アリスとテレスのまぼろし工場

~グロテスクな美学と、外部との接続へ~

Contents
・所見
・秩父が産んだトップクリエイター、岡田麿里 あるいは秩父三部作
・「真心の想像力」と「母性のディストピア」 
 「True tears」から「さよならの朝に約束の花をかざろう」へ
・時代の忌子、「アリスとテレスのまぼろし工場」
・グローバル文学とは
・罅割れとグローバル文学における可能性
 最新作「ふれる。」を補助線に
・STAFF
・総評
・参考文献

・所見

あまりにグロテスクで、あまりに美しい。

本作は2023年代におけるアニメーション映画作品の金字塔として歴史に名を刻まれるだろう。

旧世界の生活圏の象徴たる製鉄所の凋落を、朽ちた神殿に見立てつつ、
異世界の少女に仮託する現実の停止への欲望を、
思春期の子供たちの情動が激しく揺さぶり、
終焉へと突き動かす。
彼ら彼女達の情動は、少年少女の頽廃的で抗いがたい未来への衝動であり、
構造的には旧社会に対する女性の業の勝利宣言であり、
ある種の浪漫の敗北宣言でもあるだろう。
現実とまぼろし世界のはざまで魅せる後述法は、
斬新で新鮮な複層世界の描写の開発であり、本作の白眉の一つである。

本作の鉄鉱の町は明らかに今の日本の隠喩である。
「すずめの戸締り」の新海誠とは逆に「壊れていても構わない」
「オタクの男の子すら取り込み養分にしていく」、
つまり停滞した日本における濃縮されたアニメーションこそがサブカルチャーの本質であるという、態度表明にも観えるだろう(宇野常寛)。

一方で思想的にはクリティカルな「アリスとテレスのまぼろし工場」(以降、本作と呼称)が、興行収入的には苦戦したことを踏まえると、
或る意味でスタジオジブリ(当時は二馬力)の「風の谷のナウシカ」のように、
アニメーション作品史における或る種のエポックメイキングになりえる可能性を期待したいところがある。
というより、もう少し広く若年世代に評価されて欲しい。

本論では岡田麿里の作品世界、思想を概観しつつ、本作における、
グローバル文学への受容性を探ってみたい。
端的にはそれは、彼女のグロテスクな美学と、外部との接続が重要だろう。

・秩父が産んだトップクリエイター、岡田麿里 あるいは秩父三部作

岡田麿里作品の魅力とは何か。
それは失恋を快感に昇華するようなマゾヒズムの在り方であり、
少女の持つ強烈なナルシシズムである。
※作中でも「スイートペイン」の言及がなされるが、これこそマゾヒズムの根源の一つかとも思われる

岡田麿里は、「DTエイトロン」でアニメーション脚本家としてデビューし、
原作を完全に換骨奪胎した「True tears」では少年少女の狂気的に緻密な情景描写で、いわゆる「聖地巡礼」ブームの立役者として富山県で一躍時の人に成った。
※聖地巡礼ブームで言えば、「True tears」、
あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」(あの花)、
とともに「花咲くいろは」も忘れてはならない。
石川県金沢市の温泉街観光地の立役者である。

しかし、本作はよくある「オタク閉じコンテンツ」ではない。
本作の最後のシーンは聖地巡礼すら終わった後の世界観であり潔さがある。
これは文化の立役者が自覚的に表している行為であり、
責任と結果を自ら「閉じる」実践であり、文字通り「ぐっと」くる。
あの花、花咲くいろはなど、聖地巡礼を最も成功させた岡田麿里であるが、
それはP.A.WORKSでは描けなかった。
MAPPAであればこそ本作はあり得ただろう(石岡良治)。

終盤のオリジナル展開に脚本家としての人物解像度の凄みが垣間見える
とらドラ!」では、
E・フロムの「愛」理論を彷彿とさせる、
徹底的な少女性とその終焉への追求が観られた。(E・フロム「愛するということ」)

しかし世間的には何といっても秩父三部作、具体的には
あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」、
心が叫びたがってるんだ」、
「空の青さを知る人よ」だろう。
いずれも少女期の失恋という喪失をモチーフに成熟を成す構造であり、
その差異と反復を精度高く練り上げてきた脚本家であるといえる。

意地悪い言い方をすれば、失恋を通じ、こうした「痛さ」を抱え込んだまま生きることを学ぶ回路は、自分よりも弱い(ように、彼らからは見えている)女性に必要とされることで男性的なナルシシズムを維持しようとする(村上春樹的な、戦後的な)「矮小な父性」を抱える男性のオタク層への悪意ある接待としても機能してきただろう。
つまり、「イタい」少女の失恋が感傷的に描かれ、彼女に求められる男性主人公が設定されることで、岡田麿里は自身の主題を巧みに男性市場に支持させてきたと言える。

この悪意ある接待を、市場戦略のみならず独特の美学、冒頭に述べたようなある種の少女のマゾヒズムとナルシシズムに昇華させ、それを「母性のディストピア」(後述)として包摂したのが、彼女の作品世界の魅力の真髄といえる。
それは前作「さよならの朝に約束の花をかざろう」で一つの結実を見せたあと、本作においては、それを踏まえつつも別次元へ進んだといえそうだ。

・「真心の想像力」と「母性のディストピア」 
 「True tears」から「さよならの朝に約束の花をかざろう」へ

「真心の想像力で見るのよ」。
これは前述した「True tears」の(負け)ヒロイン、
石動乃絵の台詞であり、初期の岡田麿里の作品世界を象徴する言葉でもある。
True tears」は、いわゆるアレキシサイミア(失感情症)、
幼児期の心的外傷により、「泣けなく」なった石動乃絵の、
涙を取り戻す過程を通じて他社への想像力を再構築する構造の脚本だ。

表面的には、天然気質の彼女の内向的世界を所謂外部に接続する(過程で失恋が要求される)筋立てであり、
「真心の想像力」は彼女自身を照らし返す言葉としてあるだろう。
しかし最期のシークエンスで、「飛ぶ」(幼児期の全能感)ことを断念しつつ、
養鶏の墓標の傍らで、後ろ姿に涙す絵コンテで締めくくられるが、
これは寧ろ失恋そのものを、
マゾヒスティックなナルシシズムに昇華させる萌芽であると観ることが可能だ。


つまり「真心の想像力」とは、
幼児期の全能感/恋愛の成就を断念する=成熟/処女、童貞の喪失の過程で生じる、
「美しい思春期の終わり」に観られる岡田麿里の独自の美学を示す、
とすら言えるだろう。
※岡田麿里自身が、
「真心の想像力」は正しくもあり、また間違ってもいると言及している。
正しいとは、思春期の自我の肯定としてであり、
間違いとは、狭い自我に拠り閉じて歪となった世界観である。

これは直近の
さよならの朝に約束の花をかざろう」に至るまで繰り返し用いられる構造だ。
独自の美学がある種の極致として結実したのが
さよならの朝に約束の花をかざろう」ともいえる。

さよならの朝に約束の花をかざろう』は、端的に示せば、
悍ましい母性と外部的な嫡子の獲得と喪失を、信じられないほど美しい世界観で包み込むものだといえる。
さよならの朝に約束の花をかざろう』のヒロインとその「息子」の関係は、
意地悪く言えば、弱者的男性たちへの悪意ある愛情を駆使できる「母性」(のように外見上は見える何か)を、岡田が反復して描いてきた「痛い」少女性を抱えたヒロインたちの成熟像として提示しているものだと考えても良い。

さよならの朝に約束の花をかざろう』の全編に漂う禍々しさは、
普段は別のものに置き換えられていて表出しない、
いわゆるエレクトラコンプレックスが、
グロテスクな欲望として前面化した結果だ。
そして同作の、その禍々しさにもかかわらず箱庭的な印象を受けるのは、
こうした「構造」を作家自らが自己解説し、物語の中に本質的な変化や運動、
もっと言ってしまえば価値転倒が存在しないために提示されているといえる。
宇野常寛の言葉を借りれば、それは終わりのない「母性のディストピア」、
強烈な母体回帰と、死と再生を繰り返す、「ごっこ遊び」の世界ですらあるだろう。

(ちなみに同時期において所謂「魔女集会」という、
息子を超イケメンに育成するキモイ欲望環境がネットミーム的に存在しており、
さよならの朝に約束の花をかざろう』は、
これに対する悪意の表明=棘射しとしての側面もあるかもしれない)。

このように、岡田麿里は、いわゆる「弱者男性」(男性オタの一種)に対する棘射しとケアは、精度高くやってきたが、女性オタ(の一種)に対するケアや棘、特にジェンダーの観点からは掠っていない、刺さっていない印象がある。
岡田麿里作品の構造的には彼女たちの欲望の在り方を射すものが、
前作の「さよならの朝に約束の花をかざろう」にもあるために、
この文脈でのマーケットや文化的な側面の追究は可能性が多いにあるだろう
(石岡良治)

・時代の忌子、「アリスとテレスのまぼろし工場」

本作はこの国の現役世代であれば東日本大震災とその後の福島第一原子力発電所の爆発を想起してしまう製鉄所の「事故」によって、時間の止まった街を舞台にしている。
そこは事故当時の街が超自然的な力で現実の世界から切り離され、
別世界として生まれたものだ。
現実の住人たちは現実の世界で歳を取ったり、死んだりしているがこの世界では時間は止まり、何年経っても事故当時の冬のままだ。
物語はそこに主人公の現実世界(おそらく10年以上事故から経過している)での「娘」が迷い込み、そして彼女を現実に帰還させるまでが描かれる。
ここで岡田は「時間の止まった街(虚構)」と現実の世界を対置する。
「あの事故」以来時間が止まった街とは、要するに今私たちが生きているこの国の停滞感の漂う社会だろう。(宇野常寛)

構造的には、この「時間の止まった街(虚構)」に対して、岡田は「現役世代は(もはや仕方ないので」虚構を虚構として愛しつつ、(次世代に対しては)責任ある行動を取る」という倫理観を提示する。

劇中、ヒロインの睦美が言う。
私たちは生きてないから、意味ないから。
ここで虚構と現実における生きる、意味を問い直すが、
それは(影のヒロインである)正宗の情動の発露により回収される。
生の躍動を、性的な躍動と重畳し、睦美に応え掛けるのだ。

ここで、鼻息を荒くして、この社会を外部に接続して遅れを取り戻し、
もう一度時間が動き出すように奮闘するのではなく、
この時間の止まった世界を愛することが提示されるだろう。
恋愛を中心とした個人的なレベルで生を実感すれば、
世界そのものが歩みを止めていても問題ないのだとする。
加齢せず、大人にならない主人公の少年少女たちは、
恋愛という回路に埋没することで、
社会的な自己実現(憧れの職業につく、とか)とか世界そのものの貧しさ
(大きな本屋も映画館もない、出会う人も代わり映えしない)を問題とせず、
この世界を愛することができる、というのである。(宇野常寛)

ここで個人的というレベルに留まることが、
岡田の提示する「政治化した世界に対して個人の物語で抵抗する」ことであり、
これまでの岡田作品の集大成かつ次元を進めた提案といえる。
この抵抗が安易な行動結果として空転する可能性は、ヒロインの睦美の義理父によるカルト的団体の結成と確信犯的な疑似共同体の支配を滑稽に描くことを通じて劇中でも示される。
しかしこの虚構を楽しむ方向自体は間違いではないことが主人公たちにより示されているだろう。

身も蓋もない表現をしてしまえば、岡田は自身がこれまで練り込んできたグロテスクな美学と、それに基づいた恋愛劇のもつある種マゾヒスティックな(劇中で「痛み」に比喩される)求心力を、この貧しい社会に対するまっとうな処方箋(たとえば新海誠の『すずめの戸締まり』のような)とは別のかたちの応答として提示しているのだ。(宇野常寛)

脱線するが、
2020年代において、アニメ評論を創るなら、2016年、2023年が重要であるだろう。
2016年において、「君の名は」「シンゴジラ」「この世界の片隅に」で、
それぞれにおいて、
「戦後の傷」を
「ファンタジー的に癒す」、「露悪的に見せる」、「昭和のノスタルジーに逃げる」のが思想的位置づけだった。
その悪化した状況が2023年であり、
それぞれ
「すずめの戸締り」「君たちはどう生きるか」「アリスとテレスのまぼろし工場」
にあたるだろう(宇野常寛)

最後の場面で、ヒロインの睦美が言う。
あなたには何でもあるけど私には何もない。だから正宗をもらう。
これは表向きは未来へわが子を送り出す構造だが、
実際には子供を放逐して自分は旦那とセックスし続ける構造であり、
前向きに見えるが、母親の性的欲望の表象と表裏一体である。
いわゆるエレクトラコンプレックスであり娘と母の葛藤と相克であり、
あけすけな凄まじさがある(成馬零一)。

ある種マゾヒスティックな(劇中で「痛み」に比喩される)、その「痛み」は、
つまるところ究極的には近親姦的な欲望との関連だ。
端的には、『さよならの朝に約束の花をかざろう』は母子姦の、
本作は父娘姦の欲望が挫折する痛み=マゾヒスティックな快楽がその中心にある作品だと言える。

※例えば、自体性愛が段階を経て他者の性源域、つまり赤子における口唇への欲動を見せる傾向がある。原始的性欲動と見做すと、睦美も五実も執拗に他者の口唇を求める描写を繰り返す由縁に、赤子/母性的性愛の強さを認めるのは可能だ。

しかも、いよいよ本作ではそのことを隠そうともしていない。
近親姦という失敗することが宿命付けられたものに惹かれ、その断念で癒えない傷を負う。その傷を大事に温めることが人間を支える個人的な物語になり、
時間の止まった世界をときに鮮やかに彩るというのだ。
物語のエピローグで、
現実に帰還した主人公の娘は製鉄所のある父の実家の街を訪れ、
パラレルワールドで出会い、自身が恋をした少年時代の父親の思い出をめぐる。
(前述した聖地巡礼のある種の終りを描く、ぐっとくるシーンである)。

廃れた製鉄所の街は美しく描かれる。
それは新海誠の監督作品で被災後の日本が美しく描かれるのとは、
似ているが異なる論理を背景にしている。
このエピローグでヒロインの目に廃れた街が美しく見えるのは、
それがどのルートを歩いても成就しなかった近親姦的な初恋の記憶があるからだ。
自分は原理的に選ばれない存在だったことが、この失恋の思い出を完璧なものにしているからだ。(宇野常寛)

補足しておけば、近親相姦の現実性は、
寧ろ幼児期における親子関係に強く規定される。
性的欲動は大部分において幼児期の親子関係における接触環境により醸成される。
なぜなら性とは快感に依存し、快感は単純接触、周期的/非周期的なリズム、
性源域(陰茎、陰唇等)への刺激における、嫌悪感から恍惚感への反転、
食欲と性欲の同根性(乳児の乳吞行動の終盤期などにおける、食欲より快感=性欲的前駆体を重視する無意識行動)にある程度根拠を求めることが出来るからだ。

・グローバル文学とは

一度冒頭の主題に立ち戻ろう。
ここで考えたいのはグローバル文学としての本作の受容可能性である。
本作のグローバル受け辛さとは何か。
それは端的にはタイトルに象徴されるドメスティック感であり、
シスターフッド的要素の濃度の薄さであろう。

題名はアリストテレスを想起させ、
劇中でも彼の概念を示すもの(エネルゲイア)が登場する。
しかし登用は戯画的であり、
むしろタイトルを含め日本語的な滑稽さを演出するための用法として用いられる
(アリスとテレスが二人いるのが、アリストテレスだと思っていた、
などのギャグ)。
余談だが、本作の英語題名は「Maboroshi(幻)」であり、
この構造を回避する意図が明確化されている。

後者のシスターフッド的要素については、旧作から続く岡田麿里の持ち味でもあり、
彼女の(経験的な)イコンでもあり、そもそもフェミニズム文脈的にどの程度の射程距離と思想的時間軸があるのかの議論の余地があるが、グローバルマーケットにおける存在感の大きさを考慮すると無視できないだろう。

議論を掘り下げるために、グローバル文学について改めて検討しよう。
例えばアメリカの比較文学者ディビッド・ダムロッシュは「世界文学とは何か?」の著作において世界文学を文学全体の「ある一つの部分集合」と見做す立場として、翻訳であれ原語であれ、発祥文化を超えて流通した全作品、としている。
つまりある作品が原産地を超えて異郷で「アクティヴ」に存在するとき、
その作品は「世界文学」としての資格をもつ。
それは「実りある生」へと引き渡す契機なのだという。

福嶋亮大はこれをもう少し詳らかにする。
福嶋はまず「世界文学」と「アーキテクチャ」の概念にそれぞれを切り分ける。
「世界文学」には2つの意味がある。
一つは世界的に翻訳され流通する文学という意味であり。
もう一つは世界を設計に組み込んだ文字という意味である。

福嶋はここで3つの視点を提示するが、ここでは1つ目と3つ目が重要だろう。

一つはゲーテの世界文学論である。
世界文学のアーキテクチャは、「地盤」を2つの角度から説明する。
その一つは勿論グローバル流通市場である。
もう一つは協調的な生活様式(ヴィトゲンシュタイン)である。
つまり文学とは、他者の影響を受けやすい人間の心に基づいて誕生した、
「他者志向性」である。
文学はさまざまな「他人の顔」が映り込んでいるのだ。
「知」はオープンな運動体になることによって、
自らを一種の有機体として成長させる。
さらに、それらを翻訳することに意味がある。
翻訳はコミュニケーションの障壁を下げて、
意味や価値を滑らかに交換させるグローバルな配信プラットフォームを組織する。

もう一つは文学の思考のテーマの起源と機能だ。
ここでは主に「環境」「絶滅」「不確実性」「時間」を観察するのが良いだろう。
重要なのは、これらのテーマには、
世界との遭遇にどう対応するかという根本的な課題があることだ。
結論を先取りすれば福島の述べる世界文学とは、
世界との接触や世界の分化において成立する構造体である。

端的にそれぞれのテーマ毎にまとめる。

「環境」について。
19世紀文学が直面した資本主義というウェブと地球というウェブの二つの世界性。
そこでは自然と心が鏡のようにお互いの心を照らし出す関係から、
不平等となった「罅割れ」の関係性である。
そこでは怪物化した環境を心的なものと一体化させる考えに基づき、
人間と塵埃とは区別がつかない(ラブジャード)。
環境文学には絶滅へのオブセッションが潜むのだ。

「絶滅」について。
16世紀末の中国文学「金瓶梅」から19世紀のロシア文学、ポーやドストエフスキーに至るまで、文芸作品は人間を物質的、意味的に抹消しようとする「絶滅の形式」を反復してきた。
すばらしい個別の人生もミクロな数学的な点に過ぎない。
しかしこのニヒリスティックな意識は、2度の世界大戦とファシズムにより、
この「絶滅の意識」を社会に浸透させた。
その体制の崩壊と大戦後も、この「頽廃的美的享楽」が、
大衆的な想像力の中でむしろ活気づいていることは、
戦後のハリウッド映画やアニメを観れば明らかだろう(本作含む)。

「不確実性」について。
19世紀ドイツ・ロマン派は、
「ロマンティック・アイロニー」と「ロマンティック・エコロジー」
の想像力を育んだ。
それは例えば地質学や鉱物学といったジャンル、
つまり「地球の生成」に関わる理論だ。
E・T・A・ホフマンは「ファールンの鉱山」において
「海の鉱物化」を幻想的に描く。
ホフマンはグローバリズムの舞台となった海を、
透明な鉱物の溢れる地下に置き換えたのだ。
要するに海が空間的に広いが、鉱山は時間的に深い。
落ち着かない事故を、地下の深層の安らいだ自己に置き換えるのだ。
聊か鉱山にまつわるロマンティックな幻想性が勝ちすぎていることは否めないが、
時間軸の発見は文学を「空洞の壺」に仕立てるだろう(ジャック・ラカン)。

「時間」について。
例えばフォークナーの「八月の光」では、
登場人物のジョー、ハイタワー、リーナの3人の、
どれも孤立した時間の環が描かれるが、
リーナの出産という「後から来るもの」に対して、
ポジティブな意味合いを与えている。
福嶋亮大はこれを「最後にして最初の世界文学」と呼んだ。
最後とは、フォークナー作品群において「八月の光」が、
過去の亡霊の蠢く場、「旧世界」へ反転された構図であることによる。
最初とは、この縮減されたミクロコスモスから、
複数の「接続する時間」が生じていることだ。
空虚な壺のようなジョーも、社会的関係から切断されたハイタワーも、
ニヒリズムに定住することはできず、リーナの子供という時間軸で接続される。
これはマルクス、エンゲルスが当時主張した一つの世界文学、多文化の共存に対し、
「八月の光」は多時間性に根差した世界である。
(福嶋亮大「世界文学のアーキテクチャ」PLANETS)

・罅割れとグローバル文学における可能性
 最新作「ふれる。」を補助線に

翻って現在、グローバル文学、例えばウクライナ文学など、
公平性を求める客層が大きい。
(例
セルヒー・ザダネーロ『ウクライナ日記』(戦時下の日常を描くノンフィクション)、
オクサナ・ ザブズゥコ の 『Fieldwork in Ukrainian Sex』など)
彼らは日本の文藝についてはアニメ作品をその代表的な作品群として捉えがちな傾向があるだろう。

直近でいえば、英国称賛であればマーケット受容的にOKであるとする
「ヴァイオレットエヴァーガーデン」は、その趣向は良いものとは言い難いが、
その需要者であるグローバル文学受容者を取り込むような、
女性のジェンダー批評系の先進コンテンツの可能性が岡田麿里にあるのではないか。(石岡良治)

本作においては「罅割れ」が一つの表象として繰り返され、
それは空の罅割れに始まり、生的かつ性的な回路として機能しつつも、
空の内破ではなく、トンネルを通じた性的打破(最期の出産の隠喩)が描かれる。
また十分な躍動感があるとは言い難い、睦美の最期の飛翔シーンや、
製鉄所城下町の異様に奥行きのない二次元的世界の描写など、
脚本とシンボリズム、動画的意匠が意図的に噛み合わない「罅割れ」た構造である。

ここにおいては、例えば直近の、超平和バスターズによる最新作「ふれる。」では、
「空の青さを知る人よ」には及ばないものの、躍動感のある飛翔のシーンとともに、
3人組の内面世界における異世界意匠の創り込みや、
東京における凸凹な共同生活などの隔世感は、魅力的であった。
かつ3人組の男子の精神年齢の異様な幼さとは対照的に、
女性2人組は珍しく最期まで友情関係として描かれており、
岡田麿里の関係性描写における次世代への可能性を感じさせるものだった。

「ふれる。」、および本作においても、例えば、
神主などの造詣はギャグで流しているが、
これを流さずに悪として執拗に造詣を掘り下げていけば、
さらに別の次元に行けたかもしれない。

個人的には見伏製鉄所の解像度の向上、
つまり鉄鋼原料の輸出入における外部と悪意を擬似歴史的に描くことで、
新しい日本や新しい世界を描けたのではないかと考える。
例えば2025夏アニメでは、
「瑠璃の宝石」が至高のビルドゥングスロマンと教条的作劇だが、
岡田麿里的ドロドロを注ぎ込むことで新しい世界が見えるかもしれない。
前述したE・T・A・ホフマン「ファールンの鉱山」も参考になるだろう。

世界観美術の観点について。
総合的に、岡田麿里の良い点でもあり良くない点でもあるのが、
世界観設定とそれに紐づく美術である。
特に世界観設定は、岡田麿里の、異様に濃密な人間造詣に対照化されるように、
非常に低い世界への関心が繰り返されるだろう。
例えば「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」では、
ガンダムの宇宙世紀の世界観、星間観の輻輳性が異常なまでに後退し、
ミカヅキ、オルガなど主要人物達のBL的関係性描写に密度が収斂した印象がある。
(本作の人物造詣に関し岡田麿里の貢献度がどの程度かも疑わしいが、、)

しかし、例えば2010年代の脚本作品の「凪のあすから」は、
海の意匠、空気呼吸の膜、保護膜を破るという露骨な比喩を含め、
美術的な勝ち筋があった。
海と地上と、鰓呼吸と肺呼吸の対比が、本作においては空の罅割れにおけるそれらと対比されるだろう。(石岡良治)

つまり、恋愛、生命と海の対比が、岡田麿里のもう一つの勝ち筋なのではないか。
恋愛、生命と海の観点では BEASTARS FINAL 、特に海獣人が参照点かもしれない。
海は無限の資源の連鎖の中で繁殖と殺戮が円環する、
全く異なる倫理観で、尚且つ未知の分野が未だ多い。
陸と海という他者への想像力が、新しい契機になるのではないだろうか。

ここでメルヴィル著作「白鯨」も参考になるだろう。
「白鯨」では大いなる静寂、
死の向こうに垣間見る新しい想像力を予見する秀逸な一文がある。
(引用)
死ぬということは、
まだ見ぬ未踏の世界へ一歩踏み込んだということを意味するのみ。
死ぬということは、無限に遠いものが持つ可能性に対するあいさつである。
すなわち、荒野のもの、水からなるもの、陸を失ったものへのあいさつである。
だから、自殺への内なる良心の呵責を持ちながら、
しかもなおも死を望む人の前には、
全てを受け取り、すべてを与えられた海が、
想像を絶する恐怖と驚くべき新生の冒険の場となり、
いざなうようにそのすべてを拡げているのだ(引用終わり)

親にとって子供がある意味において象形文字であるように、
「白鯨」においては、子の代わりに、鯨という海の象形文字を解読することが、
新しい世界の創造になるだろう。

・STAFF
脚本・監督 – 岡田麿里
副監督 – 平松禎史
キャラクターデザイン・総作画監督 – 石井百合子
演出チーフ – 城所聖明
美術監督 – 東地和生
色彩設計 – 鷲田知子
3Dディレクター – 小川耕平
撮影監督 – 淡輪雄介
編集 – 髙橋歩
音楽 – 横山克
音響監督 – 明田川仁
音響制作 – dugout
製作プロデューサー – 木村誠
アニメーションプロデューサー – 野田楓子・橘内諒太
企画・プロデューサー – 大塚学
制作 – MAPPA
配給 – ワーナー・ブラザース映画・MAPPA
製作 – 新見伏製鐵保存会(MAPPA、ワーナー・ブラザース映画、電通、KADOKAWA、Cygames、ブシロード、ムービック、ローソングループ、レッグス、ネイチャーラボ、毎日新聞社)

・総評 92.5点
演出 ☆★★★★
旧世界の生活圏の象徴たる製鉄所の凋落を神殿に見立てつつ異世界の少女に仮託する現実停止の欲望を、思春期の情動が激しく揺さぶり終焉へと突き進む。
情動は少年少女の頽廃的で抗いがたい未来への衝動であり旧社会構造に対する女性の業の勝利宣言であり、浪漫の敗北宣言でもある
現実とまぼろし世界のはざまで魅せる後述法は斬新で新鮮な複層世界の描写の開発で本作の白眉の一つ

脚本 ★★★★★
古い世界観を破る悪戯意匠としての肝試しで瓜破れする可能性
園部を喰らい尽くす真実を隠す蒼い煙龍
第五高炉という母胎の中で無限に停滞する思春期を維持する病的な母性の揺り籠で足掻く子供たち

絵コンテ ☆★★★★
男同士の友情は妄想で描写される暴力と性の延長
狼少女同士、睦美と五実の小さな風呂場
少女の未分化さと汚さと性的要素への異様な執着
前半の異様に動線の少ない構造は作品世界の不動性を魅せる以上に脚本家の特質か
真実の気持ちの表明を喰らい尽くす蒼い空の無数の龍の緻密な凄まじさ
第五高炉の世界の割れ目の向こうに見る夏は生命の不気味で眩しい欲望の萌芽(凡庸な映画はラストでこれをやる、石岡良治)
現実で老いる正宗と睦美夫妻の未来に終わりを見つめる今/のまぼろし正宗
五実が空の蒼さを崇める聖女を迎えるピエロの佐上神父のまぼろしの美しさは伊邪那美大神
原の情動の好きを叫び泣く構造が胸を刺す
現実とまぼろしを繋ぐ廃線トンネル上座利は出産道であるとともにそれを見送り出す睦美が被るヴぇールは母親であり、正宗の独占を宣言する女性の業の覚悟でもある
五実の大嫌いは冒頭の大好き、大嫌いの反転であり、トンネルを突き刺す泣き叫びは産声であるとともに生命の暗闇でもある

キャラデザ ★★★★★
人間的匂いすら醸し出す醜さと美しさの同居する造詣は視聴者を虚構と現実の狭間へと誘う導線となる
正宗の「全てを知りたい」と絵画描写に垣間見える窃視欲動、夕焼けと少女に見出す神性
睦美の陰湿な異性への欲望を女子的異性で上書きする擬似的発散と、源泉となる女子後継の不要世界/村社会への微かな憎悪、母親の愛情への拘泥と諦念
佐上親父の幼児性と反動的な強権性を覆い隠すピエロ的造詣
菊入時宗のバイクへの拘りと漫画や正宗部屋への拘泥、菊入母美里への拘泥による少年性への固着
新田と原の告白における神機狼に飲まれない要因は心情の変化の無さでもあるか
菊入母(美里)は浪漫より役割の責任を全うする。映画の後に普通に付き合いそうでもあるが、、、(石岡良治)
父を失い、義理父、間違った睦美義理父と、父を仮構する正宗母里美、五実の父を仮構する睦美、少女性を担保する欲動の正宗=弱い男性。
情動の発露の弱い太め園部の情動化と忽ちの排除という衝撃が凄い。

美術  ☆★★★★
繰り返す梟時計の目の揺れと夜の監視の隠喩
圧倒的な雷鳴に続く空の蒼い罅割れ、終末観、立ち昇る昇竜と旧社会象徴の製鉄所の崩壊と擬似生成。見伏製鉄所の吹き出す老朽配管の蒸気、老朽化スーパーマーケット、商店街の崩御は観返すほどにその雑駁さと異様な店の密度を魅せる統一感の無さがある。
グロイ人物造詣に対して平面的な印象の強い背景、美術感の思想は、「まぼろし」ゆえの「罅割れ」でありキャラクターとの乖離でもあり、
現実の夏の錆びた製鉄所のざらつきが圧倒的な質感を映す。
上坐利山を削り生き延びる説教は岡田麿里の故郷の秩父の山削りと同じ神殺しと祟りの世界で延命の感覚。罅割れをメンテしつつ壊す、岡田麿里の故郷のオマージュでもある。玉鎮目で沈めて終わらせることで世界を進める。おっさん達が第六高炉を動かしてドラゴンを保たせる描写もあるが、壊れたものは壊れたものとして良いとする世界であり、新海誠では今後取りようのない手段であり、メンテしつつ壊しもする境地であり貴重である(石岡良治)。
送り盆と花火で送る神=五実、虚構を祝福し瞬時に滅する花火の群れについて。
少女の情動とは花火である。瞬間的な爆発であり跡形も残らない象徴である。
刹那の爆発と消失は生命の生成の瞬間であり現実と虚構を繋ぎとめる触媒である。 大人たちは終わる世界で恋愛に微睡み、少年少女は終わる世界を嚙み締めることで新しい世界を視拓く。
終わりを迎えた製鉄所は見果てぬ再開発の夢でもあり、
2025年に閉鎖される堺浜MOVIXのようにも見える


音響  ★★★★★
旧世代の悍ましさを燃える旧世代象徴に乗せる合唱の序曲。
私たちは生きてないから、意味ないから。虚構と現実における生きる、意味を問い直す背景で唱導する情動への叫び

音楽  ★★★★★
中島みゆきの「心音」の、歌詞、未来へ、が頽廃的で流麗な世界観の終りを告げるとともに来るべき世界への導線を担う希望ですらある。
「神様が降りてくる夜」の、冒頭で懸かる曲名は、エンドクレジットでも言及される、川村かおりの名曲であり、90年代に謎のクリエイティブとして、時代を超えられない象徴としても機能するだろう。

文藝  ★★★★★
自分確認票という変化抑制と旧世界維持の暗い欲望。
細やかな反逆としての傷害活動。
総合的な若さと幼さへの温存欲望への女子に基づく隠喩的リビドーの照射は、赤子の出産すら停止し今の若さを異常に保存する
製鉄所の老朽化に人工的な祭壇を祭り上げる背後に狼少女の幽閉を映す閉鎖社会の狂気性、
閉鎖ループ社会の児童の特権としての運転免許と何処にも行けない自動車の箱庭性のパラドックスは、線路で繋がれ当初は何処にも行けない外部世界への鉄道と対照化される
好きの感情は痛みと大嫌いと欲望の蠢きであり、終盤の五実による意味の超克でもある
睦美:私たちは生きてないから、意味ないから。虚構と現実における生きる、意味を問い直す。正宗の情動の発露が現実回帰への回路となる。五実の叫びと痛みが残雪を溶かす太陽を照らし出す
希望とは生きるものが抱くものだが、絵が上達する正宗は異常な今でも変化の可能性を魅せる

参考文献
・三宅香帆「娘が母を殺すには?」PLANETS
・ジクムント・フロイト「性理論のための三論文」人文書院
・PLANETS「2009Vol6」記事「真心の想像力の美学」
・石岡良治「現代アニメ「超」講義」PLANETS
・福嶋亮大「世界文学のアーキテクチャ」PLANETS
・宇野常寛「庭の話」講談社
・宇野常寛「母性のディストピア」ハヤカワ文庫
・「アリスとテレスのまぼろし工場 近親姦の問題」
https://note.com/wakusei2nduno/n/nd380970b3b19
・アリスとテレスのまぼろし工場 PLANETS座談会 ニコニコ動画  2023.10.10

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