しむ。イタリアから来た若い女性に尋ねると、
「クレイジー! 素晴らしい。ゾンビは人を襲ったり嚙んだり、とっても自由だから好きよ」。
あるいは、9月の初め、広島市西区の横川。
広島の風物詩、「横川ゾンビナイト」は毎年10月に開かれ、今年で11回目。
多くの人が駅前に設けられる「ゾンビ製作所」でメークを受けて生まれ?変わり、ゾンビとして商店街一帯をそぞろ歩く。
「いつもと違う自分になれる。非日常体験が大きな魅力」と分析。「ゾンビは横川にふさわしい。なぜなら一度衰退して、蘇ったから」
(横川商店街連合会会長の星野哲郎氏)

ゾンビは美少女やアイドルとの融合という独自進化を遂げてもいる。
代表格が本作、アニメの「ゾンビランドサガ」。
ゾンビの少女7人が「存在自体が風前のともしび」という佐賀県を救うため、ご当地アイドルとして奮闘する物語である。
2018年に放送され、東京アニメアワードフェスティバルのアニメオブザイヤー・テレビ部門でグランプリを受賞した。21年に続編も放送、25年に映画化された(本作)。
全国から聖地巡礼で佐賀を訪れるファンはいまも絶えない。ゾンビアイドルは県のPR大使に就任、彼女らを描いた原付きバイクのご当地ナンバープレートも作られた。
「最初は驚いたが、制作陣の佐賀に対するリスペクトや熱意を感じた。ゾンビもコンテンツとして強く、いい作品になると思っていました
(佐賀はゾンビアイドルで救われましたか?という質問に対して)
はい、救われている途中です」
(佐賀県のフィルムコミッションや広報広聴課に在籍する近野顕次氏)

ゾンビの「日本化」の文脈において、彼らは、
力を持つ異形の者として、魅力ある存在になりうる。
日本の怪談・民俗信仰では祟(たた)る死者と対話・和解・供養を通して共存してきた歴史があり、ゾンビが悪しき者ではなく、関係性の中で変容する存在として再解釈されているだろう(堀江宗正教授)。
(あなたの隣で彷徨うゾンビ 増殖する「生きる屍」が映し出すもの NIKKEI The STYLEより)

あるいは、人間の自意識のキャンセルと動物化/機械化欲望という構造があるかもしれない。
人間の人工物化の願望の表出として、例えば2025秋アニメの「機械じかけのマリー」
(制作Zero-G 、原作あきもと明希)が挙げられるだろう。

・劇場版ゾンビランドサガ

あらすじを紹介しよう。
アイドルを夢見ていた高校生・源さくら、伝説の特攻隊長・二階堂サキ、伝説の平成アイドル・水野愛、伝説の昭和アイドル・紺野純子、伝説の幕末の花魁・ゆうぎり、伝説の天才子役・星野リリィ、そして伝説の山田たえの7人のゾンビで構成された、佐賀のご当地アイドル「フランシュシュ」。
2025年、佐賀万博のアンバサダーに起用された彼女たちは、プロデューサーの巽幸太郎のもと、メインイベントであるSAGAアリーナライブへ向けて準備を進めていた。
そんな中、突如として巨大な宇宙船が佐賀上空に飛来し、県全土を攻撃しはじめる。
フランシュシュのメンバーたちが動揺するなか、これまで唯一自我に目覚めていなかった伝説の山田たえがついに覚醒。
フランシュシュ脱退を宣言し、侵略を止めるべく単身で敵地へと乗り込んでしまう。。。

ゾンビとアイドルという、一見無関係に思える要素を混合することで独自進化を遂げる状況は、ある意味でジャンルの飽和期におけるマニエリスムの進展といえる。
また、アイドルものという観点では、
アイドルものとガールズバンドアニメの近接性の研究の観点において、
ガールズバンドアニメとアイドルアニメにおける、
近年の「日常の切断と構造的達成」の観点でBanGDream!! It’s MyGO
BanGDream!! AveMujica の文脈からも興味深い近接性を見出せるかもしれない。
特にBanGDream!! It’s MyGO、 においては、冒頭から差し込まれるの日常性の切断が、
ゾンビランドサガ1話の冒頭における日常性の切断の切断との構造的相似形を持つだろう。

・結論

筆者の結論を先に述べる。
本作の主眼は「アイドルに一体何ができるっていうの?」(山田たえ=おたえ)だ。
筆者の結論は、
「アイドルは誰をも(観客も関係者も)推しに する」である。

以下ではゾンビとアイドルの定義を踏まえつつ、両者の結節点を探る。
それが地方活性化と自意識と結びつくことで、山田たえ(以下、おたえ)と結実し、
結論へ導かれることを観ていく。

・ゾンビとは何か。 

それは人間や時間の枠組を超越した何か=偶像=アイドルである。

A.ゾンビとは、予め未来を奪われた人間の動物化した存在である。
例えば先行研究において、ジョージ・A・ロメロ「ゾンビ」やトーマス・マン「魔の山」を手掛かりに、予め未来を奪われた人間の動物化を指摘していく状況がある。
これれは、未来と楽園をテーゼとし、ジョージ・オーウェルの小説「1984」を参照しつつ、TVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」における魔法少女システムと全体主義との接続を考えるものだ。
魔法少女は希望を抱けば「希望と絶望の相転移」による さやかの魔女化、
希望を捨てればゾンビ/「1984」で描かれる『プロール』(愚衆)化する杏子となる。
(「成熟という檻」山川賢一) 
このゾンビに関する考証をアイドルに当て嵌めると、
それは永遠の若さないし現在性の保持という
「刹那の永遠」が要求される存在であり、
ある意味で予め未来を奪われた人間の動物化した存在でもある。
未来の簒奪と楽園の創出は全体主義との親和性が高く、その意味でもアイドルの旧態依然とした運営管理システムにおける実力主義的社会を彷彿とさせるだろう。

 B.ゾンビとは、過去の幻影の反復である。
反復と非人間的秩序のモチーフの関連性は強い。それは過去の幻影の反復である。
ホラー映画のリング、リング2、
死者の反復の物語としては、レモン・ルーセル「ロクス・ソルス」における死者の生前時行為反復装置、山岸涼子の「ネジの叫び」における死す婚約者による定時の時計ねじ巻きなどがあるだろう。
サイコサスペンスとしては、
ヒッチコック「サイコ」における主人公人格の母による乗っ取り=死や、
ジャック・リヴェット「セリーヌとジュリーは舟でゆく」における男女の入れ替えによる反復行為、
ホルへ・ルイス・ボルヘスの「円環の廃墟」における夢の実体化の自覚=死、
夢野久作「ドグラ・マグラ」における主人公の複数人格による反復行為などもあろう。(「成熟という檻」山川賢一)
このゾンビに関する考証をアイドルに当て嵌めると、
アイドルにおける活動の反復と更新は、過去の幻影の反復でありある種のホラーであるともいえるだろう。

 C.ゾンビとは、非人間的秩序の存在として時代性を超越したもの、
崇高なものである。
非人間的な秩序のイメージは、
ギリシャ悲劇の宿命論的世界観に由来する部分が強いが、
ジョージ・スタイナーはヒーローの原型についてこう述べる。
「人間の苦しみが度外れのものであるという、まさにそのことに、人間が尊厳を獲得できる根拠がある。
うちひしがれて力無く追い出された盲目の乞食となって、
人は新しい偉大さを獲得する。
神々の敵意や不正によって人間は崇高になる」(「悲劇の死」)。
先述したTVアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」において、魔法少女たちの孤独と、対照的に情緒的な側面の曝露は、魔法少女たちの生存条件と、死の予兆に呼応するものだと指摘されよう。
これを踏まえると、「魔法少女まどか☆マギカ」は、悲劇から進化した二つの系譜、
非人間的な秩序ホラーと、ヒーローものを、逆転した、英雄であり続けなければ死ぬ物語に変形させたと言える。
(「成熟という檻」山川賢一)
本作、ゾンビランドサガにおいても、アイドルであり続けること=ヒーローたりえることは、非人間的な秩序=ゾンビであり、時代性を超越した要素を兼ね備える。
だからこそ各時代におけるゾンビ(フランシュシュ)がアイドルとして共演するだろう。
 

・アイドルとは何か。

それは時代と空間の欲望の結実点におけるカオスといえる。

 A.アイドルとは、時代とともに欲望の幻想を映すものといえる。
アイドルに関する受容の知見を実証的に再検討するにあたって、「明星」をはじめとするアイドル誌を軸に、メディア空間とその記事言説を手掛かりにして「アイドル/ファン」の姿を照射する研究を参照してみよう。
1970年代のアイドル草創期においては、ファンにおける親近感の対象であり、親世代にとっては理想的な子供であるというナラティブが見られた。
1980年代は男女それぞれに需要の分岐が明確化される。
女性向けではジャニーズアイドル文化の確立により「現実世界の異性」より「メディア世界の異性」へと変遷が見られていく。
「男子向け」は異なり、端的にいえば、「性欲の喚起は男性に、恋愛を紡ぐのは女性にという、性をめぐる構図」が全面化していく。
2000年代を境に、「女子向け」での「異性」が、「ジャニーズ」に移ろっていくにしたがって、そのフレームはより顕著になり、「ジャニーズ」のファンである女性が恋愛をシミュレーションするための空間という色合いを強めていくことになる。他方、ファンと「ジャニーズ」との関係性だけでなく、「ジャニーズ」同士の関係性にも光が当たり、ホモセクシュアリティとホモソーシソーシャリティを結び付けて「ジャニーズ」を受容することを促すような言説も見られるようになるだろう。
2010年代前後では、異性向けというジャンルにとどまることなく、「同性」が「憧れ」を抱き、同性の消費を喚起するアイコンとして、例えば女性が女性アイドルをまなざすことを促すようなメディア空間が形作られていっている。

そもそも恋愛対象化のフレーム自体が「ゆらぎ」ゆく現代は、ジェンダー/セクシュアリティだけからは規定できない様々なコードから「アイドル」を自由に解釈している人々を可視化したり、表象したりする転換期に至ったことを物語っているのかもしれない。
 (「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」第7章 メディア空間・言説からみる「アイドル/ファン」の姿 田島悠来)

 B.アイドルとは、フェミニズムの表象である。
「フェミニズム」とは、現在の男性優位的な社会構造のなかで、女性が女性であることによって差別・抑圧されている状況を変えるために、性別に起因する格差や、性別によって社会から規範的に割り当てられる役割の違いに基づく生きづらさの是正を求める運動や思想のことである。
フェミニズムの蓄積と、アイドルという文化実践としての結実とは、例えば女性アイドルにおける、女性が主体的に自己表現をおこなっているものの一つとみなすことが出来る。
一方でエイジズム、ルッキズム、異性愛主義に基づく恋愛禁止規則の問題もあるだろう。
このように、フェミニズムの考え方は、ときに「女らしさ」を利用したり提示したりしながら自己表現をおこなっている、そしていまだ男性中心主義的な慣習のなかに置かれているアイドルたちにとってこそ、そのなかでの生きづらさや困難を解決するための一助となりうるものであり、アイドルの表象の一つと見なせよう。
(「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」序章 きっかけとしてのフェミニズム、中村香住)

 C.アイドルとは擦り切れる偶像である。
現在のアイドルは、その所属するアイドル社会の過酷さや競争的な価値観の強調よりも、アイドル相互の愛着や紐帯を感じさせるコンテンツが前景化しているようでもある(AKB48卒業生コミュニティ事例など)。
一方でSNSなどを通じた絶え間ない演者的行為は公私の区別を曖昧にし、私生活までも糧にする、擦り切れる偶像様相が見えてくるだろう。
  (「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」
第一章 絶えざるまなざしのなかで、香月高史)
あるいは徳田要太氏による、映画「トラペジウム」論考も参考されるだろう。

SNSにおける問題の本質にはアイドルという文脈を超え、現代の人々のコミュニケーションのあり方や、それを媒介する情報インフラのあり方という、より一般的な問題があるだろう。
この論点は情報倫理の分野で論じられている監視社会の問題につながってくる。
情報システムを介して様々な主体が(ソーシャルメディアを見る個人も含めて)相互の監視に参加する現在の環境は〝参加型監視環境〟として特徴づけられ、参加型監視環境であるソーシャルメディアを通した他者との過度のコミュニケーションが、結果的に青年期の自己同一性の形成に対する負の影響へとつながる可能性についても論じられている。
  (「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」第二章 「推す」ことの倫理を考えるために)p115
見取り図
※ <アイドルの自意識と推し文化におけるコミュニケーションを考える>の参照図より

この見取り図における非人間的性愛との関係、
及び本作における、キャラクター=声優=生ける偶像という非人間とゾンビの関係性も参照点となるだろう。

中結論:アイドルとはゾンビでありカオスである
ここまでの議論をまとめよう。
ゾンビとは人間や時間の枠組を超越した何かであり、それは偶像でもありえ、敷衍すればアイドルでもある。
アイドルとは時代と空間の欲望の結実点におけるカオスといえる。
紐付けると、アイドルとはゾンビでありカオスであるといえるだろう。

次に本作の主題の片割れである地方、そして自我についてみていこう。

・地方自治とアイドル(あるいは偶像)について

地方自治とは生存競争でありアイデンティティの確立運動である。

A, 地域おこしと、地方アイドル、地域アニメ
日本では地方創生が言われて久しいが、
逆説的にはその実現の困難さを示しているともいえる。
日本ご当地アイドル活性協会では、イベント集客に欠かせない要素の4つのうち、
「地方アイドル」も示されている。
2000年代後半以降、地名を冠したアイドルの乱立や、ドラマ「あまちゃん」に端を発する地方アイドルの全国化、さらには2010年代後半以降の乃木坂46などの「坂」シリーズと地域名アイドルなど、幾つかの盛衰はあるものの、そのイメージは一般に定着しているといえる。
地域経済学者の田中秀臣は地方アイドルの特徴について、首都圏から地方に資本やファンが移動する、いわゆる「逆ストロー効果」を上げている一方で、日本全体で考えた場合にはゼロサムの雇用効果に留まるとも指摘される。
(『ご当地アイドルの経済学』など)
方やポピュラーカルチャーの観点ではマイナー方向への加速として、
中央の人々が地方に目を向ける機会となり、中央から地方を目指す人も増えているようだ(社会学者:仲川秀樹)。

地域おこしの文脈では、地域をテーマとしたいわゆる「聖地巡礼」もの効果を(無意識、意識的にかかわらず)上げているアニメーション作品も考えられよう。
学術的には京都アニメーション制作の「らき☆すた」(埼玉県久喜市)、
P.A.WORKS制作「True tears」(富山県南砺市、高岡市、氷見市)が端緒とされるが、
後続作品として同様にP.A.WORKS制作「花咲くいろは」(石川県金沢市)、
A1pictures制作「あの花」(埼玉県秩父市、あの日見た花の名を僕たちはまだ知らない)、近作ではサンライズ制作「前橋ウィッチーズ」(群馬県前橋市)など、枚挙に暇がない。
本作「ゾンビランドサガ」も、佐賀県を中心に描かれる作品だ。
これらの作品群は草創期こそ地域との摩擦が大きな問題となった(聖地巡礼による交通増加問題やマナー問題など)が、その地域に根差した文化を、製作者と地域、ファンが相互に理解しあうことで、移住者が増えるなど、ある意味で生存競争としての「町おこし」に一役買っている状況でもある。

B,佐賀県という地方 
佐賀県の歴史は、実は分離独立との戦いの歴史でもある。
特に近現代においては、唐津地域を中心として治世をしながらも、1870年代の廃藩置県の流れの中で、諫早・神代・伊古・西郷・深堀の各地方の長崎県への編入や、佐賀郡・小城郡・神埼郡・基肄郡・養父郡・三根郡の長崎県への合併などを経て、1883年にようやく現在の長崎県が象られることとなる。
ちなみに前年の1882年は「ゾンビランドサガ」の「ゆうぎり」が、長崎有志の蜂起への関係で不当捕獲、処刑された年号である。
本作「ゾンビランドサガ」のTV版では度々「佐賀の復活」に関連した思想や用語がみられるが、佐賀県という揺らぎのある地域アイデンティティを仮構しているようでもある。

規模は大きく異なるが、併合と独立の絶えない運動としては、ウクライナなどとの相関状況もあるだろう(E・H・カー「歴史とは何か」前記事 劇場版GQuuuuuuXを参照)

地方の独立に関連してアイデンティティ(自意識、自我)にも検討範囲を伸ばしたい。

・地方自治と自意識 

アイデンティティ=自意識とは敗北を宿命付けられた性=生命=サガ=SAGAである。

A,自治とアイデンティティ
自治とアイデンティティ(あるいは共同体と自意識)とは、近代国家の幻想による読み替えが可能であり、2度の大戦と戦後日本、戦後民主主義のアイデンティティとその敗北の歴史である。
近代的自我の成立は、近代国家の成立とその様態を相似形にしている。
封建社会の相克と近代的政治体制の確立、中産階級の台頭と個人主義の勃興は、感覚的に認識可能な範囲の共同体を大きく超えた「国家」
という幻想装置の成立を可能にした。
国家は共同体に代わり、独立した個人を支えるアイデンティティとなった。
しかし根本的に国家は自意識を持たない。
自意識化、物語化した国家が失敗に終わるのは、歴史において枚挙に暇がないし、例えばヒトラー政権におけるナチスドイツであり、戦前の大日本帝国であり、戦後の日本における父性と母性を巡る物語化でもある
(例えば宇野常寛「母性のディストピア」)。
国家の、共同体の、自治におけるアイデンティティは基本的に失敗するのだ。

 B.自我の起源
本作において興味深いのは、侵略者である宇宙船が群体生物(菌、海月等の)の造詣を備える点にある。
群体生物とは、生物界の自我の発生における分水嶺と看做せるだからだ。
そもそも生物における自我、その起源たる性とは何か。
それは異なる遺伝子の交配による生命体の増殖である。
例えば単細胞生物は無限に自己増殖することで理論的には寿命を持たない。
一方で多細胞生物、具体的には海月などの群体生物の段階を経た高等生物は、環境に適応すべく様々な性的発展性を獲得する。
代表的なものは男女の性差だが、これは生物全体の1/5に過ぎない。
そして性=種の発展=自我の萌芽として、多様性の獲得とともに、有限の寿命が対置される。
つまり性=自我の獲得とは、無限の消滅=有限性と相関関係にある。
我々は自我、自意識の獲得と引き換えに、寿命を縮めるのだ。
あるいは本作において、カタストロフ後の世界で自意識を喪失したゾンビの群れとは、偶像=アイドルそのものである=アイドルしか残らない、と言えるかもしれない。

C.おたえ、という自意識の抑圧装置
上記A.B.を踏まえ、おたえという存在を考えてみたい。
フランシュシュのメンバーで唯一自我を持たない、
ゾンビの原典らしい造詣のおたえ。
彼女の偏奇さ、愛嬌が寧ろメンバー、観客に愛される構図があったのがtv版だった。
他のメンバーが、ゾンビとしてのアイデンティティを半ば積極的に仮構する一方で、本物のゾンビらしいおたえは、寧ろ自我を主張しない存在として位置付けられよう。
自我をもたない故に、群体生物としての宇宙船にキャトルミューテーションされる彼女は、ある意味で自我の敗北を免れる存在としてもあるだろう。

次節でもう少しおたえを掘り下げてみよう。

・おたえ とは、1990年代自意識の現在地である。

 A.おたえとは、唯一の原理的なゾンビである。
ゾンビとは、ゾンビ映画の元祖とされる「ホワイト・ゾンビ」にあるとされる。
起源はカリブ海の島国・ハイチの民間伝承にある。ブードゥー教の呪術師によって蘇(よみがえ)り、農園などで働かされる「生きる屍(しかばね)」が原型だという。
あるいは、本文の、「ゾンビとは何か、A」で論じた、ジョージ・A・ロメロ「ゾンビ」などのように、それは予め未来を奪われた動物的存在として示されるだろう。

 B.おたえとは、アイドルの現代的表象である。
本文における、ゾンビの論考(前述A〜C)、アイドルの論考(前述A〜C)を参考に、特にA.唯一の原理的なゾンビを踏まえ、「アイドルとはゾンビでありカオスである」とするなら、おたえこそがアイドルであり、ゾンビの現代的表象といえるだろう。

 C.おたえとは、自意識の現在地である。
以上を踏まえ、本作におけるおたえとは何か。
それは自意識の前駆体たる群体生物/宇宙船により自意識を獲得し過去を喪失した存在として美学的特攻に回収されるように見せかける前半と、現代的アイドル=ゾンビによる自意識の喪失/包摂により自意識を還元する後半で対照化される。
おたえは、プロデューサー幸太郎の先輩であり、さくらの先輩であること、「29歳でアイドル、、」と、アイドルのエイジズムを躊躇無く表明していること、声優の三石琴乃の配役であることなどから、1990〜2000年代のいわば日本アイドル冬の時代の残滓の表象である、と言っても過言ではないと考えられる。

声優の三石琴乃について補足が必要かもしれない。
フランシュシュの他のメンバー(さくらなど)の声優の実年代が20〜30代であるのに対し、おたえの声優、三石琴乃は50代(当時)である。
また三石琴乃は1990年代のプロデビューであり、近年は「ドラえもん」ののび太母で知られるも、声優業界的には何と言っても美少女戦士セーラームーンの主人公、月野うさぎであり、新世紀エヴァンゲリオンの葛城ミサトである。
つまり彼女は、完全な1990年代の時代の寵児であるといえる。

1990年代とは何か。
それはベルリンの壁崩壊や湾岸戦争などを横目に、国家という大きな物語が完全に失墜し小さな覇者が争うヘゲモニーの時代であり、日本においてはバブル崩壊や50年体制崩壊、阪神淡路震災などにより経済的な自信を喪失しつつある日本が、いわば文化的な「自意識」に逃避し始める時期である。
自意識への逃避の問題は、
現実的にはオウム真理教による地下鉄サリン事件であり、
サブカルチャー的には新世紀エヴァンゲリオンであり、自意識をカルト的に取り込む事で現実に対応しようとした(そして失敗した)年代である。
その世代におけるおたえが、自意識を喪失したゾンビとなる造詣は非常に興味深く、
かつクレバーである。
自意識とは、かように敗北した文化だからだ。
だからこそ、おたえが本編において取り戻した自意識において何を感じ、どう活用して還元されるかが重要となる
※未見だが、漫画版の番外編ではおたえが主人公であり、この関係情報も補完されると思われる

では、劇場版ゾンビランドサガにおいて、おたえは何を示したのか。

・おたえが示したもの

 それは、「推し合う」結節点である。

 A.おたえが示したものとは、銀河の向こう、宇宙船がもたらすもの=自意識と、
超越的なものへの憧憬である。
序盤におけるプラネタリウムへのシーンにおいて、
おたえは無意識的に星空を指向し続ける。
2020年代の現在において、宇宙はもはや憧憬の対象ではなく、
宇宙旅行など現実的な移行対象化しつつある。
一方で資本の制約はあるために、一般的には、宇宙は未だに憧憬の対象であり、神や仏と同様に超越的なロマン的対象である。
例えばそれは、最近のtvドラマなどにも傾向が見出されよう。
(あの日観た星を僕達はまだ知らない、など)

 B.おたえは、価値の転換点である。
人間とゾンビという切断線、偶像化による、
存在の転換点の感動として見ることも出来るだろう。
ゾンビ化によるコミュニケーションの切断は「ゾンビの他者性」と規定されるが、
ゾンビランドサガではゾンビ化は「他者性」ではなく「偶像性」の獲得として示されているだろう。
すると、ラストライブにおける、おたえのゾンビ寧ろへの回帰は、他者化ではなく偶像化であり、人間からゾンビへの回帰が寧ろフランシュシュへの再会として描かれる。
おたえの自我獲得=人間化が疎外をもたらすなら、ゾンビ化が寧ろ共同体回帰の感動として、価値観を転換させるアクロバティックさがあろう。

 C.おたえとは推し合う人の結節点である。
上記A,B,とは異なる視点から考えてみよう。
おたえは、アイドルを応援することを通じて誰もがアイドルになれる可能性=誰もがゾンビを推す結節点とみなせるだろう。
本作において、宇宙船は光る石=自意識を取り戻すべく佐賀県を殲滅する。
自意識を宿したおたえは佐賀県を救うべく特攻的な振る舞いを(自意識の美化、物語化を)するが悉く失敗する。
プラネタリウムからの脱出においても、宇宙船への特攻においても、その成功の鍵は常にフランシュシュの面々であり、おたえの為に、さながらアイドルを「推す」ように、窮地を切り抜ける。
ここでも自意識の振る舞いが常に失敗に終わり、ゾンビ的な群体意識が成功する構図にある。

寧ろ興味深いのは、佐賀県を壊滅させた宇宙船に乗り込むべく、県民の協力を総動員する過程で、県民自体がゾンビ化していく構図にある。
具体的には、熱放射遮断服を被る住民や、泥を塗り重ねることにより宇宙人の襲撃を躱わす住民の様相は、絵柄的には明らかにゾンビであり、
つまりフランシュシュと同等の存在に見えている。
敷衍すれば、ゾンビ/アイドル同士の推し合いが、
誰をもゾンビ/アイドル化していく構図があるのだ。
前述したアイドルとは、におけるCの擦り切れる偶像で示した「衆人監視社会」さながらだが、ここでは寧ろ共同体の明るい側面を照らしているともいえよう。

・結論
では再び結論を示そう。
本作の問いかけは、
アイドルに一体何ができるっていうの?であった。
筆者としては、おたえが示したC.ゾンビアイドルを推す人達こそがゾンビ(泥、反射服)に→アイドルが誰もをゾンビ=推しにする、が結論である。
この世界線が最も興味深く、かつ現代的だろう。

・見解 推しと制作

ではこれに対する筆者見解はどうなのか?
それを記して本文を綴じたい。

ゾンビを欲動しゾンビ化出来る人(推し)も、アイドル化出来る人(推され)もある意味幸せである。
しかし推し活の出口を考えるとき、
・推し変
・燃え尽きロス
・闇落ち
しか残されていないだろう。
例えば「メダリスト」(漫画:つるまいかだ。アニメ制作:ENGI。なお、2025冬アニメのベスト作品である。ちなみに同じく2025冬アニメのAveMujica は神作品)では推し合うアスリートと教育の新しい形を描くが、いのりと司の関係性の結論は定かでは無い。

筆者には、少なくとも、外ではなく内に、自らの内に推しを見つけることが重要ではないかと思われる。
それは例えば書く行為であり、新しい価値を産む行為であるだろう。
擦り切れる自我に微睡みきれない人にとり、やはり制作という回路は、ゾンビにならない回路は残しておきたいと思う。

・総評 88点

脚本:8/10
地方アイドルの現在地である地方公民館と児童巡業。
プラネタリウムで星空を見上げ馘を捥ぐさくら、朽ちるおたえ。
プラネタリウムの地平で踊るアイドル。
アニメ1〜2期総括の巻き上げと、さくらに付与される非伝説(未来?)。
様々な要素の果てに佐賀県で開催される擬似万博という偽史。
万博会場で渦巻くキャトルミューテーションと誘拐される牛とおたえ。
無尽蔵に破壊される万博と佐賀、雲散霧消するフランシュシュ。
自我を仮構して地球へ帰還するおたえ。
おたえの自我覚醒とヤンキー抑制と逃走劇。
プラネタリウムへ逃げ込み佐賀県の意義を確かめる面々と、対照化されるメタ視点の首相官邸及び世界。
宇宙探索から状況を分析打開するプラネタリウムの面々。
ゾンビばれで自意識と恐怖に晒されるフランシュシュと背を向けるおたえ。
熱放射遮断や泥により宇宙人の襲撃を躱わすさながらのゾンビの佐賀人民。
万博の残滓を活用して宇宙船への潜入、アイドル的光と音のショーによる目眩し。
おたえ単独のヒロイズムと見せかけてフランシュシュ全員で乗り込む宇宙船。
宇宙船内で活躍する80年代、00年代アイドルのサイリウムビーム、70年代ヤンキー、ロボット搭乗男娘、活躍しないさくらw
錯乱する幸太郎。
自我放棄により?崩壊する宇宙船と帰還するおたえとさくら。
さくら、おたえの記憶を讃えて素顔を改めて隠す幸太郎。
宇宙船崩壊から幸太郎の振り向きまでの冗長さは否めないが、
ラストライブで自我を失うおたえと、新曲REVENGEで世界崩壊戦で未来を向くフランシュシュ。
ラストカットでマイクを握るおたえ?

絵コンテ:9/10
・プラネタリウムの視点振り回しが面白い。
・万博会場のショボさを忽ち打ち砕く宇宙船の終末的殲滅光景も凄い。
若干パトレイバー2のカットも援用される。
・繰り返されるメディアの継ぎ接ぎ動画と音声は現在地の多重化であり、
ギャグでありつつも虚構が現実へ侵入する恐怖=現代性に観える。
・首相官邸のアイロニカルな茶番はシン・ゴジラの再話でもある。
・宇宙船潜入と脱出のギャグ意匠が前後のおたえの立ち位置を明確にしつつ楽しい。
・キャトルミューテーションで牛と幟とともに吸い込まれるおたえの構図が秀逸。
・自我を獲得しワゴン車で逃走を図るおたえのランチャー活劇が見応え。
・ゾンビの葛藤がやや淡白で味付け程度に終わる。。
 ゾンビの自意識を惹起する重要な場面だが「葛藤のない世界線」の忌子でもあるか。
・プラネタリウムと火炎からの脱出のギャグの巻き込みがコテコテながら、
表情芸的細かさで面白い。
・3回ほど差し込まれる巻き戻しパートが現在パートのギャグ、
特に幸太郎の部分が巧い。幸太郎前半ラストの干潟への墜落も素晴らしいオチ。
・県民の協力取り付けは初期OPの力技が大きいが。
・花火打ち上げパートは美術と相まって素晴らしい色彩バランス。
・宇宙船潜入と大立ち回りは、おたえの構造的な弱さ=自意識?と、
フランシュシュたちの強さ=無意識=ゾンビを照らし返す。
・地球帰還の隕石落下群が秀逸。
・ライブパートは巧いが観客席のサイリウムの色彩の豊かさの方が瞠目される。

キャラデザ:9/10
さくら:
彼女の伝説の為に、おたえは肥やしにされるか?
普通の女の子のアイドル導線を考えさせる。
紺野純子:
80年代的最後のアイドルの輝きが、おたえに歴史と現在を照らし返す。
おたえ:
自意識の前駆体たる群体生物/宇宙船により自意識を獲得し過去を喪失した存在として美学的特攻に回収されるように見せかける前半と、現代的アイドル=ゾンビによる自意識の喪失/包摂により自意識を還元する後半で対照化される。
おたえとは何か。それはプロデューサー幸太郎の先輩でありさくらの先輩であること、29歳でアイドルに躊躇を覚えていること、声優三石琴乃の配役であることなどから、1990〜2000年代のいわば日本アイドル冬の時代の残滓であることは強ち間違いではないと考えられる。
1990年代とは何か。
それは国家という大きな物語が完全に失墜し小さな覇者が争うヘゲモニーであり、バブル崩壊や50年体制崩壊、阪神淡路震災などにより経済的、文化的自信を喪失しつつある日本が自意識に逃避し始める時期である。
自意識への逃避の問題は、
現実的にはオウム真理教による地下鉄サリン事件であり、
サブカルチャー的には新世紀エヴァンゲリオンであり、自意識をカルト的に取り込む事で現実に対応しようとした(そして失敗した)年代である。
その世代におけるおたえが、自意識を喪失したゾンビとなる造詣は非常に興味深く、
かつクレバーである。自意識とは、かように敗北した文化だからだ。
だからこそ、おたえが本編において取り戻した自意識において何を感じ、どう活用して還元されるかが重要となる
※未見だが、漫画版の番外編ではおたえが主人公であり、この関係情報も補完されると思われる

美術:10/10
冒頭のプラネタリウムの望遠鏡と星空の精度が異様に高いのは、宇宙を非日常=アイドルの象徴として観がちな感性であり、近年のトレンディドラマにおける導線の踏襲でもある(あの日観た星を僕達はまだ知らない、など)。
宇宙は具体的な技術的攻略対象ではなく憧憬化される存在として持ち出される。
だからこそ、宇宙からの侵略がアイロニカルに我々の無意識を攫うだろう。
序盤の佐賀万博のショボさを薙ぎ払う宇宙船の意匠が、デストピアでコズミックホラー乍ら問答無用に不必要な存在を打ち砕く描写で清々しく素晴らしい。サイレントマジョリティの欲望の結実にも観えるのは虚構ならではの構図。
襲撃する群体生物/宇宙船は、さながら終末観であり、有名作では1996年の「インデペンデンス・デイ」、近作では「デデデデ」(「デッドデッドモンスターズデデデデデストラクション」)の宇宙船と日常の対比も思い起こされる。
対照化される壊滅的万博で打ち上がる花火の群れと気球、降り注ぐ宇宙船の隕石群の美しさが破壊的で背徳的美しさがある

美術/ライブパート:7/10
冒頭のライブもラストのライブもtv1期と比較すると隔世の感が凄く、滑らかで見やすい。
ダンスのカメラのリギングも流麗だが寧ろ観客席のサイリウムの一つ一つの輝きが推し活理解への精度高さも生み出すように感じるほど緻密。
近年ではライブではないものの、メダリストのスケーティングの仕上がりが神がかっており、CGの要求水準は増える一方に観える。
ただしダンスのクオリティ、振り付けはひみつのアイプリやラブライブ!などのほうが軍配が

音響:10/10
新曲が4つも挿入されつつ、tv1期など既存楽曲も活用するファンサービスの強い特徴となる。
一方でラストライブにおける1曲目の新曲REVENGEでは、過去への決別と、カタストロフに躊躇せず復活するゾンビ/アイドル/佐賀の生き様とも言うべき歌詞が、雄々しく滑らかなダンスとともにアップテンポで披露される。
ラストライブの2曲目の新曲、手を伸ばそう銀河では、冒頭のプラネタリウムと佐賀県の特色への構造的回帰であるとともに、煌めきへ手を伸ばし続けるアイドル/ゾンビの造詣的ポップさとグロテスクさが共存する有終の美となっている。

参考文献
・ (あなたの隣で彷徨うゾンビ 増殖する「生きる屍」が映し出すもの NIKKEI The STYLE)2025.10.27記事
・ニコニコ動画 石岡良治の最強伝説 ガールズバンドアニメ みんなほどよい自意識が見たい 石岡良治
・「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」小関隆(中公文庫)
BanGDream!! It’s MyGO
BanGDream!! AveMujica
・「1984」ジョージ・オーウェル、ハヤカワ文庫
・「ドグラ・マグラ」夢野久作、角川文庫
・「成熟という檻」山川賢一、キネマ旬報社
・「魔法少女まどか☆マギカ」
・「表象と批評 映画・アニメーション・漫画」加藤幹郎、岩波書店
・「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」第7章 メディア空間・言説からみる「アイドル/ファン」の姿 田島悠来、青弓社
・「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」序章 きっかけとしてのフェミニズム、中村香住、青弓社
・「アイドルについて葛藤しながら考えてみた」第一章 絶えざるまなざしのなかで、香月高史、青弓社
・「『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ」|徳田四https://note.com/wakusei2nd/n/n2afd637a8ea1
・「歴史とは何か」E・H・カー、岩波新書
・「母性のディストピア」宇野常寛、ハヤカワ文庫
・「自我の起源」見田宗介、岩波現代文庫
追手門学院大学地域創造学部紀要2023 年3 月10 日,第8 巻,39¬60
アニメの聖地巡礼と観光振興
─「ゾンビランドサガ」と「ガールズ&パンツァー」を事例として─安本 宗春*・川中 郁実**・矢野 聡真**・前川 友哉**志戸 暉**・前 秀寿**・高島 大聖**

・wikipedia ローカルアイドル
・wikipedia 佐賀県の歴史
・wikipedia 三石琴乃
・「ゾンビ学」岡本健、人文書院
・劇場版ゾンビランドサガ パンフレット在中 special reveiw 藤津亮太「なんてったってゾンビィ」
・ニコニコ動画 PLANETS批評座談会 メダリスト〜いのりと司の関係性はどこに着氷するのか?〜
・「庭の話」宇野常寛、講談社

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA