~京都アニメーションの現在地と未来、あるいは視聴者~
・所感
・梗概
・対話とアニメーション独自の表現の希求
・京都アニメーションの現在地と未来、あるいは視聴者
・所感

2025/07/31、レイトショーにて、小学生の娘と鑑賞してきた。
※鬼滅の刃の映画の大ヒットの恩恵※※もあり、ほぼ映画館は鬼滅の刃一色であり、 本作もレイトショーしか枠が無かった。
※※
(公開2週間で興行収入150億円、、、ちなみに「劇場版 小林さんちのメイドラゴン
さみしがりやの竜」=以下、本作と呼称は5月下旬公開で7月末までで5億円)
正直、鬼滅の刃の映画(無限城 第一章 猗窩座再来)の3時間より濃密な2時間弱であり、大いに満足した。
ジェネリック新海誠(風景と美少女)、あるいは性と暴力に頼りがちだった作風を、アニメーションとしての可能性の原点回帰、いわばディズニー風に一新した、京都アニメーションの思想的転換点における、傑作だと感じた。
そしてそれは同社が手掛けてきたニッチなマーケット(2000~2020年代中高年男性)からは明確に距離を置き、次世代、児童視聴者を重視したものと理解できる。
むしろ本作は、青年誌の掲載作品でありながら、全年齢向けと表現すべきだろう。
(比較対象は、「クレヨンしんちゃん」。)
特に異種族間における情緒の変動、対立構造、対立における清濁と未来に重畳する雲の象徴的な表現が素晴らしかった。
・梗概

本作の設定を簡単に梗概しよう。
主人公のOL:小林さん
(下の名前はない=一般化されたOL=作者自身の造形の普遍化の戯画か)が、
酔いの絡みで偶然に飲みの関係をもったことから、ドラゴンのトールが押しかけ的に小林さん宅に同居することで繰り広げられる、異種族間のギャップを通じた日常系作品と理解できる。根本的には「人間」と「ドラゴン」という異種族におけるコミュニケーションギャップを、メイドと巨乳、あるいはロリータ造詣やオタク造詣により中和していく展開がメインとなるもので、高橋留美子「うる星やつら」の男主人公を妙齢女性化したハーレムものと考えてよいだろう。
基本的には異種族の対立を、メイドと日常で誤魔化しつつも緩やかに相克を目指すのがTVアニメ(1,2期)、漫画版とすれば、本作:映画は、異種族の対立構造の根本を問い直し、血縁の問題(ドラゴンの統治者の親類。カンナカムイ=以下カンナ、キムンカムイ)と、子供(カンナ)という両義的存在の葛藤を配置することで、その問題を可視化する試みといえる。
個人的に告白すると、申し訳ないのだけれど、女性の意匠はどうにも苦手だ。
小林さんはオヤジのようなくだ撒きの面倒な飲みキャラで殆どおじさんだし、
トールを始めとした、さして関連性や意味づけがあると思えない巨乳キャラの数々も、「ハーレムものではない」ことをOLに免罪符として機能させるだけのギミックにしか見えず、事実1期後半以降はショタキャラと巨乳の新キャラとの戯れなど、露骨な表象が展開されていくだろう。
しかし、映画版は違う。
本作の人気の中核にあるであろう「性欲」モチーフを封印する。
本作のTVアニメ版との決定的差異は性的欲望の徹底排除にある。
本作は、TVアニメ版に顕著であった、お色気や性的ギャグを封じることで、寧ろアニメ的表現の可能性の探求に的を絞ったといえる。
どういうことか。
例えばOPやEDにおける(人型)巨乳ドラゴンの踊りや、各戦闘やギャグシーンにおける巨乳などの活用、それらの描写は本作において極力排除されている。
本来であれば当然発生しうる動線や動的現象における巨乳の活写は敢えて削除され、代わりに登場人物たちの心象風景(主に首から上)が強調的に描写される。
・対話とアニメーション独自の表現の希求

本作のテーマの一つにある異種族対立と相克は、
映画版においては特に「声」(携帯電話、ボイスレコーダー、往復書簡、直接対話)による試みを強く印象付けるが、それは日本のアニメーション産業が長らく重視してきた「性と暴力」(セックスとバトル)ではなく、「思索と提案」を本作が提示するものである故と理解できる。
勿論、ドラゴン同士の戦闘や魔法描写、雲間のドッグファイトなどにおける描写はすさまじいが、キャラクターそのものの描写はあくまで抑制的に描かれ、緻密な描写に由来する性欲の発生を極力排除しようとするかのようである。
代りに息を吞む雲間の航空描写、異世界植物との遭遇、鮮やかな世界の夕焼けが配置され、アニメーション空間ならではの表現の可能性を模索するものといえるだろう。
そして、異種族対立の折衝の丁寧さは飽くまで相手の文脈により達成される。
考えには考えで、力には力で。
具体的には小林さんとキムンカムイの酒の酌み交わしであり、小林さんの歩み寄りによる魔法の援用によるキムンカムイとの往復書簡であり、アザードの魔法の謀略に対する現代技術(通信、記録)を援用した小林さん及びカンナの意思疎通であり、アザードの魔法に対する小林さんの魔法であるだろう。
本作が優れて全年齢的であると考えるのは正にここであり、統治者側のドラゴンたちはあくまで思考回路が停止した中高年成人の隠喩であり、カンナは未分化な存在として意思疎通の断絶に抗おうと情緒的に行動する児童そのものであり、小林さんは中間的な存在として両者を必死に繋ぎ留めようとする媒介者である。
そしてその媒介手段がキリスト教的な「大工には大工の言葉で」、相手の文脈で交渉と脚本が進むことに、異民族同士の剥き出しの対立や紛争が絶えない状況と化している現代(グローバリズムの広がりとアンチグローバリズム)の寓話としても読めるだろう。
と同時に、そのような対話の姿勢を失わない思想こそが、現代のビルドゥングスロマン足りえると示しているとすらいえるだろう。
だから、終盤に、カンナをネグレクト的父(キムンカムイ)には阿ねらせず、且つ小林さんにも無理な父役を与えず、異種族の「友」として関係を結び直す構造は、日常と美少女意匠の微睡に揺れる京都アニメーションを完全に別の次元へと導いたといえるだろう。
日常の切断だからこそ、静謐な音響が唸りを上げる、才川との別れ、キムンカムイへ怒りと嘆きを打つけるカンナ、父から小林家への帰還を迎える最期の音響が心に響く(エンディングが小林幸子、、、、)
またアニメーションならではの表現として、繰り返される金色の草原、綿毛の浮遊が、自律と郷愁との葛藤であり、地を這うドラゴンと舞うトールたちが白く渦巻く雲を介して屹立されるだろう。実写では決して無し得ない雲間を縫う空間展開、異世界の動植物による色彩豊かな造形と画角がその可能性を示すだろう。
雲は葛藤の意匠であり終盤まで晴れ渡らず対立は続くことを予期するが、一方で虹模様の夕焼けは対立の先にも希望があることを示す。
石原立也監督始め、本作のスタッフに拍手を送りたい。
・京都アニメーションの現在地と未来、あるいは視聴者

京都アニメーション(以降、京アニと呼称)の転換について少し記したい。
京アニがこれまで腕を磨き存在意義としてきた美少女の繊細で緻密な描写、圧倒的美術というジェネリック新海誠の路線の快楽を脇に置いたと書いた。
対置されるのはアニメでしか表現できない魅力であり、その可能性を掘り下げる意気込みの表明でもあると感じた。
京アニは、元々が1980年代からのシンエイ動画(どらえもん、クレヨンしんちゃんなど)、タツノコプロ(ガッチャマンなど)、サンライズ(機動戦士ガンダムなど)の児童~青年向けアニメーション作品のグロス元請としてスタジオの基礎を固め、1990年代にはスタジオジブリ(紅の豚、魔女の宅急便など)の作品にも参画するようになり徐々に業界で頭角を現してきた京都アニメーションは、2005年の「AIR」(原作はシナリオゲーム=いわゆるエロゲー。TV版は全年齢)での圧倒的な演出力で一世を風靡した。
続く「涼宮ハルヒの憂鬱」では、そのバンド演出の巧みさやキャラクター造詣の細やかさが社会的ムーブメントとなり、さらに「らき☆すた」「けいおん!」「CLANNAD」は同年代の若年層を巻き込む「京アニファン」を形成する大きな契機となる作品群となった。
その後、「日常」「氷菓」「響け!ユーフォニアム」「リズと青い鳥」「聲の形」といった佳作、良作を手掛けつつ、自らもノベルレーベルを立ち上げて収益源を確立しつつも、基本的にはいわゆる「日常系」作品に強く、反面、同年代に盛り上がりつつあった「日常ギスギス」や「決断主義」的、あるいは少年少女漫画とは一線を画す、ニッチな視聴者を盤石に獲得したビジネススキームであるといえる。
しかしこれを思想的観点から見直したとき、やや異なる様相があるだろう。
具体的にはそれは「超越を断念した結果に到来する日常を寿ぐ」観念だ。
京アニの土台はアニメーターの木上益治が一翼を担った。新海誠に由来する「フォトリアル」な表現の「コモディティ化」(石岡良治)をいち早く確立することで、繊細な運動表現に対応する見事な背景が展開する作品群は、ひとつのイノベーションをもたらした。
具体的には聖地巡礼ムーブであり、例えば日本の聖地巡礼ムーブメントの発端の一つ「らき☆すた」※において、そのファンが「実際に背景となっている場所に行きたい」という欲望を惹起する現象がみられたが、現代にいたる「コンテンツツーリズム」として一般化されるにいたる影響力は絶大である。
※もう一つの発端は「True tears」。
このフォトリアルな美術表現とともに重要な要素が、日常を魔法にする、
「エブリデイ・マジック」(石岡良治)だ。
例えば最新作「CITY THE ANIMATION」などでも顕著だが、京アニにおける「超越」的な表現は、日常を描きつつもそこから半歩踏み出してしまっている「気配」であり、これが「エブリデイ・マジック」であるといえるだろう。
「中二病でも恋がしたい!」「境界の彼方」「MUNTO」などではいづれも「川」のモチーフが重要になってくるが、京アニ作品のカップルの多くは、二人とも此岸にいながら、彼岸のこと(超越)も考えつつ青春の価値を追求しているといえるだろう。
前提として、彼岸への超越を断念しない人は死んでしまう
(「AIR」の観鈴、「CLANNAD」の渚、TRUE ENDを除く)。
「エブリデイ・マジック」と、川のシンボリズムの統合、彼岸を断念しての「日常」への回帰。この一連こそが京アニのもつ恋愛に対するスタンスであり、作品世界を通底するモチーフと、ひとまず指摘できるだろう。
さらに「けいおん!」では、それまでの「AIR」「CLANNAD」といったシナリオゲーム(エロゲー)原作からの完全な隔絶が観られるようになる。絵柄的には「セカイ系」から「日常系・空気系」に適応しつつ、プリクラフレームのような装飾を始めとする画面設計の洗練さは、京アニ作品を男女ともに拡大した一大契機といえよう。
つづく円盤や興行収入的には苦戦した「涼宮ハルヒの憂鬱 エンドレスエイト」「日常」(あらいけいいち)を経て、アニラジ系元祖の作品としての「らき☆すた」によるコンテンツツーリズムの惹起といった「日常系」王国の春を謳歌しつつも、石岡良治が指摘するような「日常の外への踏み出し」をこの時期に萌芽として観ることができるだろう。
それは具体的には「Free!」における、男性キャラに対する視覚的快楽の追求という側面に呼応した振幅のある関係性描写(玲と凛の一触即発の不和的関係性)など、深夜アニメに大きな影響を残したといえるだろう。
また、今はサイエンスSARUをメインに活動する山田尚子が未だ在籍していた当時の作品「たまこマーケット」では、様々なモチーフが登場しては纏まりに欠ける様相もありつつ、先述した彼岸此岸の問題意識も盛り込まれる。ずっと繁盛していると思われた商店街が、実はシャッター商店街になりつつあるなど、日常が簡単に崩壊しうる描写がそれらを予期するだろう。
ここに至り、あの凶悪な「京都アニメーション放火事件」の端境期に描かれた、
初期「響け!ユーフォニアム」では特に現時点での最終シリーズ作品
(2024年、「響け!ユーフォニアム3」)において、
先述した「超越を断念した結果に到来する日常を寿ぐ」の意識が最も強く表れているように思われるだろう。
詳しくはこちらの記事 ※ を参照願いたいが、
要するに、花田十輝により、極めて巧みに原作を換骨奪胎しつつ、
その本流である「日常主義」=黒江真由と、「実力主義」=黄前久美子の対決が、
男女学生部活動の高度なスクールカースト=いじめ状況を踏まえつつ、
その挫折と成功を、主人公の断念により達成するという高度な演出で殆ど臨界点にまで至っている、といえるだろう。
もっとも、その後、卒業後に黄前久美子が母校の高校に先生として帰任するに至り、そのスクールカースト制度が維持される恐怖の可能性(前世思想=保守への回帰)を示唆する観点には留意が必要だろう。
従って、現在京都アニメーションに求められるのは、2000年代のカルチャーの埋葬であり、「日常主義」の相克であり、映画「小林さんちのメイドラゴン」のような、異種族対立の追求と徹底におけるアニメーション表現への挑戦の両立といった構造を、性的欲求や暴力欲求に安易に奔ることなく、訴求し続けることであり、それを国内外へ発信していく我々視聴者の態度でもあるだろう。
参考文献
石岡良治「現代アニメ「超」講義」PLANTES


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