ひゃくえむ

〜輪転するニヒリズム〜

・所見
・情動理論:心理構成主義、或いは情動のコンセプト理論〜輪転するニヒリズム〜
・ヘゲモニーと二極化
・総評
・所見

ひゃくえむ、とは、100m走のことではない。
「ひゃく」とは全て(百)であり、「む」とは無である。
タイトルとアイキャッチで判断することは先ず不可能な、
多層構造をもつのが本作、映画「ひゃくえむ」だ。

チ。〜地球の運動について〜」の魚豊氏による初期の哲学的競走漫画を、映画「音楽」の 岩井澤健治監督とロックンロール・スタジオによるアニメ映画化として、あまり期待せずに観に行ったのだが、

控えめに言って傑作だった。

直近のアニメ映画「チェンソーマン レゼ編」と併せて、今年アニメ映画の双極を成すと言っても良いくらい素晴らしい作品だったと思う。

内容は端的には競走100mの多角的な作劇だ。

生まれつき足が速く、「友達」も「居場所」も手に入れてきたトガシと、辛い現実を忘れるため、ただがむしゃらに走っていた転校生の小宮。

トガシは、そんな小宮に速く走る方法を教え、放課後二人で練習を重ねる。

打ち込むものを見つけ、貪欲に記録を追うようになる小宮。

次第に2人は100m走を通して、ライバルとも親友ともいえる関係になっていた。

数年後、天才スプリンターとして名を馳せるも、勝ち続けなければいけない恐怖に怯えるトガシの前にトップスプリンターの1人となった小宮が現れ-。

・情動理論:心理構成主義、或いは情動のコンセプト理論

競走を巡る哲学的討論と情動的な競走シーンの相互干渉は、視聴者を絶えずニ価値観の狭間で揺さぶる。

逃避的、精神的理由から競走へ向かう小宮、それを諌めるトガシによる技術理論、さらに技術の袋小路による精神崩壊に悩むトガシを追い抜く小宮-

相次いで登場するトップスプリンター、サブトップ、若手トップと、何もが精神と技術の狭間で揺れ動く様子が描かれる。

価値の無価値化、ニヒリズムの輪転が一つの見所となるが、それは作者の魚豊による完全な確信犯として提示されるだろう。

それは最終局面における、怪我を跳ね返すトガシの不敵な笑みである以上に、精神と技術を巡る作劇が殆ど虚構そのものの表現として、リアリズムとデフォルメの往復として示されるからだ。

それはこのニヒリズム的価値観の輪転自体の袋小路を俯瞰的視点から微笑ましく見下ろす作者の優しさであり、虚構ならではの豊かさだろう。

精神と技術について少し考えると、それらは互いに背反するものでなく、相互に入れ子構造であることに気付く筈だ。

例えばリサ・フェルドマン・バレットが提唱する「情動理論:心理構成主義」、或いは情動のコンセプト理論がある。

※ 「情動はこうしてつくられる ―脳の隠れた働きと構成主義的情動理論

リサ・フェルドマン・バレット 高橋洋訳 紀伊国屋書店

これはかいつまんで言えば、感情の前駆体である「情動」(リサは「情動のインスタンス」として扱う」が、全ての人間に所与のものではなく、経験的に多用な要素により組み上がるという脳科学理論だ。

マクロの細胞の大半が予め決まっているがミクロの回路は異なる。過去の経験で未来の知覚が導かれるとされる。

その主要な要素はシミュレーション、概念、縮重などで構成され、物語は脳全体で同時に進行する。

各種情動のインスタンスは個別の構成要素に見出すことは出来ないというものだ。

これを本作ひゃくえむに当てはめれば、

精神か技術かという議論ではなく、精神も技術(脳内組織の相互刺激作用の蓄積)により構築されるのだ。

多分、作者はそれらの構造を所与のものとして、最終局面におけるトガシの嘲笑うような狂気の走りに歓喜を見出している。

同様にトガシが繰り返す「100mを誰よりも速く走れば全部解決する」も、裏返せば、それが出来なければ全て失うことであり、そもそも全部解決するという言葉時代が諧謔でもある、輪転するニヒリズムである。

・ヘゲモニーと二極化

これらの内容、表現技法は、文藝的な構造の奥行きを含め見事であるも、既存の価値観の中でのお遊びとも言える。

どちらかといえば、このようにニ価値観の相克ではなく多極化、ヘゲモニー化する世界に対して、

人間の側が二極化に走っている方が懸念されるだろう。

劇場型の政治でミソジニーの欲求不満に応える米国トランプ政権や日本の参政党、

移民と多角化する経済状況にアレルギー反応として過激化していくドイツ若年層や英国のブレグジット現象、

SNSなどで日夜「敵」を炙り出して祭り上げる人達、、、

例えば直近では幼児期の怒りの正当な作劇化による芸術主義と商業主義の対決、及び芸術主義の敗北を描いた傑作アニメ「ガールズバンドクライ」(東映、脚本:花田十輝)があるが、

これなどはニヒリズムの極致における敗北の必然を戯画的に描いたものとして捉え直すことも可能だ。

月並みだが、価値の袋小路に陥らないような構造の日常的な活動が、精神的にも経済的にも政治的にも重要であって、

自分としては価値観を広げ続けるような、

例えば宇野常寛「庭の話」で提示されるような、制作に近しいものを、

日常生活に組み込み続け、時代に適応、更新出来る人でありたいと思う。


STAFF
原作 – 魚豊
監督 – 岩井澤健治
脚本 – むとうやすゆき
キャラクターデザイン・総作画監督 – 小嶋慶祐
音楽 – 堤博明
美術監督 – 山口渓観薫
主題歌 – Official髭男dism「らしさ」(IRORI Records / PONY CANYON)
色彩設計 – 松島英子
撮影監督 – 駒月麻顕
編集 – 宮崎歩
音楽ディレクター – 池田貴博
サウンドデザイン – 大河原将
キャスティング – 池田舞、松本晏純
音響制作担当 – 今西栄介
プロデューサー – 寺田悠輔、片山悠樹、武次茜
アニメーション制作 – ロックンロール・マウンテン
製作 – 『ひゃくえむ。』製作委員会(ポニーキャニオン、TBSテレビ、アスミック・エース、GKIDS)
配給 – ポニーキャニオン、アスミック・エース


・総評

演出

圧巻の疾走描写とニヒリズム。 100mは虚構であり人生の鬨の時レリーフ調の背景と反目する人間の筋肉、歪む表情、価値転倒を続ける世界は、正しく蝶の夢であり、アニメでしか成し得ない表象となるロックンロールスタジオに拍手

脚本

競走の原典を戯画的に示す構造が全編を通して本作の虚構性、ニヒリズム故のガチさを提示する。少年の夢と希望、技術と精神で輪転させる青年期と成人期は、圧倒的な破滅を予期しながらも抗えない快楽への回帰であり、それすら魚豊のニヒリズムで最期に回収される

絵コンテ

 人間描写が凄まじい

歪み出す肉体、微睡む景色、輪転する視線、躍動する脚線、剥き出す歯茎疾走する肉体に全勢力を傾けつつ、河川敷の彼岸から、公園の無限の塔側で項垂れるトガシも超越への敗北を宿命付ける構造。

成人期で怪我に落ち込むトガシが少年たちを激励する傍で自らに照らし返す言葉に泣き崩れる作劇はロトスコープの効果も相まって圧巻のギャグであり、感動シーンでもある。

競走シーンにおける常軌を逸した描き込みがロトスコープと組み合わせることで、日常世界は情報量で凌駕され、理解の閾値を超え、その摩擦熱で眩しく発火する。その圧こそが、100mに人生をかけるアスリートたちの10秒間の身体速度が生み出す熱を画面全体に響かせる(土居信彰)

キャラデザ 

トガシ、小宮、財津、仁神、樺木、海棠と、誰もが競技という虚構世界を認知しつつその快楽、恐怖、打算に逆襲され、輪転するわかりやすい男性のニヒリズムとロマンとは対照化される女性の俯瞰的な視点がメタ的な示唆を生み出す

美術

 借景をボカす基調だが折に差し込まれる歪む世界線、精神世界、競走世界が、寧ろ虚構ならではの美しさを讃える

冒頭の競走神話、雨に項垂れるトガシが最高のエフェクト

実はロトスコープも仕込まれる

音響 

競走における練習、本番開始前後の盛り上げが凄まじいある意味過剰に劇的な効果を意図するが、攻撃的なドラム、弦楽器の打刻が静かな前後に明確な屹立を産む、

堤博明による七拍子のリズムを基調に、ゴールへ向かう目的意識、苦しくなる感覚、若年層から成人層まで徐々に変化する競走中の音響が堪らない

文藝 

魚豊の死生観を巡る若い時代の葛藤が過不足なく満喫できる。

スポーツの宗教観を高めて何処まで行けるかが一つ。

焦点となる繰り返される技術と精神の相克は、作者の俯瞰的意図により永劫回帰に構造化されるニヒリズムの突き詰めは歓喜の一瞬の肯定ともなる 

チ。も同じ構造

付記するとニヒリズムの徹底はあくまで価値の転倒の転倒で、カテゴリカルに収まる罠でもあるアナーキズムに徹することで新基軸を打ち出そうとする、源流の藤本タツキ(チェンソーマン)が一枚上手である石岡良治の指摘は正しい 魚豊は天才だが,,

本作を観ていると、実はガルクラの仁菜はアナーキズムではなくニヒリズムなのではないか疑惑が湧いてくる

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