反転するアイドル像と格差の問題
Contents
・所感、梗概
・アイドル像、あるいは「日常系」の終焉
・魔法少女における魔法の表象と変遷
・認知療法について 赤城ユイナの行動パターンに観られる認知療法
・認知療法で救えないもの 経済格差と三俣チヨコ
・格差の摩滅 (公助、共助、)自助
・想像力の射程距離 ドラマとアニメと視聴者層 あるいは「ポスト」プリキュアの提示
・各話総括
・所感、梗概
先ず初見の視聴者は戸惑うだろう。始めに、登場人物たちの会話の噛み合わなさ、(意図的で露悪的)な演出とのズレの大きい1話に。そして、2話以降の、地獄のBパート、Cパートのクリフハンガーで、思春期の女性を蝕む現代的問題の複雑さと、圧倒的に解像度の高い人物造詣に。
先に結論を述べてしまうと、本作「前橋ウィッチーズ」は映画「トラペジウム」への返答、あるいはアイドル論と接続し、アイドルの持続可能性を考えるうえで大きな有効性があると考える。一方で、具体的な名称としての前橋を冠する影響を考えた場合、その経済的政治的構造の問題に対処する必要性があるだろう。
ここでは「前橋ウィッチーズ」(以降、本作と呼称)を論考するうえで、モチーフとなる「アイドル」の変遷、魔法少女における「魔法」の変遷を考える。そのうえで本作で示される認知療法的行動の特徴を観たうえで、尚も掬いきれない「格差」の課題にどう対処するのかを考えたい。
そこには「ポスト」プリキュアの課題に対応し切れていないアニメ業界の、そして日本の未来が見出せるかもしれない。
※ネタバレ全開注意。クリフハンガーものであり、先に本編の視聴を推奨する
※シリーズ構成:吉田恵梨香は「ぼっち・ざ・ろっく!」「虎に翼」を担当しており、人物造詣の深さに定評がある
・アイドル像、あるいは「日常系」の終焉
前の記事 でも触れたが、ここでは簡単に2010年代以降のアイドルとアイドルアニメを概括したい。
2000年代前半の邦画「リンダリンダリンダ」、2000年代後半のアニメでオマージュとして援用される「涼宮ハルヒの憂鬱」のライブシーン(God knows,,,)を経て登場した「けいおん!」は、いわゆる「日常系」の最高傑作として、「いまこの瞬間のゆるいつながり」を肯定的にロックミュージックに乗せて人口に膾炙した。
その後2010年代にAKBグループやももいろクローバーZが牽引した「アイドルブーム」と合流し、音楽アニメもアイドルを題材にした作品が頻出していく。象徴的なのは「ラブライブ!」で、脚本家における「けいおん!」との共通性、「軽音部」「スクールアイドル」などの部活ものの「日常」「青春」の刹那性は相性が良かった。アイドルライブのパフォーマーとオーディエンスの一体感、アイドルが持つ「キャリアの不可逆性」は刹那性を高める相乗効果をもたらし、アイドルこそ「今この瞬間」の肯定性を歌い上げるのに極めて適していたのだ。
この「日常系」は、SNS社会の進行とともに、アイドル産業が抱える構造的問題が指摘されるようになってきた。(半ば強制的に)アイドルのファンサービスが日常的なプライベート投稿すらコンテンツとして消費されるようになり、労働上の問題と化してきた(香月孝史「日常化するドキュメンタリー」)。「日常」に潜む問題として、アイドルが「日常」のことを自己言及的に発信すれば、むしろその「日常」は崩壊する。日常は労働に回収される搾取的構造が成立してしまうのだ。「アイドルこそ日常を肯定する」ことと「アイドルがアイドルであろうとする限り、自分の日常は失われてしまう」という葛藤が生じる。
※
(引用
『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ|徳田四より)
この(もはやアイドルに限らなくなってきた)問題を「アイドルの立場」から端的に告発した作品として、乃木坂46一期生・高山一実原作によるアニメ映画『トラペジウム』(2024)がある。アイドルを夢見る女子高生の東ゆうは「日常化するドキュメンタリー」の問題に極めて自覚的で、あくまでも「演出」としてボランティア活動に参加しその様子をSNSに投稿するなどして、彼女が「アイドルとして好ましい」日常を過ごすさまが露悪的に描かれる。
『トラペジウム』がこの2020年代になって「アニメ」化したことは示唆的である。現実と同じようには「日常化するドキュメンタリー」が問題化されないアニメの世界においてもこの事態がメタ言及されるようになったことは、ジャンルとしての成熟(≒転換期)を象徴している。
(引用終わり)
※2025年現在、ガールズバンドクライにおける「トゲナシトゲアリ」のメンバーのうち2人が未だに完全復帰できていない状況も、寧ろ本論を補強していることを強調したい
さて本作(「前橋ウィッチーズ」)は、題名通り(魔法使い)ファンタジックでありながら、同時にアイドル活動(実名義での前橋市での活動)も展開している。アイドルであり、同時にウィッチ、魔法使い、魔女である。
では、本作は、「魔法」によって、どのようにそれに対処したのか、あるいはしなかったのだろうか。
それを考えるために「魔法」の表象の変遷と現在地を観ていきたい。
・魔法少女における魔法の表象と変遷

「魔法少女」の源流を考える。
魔法少女は、1966年の同年のドラマ「奥さまは魔女」をヒントに生み出された横山光輝「魔法使いサリー」が初の「少女向けアニメ」として東映動画にて映像化された。そこでは、特に魔法の利用の表象と、西洋文化の本源的な魔女、魔法との違いが示されながら、魔法を日常行為、悪戯、救済(懲罰)に分類しつつ、矮小化、矛盾化される状況が描かれる。最も興味深いのは、本作がかなり放送局の意向に沿って原作を改変し、魔法を矮小化しギミック化する一方で、友情、努力、思いやりなどの極めて世俗的で教条主義的な世界観を構築している点である。
続く「ひみつのアッコちゃん」(1969年)では「変身用小道具」「あこがれの職業への変身」「お付きの小動物」といったジャンルを特徴づける要素が登場している。ここでは、魔法より日常の肯定が重要であるとする、1960〜1970年代の作品と時代背景が考察されるだろう。問題が魔法を使うことでしか解決されないなら、それは現実や社会からの逃避や離脱を意味する。自分が主役、とする少女の過剰な自我像や、フェミニズムを代表する/マチズモを零落させる、という意図より、視聴する少女の教育的配慮こそが主眼ということになる。
願いを叶えようとすると、かえってその願いが遠のいてしまう。
そこから生まれる葛藤を劇作家の木下順二は「劇的」と呼んだが、例えば2011年放送の「魔法少女まどか☆マギカ」の少女たちは、契約によってまさに「劇的」な逆説の中へと放り込まれてしまうのだった。
魔法を使えば、一時夢が叶う。だが、魔法を得たことで、本当は夢から遠ざかってしまう。
もともと魔法少女ものは、児童文学などでいう「エブリディマジック」 (日常生活の中にファンタジックな出来事が入り込んでくる仕掛けの物語)ものの1ジャンルと考えることができる。多くの魔法少女ものはこの「エブリディマジック」の範疇に収まっているが、1980年代からの変化点として、「変身=成長」という仕掛けが導入される。
「ひみつのアッコちゃん」では「変身=なりたい職業になる」というギミックは存在していたが、「大人になったら何になる」と成長の側面を前面に打ち出したのは1982年放送の「魔法のプリンセス ミンキーモモ」だった。だが「ミンキーモモ」は、その「エブリディマジック」の世界を主人公の事故死で締め括る。「ミンキーモモ」にとってテーマは「夢」であり、「成長」はそれを導くための要素のひとつだった。
そして1985年の「魔法のスターマジカルエミ」になると、この「成長」がテーマとして物語の中に積極的に放り込まれる。「マジカルエミ」は主人公の女の子が、妖精に魔法をもらい、16歳の天才マジシャンとして芸能界で活躍するストーリーだ。物語の終盤で主人公は、自分が天才マジシャンとして活躍することに欺瞞を感じ、自分の意志で魔法を返上し、下手な自分のマジックを演じようとする。夢を叶える魔法とは、実は自分を夢から阻害するものでもある。

興味深いのは、精神病学者で批評家の斎藤環が述べる「「魔法少女」は「精神病」である」。
魔法は言葉であるから、徹底的に言語的に定義付けられた存在である。契約の意味とは、(ジャック・ラカンの示す象徴的去勢の意味で)「去勢の排除」である。(象徴的)去勢が人間を人間たらしめ、「(母の揺籠の意味で)万能を捨て自由を獲得する」。然し魔法少女の契約は正反対に、自由を捨てて万能になる=成熟を停止することを意味する。
言葉は文そのものを対象とする文を作れてしまうため解消不可能な論理の悪循環を招く場合がある。オブジェクトレベル/発話内容と、メタレベル/発話の態度の矛盾があるコミュニケーションが統合失調症の原因になりえるそうだ。
例えば「魔法少女まどか☆マギカ」におけるまどかの祈りは、魔法少女システム自体の改変を迫るという意味で、祈りについての祈りといえる。壮絶な展開を見せるまどかは、最後の祈りでキャラとして消滅する。キャラは基本的に不死であり、単純な自己犠牲で世界を救うことは出来ないが、消滅、同一性を放棄することで、一つの虚構世界を救済しえる。ここに正しい「キャラの倫理」があるだろう。
だがこれはあくまで形而上学的、概念的なゲームともいえる。現実的に援用可能なモデルではないことは、実在する「前橋ウィッチーズ」を考えれば自明なことだ。では、「前橋ウィッチーズ」における「魔法」の表象はどのように為されているのだろうか。
一般的な理解では、本作における「魔法」とは音楽であり、ライブであり、応援である。(あるいは「推し」である(三宅香帆))しかし、マポ(マジックポイント)が蓄積する、この観点に絞るとき、7話のある場面で明確にマポが増加する場面がある。それは「音楽」でも「ライブ」でもなく、ある人の問題の「解決」の直後であった。その際の主人公の行動に筆者は着目した。そのために先ず「認知療法」という方法について観ていきたい。
・認知療法について 赤城ユイナの行動パターンに観られる認知療法

認知療法とは、ある事柄に対して、人物が感覚する「認知」と事実とのズレを確認し、問いかけ続けることで、自動的な思考パターンの癖に気づき、「現実」に目を向けながら対策を講じていくことである。
具体的には、「症例の概念化」という方法が汎用的にある。患者の性格や気質、生い立ち、発祥のきっかけ、症状の継続に影響している問題の詳細、患者の考え方の特徴/スキーマの明確化をしていく。理解を共有して全人的な患者理解に基づいて面接の方針を立てることを「協同的経験主義」という。
「症例の概念化」には2つある。認知再構成法と行動的技法。特に後者については以下3項目である。
1,行動活性化:日常の生活の中で楽しいことややりがいのあることを増やしていく
2,問題解決技法:具体的な問題を解決するスキルを伸ばしていく
3,アサーション(主張訓練):自分の気持ちや考えを適切な形で相手に伝える
ここで対象者は勿論、実践者(カウンセラー側)にも、その手続きを実践的に行う必要がある。
具体的には、自分の考えと計画に基づき、自分の気持ちを伝えていくことである。
まず、人間関係はストレスの最大要因である。そのうえで冷静で心のこもった人間関係を作り上げるには
1,自分の気持ちに正直になる
2,相手の気持ちを大切にする
3,穏やかに話す
4,簡潔に話す
5,自分の意見はきちんと伝える
6,相手の意見にも耳を傾ける
7,ダメなことはダメと伝える
が必要となる。
簡潔には、自分が観たことや客観的事実を伝え、感情を話し、提案をし、可否について否定された場合の対案を持ちかけることである。

本作のメインパーソナリティーである、赤城ユイナ(以降、ユイナ)の行動パターンに観られる認知療法を観てみよう。例えば7話で、ユイナは三俣チョコ(以降、チョコ)に対して、川辺で彼女の困難な状況を自ら体験したうえで、彼女の話を傾聴する。
そして、「仲間だからって、全部話さなくっていいし、何を話すかは、全部チョコちゃんが決めたらいいよ」と肯定して見せる。「妹も弟も、祖母も、みんなチョコちゃんが好き。それはチョコちゃんが頑張ってるの、知ってるから」と、客観的事実を伝えるのだ。
しかし提案もする。「でもね、もし出来るなら、しんどいとき、しんどいって言ってほしい。しんどいとき、しんどいって言うの、しんどいよね。周りの目とか、なんて言われるかなとか、考えるの、しんどいし。でも、それでも苦しい時、大変な時は、しんどいって言ってほしい」
だがチョコはそれに対して遠慮するだろう。
「私より、大変な家はいっぱいあるから」
それに対してユイナは猛反発する。「他は関係ないよ!うちは、チョコちゃんがしんどいかどうか、って話をしているの。しんどいこと、周りが分かって上げれるのが一番だけど、しんどいかどうかってあんまりわからないから、、、せめて周りの人とか、うちらとか。それで、何か変わることもあるかもだし、、変わって欲しい」
ここではほぼ、自分が観たことや客観的事実を伝え、感情を話し、提案をし、可否について否定された場合の対案を持ちかける(ここでは提案を重ねている)パターンが観られるだろう。
あるいは、3話における、新里アズ(以降、アズ)を窘める場面ではどうだろう。2話で、お客さんに対して暴言を吐いてメンバー間の関係性とお店の心象を破壊したアズだが、やっとの思いで引っ張りだしたアズに対して、ユイナは問い詰める。「昨日のお客さんにしたこと、悪いことだと思ってる?」アズは答える「思ってる」すると、ユイナは「ならよし」と即座に赦す。その後のメンバーからの、ユイナは甘い、割を食うのは私たち、悪い子にはもっときつくしないと、ということに対しては、「間違えるのが悪い子なら、私も悪い子。それに怒っていい資格があるのは、あのお客さんだけだよ」といなす。
ここでも、自分が観たことや客観的事実を伝え、感情を話し、提案をし、可否について否定された場合の対案を持ちかける(ここでは事後策を示している)パターンが観られるだろう。
先述した内容に立ち戻るなら、映画「トラペジウム」への返答、あるいはアイドル論と接続し、アイドルの持続可能性を考えるうえで、この認知療法的活動と、物語の最後に齎される、アイドル自身の「自己肯定」には、大きな有効性があると考える。それは、トラペジウムで東が立ち向かい、崩れていったものをその手中に取り戻しつつ、「自分を応援するアイドル」「苦境を認め、心情を吐露し、休暇を表明できるアイドル」という道程を示すだろう。
・認知療法で救えないもの 経済格差と三俣チヨコ

ところで、上記、7話でユイナの(半ば確信犯的な)天然さに救われた
(ように見えた)チョコ。
彼女はシングルマザーの家庭で育ち、本人もいわゆる「ヤングケアラー」として疲弊している。彼女は、ウィッチーズに支えられることで、周囲の人に支援してほしいと素直に言えるようになり、少しずつ状況が改善していくように見える。
彼女は「本当に」救われたのだろうか。ヤングケアラーが辛い。それは全うな主張なのだが、本質的には政府の再分配政策の失敗である。これでは救われないのだ。本作の7話の時点はまだしも、12話の終焉において、ユイナたちの「友達主義」(宇野常寛)で遣り過ごす、観ないことにする力が強く、彼女の本質的な課題は解決されない。気持ちは解決され、相談窓口など、多少は環境も良くなったとはいえ、彼女の問題は構造的に固定的なものであり、しっかり向き合う必要があるだろう。
前橋市、あるいは群馬県という構造について。
例えばいろは坂などでは、地元の銘家があり、代々の下方が集積する大きい屋敷があり、有名人のサイン、西郷隆盛の直筆、中曾根康弘のものもある。さらに横には小渕優子がある。ここには、政府の偉い人で群馬にお金を齎すありがたい人を、愛でる文化がある(宇野常寛)。
あるいは前橋市について。
2004年の前橋広域圏の合併反故の報復措置で、富士見村民に対する通学差別や大会参加不許可、入試への介入など、前時代的な言動が散見された。
文化的に、この時空間において、真っ当な感覚があると言えるのだろうか。
あるいは経済的側面について。本作では、前橋商店街のいわゆる「シャッター商店街」がむしろエモい、美しいものとして描かれるが、通行人のほとんどは老人であり若年層は皆無である。なお通行人数でいえば、県庁所在地にもかかわらず、(2020年の時点で)平日は、8000人を割り込んでおり、これは渋谷駅界隈の1/120以下である(渋谷駅は100万人以上)。
これらの文化的、経済的閉塞感において、現実的にチョコちゃんを救う方法は、果たして「友達主義」(宇野常寛)、あるいは「認知療法」で満足するのだろうか。最終回で「魔法はもう、いいかなって」となるが、このままでは、チョコちゃんは、魔法に縋ってしまうのではないだろうか(あるいは「ダークナイト」におけるジョーカーのような存在=世界が燃えるのを見て笑う無根拠な悪への闇落ち)。
ここでは「花屋」を象徴的に考えつつ、その可能性を真木悠介「自我の起源」、宇野常寛「庭の話」を通して探っていきたい。
・格差の摩滅 (公助、共助、)自助

真木悠介「自我の起源」は自我を巡る生物学的系譜を辿る名著だが、その中で昆虫と顕花植物の「共進化」に触れている。ある種の植物が生殖のために昆虫などの異なる種の生物を誘惑するが、そのための器官が「花」である。「花」は外部に開かれた存在であり、「個体にとっての利他行為」でありながら「遺伝子にとっての利己行為」の象徴の一環である。この遺伝子の利己行為を人間に敷衍すれば、人間は特定の目的(遺伝子の一時的な乗り物となること)をプログラミングされた「エージェント的存在」であり、同時に自我に目覚め、そのプログラミングを相対化し、行動の目的を自己決定できる「テレオノミー的存在」でもある。自己保存と自己解体という、矛盾する欲求を同時に抱くのが個体であり、人間なのだ。
ここで宇野常寛「庭の話」に接続するなら、「花」的コミュニケーションには、状況を打破する手掛かりがあるだろう。人間以外との「事物」とのコミュニケーションを通した「自己解体」。自己解体を経由することで再構築される「自己保存」の快楽。人間以外のものとの正面衝突で生まれる危機耐性。ハンナ・アーレントの議論を援用してそれは「制作」と呼ばれ、人間により何か「人工的」「自然への干渉」的なものを生み出す回路として示される。
もちろん、「制作」の文脈でいえば、花屋として、フラワーアレンジメントを通して、自らのプロデュースをするとともに、その苦境を周辺環境へ示していく(アート的活動)も可能だ。しかし、その「制作」は可処分時間を拡張する=労働環境の整備が必須であり、チョコちゃんの環境の緒元においては困難を極めるだろう。
そこで、花屋を、職場を、一つのケアラーの交流センターにするのはどうなのか。ヤングケアラーの溜まり場でも良いし、情報交換サロンとしても良い。実際、英国などヤングケアラー先進国では、自治体の所管課と、各地域のNPO的ヤングケアラーサポート事務所が連携し、地域ごと、対象ごとに多様で多彩な取り組みをし、ヤングケアラーたちの孤立を防いでいる。
パジャマパーティーをしたり、映画を見に行ったり。オーストリアでは、25歳までのヤングケアラーに対して、奨学金を提供までしているそうだ。
・想像力の射程距離
ドラマとアニメと視聴者層 あるいは「ポスト」プリキュアの提示

最後に石岡良治の見解を紹介して本論を閉じたい。石岡良治は本作をして「ポスト」プリキュア(トライアル)の達成と評価した。プリキュアは一年ごとに交代させてどんどん卒業させていくコンテンツであり、魔法は粗雑にまとめるとセレブやインフルエンサーになるのは一つの表象であり、プラダを着た悪魔やライターなどに置き換わっている。「ポスト」プリキュアは、本家プリキュアにおいて、2作品あるがいずれも上手くいっていない。
理由は、ジェンダーと年齢の区分がガチガチであることで視野が狭くなりがちなこと。大人の女性は、女性のグループアイドルが居るだけで「観ない」判断をしがちである。本作は明らかにそれで序盤で苦労していた。
SDGsプリキュア、大人がんばるぞプリキュアは、プラスサイズモデルを、SDGsで頑張って応援するぞ!で終わってしまう。アズの2話の否定的発言はそこをいきなり壊す。プリキュアの構図ではアズは救えない。
脚本家の吉田恵梨香は明らかにプリキュアの視聴者の卒業生を意識していたが、実際のプリキュア卒業生たちは「WIND BREAKER 」「BLUE ROCK」、男性グループアイドルやスマホアプリなどを消費しており、本作へ来なかった。トライアルについては、当の女児ものに対して、「男性」を加えることで、男性も観るようになり、大人の女性も観るようになる、複合的な視点が生まれる。
話数にしても、特に1話にトライアル感が出ていた。地方のアイドルを応援する印象が出ていた。ユイナについては、中心的人物であり空虚感があるが、実はユイナの味付けも奥深い。プリキュアのような女児向けで君臨しているコンテンツの次作についてアニメ業界が打開策を設けられていない中での一定の達成であると観ている。性的モチーフをマイルドにすることで女性視聴者の取り込みが狙える。声優が甲高い声ではなく女性にも聞こえやすい声色であることも有効である。
ルッキズム、インフルエンサーに尽くし勝ちな女性同士の重さ、貧困、推し活性犯罪、コミュニケーション能力の高さが肯定されない構図。それらへの突っ込み方と距離の取り方。
筆者としては、娘が高校生になるまでに、本作を観てもらえるよう、引き続き活動していく所存である。
・全話総評
STAFF
原作・制作:サンライズ
監督:山元隼一
シリーズ構成/脚本:吉田恵里香
キャラクターデザイン原案:ユウイナミ
キャラクターデザイン:立花希望
衣装デザイン/スタイリスト:相澤樹
アイテムデザイン:板垣徳宏
コンセプトデザイン:林絢雯 迫健太郎
プロップデザイン:川井康弘
ウィッチバースデザイン:今津良樹
カラースクリプト:加藤オズワルド
色彩設計:忽那亜実
美術監督:阿久澤奈緒子 真村躍
美術デザイン:瀬理実穂 児玉徹郎
CGディレクター:児玉徹郎
CGモデルディレクター:高橋将太郎
編集:長坂智樹
撮影監督:藤田賢治
音響効果:野崎博樹
音響監督:長崎行男
録音調整:森田祐一
音楽:羽深由里
音楽制作:バンダイナムコミュージックライブ
製作:バンダイナムコフィルムワークス PROJECT MBW
1話
90点

演出:魔女*戦隊*ラブライブ*地方。変身の表象の蛙を媒介に、マント背景宇宙とシャッター商店街を頑張れソングで繋ぐ。魔女=単純な成熟女性願望か→孤独との対峙。魔女歌のシーラカンスと未来列車の意匠は現状を踏み越えたい葛藤
脚本;地方の寂れと無縁な娘の対照性。医大受験の女子差別に切り込み過ぎ
絵コンテ;畳みかけるコントと移り変わる世界は手練れ
キャラデザ;ユイナはぼろい靴含め中々バランス良い。冒頭からケロッペがキュウべえ感。膳栄子は虎に翼の美佐江のやり直し(仮)→ユイナの(写真による)瞬間の切り出し=前向きな情動の保持であり、挫折と闇落ちを経て尚人間の善性を信じる作家の強い意志であり、認知行動療法の実践である
美術;なぜエッシャーの騙し絵風味真っ白背景を源泉に、花屋に。各種魔法お店空間設計の豊かな色彩→問題は全て解決「されない」。個人の気持ちが前を向くだけである。メビウスの輪の中で心に花を咲かせ続ける。ここも認知行動療法の絶え間ない実践の表象に観える
音響;ラブライブの蓄積
OP;舞台装置から特撮パロまで地方興しとして魅力的
表象;空洞と非人間写真、変身の表象としての蛙の媒介、マント背景宇宙、商店街シャッターどこでもドア、レベルアップで魔女で開店、エモエモ、魔女の必然性、時空巻き戻し、WITCHVERSEで頑張れソング
2話

90点
演出:自意識の拘泥がルッキズムへの羨望に基づき、デブ嫌いとまで言わしめる勇気が良い
脚本;2人の喧嘩と宥める周囲の構図が来客まで変わらないのは清々しい。時間撒き戻しの伏線
絵コンテ;+モデルは良いが水星の魔女のフィクサー企業に見える
キャラデザ;ユイナの地に足のついた能天気さと、アズの中二病的自我の肥大が対比。実はデブムーブは良い。ユイナはなぜ写真に拘るのか?祖父の開業理由のみならず、空間と時間を切り取ることでしか世界と接点が持てないからではないか。沈黙と搖動の拮抗点は身につくか。ユイナの幼児的明朗さを他者性と調整した地点に本作の終焉があり得るか
美術;シャッター街造詣が良い
音響;巧いがやや多め
ED;水彩画で浮遊感と憧憬が混ざる
文藝:アズのルッキズムの取組みを最初に配置する妙に改めて気付く。ユイナの止揚的肯定、マイとのファッション関係、チョコとキョウカへの家庭内孤立に対する和解を通し、尚10話でルックスの拘泥を捨て切れず、12話で漸く外向きに
丁寧さに泣きそう
3話

95点 泣きそう
演出;歌詞はあまり、、だがルッキズムに対する拘泥と心情の炸裂が胸に刺さる。凛子の現状認知もアズの居た堪れなさも良い。ルッキズムはメディア環境と深層的なジェンダー格差が生み出す複合的差別であり根底に男性優位思想の無意識の押しつけが存在するため、これに対抗する同性愛の可能性は十分にあるだろう。時が経てど傷は癒えない。シャボンテンションの姿の可能性はあり
脚本;前橋5人全員の自我の暗部との対峙を丁寧に追うのなら満点
絵コンテ;吉田恵梨香の人物造詣が素晴らしい。プリンセッションより此れ見せるべき
キャラデザ;アズは貴方みたいにかっこよくなれない、、アズが格好良い
美術;太いトゲトゲは格好いい
文藝:ルッキズムのフィールドワーク論文読むと、ある種の能力主義社会の逃避行としての可能性が観える
この個別のレポートを読みながら「アズ、自分が嫌い」と臍嚙みながら叫ぶのを思い返すと、泣きそうになる
4話

90点
演出;判断軸を他者か自己かとする問いかけ。ゲーム的に長けるマイが優愛より上手だが、卑屈さは反転しえるのか
脚本;マイ裁判前後は盛り込みすぎ。Cパート前後はマイと優愛の掛け合いは素晴らしい
絵コンテ;潰されるケロっぺは良い。花弁を毟るのも良い。感情シーンの口元の繊細な描き分けが巧い
キャラデザ;マイ姉存在が肝か。アズの承認欲求の嫉妬の精度はえぐい。アズの上位互換wキョウカは冷静沈着で良い
美術;ゲームデザインがゲーム的リアリティを加速。前橋城での時間停止は時代錯誤の表象だが、草津温泉の隠喩でユイナの緩衝地帯の直喩
音響;ゲーム音もいい。コミカルの中に緊張を走らせる
5話

95点 破戒的な抱擁が構造主義の外部へ踏み出す、背徳的な感動 「ずるくて何が悪い!大切な想いは消せない」
演出;ユイナの天真爛漫さが無自覚的にマイもアズも救う。マイの優愛への妄執的な憧憬が刮目
脚本;醜くとも思い出は神を照らし返す。判断を留めおける力強さも光る
絵コンテ;BITTERENDまでの仕上げが有無を言わさぬ説得力
キャラデザ;マイの葛藤がアズと対照化される。優愛の業の深さ、アズの棘が良い。マイは重いが良い子である
美術;節約モードの無装飾無照明も花も水もシャッター街wチラシが可愛くなってる
音響;歌詞からENDまでエモい
文藝;(マイ)極度に低い自己肯定感は反転しえない。憧れへの妄執は破戒的で狭窄的な包摂感を齎す。一方で想いと思い出は偽神を照射し反転しうる。
反転した神は信仰を転向しうる。
神は人となり、信者は人になる。
構造主義の外部へ踏み出す、背徳的な破壊力がある
6話

90点 チョコの背景を基に誕生日会を観るのが辛い。直後の切断差も凄い
演出;水浴びしながら接客は面白い。クリフハンガー仕上げは安定。富豪の無意識と貧者/ヤングケアラーは現代に如何に相克するか?
脚本;図太くケーキを要求しつつも咽び泣くチョコが王道ながら、夜道のフックが祖母との衝突に尾を引くか
絵コンテ;膳栄子の傾げた見送り孤独が差し込まれる。直後のオンライン会議の各自が自由で抉りすぎ。脹脛マッサージ、入浴、推し活、、、チョコのお菓子意匠は貧民の導線。寂れた商店街で推しの夢を語る意匠をしっかり描く
キャラデザ;キョウカの上昇志向は家庭と他人に対する逃避行。チョコの経緯が重要である
美術;花屋の階段も色彩豊かに変化。休憩室ポスターのカオス変動
音響;擬音語の歌頭悪いwwダンスの意匠が20年前、
7話

95点 泣きそう リビドーの解法が問われる
演出;アイスで示す涙の滴りは甘酸っぱい。モグたん本性発揮と引きつるキョウカもいい
脚本;チョコのあばら家とキョウカのマンションが画角で心象的に屹立するように二人の景色も交わらない。時間を巻き戻すユイナがマポを増やし、直後のキョウカがポイントを投げ銭に変える構図
絵コンテ;尿瓶の連なり、、家事育児看護後の蛍の川のせせらぎが仄暗くも明るい
キャラデザ;時間を巻き戻し家事と仕事に邁進するチョコこそ魔女であり英雄
美術;誕生会の美麗な景観にチョコとの対立が対照化される。マポで乾かす靴下wネコミミピンク人体模型w
音響:ラピュタの切なさに接近
文藝:モグタン=モグラは認識の欠如、触覚と聴覚に特化する表象であり、キョウカの欲望の迷走の比喩であり、Vtuberに潜む暴力の直喩。退化の象徴でありながら欠損を埋められる可能性でもある(ホフマン「廃屋」、ヘルダー及びヘーゲル解釈)
8話

100点 涙が止まらない
演出;家族ケアで困憊するチョコ、PCで錯乱するキョウカが最終局面で反転。挫折から復活の施政者はナラティブ的にはハイリスク
脚本;ヤングケアラーは公助と共助であり本人の認識。キョウカを応援するチョコの兄弟が余りにも眩しい。
端正な絵画的論文を観ているような完璧な構成。大問題(暗い=ユイナ)の解決(明るい)のために中問題(ヤングケアラー、性暴力)があり、小問題(相談相手の有無)を丹念に掬い上げる手法に脱帽
絵コンテ;はみ出すケロッペ遊びが穴掘りキョウカを中和する
キャラデザ;出れ隠しに変わるアズが良い
美術;市長への夢を固める星空は美しい
音響;Meteor showerはポップに寄りがたちだが中庸
文藝: チョコについて。ヤングケアラーは大変で、しっかり取り組む前橋市は凄いが根本的に日本政府の再分配の問題でもある。ここで「花屋」というモチーフの射程距離を考える。真木悠介「自我の起源」における虫と花の共進化を参照する。人間はエージェント的主体であるとともに、テレオノミー的存在=自己解体と自己保存の欲望を同時にもつ。花と虫の関係も同様。花屋は魔法の起点である以上に「職場」であり、他者、他種との結節点である。チョコの貧困は友達主義により緩和されるが一時的であり本質的な解決が必要。ならば、花屋を、職場を、一つのケアラーの交流センターにするのはどうなのか。ヤングケアラーの溜まり場でも良いし、情報交換サロンとしても良い。実際、英国などヤングケアラー先進国では、自治体の所管課と、各地域のNPO的ヤングケアラーサポート事務所が連携し、地域ごと、対象ごとに多様で多彩な取り組みをし、ヤングケアラーたちの孤立を防いでいる。
9話

95点 問題解決しない栄子の闇落ち逆襲は、魔女見習いの根拠足りえるのか
演出;冒頭から応援ソングと栄子の当惑が断崖を象徴する。橙の薔薇は無邪気の象徴であり5人の無関心の隠喩。虚構であっても誰と何をしたいか 闇落ちX表象が∀X
脚本;花火大会バースからアズへの自己肯定と否定の葛藤が、ユイナの信頼に止揚される。5人の永遠不滅が直後の黒い渦に回収され、刹那の永遠すら忘却される
絵コンテ;アズの花火大会誘いが取り消されるLINEが次回への伏線。かき氷に埋もれるケロッペ
キャラデザ;無表情の栄子は溜め込む感情を導火する。ユイナの嘘も方便の気遣いで救われるアズと、闇落ちの栄子が対照化
美術;がんばれ栄子バースの黒基調のピンク砂糖掛けが不安のバランスを映す
音響;新曲の花火と夏祭りは刹那の永遠
10話

100点 泣く
演出;消えゆくLINE,写真中の人物、認めた筆跡、邂逅とともに失う感情、人影のないED、完璧な郷愁と忘却
脚本;非情なケロッペ冒頭が自己解決を促す一方、アズとユイナの親友感がリアル。願いをかなえたい人に扉=皆と扉を探す瞬間が欲しいものか
絵コンテ;忘れたくない、布団のアズとユイナの往復が辛い。アズが一番友達想いで工程表の腕が奮われる。商店街シャッター虱潰しがエモく、忘却の邂逅は切断差が凄まじい
キャラデザ;栄子のD判定と母親対決も見逃せない
美術;ユイナの写真ボードに魔女見習いたちの追加が。ひび割れ道路もサビたガードレールも緻密
音響;新曲すらえもい
5人に見つけられないシャッターは、カメラであり商店街であり今この刹那である。刹那の永遠こそアイドルの本質であり現代社会のリアリティの本質である.
魔法の契約とは象徴的には去勢の排除であり、成熟の停止
つまり魔法少女化とは精神病化
魔法は言語の実体化の力でありパラドクシカルな誤りを避ける必要がある.
キャラが倫理性を成し遂げるに必ず代償を支払うなら、前橋ウィッチーズはもう一度、正しく記憶を忘却するのではないか
11話

100点 アンチクライマックスの緻密な緊張
演出;冒頭の記憶のノイズがエモを残滓する
脚本;新しい魔女が他人の葛藤の削除に加担し等身大と現状肯定を語り恐怖で制御する 古い魔女は願いを自分に向けるか
絵コンテ;冒頭のユイナの普通さの強調はFIRST TAKE風味 すれ違う元ウィッチーズ 闇の栄子の波動が禍々しい
キャラデザ;ユイナ母が良い人過ぎる
美術;真っ白い打ちっ放しコンクリのウィッチバースへ 枯れ果てた灰色のペシミズムの共感のV系が魔女の表象。フォトロゲイニング東京は願いと自画像の薄弱さの表象か。新宿御苑のウィッチバースと白い魔女のドーナツ=悟りの魔女:桑島法子w
文藝:行動結果は記憶と情動に残り、願いの結果:闇の栄子と対峙する。魔女は強い願いを持つなら、なぜユイナだけが思い出せないのか。それは想いの抽出と選択の道程は自画像の掘り下げへと向かうから
12話

90点
演出;幼さ故の過ち、孤独、黒い情動、自己卑下、限りない地平線から寄り添う姿勢に責任と輝きがある
脚本;責任を担いきれない自覚的言動が責任を育てる。栄子は過去と共に自らを見つめ返す
絵コンテ;東京から前橋へ戻る薄緑は希望を運び、前橋から未来へ続く。「今はまだ小さな蕾でも」「ユメミ咲き誇れ」のダンスはやや単調
キャラデザ;アズの元通り、瘦せの臍嚙みは愛おしくすら見える。ユイナのドーナツ理論は無為自然的でありラストカットの写真切れは終わりのない世界の循環。
美術;夢落ちに至る前橋商店街もウィッチバースも前橋ドームも寧ろ未来図への架け橋であり地方資源の宝庫として描写される
音響;「今はまだ小さな蕾でも」エモい
「ユメミ咲き誇れ」利他行為が利己行為を補強する循環活動であり宗教的である
文藝:5人の希望が叶う未来は夢である。魔法とは去勢の排除で成熟の停止であるなら、あくまで現実の言動=歌唱に拘ることこそ現代の魔法でありユイナ含め全員が一致しての認知療法であり力そのものである
参照文献
・ガールズバンドアニメ ~日本アニメの世界戦略、あるいは、ほどよい自意識と物語の狭間で~
・「イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ」小関隆、中公文庫
・「ガールズバンドアニメ みんな『程よい』主体が見たい」
PLANETS Mail Magazine:PLANETSチャンネル(PLANETS/第二次惑星開発委員会) – ニコニコチャンネル、石岡良治
・『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』青弓社
・「『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ」|徳田四 PLANETS Mail Magazine:PLANETSチャンネル(PLANETS/第二次惑星開発委員会) – ニコニコチャンネル:社会・言論
・BanGDream! It‘s MyGO!!!!! No.2 ~迷子の倫理、詩的言語の可能性の果てへ~
・藤津亮太「ぼくらがアニメを見る理由」魔法少女の由来と変遷、FILM ART社
・石井研士「魔法少女はなぜ変身するのか」 春秋社
・斎藤環「まどか⭐︎エチカ、あるいはキャラの倫理」ユリイカ2011年11月号臨時増刊
総特集魔法少女まどか☆マギカ ―魔法少女に花束を
・大野裕「はじめての認知療法」 講談社現代新書
・前橋ウィッチーズ PLANETS批評座談会 なぜチョコちゃんの家は「貧乏」なのか?2025.06.28放送
・真木悠介「自我の起源」岩波現代文庫
・宇野常寛「庭の話」PLANETS
・ヤングケアラーとは?問題や現状は?何歳までがヤングケアラー?日本の支援や取り組みを簡単に解説!
・【家族を看る10代】一過性の支援ではいけない。ヤングケアラーを研究する澁谷智子さんに聞く日本の課題
・前橋市ヤングケアラー相談窓口
・「ヤングケアラー」を知っていますか? ヤングケアラーを支える取組と私たちができること
・京都府 ヤングケアラー支援窓口
・成馬零一「アズ、デブ嫌い!」「ふざけんな、ババア」…『虎に翼』の吉田恵里香が「前橋の女子高生」に言わせた“ギリギリの暴言”が成立している深い理由
・前橋ナタリー「『前橋ウィッチーズ』のためにできるだけのことをしたい」ハライチ岩井がラジオでも大絶賛!山元準一監督との待望の対談
・『虎に翼』と「異議申し立て」の問題
・『虎に翼』と〈家族〉の問題
・『虎に翼』と〈戦後〉の問題
・2025年春アニメ最大の話題作『前橋ウィッチーズ』 なぜ“魔女見習い”をやめようとしたのか
・ ルッキズムとは? その原因や社会に与える影響などについて解説
・ 「ルッキズム至上主義、SNS承認格差、生成AIのような美人増加」のリミックスが、若い女性のメンタルヘルスを壊していく可能性
・ 見た目が9割?SDGsに関わるルッキズム「外見至上主義」にある社会問題
・ 埼玉県男女共同参画推進センター With you 広報誌
・ いつまで女性たちを”ルッキズム”に晒すのですか?!
・化粧品広告の炎上リスクとは?ルッキズムや表現トラブルを避けるためのポイント
・ https://ehime-u.repo.nii.ac.jp/record/2002937/files/AA12831546_2025_7-61.pdf
・戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)
包摂的コミュニティプラットフォームの構築
社会実装に向けた戦略及び研究開発計画
・前橋市 Wikipedia