国宝


~希望としての死、芸術と消費社会における個人の可能性~

1,所感
2,国宝とは
3,歌舞伎とは
4,劇中劇、希望としての死
5,イエ、血統と芸術
参照文献

1, 所感
映画「国宝」を観た。控え目に言って、傑作だった。3時間が光の矢の如く過ぎ去った、非常に濃密な時間だった。
2020年代において決してメジャーな芸術とはいえない「歌舞伎」の俳優人生を、ヤクザの末裔と大御所俳優の息子という、二つの傍流の若年を主軸に大河的に描写していく。


冒頭の悪魔の表象=暗黒に舞い散る桜吹雪が対照化する、立花家の出入り(血)と最期の鷺娘における雪道を始めとしたあらゆる意匠が、芸術的にも文藝的にも日本の古典芸能の可能性を見つめなおすことになるだろう。

端的に言って、歌舞伎という芸術の、映画による再興であり、圧倒的な画面美術、絢爛な衣装、舞台意匠、歌舞伎の演目:藤娘、二人道成寺、曾根崎心中、鷺娘などの劇中劇を仮構した人間的描写の追求、なにより喜久雄と俊介を演じる、吉沢亮と横浜流星の、人智を超える演技力に目を見張るばかりだった。

役者経験者として、中盤以降の「血」に苦悩する喜久雄、初回の「曾根崎心中」における相乗効果、2回目の喜久雄と俊介が織りなす嘗てない複雑な関係性を確信犯的に演じあう「藤娘」、「二人道成寺」、「曾根崎心中」、人間としての幸福を振り払い続けた果ての「人間国宝」と成った喜久雄が最期に観る「美しい」景色、何もかもが感動的で清冽だった。

2,国宝とは

人間国宝(にんげんこくほう)は、日本の文化財保護法第71条第2項に基づき同国の文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称である。

日本の文化財保護法第2条第1項第2号は「演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとって歴史上又は芸術上価値の高いもの(以下「無形文化財」という。)」と規定している。すなわち、無形文化財とは芸能、工芸技術等の無形の「わざ」そのものを指すが、その「わざ」はこれを高度に体得している個人または団体が体現する。

そして、日本国政府はこのような「わざ」のうち重要なものを重要無形文化財に指定するとともに、その「わざ」を体現する個人または団体を保持者または保持団体として認定する(同法第71条第1項および第2項)。
文化財保護法の当初施行時(1950年)から、無形文化財に関する規定は存在したが、当初は国が保護策を講じなければ「衰亡の虞(おそれ)」のある無形文化財のみが保護の対象とされていた。(中略)
芸能分野は、雅楽、能楽、文楽、歌舞伎、組踊、音楽、舞踊、演芸の8つの種別に分かれている(Wikipedia)
つまり、これらの芸術は、国家の保護なしには衰退の一途を辿る芸術であると理解でき、歌舞伎もその末端を担っているものと理解できる。

3,歌舞伎とは

「かぶき者」は、戦国末期から江戸初期にかけて流行した、常識を逸脱する派手な服装や奇抜な髪型、装飾で人々の注目を集めた集団であり、社会の規範や権威に対して反逆的な姿勢を持ち、「異端」や「異風」のシンボルとされた。

1603年に出雲阿国が創始した「かぶき踊り」が、かぶき者の風俗やスタイルを舞台上で模倣・表現したことが、歌舞伎の原点であり、阿国自身が男装や軍装などかぶき者の特徴的な装いで踊り、これが大流行したことが基底にあるとされる。

当時、「異端」や「反骨精神」そのものが当時の大衆の興味と共感を呼ぶ魅力的な要素だったため、歌舞伎の舞台でも現実のかぶき者が着たような斬新で派手な衣装や、奇抜な意匠を積極的に採用た。これが観客の期待や時代の気分と強く結びついていたため、歌舞伎という新しい芸能が大流行したのだ。

当時の社会的には、戦乱の終息により武士階級の不満や鬱屈、価値観の揺れが起こっており、かぶき者たちの反骨や自由を象徴する美意識が芸能化(=歌舞伎)をとおして庶民文化にも波及した。

まとめると、歌舞伎が「かぶき者」の斬新な衣装や意匠を取り入れたのは、もともと「常識を揺さぶり、目新しさや反骨」を芸能に変換する、当時の社会・大衆心理や文化的空気を表現するためだ。現実のかぶき者が持つ「型破りで華やかなスタイル」は、歌舞伎が庶民に支持され、400年以上親しまれ続けた本質的理由の一つとなっている。

歌舞伎に関連して、そもそもの演劇についても触れておきたい。

演劇とは、起源的に神事であり、様々な内なる他者としての人間を己のうちに再現する、他者の再発明であるだろう。
本作で、俊介が繰り返す、「ほんもんの役者になりたい」。
「ほんもんの役者」とは何か。

それは、単に台詞を正確に言うことや技術的に動けることだけではなく、観客に「信じられる」「説得力がある」「強い存在感や没入感を生み出す」表現を指すだろう。

例えば、
1,信じられる現実感:「セリフを巧みに言う」のではなく、「あたかも自分自身として語る」ことで観客が状況や感情に納得できるリアリティを持つ演技が重視されるだろう。
2,説得力と存在感:役の人物が本当にその場に存在しているような印象、ついつい目が離せなくなるような魅力を持つ表現を示すだろう。
3,感情の伝達力:台詞や仕草に真実味があり、観客が自然に共感や感動を覚える演技があるだろう。
4,場や共演者を活かす力:自分だけでなくシーンや周囲の俳優、演出全体を高める働きができることだろう。

それらは、反復的な稽古と実践により醸成されるだろう。
台詞や動作を「自分ごと」で話す習慣や、現実の感情・動作と結びつけて繰り返し練習を重ねたり、他者の視点を体験・理解する訓練として、他人の人生や考え、身体感覚を自身で感じ、体現するための身体・心理訓練であったり。自己認識と感情との向き合いとして、自分の感情や反応を深く観察し、役の状況と重ね合わせて「内発的な動機」で表現することも必要だろう。

演技が「上手い」と感じられるかどうかは、観客の共感・信憑性・説得力など、感情との強い結びつきにもよるだろう。演者自身が「他者の人生を自分の肉体と声で生きてみる」プロセスを繰り返し、実体験として自分の表現に昇華させることが演技力育成の本質にあると思われる。

そしてその実践は、本作においては、劇中劇としての、「曾根崎心中」や「鷺娘」などを通して行われるだろう。

4,劇中劇、希望としての死

劇中劇の効果は本作の最大の魅力の一つである。芸術の最重要要素に「差異と反復」があるが、ある様式美の中で、予定調和の作劇において、どの程度その劇中人物を迫真的に造詣しうるかが、芸術性の判断基準の一つになろう。

一つ目のピークは初回の、師匠の代役での大舞台となる、「曾根崎心中」におけるお初を演じる喜久雄:女形が読み込む死があるだろう。
二つ目のピークは2回目の「曽根崎心中」におけるお初を演じる俊介:女形が読み込む死と、それを慈しみ哀しみに嘆く徳兵衛:喜久雄の役割があるだろう。
ここでは「希望としての死」について考えたい。
「曾根崎心中」における、心中ものと希望としての死。
「鷺娘」の、地獄の責めの末に、雪の上に身投げして絶命する、頽廃的な美としての死。

希望としての死、芸術的な悲願としての死に、類例的に解釈できるものとして、
AveMujicaの「angles」があるだろう。

AveMujicaは、BanGDream!(ブシロード)のプロジェクトの一環としてその(現時点では放送順番的に)末席に位置する、ガールズバンドであり、メタルロックバンドとして頽廃的で耽美な世界を神話的に奏でるグループだ。
その世界観と末路を描いた「BanGDream!AveMujica」は、2025冬アニメの最高峰であり、2020年代の、いわゆるガールズバンドアニメを代表する作品として位置づけられるだろう
(ちなみにガールズバンドアニメの四天王として、ほかに、
ぼっち・ざ・ろっく!
ガールズバンドクライ
BanGDream!It’sMyGO!!!!!」がある)

「angles」はAveMujicaの初期のナンバーであり、
彼我の幸福を生死により塗り替える楽曲だ。

その歌詞の一節は以下である。
(引用)繰り返すのね 愚かでしょ ‘生’ それが私たちを分かつものなの
(引用)あの月が満ちたら Curious ,so curious 怖くなるほど綺麗でしょ
    ‘死’それは私たちを結びつけるわ (angles、AveMujica)

つまり生命が別個である限り「私たち」は結びつくことが出来ず、
むしろ「死」によって、魂の融解によってこそ幸福が得られるのだ。

メタルロックの、存在の問い直しと神話への近接が、頽廃的で破戒的な価値観を醸成するものになっていると考えるが、この透徹した思考は、まさしく芸術的な追求と、個人に対置する社会に引き裂かれる情事を描く「曾根崎心中」や「鷺娘」の構造そのものであり、それはそのまま、芸術の追求と個人の幸福がトレードオフにある、むしろ幸福より芸術を追求する、「国宝」の主人公たち、とくに喜久雄の価値観と重なるだろう。

その求道の造詣が、異性愛より寧ろ、喜久雄と俊介の、ホモソーシャルな関係の再話と喪失によってもたらされたことが、ある意味で現代的かもしれない。
それはまた、情報環境的に閉ざされた、閉塞的で強権的なイエ制度によって醸成されたことも、見逃すべきではないだろう。

5,イエ、血統と芸術


本作では「血」=イエと「芸術」の対立が繰り返し描写される。喜久雄は師匠の代役の大舞台に際して極度の緊張下で、「俊介の血が欲しい」と涙ながらに訴えるし、俊介はまた、父4代目白虎の死後、母親の計らいで喜久雄を脇役に追い遣り、その「血」(イエ)の後ろ盾により逃亡生活に終止符を打つ。

では、「血」とは、もっと言えば「イエ」とは、日本的イエ制度とは何か。

イエ制度について、山崎正和は「柔らかい個人主義の誕生」(中央公論新社)で興味深い議論を行っている。
本書では個人主義の変遷と文化の一つの生成の根本を探っているが、その中にイエ理論、制度の有効性と限界を論じる下りがある。

イエ制度とは超血縁的家族の形態であり、永続性を最重視する組織であり、象徴的なトップ、例えば将軍より、執権や管領や老中が実権を取ることで事例される。

イエ理論の問題は、視野がイエという安定的な組織に集中してしまい、そこに生きる安定的な行動の様式に極限されていることだ。「一所懸命」という熟語に象徴されるように、一か所の土地という目的に、命を懸け、それを守り拡大する覚悟が、農民の心を持つ武士にとっての人生最大の目的なのだ。戦闘集団的な農民、武士はひとつの行動様式が生み出したものであるが、ならば、違った形、商人など、全く異なる様式もありえる。

商業はしばしば賭けと冒険の勇気が必要であり、随時の成功が必須であり、圧倒的多数の中小商人は「長者に二代目なき」ことに苦しんだ。重要なのは「信」とともに社交場の趣味と品格であり、「一期一会」の覚悟だ。こうして二代目は遊戯を学ばされ、没落しがちだった。こうして商人は家族愛の観念と同時に、家族外に男女の恋愛の観念を形成したが、家族とは、情念によって容易に破壊されるものとして成立したともいえる。

つまり擬似家族としてのイエはかなり妥当範囲を限られ、日本社会の構成原理の半分を占めるに過ぎず、イエ制度が最初から養子縁組という慣習をもとに観察され個人の二次的な加入の仕方から説明されたことに限界がある。

イエは専らその継承の側面から分析され、創業され新設されたときの状況は注目されていない。イエとは農民や武士の組織としても専ら二代目以降の構造ではないかということだ。
織田信長も豊臣秀吉も、彼らはみなイエ原理の紊乱者であり、自己と血縁の家族は信じていたが、いわゆるキントラクト、擬似家族的な関係は信じていない。日本社会がイエ制度を産みだしたということは、逆に同じくらいの数の個人主義者があったともいえる。

例えば日本社会は情報を重視するが、情報が伝達される人間関係は概ねイエ社会の外にある。情報によって結ばれた個人の一群が、大胆に生活の組織を離れて行動を起こす最大の事例が明治維新であり、幕末の有識者たちは組織よりも個人の情報に忠実であり、イエに殉じた幕臣は少数派だった。

そのうえで、戦後の日本社会における西洋からの批判として、ルース・ベネディクト「菊と刀」などで主張されるように、日本は近代的個人主義ではなく集団主義であり、「罪の文化」による自立ではなく、イエ的な、「恥の文化」による共依存的な様態であるとするものがあった。
これに対する批判として、浜口恵俊、公文俊平「間人」論が打ち出される。それは、社会構成要素としての個人と社会との関係によるを人間の生成こそ日本的であり普遍的であるものだ。山崎正和はそれらへの論調の批判として、構成員が集団や利益に忠実であればあるほど閉鎖的な存在になりがちであり、日本の集団主義の実態であり日本社会の問題であるとする。

これに対置されるのがゲオルグ・ジンメル「社会学の根本問題」における社交論だ。
そこでは「個人」と「社会」の根本が問い直され、個人を、様々な自然の性質や歴史的因縁の複合体であり、社会を、利害や愛憎や偶然の遭遇といった生命運動の結晶体であって、どちらも仮初の統一体にすぎず、むしろ無限に流動する「社会化」の過程と主張される。人間が自己を実現していく過程で現れるのが政治や経済や宗教であり、社会制度であり、社会が先にあるわけではない。したがって純粋な社会を観る機会もなければ、裸の人間関係を体験する場所もない。

しかしその例外的な発露の回路が、人間関係の遊び場ともいうべき「社交」であり、演劇的な「サロン」の会話なのだ。サロンの会話では個人は政治宣伝や経済の会話を禁じられるのは勿論、気分の表明や人生観の主張も一定の慎みが要求される。要するにサロン=社交においては社会が本来の形式としての姿を露出するとともに、個人も実質的な内容を隠して、個人の形式、ひとつの役割を演じることとなるのだ。 

ジンメルは間人論とも、トクヴィルやデュルケームとも異なり、組織としての小集団そのものに素朴な信頼を置かない。小集団に対する個人の帰属意識の深さや依存度に問題の解決は観ない。むしろ決定的なのは、人間が他人に向き合う以前にとる行動の態度であり、行動の内容に対してとる態度、審美的な態度なのだ。

個人や集団が目的至上主義的な態度を一方的に働かせるとき、それは閉鎖的、排他的にならざるを得ない。逆にそれが抑制されたときには、主体は個人であっても他人との協調が可能になり、社会全体の調和の路が開かれる。

もっとも、これらの主張の難点としては、社交やサロンが純粋な形式としての社会の現れとする根拠の不確かさであり、サロンの実態としても、様々な目的と無縁のものではなく、種種の目的に向かって開催される。しかし真摯な目的集団が遊戯的な会話の場に変わることもしばしば観られる現象である。

山崎正和はここで、むしろ彼らは、目的に「かこつけ」て「実現の過程を楽しんでいる」ことを見出す。人々は目的の実現を目指して急ぐことを辞め、目的を駆り立てるわれを忘れることから「解放」されるのだ。
「われを忘れる」ことは審美的な享楽の基本的な条件だ。それは目的実現のために自己を完全に手段化することである。

ものごとを深く味わうとは、すべて自己確認の営みだ。例えば食事について。最初は単純な生理的欲求の追求であって、忘我状態まで満足を追求するが、限界点において飽食する。飽食の時点で、満足の量的な増大を諦め、むしろ、満足の飽和を引き延ばして、その間に味わえる快楽の時間を引き延ばそうとする。消費は満足の効率主義を脱し、真に生産に対立する純粋な消費に高まる。人は食事の美味を味わいながら、味わっている自分の状態を確認し、ひとつの幸福の状態として味わう。いわば「満足の満足」を味わうのだ。つまり消費行動の目的と過程の意味が逆転し、快楽に没頭する自己と、それを確認して幸福を味わう自己の二つが相互依存的に存在する。

さらに自己の満足のためにもう一人の自己を求める個人は、その満足を高めるために自己の延長としての他者を欲しがる。孤独な食事より他者との食事を求める場合がそれにあたる。個人はまさに自己の利益のために自己を抑え、自己の存在のために他人を求めるのであって、個体と全体のホロン的な調和(全体性と部分を併せ持つ存在)は論理的に保障される。人間が社交を求める理由は、個別化現象の逆説的な表れ、極限の個別化が逆に個人を分裂させ、集合性へ回帰させることにあるといえるのだ。

つまり社交とその他の問題を、対立ではなく、より連続的に、例えば社会が政治的な目的をもち、政治が社会的な姿勢で行われる例を考えることが出来る。例えば古代中国の、社会を法ではなく礼節による統治にする儒教的思想、その徹底としての平安時代以降の日本、武家社会における礼法やさまざまな遊戯が、人々の行動の秩序を律してきたことを指摘できる。

いわゆるイエ社会の秩序は、たしかにキントラクトに支えられてきたが、同程度に、茶の湯の作法や連歌会の規範意識に支えられてきた。さらに言えば日本的経営意識や、ヤクザ、芸妓業界においても強い基準として用いられてきただろう。

ここで山崎正和は、「硬い個人」よりむしろ個人の徹底による(分裂した)「柔らかい個人」の実現の可能性に、消費社会における個人の進展に、新しい未来を予期している。

だが現代において、山崎正和が希望した消費社会における「柔らかい個人」の実現は、「顔の見える豊かな大衆社会」の夢は、インターネットの「顔の見えない大衆社会」に圧倒された。
世阿弥のいう「離見の見」、役割の自分をメタレベルから観察する自己は、インターネットに染まり勝ちになり、群れの考えに沈殿してしまうだろう。他人指向型の思考が酷く肥大化してしまうのだ。それは消費社会の大きな弱点であり、コミュニケーション不安であり、自己顕示がひとつの病的な様相である。ここでは「満足の引き延ばしによる満足の二重化」は有効化できず、むしろ日々の情報処理に追われ、「生産至上主義的な産業社会への先祖帰り」となっている(福嶋亮太)

その意味では、本作において、「悪魔」的に歌舞伎役者としての思考と行動様式を突き詰め、観客の感動と、審美的な彼岸の為に自己破壊的に邁進する歌舞伎役者たちの、喜久雄の姿勢は、山崎正和が志向した未完のプロジェクトの体現者であり、豊かな射程距離を持っているといえるだろう。

参照文献
山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」(中央公論新社)
「BanGDream!AveMujica」(ブシロード)
BanGDream!AveMujica~音楽、神話、刹那の永遠~
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https://www.jstage.jst.go.jp/article/jssw/52/2/52_KJ00007493937/_pdf/-char/ja
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https://note.com/damaoji/n/n8656aa99081f
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https://note.com/nyake/n/n3ce5a4a86989

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カテゴリー: 映画

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