機動戦士Gundam GQuuuuuuX

~自己批評的な介入~

Contents
・所感
・機動戦士Gundam GQuuuuuuX とは (完結)
・歴史とは何か 未来への橋渡し
・機動戦士ガンダムにおける架空戦記とニュータイプ、成熟の変遷 
・データベース消費と自己批評 
・「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」における可能性 自己批評的な介入
・各話総評
・参考文献

・所感

怒りも哀しみもなく、視聴後に居たのは「終わった」と頭を抱えた私だった。
一言で言えば、ニュータイプとは逃げ切れない1980年代思想の再話だったのだ。
後半は面白い(最終話除く)。登場人物の思想は総じて1990年代で停止する思春期の男子の女子への置き換え(終わりなき日常への反抗)であり、あくまで歴代ガンダムのパロディの政争に晒される素材に過ぎないことが明らかにされるだろう。同時期に放送されていた「九龍ジェネリックロマンス」※の世界に投げ込むべきだったかもしれない。

本論では「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」(以降、本作と呼称)を懐疑論的立場から検証し、自己批評的な介入により、さらなるファン層や世界観の獲得がありえたことを提示したい。

※郷愁の持つ退行性と暖かさを批判的に検証する傑作。クローンをモチーフに、変化を望まないノスタルジーの似姿を描く。思い出とは蜃気楼であり他者の投射であり、差異を反復しグロテスクな現実を剔抉することを提示した。

・機動戦士Gundam GQuuuuuuX とは (完結)


(参照 
「ニュータイプ」の「終わり」 はどのように訪れたか——『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ガンダム ジークアクス)最終回について』

本作は二層構造だ。前者は制作会社のスタジオカラーが「機動戦士ガンダム」の世界を改変する「データベース」の遊びであり、架空戦記の架空戦記の快楽を追求する。主人公は「シャリア・ブルだ。後者は前者の「砂場遊び」を打破するために、架空戦記の快楽に停滞する第一世代を打破するための「自己批評」である。主人公は「マチュ」及び「ニャアン」だ。

世代的にも世間的位置づけ的にも、前者を「庵野秀明」及び旧GAINAXとするなら、後者は「榎戸洋二」と「鶴巻和哉」及びスタジオカラーと言えるだろう。
一方で鶴巻和哉が、その働き盛りの全盛期を、旧GAINAXなどが主催する作品※の主幹として体よく引き受けてきてしまったことが、理解をより複雑にするだろう。また、現在のスタジオカラーは実質的に旧GAINAXのメンバーが創業していることもこれに拍車をかける。
※「新世紀エヴァンゲリオン」「フリクリ(FLCL)」「彼氏彼女の事情」「アベノ橋魔法☆商店街」「天元突破グレンラガン」Etc)

つまり後者にも前者の要素が大いにあり、前者も後者も同時に内包する要素をもとに構築されたのが本作といえるだろう。
体裁的には例えば、「フリクリ(FLCL)」における、「終わりなき日常を、美少女の自意識で楽しく遣り過ごす」ことが前者の主題であり、現代の少女たち(マチュ、ニャアン)が現代的思考と行動でそれらを突破することが後者の主題といえる。

そしてその結末は、後者の主題が置き去りにされてしまったといえるだろう。
オジさんの自分たちの停滞感、90年代的な自意識のしようもなさは、現代の少女たちに突破される(もしくはされない)以前に、ほとんど「オジさん」の物語になってしまったのだった。それは物量的な観点からも、文芸的な観点からも、同様の指摘をすることができるだろう。

ほとんど何の説明もないまま次々と提示される過去作品の遺物(サイコガンダムなど)や登場人物(バスクオムなど)、果ては主題歌(BEYOND THE TIME等)などが、現れては立ち消える様相は旧作世代と現役世代の隔絶を示すだろう。

ちなみに日本テレビアナウンサーの吉田尚記は、本作を評して「機動戦士ガンダムTikTok」としたほどだ。二次創作の文脈とも関連するが、既視感を積み重ね、シチュエーションを重ね、スピード感を重ね、音楽を重ねる手法は、ほとんどTikTokのそれである。既知のものしか流行しないのだ。
もはや、本作にとって若者のドラマは「もうどうなってもいい」。かろうじてシャリア・ブルの物語があるに留まる。最後にシャリア・ブルが託す、物語としての希望も限りなく幼いだろう。その恐るべき理由は「家出に躊躇いが無い」から。。。

初代の機動戦士ガンダムは富野由悠季の人物造詣と世界観の考えの反映であり、アムロは当時の10代、20代であり、メディアに適応し自閉傾向があるものとして描かれた。シャアは1970年代のアイロニカルな表象だった。

現代になり、シャリア・ブルはガンダム世代で50,60代の考察伯父さんの消費である。社内クーデターに勇気を与える少女に希望を託す。あんまりである。

初代ガンダムはニューエイジ+ニューメディアのモデルであり、情報感度の高い若年層をSF的に描いた。現在に至り、家出娘を愛でる、まるで島耕作が若い愛人に叩かれて喜ぶ構図である。
本気でマチュとニャアンの物語をやることはできただろう。考察ゲーム、大人のガンプラ砂遊びと、これらは両立できるはずである。

・歴史とは何か 未来への橋渡し

前の記事でも触れたように、E・H・カーの「歴史とは何か」では、歴史の本質と歴史家の役割について考察している。
<歴史の概念>

  1. 現在と過去の対話:歴史は現在の視点から過去を解釈し、評価する過程。
  2. 選択的な解釈:歴史家は事実を選択し、解釈を加える。完全に客観的な歴史は存在しない。
  3. 価値体系の反映:歴史は事実の背後にある価値体系や思想体系を含む。
  4. 未来への橋渡し:歴史は過去の教訓を未来に伝える役割を果たす。

4.未来への橋渡しとから考えてみたい。
これは、「過去が未来に光を投げ、未来が過去に光を投げる」、
つまり歴史が単なる過去の記録ではなく、過去の教訓や伝統を未来へと伝える役割を持つということになる。
歴史とは「獲得された技術や知識、経験が世代から世代へと伝達されていくことによる進歩」であり、この伝達こそが人類の可能性の発展につながるとされる。

「進歩の目的は遠くにあり、歴史のゴールは明確に設定できない」としながらも、歴史家は過去の事実を解釈し、未来の基準や価値観と照らし合わせて意味づけを行う必要があるとされる。つまり、歴史の解釈や評価は固定的なものではなく、未来の視点や課題によって変わりうるという柔軟な歴史観を示したものだ。

本作における、架空戦記における「歴史」とは、参照されるべきものとは何か。それは「戦争」と「ニュータイプ」であるだろう。

・機動戦士ガンダムにおける架空戦記とニュータイプ、成熟の変遷 

例えば初代の機動戦士ガンダムにおいて、太平洋戦争の表象における深層の関連があるだろう。ジオン敗北の戦争の展開様相は旧日本軍の敗北とほとんど相似している。
地球連邦をアメリカ軍に、ジオン軍を日本軍に見立てると、太平洋戦争とほぼ同じ展開を見せるからである。

例えばジオン軍による「コロニー落し」を中心とした開戦直後の奇襲攻撃、新兵器「ザク」の投入、地球連邦に対するジオン軍の優位性獲得による戦況の膠着は、真珠湾攻撃の奇襲とその成功、日本の郵政、太平洋戦争初期におけるゼロ戦の活躍と相似だろう。

ジオン軍の優先は、ザクの優位性と、ザク以上の性能をもつ「ガンダム」の開発と量産化による逆転で展開され、これらは、緒戦のゼロ戦の優位性が米軍の新型戦闘機ヘルキャットなどの登場により覆される太平洋戦争の展開とも重なる。

物語終盤の、ジオン軍の宇宙要塞「ソロモン」の陥落、宇宙要塞「ア・バオア・クー」の陥落により戦争の終結と和平の締結が結ばれるくだりは、太平洋戦争終盤のソロモン諸島の戦いが、日本軍拠点ラバウルを無力化させ、沖縄を占領し、日本が降伏するくだりと相似である。
これは表層的な部分で全面的に太平洋戦争の日本軍を参照している宇宙戦艦ヤマトと正反対であるだろう(歴史修正願望の否定)。

これに対し、例えば本作では、歴史修正主義者の正当化(ジオン勝利)後のサイド6(日本の比喩)における「偽りの正義」(連邦軍の後ろ盾、日本における米国の核の傘の平和)を強調することによる欺瞞の打破と「日常の終りの対峙」=現実との対峙の可能性はあっただろう。
なお、本作に関し「マチュが不殺」の主人公であり史上初の快挙として称える向きがあり、上述したものと非常に相似形であり、浅ましいとすらいえるだろう。

あるいはニュータイプについてはどうか。
これについては宇野常寛「母性のディストピア」に詳しいため、ここでは「人類の革新」としてのニュータイプが「人間としての成長」=成熟としても描かれることを鑑みて、2,3の指摘に留める。例えば初代の機動戦士ガンダムにおけるアムロ・レイにおける成熟モデルは、「(間違った)家族の喪失と、擬似共同体の獲得(ホワイトベースの仲間)」にあるだろう。

あるいは1993年の機動戦士Vガンダムにおけるウッソ・エヴィンにおける成熟モデルはどうか。それは「素朴な反戦」から「故郷を守るために実効的に戦う」スタイルとしての「反戦」にあるだろう。

あるいは直近の傑作、機動戦士ガンダム 水星の魔女における成熟モデルはどうか。彼女はデッドコピーであるが、それゆえにオリジナルをも包摂するものとして、さらには母殺しならぬ「母赦し」の物語として描かれただろう。
これらは「ニュータイプ」の意義の後退とともに、時代に応じた成熟モデルの変遷がありえることを示している。

本作において、マチュもニャアンも、ほとんど内面的な成長など見せず、「キラキラ」というサイケデリック表象を通じた並行世界へのアクセス権を基に、シャリア・ブルやキシリアにいいように利用され、ほとんど闇バイトで搾取される中高生の様相を呈している。


翻って、マチュにも、ビルドゥングスロマンを与えれば、若者の物語としてのダイナミズムを生み出す可能性があり、それはシュウジ(ラブロマンス)ではなくニャアン(格差と貧困)との本気の対峙であり、現実との対峙であっただろう。

・データベース消費と自己批評 

シミュラークルとは、もはや何かの「模造品」や「再現」ではなく、現実の参照点を持たない記号やイメージである。シミュレーションは、そうしたシミュラークルを無限に生産し、現実を再構成するプロセスを指す。

ジャン・ボードリヤールは「シミュラークルとシミュレーション」で、現代社会において記号やイメージが現実を先行し、現実そのものを置き換えてしまう現象を論じた。かつては「表象」が現実を指し示してたが、現代では「シミュラークル(オリジナルなきコピー)」が氾濫し、現実と虚構の区別が曖昧になる「ハイパーリアル」な世界が生まれる。

これと対照的なのが参照、データベースであり、記号やイメージが「現実の何か」を指し示し、現実との等価性・交換可能性を持つものである。
参照は現実やオリジナルとのつながりを前提とするが、シミュラークルは参照点を持たず、それ自体が現実のように流通・消費される。

本作は初代のガンダムのような「シミュラークル」ではなく、むしろ参照、データベース消費=二次創作と言えるだろう。
補足としては、二次創作は、一次創作という「オリジナル」を参照する点で、「表象」に近い側面を持つが、繰り返し改変・拡張されることで、やがてオリジナルとの関係が薄れ、シミュラークル化することもある。
また、一次創作は、理想的には「オリジナル」を自ら生み出す行為だが、現代では全ての創作が何らかの影響や記号体系の中にあるため、完全な「純粋創作」は理論上困難とも言える(例えば初代の機動戦士ガンダムは、預言の第三次世界大戦のタネ本があるなど)。

二次創作を一次創作に引き上げる実例として、
「仮面ライダーディケイド」、「スパイダーマン:スパイダーバース」、「ダークナイト」などを挙げることが出来よう。

例えば「仮面ライダーディケイド」においては、歴代の平成仮面ライダーの各世界を、微妙に異なる世界観にしつつ、仮面ライダーディケイドがヒール的に出入りすることで、歴代作品の紹介と現代への引き戻しという商業的側面のみならず、それぞれの作品世界の批評的総括という文藝側面に挑戦した野心的作品だ。

そこでは、仮面ライダーが根本的に有する「異形性」、複数の仮面ライダー並行世界を短いスパンで出入りするための「要約可能性」、各仮面ライダー世界を出入りすること自体の「移動性」、現実の視聴者のアーケードゲーム用(ガンバライド)や玩具としての「ガジェット」、各仮面ライダー世界がそれぞれ異なる人物造詣で構成されていることの「累積性」が観られるだろう。ここでは、同一世界の住人であることが、正義と悪の区分よりも優先される存在感が示され、「各世界の正義」という相対化された尺度を持ち込む。(石岡良治「「超」批評 視覚文化×マンガ」)。

これは「スパイダーマン:スパイダーバース」においても同様で、ここでは各並行世界(デザインのみならず描写も2D,3D, オールドトゥーン、実写など多岐にわたる)のスパイダーマンたちが、主人公のスパイダーマンが介入することによる自らの並行世界の存亡を賭けて、現行世界のスパイダーマンを潰しにかかるという様相が呈されることで、世界の在り方と正義の在り方をメタ的に追及するスリリングさと優れたエンタテインメント性の両立があるだろう。

あるいは「ダークナイト」は、バットマンのリメイクとしてクリストファー・ノーランが手掛けた2作目にしてバットマン映画の頂点に君臨する世界的ヒット作だが、そこでは徹底的な正義の追求による不正義への回路、古い慣習に破れる古い正義と邪悪の生成、その環境を生み出し続ける無根拠な悪という現代性が惜しみなく描写され、視聴者は文字通り「度肝を抜かれる」だろう。

それらのような「原理の突き詰め」や「現実世界と並行世界の対比」の徹底は、本作においても新しい回路を産みだせただろう。

・「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」における可能性 自己批評的な介入


まとめよう。筆者は以前の記事でこう述べた。
今、ガンダムを描き直すことであり得るポジティブな可能性とは、
ユニセクシャルな主体、あるいは玩具的ロボットの祝祭性を、
「ニュータイプ」的なフューチャリズムに匹敵するビジョンに結実させることができれば、
家族的なものや生殖的なものを超克し、
現代的な他者への想像力を発揮しうるのではないかということだ、と。

しかし残念ながら本作においては二次創作の快楽が強すぎたため、商業的にはガンプラテクノロジーの発展を含め大成功だったが、創作的にはその体裁を半ば放棄した形となってしまった。

これに対し、ありえた可能性としては自己批評的な介入による物語の創作である。
歴史修正主義者の正当化(ジオン勝利)後のサイド6(日本の比喩)における「偽りの正義」(連邦軍の後ろ盾、日本における米国の核の傘の平和)を強調することによる欺瞞の打破と「日常の終りの対峙」の可能性はあっただろう。それはニャアンの活用可能性でもある。

成長物語として捉えれば、アムロ(家族の喪失と擬似共同体)、ウッソ(素朴な反戦から実効的な反戦としての故郷防衛)、スレッタ(デッドコピーによるオリジナルの包摂)のように、マチュにもビルドゥングスロマンを与えてダイナミズムを生み出す可能性があり、それはシュウジ(ラブロマンス)ではなくニャアン(格差と貧困)であっただろう。

また近年の「日常の終り」と「原理主義」
BanGDream! It’s MyGO!!!!!における詩的言語の可能性、
BanGDream!AveMujicaにおける音楽神話の構築など)を踏まえると、
サイド6の平和の欺瞞性(連邦軍の防衛の傘との関係など)とマチュの(オジさんの)「自意識のどん詰まり」を打破する可能性もあっただろう。

原理主義と自己批評的な創造性は、創作の原初であり、未来を志向する糸口となることで、新しい可能性を模索し続けているものでありたい。

・各話総評
STAFF
制作:スタジオカラー サンライズ
原作:矢立肇 富野由悠季
監督:鶴巻和哉
シリーズ構成:榎戸洋司
脚本:榎戸洋司 庵野秀明
キャラクターデザイン:竹
メカニカルデザイン:山下いくと
アニメーションキャラクターデザイン/キャラクター総作画監督:池田由美 小堀史絵
アニメーションメカニカルデザイン/メカニカル総作画監督:金世俊
デザインワークス:渭原敏明 前田真宏 阿部慎吾 松原秀典 射尾卓弥 井関修一 高倉武史 絵を描く PETER 網 mebae 稲田航 ミズノシンヤ 大村祐介 出渕裕 増田朋子 林絢雯 庵野秀明 鶴巻和哉
美術設定:加藤浩(ととにゃん)
コンセプトアート:上田創
画コンテ:鶴巻和哉 庵野秀明 前田真宏 谷田部透湖
演出:鶴巻和哉 小松田大全 谷田部透湖
キャラクター作画監督:松原秀典 中村真由美 井関修一
メカニカル作画監督:阿部慎吾 浅野元
ディティールワークス:渭原敏明 田中達也 前田真宏
動画検査:村田康人
デジタル動画検査:彼末真由子(スタジオエイトカラーズ) 三浦綾華 中野江美
色彩設計:井上あきこ(Wish)
色指定・検査:久島早映子(Wish) 岡本ひろみ(Wish)
特殊効果:イノイエシン
美術監督:加藤浩(ととにゃん)
美術監督補佐:後藤千尋(ととにゃん)
CGI 監督:鈴木貴志
CGI アニメーションディレクター:岩里昌則 森本シグマ
CGI モデリングディレクター:若月薪太郎 楠戸亮介
CGI テクニカルディレクター:熊谷春助
CGI アートディレクター:小林浩康
グラフィックデザインディレクター:座間香代子
ビジュアルデベロップメントディレクター:千合洋輔
撮影監督:塩川智幸(T2 studio)
撮影アドバイザー:福士享(T2 studio)
特技監督:矢辺洋章
ルックデベロップメント:平林奈々恵 三木陽子
編集:辻󠄀田恵美
音楽:照井順政 蓮尾理之
音響監督:山田陽(サウンドチーム・ドンファン)
音響効果:山谷尚人(サウンドボックス)
主・プロデューサー:杉谷勇樹
エグゼクティブ・プロデューサー:小形尚弘
プロデューサー:笠井圭介
制作デスク・設定制作:田中隼人
デジタル制作デスク:藤原滉平
配給:東宝 バンダイナムコフィルムワークス
宣伝:バンダイナムコフィルムワークス 松竹 スタジオカラー 日本テレビ放送網 東宝
製作:バンダイナムコフィルムワークス

1話

75点
演出;メガネの操縦席の裏に突っ込むデバイスがセクシャルを隠喩してきもい
脚本;劇場版のBeginning要らないのでは。劇場版通り
絵コンテ;冒頭民間用ザク戦闘は良い
キャラデザ;90年代自意識の女子化
美術;GQuuuuuuXとマチュ覚醒のサイケデリック表象は良い(シドバレット
音響;劇場版より抑制し調和的
OP;なし
ED;モノに溢れた過剰な世界で踊るマチュもニャアンも消費に見える

2話

60点
演出;観るのは三回目だが冒頭が本当に緩慢。初代を知らなければ二次創作もいい所。ゼクノヴァのカットはいいかもしれない
脚本;原作へのリスペクトと面白さは別
絵コンテ;リスペクトを随所の構図に
キャラデザ;竹との落差がヒド過ぎる。シャア喋り過ぎでは
美術;綺麗なザク、木馬、シンガンダム
音響;原作に寄せすぎ

3話

75点 娘「OPは最高なんだけどね、、」
演出;ジークアクスは良く動くが戦闘に成ってないので、サイケデリック表象で救われたようにしか見えない
脚本;ニャアンをもっと活かすべき
絵コンテ;音に踊る赤いガンダムは良い
キャラデザ;アマテは完全に闇バイトに飲まれがちな軽く葛藤を無理矢理つくる普通の子であり、ガンダムに乗り込む必然性は微塵もない
美術;サイケデリック表象を繰り返す。愛媛の蜜柑箱は可愛い
音響;鳴らし過ぎ

4話

70点 スガイシイコの満足できない状況に対する提示は2世紀遅い
演出;ララ音で超越する意匠はララァでありサイケ表象である。マチュが何もしない展開は諦念か可能性か
脚本;裕福さで右顧左眄するマチュと同級生の葛藤はクラゲ含め非現実的
絵コンテ;stigma連発し過ぎ
キャラデザ;シャリア・ブルの嬉しさはキモ。状況整理できるニャアンを活用を
美術;過ぎ去るサイケ表象は美しい
音響;鳴らし過ぎ

5話

70点 ニャアンはキラキラを知らない
脚本;榎戸洋二 演出;倉富康平
演出;★★★の致命傷戦闘が雑過ぎでは。ニャアンの暴走による夭折の未来が見える。雨を走るマチュの悔恨は良い
脚本;エグザベの救助行為はセクシャル以上のものが見えない
絵コンテ;折角の軍警との鬼ごっこは動かない
キャラデザ;★★★ガイアとオルテガの冒頭からかませ犬感。無法者の終わりなきサイケ表象への欲動はマチュに伝わらない。悪いがガイアの説得力が高い。ニャアンの濃厚な死亡フラグは勘弁
美術;太陽光遠心炉の意匠が素晴らしい
音響;陸上競技のBGMが、、
文芸:キラキラが富裕層の終わりなき日常の戦争への欲望以上に見えない

6話

75点 初代からZZまでパロっていくのか?
演出;ドゥーの半裸は不要。書き換わる世界の中で変わらない感性が浮き彫り
脚本;雇い主とニャアンの会話は20年古い
絵コンテ;アンキーとシャリアの会話劇は良い。スマホケースも空調機も可愛い
キャラデザ;マチュはちゃんと勉強して地球で働く権利を探すべき。ただの痛い中学生レベル
音響;折角しっとりのニャアンを阻害する歌声。神社も入れすぎ

7話

85点
演出;キシリアに聞こえるキラキラがシュウジをララァに塗り替える
脚本;アンキーの分かりやすい悪役もマチュの分かりやすい反抗も予定的。シャリア・ブルのスパイ対策言動は良い
絵コンテ;未定義のキラキラに翻弄されるマチュも強化人間も等しく幼い
キャラデザ;マチュとニャアンの関係は、ルルとスザクというよりZのエマとレコアか
美術;金をまき散らすGQuuuuuuXは良い。ビル戦闘も良い
音響;ニャアンの告白で音楽を入れるな

8話

90点
演出;1年戦争を2回に描き分ける戦略は良い
脚本;ミゲルを溶かすエヴァもどきのガンダム。庵野秀明の脚本が巻き捲くる
絵コンテ;7話まで観ると1年戦争が輝いて観える不思議。シャロンの薔薇=キラキラ源泉か
キャラデザ;やはりシャアが輝く
美術;冒頭の外観と街並みのルナツーは何度見ても圧巻

9話

80点
演出;ニュータイプが単なるサイコキネシスに矮小化、、
脚本;カバスの館に墜落 ララアは男を呪縛する魔女から夢見がちな少女に矮小化されてしまう、、九龍ジェネリックロマンスに投げ込むべき
絵コンテ;地球落下のシークエンスが素晴らしい
キャラデザ;本物というだけで妄信するマチュは難民化して殺すべきでは、、予想通りシャロンの薔薇がララア:羊宮妃那、、モブキャラまで破壊願望の90年代遅れ、、
美術;ヘラクレスオオカブトは良い。紫の夕暮れも綺麗
音響;抑制的でよい

10話

85点
演出;ニャアン、出ちゃいますがMVP
脚本;ニュータイプが並行世界アクセス権のサイコパスに、、、シャリア・ブルがジュドーの木星修行の擬似に
絵コンテ;マチュとニャアン、レコアとエマ対決構図は本気で勘弁
キャラデザ;マチュを持て余し過ぎてシン・アスカ化 ギレンもキシリアも竹と乖離大きすぎ
美術;イオマグヌッソの岩石風味とSMR系は良い
音響;SANKYOでブルーロックのパチスロw

11話

85点 最後にシュウジが富野由悠季化したら神作品
演出;キラキラなら救える幻想の根拠が観えない。劇場のシャア再演は狙いすぎだがに自訴創作的には満点
脚本;キケロガ遣り過ぎ。エクザベがヤラレル。ニュータイプが完全にサイコパスに矮小化で幻滅、ニャアン殺すフラグやめろ
絵コンテ;オールレンジ攻撃の解説不要。矢鱈なセクシャルアングルは不快
キャラデザ;主役はシャア、シャリア、キシリア、アムロ。若手置いてけぼり
美術;シュウジとシャアの謎の油絵
音響;BEYOND THE TIMEで首を絞める

12話

65点 ニュータイプとは逃げ切れない1980年代思想の再話 
演出;伯父さんを自己犠牲的に美化し過ぎ。シャリア・ブル爺が擁護する逃避するだけの若者描写やめろ。母性のディストピアの象徴ララァを否定する思想は良い。中年伯父を最後まで救う筋書きは良くない。また会える、ガンダムが行っている。頭を抱える私
脚本;ララァエルメスとシャアがシュウジアムロとアルティシアの共闘、、キシリア殺害までの下りは台詞に対して画面が緩慢。ガンダム巨大化ギャグ(富野由悠季のハイパー化概念、ウルトラマンの隠喩)は良いのだが、クアックスのエヴァンゲリオン化に始まり、シュウジが執着するララァへの想いも、いきなり説教始めるマチュに絆されてキスの流れも新喜劇でしかない
絵コンテ;冒頭のシャリア・ブルとエグザベの殺陣が秀逸。キケロガと赤ガンダム殺陣も凄い
キャラデザ;シャアに否定されるララァの世界観は良いが初見者置いてけ堀。キシリアに適当保護されるニャアンが本気で哀れ。惚れっぽいマチュがララァの為にシュウジを否定する流れも軽薄すぎる
美術;イオマグヌッソ開陳が良い
音響;たかやしきじんの巡り合い空は五月蠅い。サイケデリック表象音楽入れすぎ

総括

総評 76点 ニュータイプとは逃げ切れない1980年代思想の再話だった(orz)
後半が面白い(最終話除く)。登場人物の思想が総じて1990年代で停止する思春期の男子の女子への置き換え(終わりなき日常への反抗)であり、あくまで歴代ガンダムのパロディの政争に晒される素材に過ぎない。九龍GRに投げ込むべき。マチュとニャアンの関係は、ルルとスザクというよりZのエマとレコアである(非重要)。それを過度に美化し擁護する伯父さんを自己犠牲的に描写するのが痛々しい。ニュータイプを別世界との境界的存在と位置付けるのは許容できるが別世界の魅力が無いのは厳しい。ガンダム風味のポピテプテックという文脈はGガンダム的な拡張性として考える余地がある.検討すべきは、母性のディストピアの源泉たるララァを殺害しながら最後でシャアと再会させるポリコレであり、
中年男性を慰撫するしか市場の可能性を見出せない日本アニメ市場の閉塞性であり、
リファレンスをシミュラークルに昇華できないクリエイターが受けてしまう文化的貧困だろう

・参考文献
・宇野常寛「母性のディストピア」ハヤカワ文庫
・石岡良治「「超」批評 視覚文化×マンガ」
・小島伸之「機動戦士ガンダム」と太平洋戦争ー戦争表象の真相と主人公のトラウマ<森茂起、川口茂雄「<戦い>と<トラウマ>のアニメ表象史」ー「アトム」から「まどか☆マギカ」以後へ 日本評論社
「ニュータイプ」の「終わり」 はどのように訪れたか——『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ガンダム ジークアクス)最終回について』
続・「ニュータイプ」の「終わり」 はどのように訪れたか——『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ガンダム ジークアクス)最終回について』
『ガンダムジークアクス』はもはや“考察”が本体? 元ネタ探しは楽しいが、“世界が閉じすぎている”息苦しさも「これはアニメ本編を楽しんでいると言えるのか…」
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・PLANETS 「機動戦士Gundam GQuuuuuuXマチュとニャアンの描かれるはずだった物語とは何か?」 2025.06.30 ニコニコ動画 宇野常寛、石岡良治、吉田尚記、成馬零一

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