エイティシックス 86


~遷移する空間と差別~

目次
・所感
・差別とは
・差別から発生する問題
・差別の根源
・集団間接触の段階モデル
・遷移する空間と差別
・シンギュラリティAIとしての過去=亡霊と、未来
・STAFF
・各話総評
・参考文献

・所感
「エイティシックス」(以降、本作と呼称)は、
コロナ禍での負の影響を真っ向に受けた、ある意味で不遇の傑作。
差別、階級、戦争、生存の問題に、
架空の国家間戦争を通して男女の擦れ違いから同僚の関係の再話に向けて描く。
圧倒的な空間設計、建築と戦争兵器の凄まじい密度の描写、
被差別者への深い眼差しと可能性が視聴者を釘付けにするだろう。

・差別とは

社会倫理学の概念としての態度には
「認知的」「感情的」「行動的」の3つの要素がある。
具体的には、ある商品を購入する際の、
知識や購入の結果についての予測(認知的)、
理屈抜きの好き、嫌いの感覚や買った後に湧き上がる幸福感、後悔(感情的)、
思わず手が伸びたり視線がくぎ付けになったりする(行動的)
といった要素から成る。
同様に、ある集団に属する人々に対して、特定の性格や資質を
「みんながもっている」ように見えたり信じたりする認知的な傾向が
「ステレオタイプ」、
これに好感、憧憬、嫌悪、軽蔑といった感情を伴ったものが「偏見」、
そしてこれらを根拠に接近、回避などの行動として現れるのが「差別」である。
(北村英哉、唐沢穣
「偏見や差別はなぜ起こる? 心理メカニズムの解明と現象の分析」ちとせプレス)

差別をしている者は、自分が差別しているという自覚を持たず、自分のことを平等主義的だと信じ込む傾向があり、彼らはさらに、差別される側に同情的であり、少数派集団の人たちに対しての好意や同情を積極的に示そうとすることもある。ここでの偏見や差別は何らかの形で正当化され、差別した当人は自分のことを平等主義的だと思い続けることができる。

例えば「エイティシックス」では、その主力部隊を率いるレーネ少佐が序盤にエイティシックス(被差別民部隊)たちと意思疎通を図ろうと毎晩電話で語り掛ける。
3話の最期で、エイティシックス部隊の戦死者に対して無自覚な憐憫と同情を示すレーネ少佐に対し、隊員の一人が、その嫌悪感と無自覚の差別意識を罵倒する場面が提示される。
ここではレーネ少佐という閉鎖空間=安全圏越しの、無自覚な選民意識と行動を詰る意味以上に、視聴者という安全圏越しの選民意識を融解し、既存の価値観を揺さぶるメタ構造が提示されるだろう。

・差別から発生する問題


無自覚な偏見や差別意識は、被差別者の健康や生命を脅威に晒す。
それには緩やかなもの、瞬時のものがある。

緩やかな脅威として、被差別者が受け取る不安や緊張、心理的な負担が一時的ではなく恒常的なものとして作用するとき、精神的健康や身体的健康は次第に悪化する
(自尊感情の低下、抑うつ、心臓血管反応の悪化、肥満など)。
驚くことに、少数派集団の人たちが差別や偏見を受けやすい地域では、彼らの死亡率が高まることも確認されている。全米の調査では、偏見の強い人が多い地域では、循環器系疾患を原因とする死亡率が高く、白人より黒人において顕著である。オーストラリアやニュージーランドにおいても少数派である先住民の経験する差別が、彼らの健康や生命を脅かす結果が報告されている。
日常の中で受ける偏見や差別は健康を害する行動(煙草、アルコールなど)に至る傾向を高め、蓄積して健康を阻み、生命を緩やかに脅かす。

瞬時の脅威として「狙撃手バイアス」がある。生命の維持を左右する場面において、相手が銃を保持しているか否か、あるいは白人か黒人か、などの状況において、白人大学生による検証では、銃保持者と、黒人を狙撃する可能性が高いことが示されている。

本作「エイティシックス」において、この被差別者=エイティシックスたちが、戦場で脅かされるリスクと、それを画面の向こう側に押し込める白人社会の描写は、差別における暴力の直喩として提示されるだろう。

・差別の根源

差別には複合的な原因があるが、
ひとつにはカテゴリー化とそれに伴うステレオタイプの形成がある。

あるカテゴリーに含まれるものとそうでないもの(犬と猫など)を瞬時に区別することの繰り返しがカテゴリー化を産み、同一カテゴリー同士の類似性が強調され(同化効果)、それらの差異が強調される(対比効果)。それらの効果で各カテゴリーの境界は明瞭になり(強調効果)、人間は人間らしく、子供は子供らしく、アジア人はアジア人らしく見えるようになる。

我々は出来るだけ単純なイメージを描くことで思考を円滑にし、時間をかけずに容易に判断し、行動するが、この情報所為の繰り返しが、さまざまな社会集団に対するイメージ、ステレオタイプを形成する。

日常でやり取りする集団についての情報には
ステレオタイプに一致する内容が多いため、
ある社会で広まっているステレオタイプは、
そこで生活するだけで知識として容易に獲得される。
ステレオタイプが形成する過程では偽情報が組み込まれることもあり、
事実無根のステレオタイプが形成される場合もある(日本人の中国人ヘイト、中国人は無礼でマナーが悪い、など)。
実際には関係のないところに関係があると捉えてしまうことは、錯誤相関と呼ばれ、
二つのまれな事柄に同時に遭遇したときに、それらの事柄同士が結びついた状態で記憶に残りやすくなる。

ステレオタイプは一般的には否定的なもの(例:子供は無能だ)に限らず、肯定的なステレオタイプ(例:子供は可愛い)もある。
肯定的な特性と否定的な特性の両方を併せ持つステレオタイプ(両面価値的ステレオタイプ)は偏見や差別を存続させる要素にもなる。
例えば専業主婦的などの伝統的女性に対して
「温かいが無能だ」というステレオタイプ、
非伝統的女性に対しては「有能だが冷たい」というステレオタイプが抱かれやすい。これらのステレオタイプの利用は伝統的女性の称賛と保護、非伝統的女性の非難と排除につながり、総じて性差別や性役割の維持に貢献しているとされる。

このようにステレオタイプの根源を観ていくと、その意識的、無意識的側面において、だれもが差別をしてしまう可能性があることを説明できる。
ステレオタイプの自動的な作用に頼って瞬時の判断や行動を容易に実行することもできれば、ステレオタイプの利用を抑えて慎重に反応することもできる。
ただしこれらの制御は常に成功するとは限らず、迅速な判断や行動が求められる時や、ほかの事に気を取られているときなど、ステレオタイプの自動的な作用の影響を受けやすく、思わぬところで差別が生じることもある。

「我々」と「彼ら」の区別の観点もある。社会的アイデンティティともいえる。
人種、家族、年齢、学歴、職業、外見など、社会的カテゴリーは無数に存在し、
そのカテゴリーの処理は同時に、
自分が所属する集団「内集団」、所属しない集団「外集団」の区別が為される。
外集団よりも内集団に好意的な反応をする傾向は集団間バイアス、内集団バイアスとされ、現実世界で根強く存在し、本人の自覚無しに生じるものであることがわかっている。

内集団に無自覚に好意的な反応をする背景には、内集団に向けられた肯定的感情がある。その感情の一つは、慣れ親しんだ人やモノ、共通点のあるものに対して肯定的感情を抱きやすい性質である。もう一つの原因として、内集団に対して抱く期待がある。これは多くの資源を内集団に集めたほうが有利であり、子孫の生存と繁栄にも貢献できるかもしれない期待であり、見返りの可能性を考える期待でもある。

ステレオタイプや社会的アイデンティティは人の生活には欠かせないものであり、
それらから生まれてくる偏見や差別を根絶させることはできない。
ただし、それで悲観的になる必要もない。
社会或いは個人の中にある偏見や差別の性質を知り、加えて、偏見や差別を否定する意思を持つことで、社会或いは個人として、難しさを感じながらも、偏見や差別を制御していくことが出来ると考えるからだ。

・集団間接触の段階モデル

偏見や差別の具体的な制御の方法として、
「偏見の認知的制御」におけるステレオタイプ的思考の抑制、
ステレオタイプ抑制後のリバウンド効果の留意、
偏見の自己制御モデルの実践における内在的な偏見意識の認知と反省の自動化などがある。

偏見の是正として、トーマス・ペティグルーが提唱する
「集団間接触の段階モデル」も参照されるだろう。

これは初期の接触では、接触への不安を軽減し、相手と親密な関係を形成することが課題となるが、これには集団を離れた個人同士での接触が有効とされる。
所属する集団の重要性を相対的に下げ、集団成員性をもった「個人」としてとらえやすくなるからだ(脱カテゴリー化)。
この段階においては、接触相手自身に関する豊富な情報、ステレオタイプに一致しない情報や自分との類似性を見出す情報を得ることが重要とされる。相手との間に信頼や好意、共感といった肯定的感情が育まれることも求められる。

外集団成員との間に個人的な関係が確立した後には、集団成員性を明確化したうえでの接触が求められる(カテゴリー顕現化)。接触相手から偏見やステレオタイを覆すような情報が得られても、それが「集団」に関する情報として処理されなければ、集団全体への態度は改善されないからだ。集団成員性が強調された文脈では、そこで得られた豊富な知識や好意的感情が外集団成員に関する情報として処理されやすくなり、集団全体への情報の一般化が生じやすくなる。

接触の最終段階では、内集団と外集団の人々について、両集団を内包する大きなカテゴリーに属する仲間として認識される状態に至ることが偏見の解消には重要とされる(再カテゴリー化)。このような新たな内集団意識が芽生えれば、従来の内集団と外集団という枠組みに基づく偏見やステレオタイプは解消され、再び生み出されることもなくなる。

「我々」と「彼ら」という線引きを弱めて、集団を超えた「私たち」という仲間意識を生み出すには、集団間で互いに協力し合わなければ達成できない共通の目標を導入するという方略が有効であり、また包括的な集団意識を育成するために、
既に人々の頭の中にある「上位カテゴリー」をいかに活性化していくかもポイントであるだろう。

以上のような観点を踏まえて、差別意識と戦争局面における集団同士の相克を、本作「エイティシックス」ではどのように描いたのか。その端緒は「空間」に見出せるだろう。

・遷移する空間と差別


本作の一つの主要モチーフは空間だ。
差別者、管理者はあくまで隔絶された「指令室」=彼岸で活動する。
被差別者、戦闘者はあくまで境界のない空間=此岸で活動する。
それは視覚的には差別者=青い山茶花=彼岸=亡者=静脈であり、
被差別者=赤い山茶花=此岸=動脈である。

主人公のシンは赤と青、生者と亡者を行き来する「死神」であり、
実兄という亡霊、フレデリカ王女の義兄キリという亡霊を存在根拠に、
彼岸と此岸を乗りこなす。
中盤、終盤ではその往来が大きな負荷となり、
トランス状態に陥ることで亡者の域に嵌りかける。
それは目的意識のない、存在根拠のない、生存意欲の無い「死神」として示される。

それは死線を潜り抜けた「同僚」とともに、差別民たるレーナ少佐という「異性」との関係性が主な役割として担われることを示されて幕を閉じる。
あくまで異性と雖も空間の「向こう側」であり、
上官であり差別民であり、「他者」の象徴でもあろう。

差別者と被差別者の境界とは社会的、文化的、歴史的、経済的な差異の累積であり、
無意識的にも意識的にも意図的に被差別者を貶める意識が織りなす現象である。
早急な解決策は無く、地道な潜在意識と顕在意識の改革、教育体制の変革に基づくほかない。

23話をかけて本作が示したのは、
差別民の意識は簡単には変わらず、
最後まで被差別者に対する冷酷な態度の報いにすら気付かない愚かさであり、
反差別主義として、23話をかけてその指令室=境界を抜け出し、
異性というより尊敬される「他者」として認知されるレーナ少佐
(最終話では大佐)と、
シン中尉との関係性という希望である。

・シンギュラリティAIとしての過去=亡霊と、未来

もう一つの主要なモチーフは無機物と自立AIだ。
敵対するレギオンは自立型AIとされ、
主人公たちの機体より更に昆虫的=無脊椎動物的、
条件反射的、合目的的であるが、その実は主人公たちを始めとした死人の脳、
いわゆる「亡霊」を取り込むことで強化学習型AIに進化した人口構造物である。
ここには人間以外の動物、
特に無脊椎動物に対する潜在的な恐怖を象徴するとともに、
AIのシンギュラリティ(特異点)のモチーフが現れていると考えて
差し支えないだろう。
あらゆる既知の情報を飲み込み戦略的にも人間以上に長けるレギオンは、
そのままシンギュラリティAIに支配される人間の陰鬱な未来を暗喩する。

一方でAIは根本的に「既知」の集積であり、「過去」のものの蓄積である。

「未来」は現在の接続先にしかなく、過去からの地続きの場合も多々あるが、
殊に21世紀に突入してからの「断絶」の時代では、ある意味で過去からの「切断」、
つまり跳躍的想像力が未来的モチーフを示すことがしばしば観られるようになる
(iphone, Androidといったスマートフォンによる生活様態の激変、
インターネット技術の拡張による世界線の時間軸、空間軸の消失、
Industry4.0における個別最適生産など)。

その文脈において「過去」とは「亡霊」であり亡き者であり、それゆえに主人公は最期に「過去とは既に死んだもの。自分たちはそれを超えて未来へ進む」と前進して幕を引くのだ。

・STAFF

• 原作 – 安里アサト
• 原作イラスト – しらび
• メカニックデザイン – I-IV
• 監督 – 石井俊匡
• シリーズ構成 – 大野敏哉
• キャラクターデザイン – 川上哲也
• サブキャラクターデザイン – 猪口美緒、杉生祐一(第2クール)
• 総作画監督 – 川上哲也、猪口美緒
• プロップデザイン – 渡辺浩二、辻彩夏
• メインアニメーター – 笠原由博
• アクション監修 – 柳隆太、松本顕吾(第1クール)、稲田正輝(第2クール)
• 色彩設計 – 安部なぎさ
• 美術監督 – 堀越由美、野村正信(第1クール)
• 美術設定 – 天田俊貴
• CG監督 – 吉田裕行
• CG制作 – 白組
• 撮影監督 – 岡﨑正春
• 編集 – 三嶋章紀
• 音響監督 – 明田川仁
• 音楽 – 澤野弘之、KOHTA YAMAMOTO
• 音楽プロデューサー – 山内真治
• 音楽制作 – アニプレックス
• チーフプロデューサー – 三宅将典、高林初、野瀬和也
• プロデューサー – 中山信宏、清瀬貴央、都真由
• アニメーションプロデューサー – 藤井翔太
• アニメーション制作 – A-1 Pictures
• 製作 – Project-86(ANIPLEX、KADOKAWA、BANDAI SPIRITS)

・各話総評


1話
有色人種の人間兵器化と無意識の差別に苛む指揮官を明確に掘り下げる意図を感じる。
1話冒頭からシリアスとコメディの落差に潜む暴力性がシーン毎に淀みなく生々しく隠喩される様相がアニメ特性を十全に活かす。
随所のブラックユーモアに目が離せない

2話
戦車アクションが見逃せないも基本はパトレイバー2の最終決戦(イクストル)のムーブメント、カットを呈する。
レギオン/ギアーデとジャガーノート/マグノリアの無人/有人戦闘は地形的にも資産的にもアフガニスタン侵攻の現実投影に観える。
お嬢様の高潔な反差別と被差別民の相克の深度が重要。

〜6話
「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」的な構造(差別、辺境、お嬢様と兵隊長)への危惧から、死者の軍団による差別への逆襲の様相まで展開の可能性が広がる面白さが凄い。
被差別意識からの説教を3話で早々に片付けるのも脚本が明確化していて良い。
戦闘も心理描写も凄まじい。

〜8話
戦車も戦闘もバラックも、対置される白人社会や教会美術が凄い。
レーナを取り巻く友人、親類達の偽善を噛み締めて諦念と行動、
対比されるレーナの青さ(処女性=聖性)が絶妙に踏み留まるのも巧み。
カインとアベルの構図だがレーナの女性的アプローチは必要だろうか

〜11話
僅か3話(9,10,11話)で86小隊の日常の刹那の恢復と崩壊を写真という一回性の象徴を媒介に鮮やかに描く。
レーナの現地弔問と置き手紙に対する忸怩を、その資格の無さ故に涙すら充分に与えない演出が透徹する。
シンがレギオン化してレーナと対峙するなら差別問題への切り込みとして満点かもしれない。

〜13話
誇りのみは人に非ず、地縁と血縁と誇りこそ。
共和国に対する諦念と怒りが日常と軍事パレードで浮かび上がる。
本作の主要テーマは聴く(亡霊)、観る(記憶)の五感にあると考える。
フレデリカ=記憶を観る能力により、青年兵達の戦場に新たな可能性の地平が広がるか。

14話
ファイド復元とシン再会がアツすぎる。
眼差しと顔付きが極めて険しく注力を感じる。
OPの眼の隠匿は匿名性とともにレーナとの永遠の別れ=ギアーデ連邦兵としての生命を示すか。

~16話
レーナ大尉とカールシュタール准将の、絶望的戦線への抗戦と現実的対応を説教する二人の、目線と口元の緊迫感が凄まじい。
冒頭から中盤にかけてのレギオン軍団の白い雪の如く悪魔の群れの隠喩と合わせ神回である。 15話の崩壊が嘘のよう 歴史に刻まれるべき回といえるだろう。

17話
差別構造は社会的、経済的な差別待遇の累積に根差す。
被差別民は何処までも被差別民であり、
差別者の彼岸に立たない矜持の為に、自らの責務を負う。
貧富、階級、男女、経歴、思想、それ以上に、
超越を断念しつつ此岸に留まる覚悟と行動の継続こそ未来を拓くと希望したい。

18話
シンとフレデリカ、兄弟の幻影と原罪と後悔を、現在と切断する願いと、
その断絶を泣き叫ぶシークエンが素晴らしい。 泣く

~20話
鉄格子を挟み激しく対立するシンとライデンに伸びる夕闇の影、
踏み潰される蒲公英、遠巻きに臍を嚙むセオト、アンジュ、クレアが、
同志の歴史と限界を屹立する。
息を呑む金色の草原、
オニヤンマを屠る蟻の大群が自然の無為と冷徹を戦場と並置する。
死神は、シンは実兄の亡霊を手掛かりに、
次いでフレデリカの義兄を手掛かりに偽装することで自らも欺いた。
束の間の自由さえ、終わり故の刹那の愉しみとして退ける。
死神の、自由に慄き不自由に回帰する構造は
E・フロムの再現で現代人の寓話であり、
80年間克服できない課題である。

21話
赤い山茶花=生者と青い彼岸花=亡者が、逆説的に死に急ぐシンと、
それを庇い散りゆく4人の猛烈な死闘を対比する。
庇護対象のフレデリカは寧ろ生への希求で閉塞から奇跡の決死説得を試みる。
生と死、有機と無機の狭間で相克する意思が今際の際で未来を見出せるのか。

22話
死に際の死神はレーナ少佐の踏査により赤い彼岸花を青い此岸花に塗り替え、
死神を生者に引き戻す。
レーナの被差別者の生き様に恥じない覚悟を、
困難な状況の連続でも矜持しえたとの訴求を受容するシンの驚愕、
依然その想いを共有せず同僚に回帰する倫理観に泣く。
ライデン、セオト、アンジュ、クレナと、フレデリカ全員の生存は、
従前との対比で感動的だがご都合的奇跡である。
然し物語を、神話を再話する為の奇跡の対価を、
シンは、そして作者は十分に償っただろう。
敷衍すれば、本作においては異性愛ではなく、同僚関係に帰着させる強い意志だ。


23話 
差別的共和国民は崩落して尚差別を自覚出来ず、
反差別的アンリエッタとレーナは連邦へ可能性を探る「同僚」として道を歩む。
自由、平等、博愛の理想に挫折するまで、折れた線路/境界線の向こう側へ、
86達は進み続ける。
差別問題を性愛に帰着せず描き切った姿勢に拍手。
性愛に帰着せず描くのであれば最期の二人の再開は不要であるも、
手を繋がない描写がギリギリの倫理観でもある。
集合写真は今、この瞬間の切り出しであるとともに瞬間に潜む希望を胸に刻む為でもある。

参考文献
・北村英哉、唐沢穣
「偏見や差別はなぜ起こる? 心理メカニズムの解明と現象の分析」ちとせプレス
・長谷川真理「子どもは善悪をどのように理解するのか?」ちとせプレス
・村上靖彦「自閉症の現象学」勁草書房
・赤坂憲雄「排除の現象学」ちくま学芸文庫
・キム・ジヘ「差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章」大月書店
・中島義道「差別感情の哲学」講談社
・A・R・ホックシールド
「壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き」
布施由紀子訳、岩波書店
・宇野常寛「庭の話」講談社
・川口茂雄「アニメ・エクスペリエンス」叢書パルマコン・ミクロス
・差別と戦争を描いたアニメ「86-エイティシックス-」をぜひ観てほしい
https://note.com/scheat77/n/n26133e39d87f

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