~父性の神話から離れる~
・所感
・英国政府推奨?
・少年性と少女性の独立性
・日本と欧米におけるサブカルチャーの許容の在り方
・父性の神話から離れる
・概括、全話総評
・参考文献
・所感
20世紀の男性性の呪縛、父性の呪縛が問題の根源にあるだろう。
Netflix限定配信ドラマ「アドレセンス(Adolescence)」は、
切断的な物語構造が、SNS社会のみならず、家庭間断絶も示し、尚且つ表面的に接続を求めてやまない悲劇的な状況を、透徹したカメラワークで映し出した。
優しい古き強い男が性的にも象徴的にも挫折する。その構造が子世代で繰り返される構造が問題の閉鎖性を示唆するだろう。
現代の李陵「山月記」であり、臆病な自尊心と尊大な羞恥心が、世代を超えたインセル問題として顕現する。
コミュ障の発展的解消方法として、古い世代のスポーツなどの打ち込みは視界の拡大に貢献しただろう。現在の選択肢の多さは運動の他への逃避や興味の変遷を強化する。
深く練り込まれた画面構成、そぎ落とされた脚本、迫真の演技、問題の認識射程はいづれも面白かった一方で、ひたすらに家族、学校、刑務所の円環構造に閉じた構成が留意された。何より、スクールカースト底辺と思しき主人公が、逃避手段としてのサブカルチャーなどを持てず、SNSなどで現実世界の虐めを増幅させられる構図は、日本人としては違和感を感じるだろう。
ここでは少年性の不在、日本と欧米におけるサブカルチャー=虚構の受容形態の違いを観たうえで、どのような解法があるか少し鑑みたい。
・英国政府推奨?

英国キア・スターマー首相は、英国政府として「アドレセンス」を全土の中等学校で視聴可能となるよう措置をとった
(2025/4/4 記事 )
父親として10代の息子と娘と視聴し、胸に強く響き、可能な限り生徒たちに本作を観てもらうのが重要な取り組みだとのこと。コミュニケーション方法の変化や、日常的に触れるコンテンツについてオープンに話し合ったり、友人たちとの会話内容を探ったりすることが、有害な影響から彼らを守ることに繋がるのだそうだ。
さて、筆者もその効果を期待して娘(10代)と観始めたのだが、
高度にノンフィクショナルでワンカットなカメラワークに、
次第に飽き始めた娘は、1話中盤で離脱した。
ちなみに日本の親御世代のBlogを漁っても同様の状況のようで、要するに親目線での面白さ=中流以上教育水準の成人(長時間映画鑑賞が可能であることなど含む)でない場合に、本作の硬派な(非エンタメ的な)作風は、ありていに言えば「届いていない」のであり、取りも直さずそれは本作が「大人世代」向けであることを示しているように思う。
それは端的に、本作の「少年性」の描かれ方にも表れているだろう。
・少年性と少女性の独立性

本作は徹底的に「親世代」目線で描かれる。むしろ「少年の闇」を誇張的に描写しているといえるだろう。繊細で神経質な主人公ジェイミー、目線を合わせず表情を変えない友人ライアン、過剰な孤独感に激昂するジェリド(黒人女子中学生)、やけに父親寄りの刑事の息子アダム、と、要所で登場する彼らの心情はそこそこに、刑事や親世代の会話に集中しがちの作劇が続く。
つまり「子供のことは親には分からない思想」が強い(三宅香帆)。
敷衍すると、本作における少年性は「父性」の継承として強く示唆される。最後のシーンで父と母の独白、続く空白となったジェイミーの部屋の熊人形を抱いて咽び泣く父親が強調されるが、自らの生い立ちと、それへの反発による反省、さらに本作の事件に至ることを失敗として、強い自責の念を感じさせる構造であり、子供の成育要因が「親」にあることを強く印象付ける。母親は「姉は違う」(教育方法は同じであり、ジェイミーと同じ結果になってはいない)と述べるが、ドラマツルギー全体は親目線であるだろう。
(姉は良い人として描かれ過ぎている)。
少年性、少女性は本質的に独立したものだ。
少年性は例えば、「母性のディストピア」(宇野常寛、ハヤカワ文庫)などでも示されているように、本質的には大人社会と独立した防波堤であり、
ある種の閉鎖性があるだろう。
少女性については、例えば「娘が母を殺すには?」(三宅香帆、PLANETS)で述べられるように、最終的に母性に取り込まれてしまう、同化の危険性から如何に独立するかの問題が依然残留しているものの、
例えば岡田麿里の描く少女たち(Truetears, とらどら!、心が叫びたがってるんだ、さよならの朝に約束の花をかざろう、など)や、
花田十輝の描く若年(ガールズバンドクライ、ラブライブ!)、
あるいは綾奈ゆにこ(BanGDream!It’sMyGO!!!!!など)、
吉田恵梨香(ぼっち・ざ・ろっく!、前橋ウィッチーズなど)の描く世界のように、主に日本ではかなり精度高く綿密な立体像が示されているだろう。
本作アドレセンスでは、主人公ジェイミーの、
逃避先のない状況が繰り返し描かれる。
そこでは日本のような虚構を楽しむ文化(サブカルチャーなど)
一切見えてこない。
では、このような少年少女への解像度の向上、
換言すればユースカルチャー、サブカルチャーが担うべき役割は、
欧米ではどのように受容されているのだろうか。
・日本と欧米におけるサブカルチャーの許容の在り方

結論から言えば、日本と比較して欧米の若年層におけるサブカルチャーの受容度は相当低い。日本のサブカルチャーがほとんどの起源を欧米に求め、その変奏として発展させてきたことを考えると、これは驚くべき事態かもしれない。
例えばサブカルチャーを、アニメ・漫画、ヤングアダルト文学、ゲームなどと定義したとき、2021年度においてその市場は全体で約6800億円であり、アジア太平洋地域(日本、中国、韓国など)が45%を占めている一方で、北米は25%、欧州は20%となり、人口比やGDP比で考えると(中国が含まれるものの)、その低さが際立つだろう。
サブカルチャーの浸透度を考えるとき、一時的な要因としては「社会階級の変容と貧困層の減少」「インターネットと個人化の進行」「商業化と主流文化への吸収」「社会的・経済的不安による創造性の低下」などが挙げられよう。しかしこれらは日本とある程度共通する状況である。
根本的には、「文化的基盤の違い」「歴史的・社会的背景」「市場構造の違い」だろう。
文化的基盤の違いについては、日本の集団主義と、欧米の個人主義が抽出されるだろう。日本は集団性や共感を重視し、またサブカルチャーが若年層のアイデンティティ形成や現実逃避手段として機能しやすい。
欧米では個人主義の発達によりサブカルチャーへの帰属意識が低く、またこれらは単純に「個人の趣味」として消費され、集団的、文化的な利用は希薄になりがちだろう。
歴史的・社会的背景としては、日本が現実逃避手段としてそれらを活用してきた一方で、欧米では一時的なファッションとして消費されやすく長期的な根付きが弱い他、主流文化とサブカルチャーの境界線が曖昧になりやすく、サブカルチャーの「商業的」利用が激しく、本来的な意味合い(反抗など)は剥奪されやすい。
市場構造の違いとして、日本ではサブカルチャーが、エンタメ、出版産業として確立されているが、欧米では、それらはニッチな存在であり、市場規模や社会的認知度が低く、また日本などの文化を「エキゾチックなもの」として輸入消費しやすい傾向があるだろう。
このような文化的な分断、閉塞性にあって、第二、第三の主人公ジェイミーを産まないためには、準テロリスト指定集団※を生み出さないようにするには、ミソジニー(女性蔑視)思想感染者を増やさないためには、どうすればよいのだろうか。
※「ナラティブ なぜ、あの「語り」に惑わされるのか」 大治朋子 毎日新聞出版参照
・父性の神話から離れる

ミソジニー思想は、本作の主人公の犯行動機の重要な要素である。
いじめのルサンチマンの残滓であり、
SNSという拡張現実の閉鎖性を増幅する装置だった。
モテ至上主義から逃れるには、父性主義から逃れるには、どうすればよかったのか。
ミソジニー思想は、主に戦後社会の経済的、文化的側面の残党で説明できるだろう。
女性の子育て専業、男性優位雇用社会が崩れ、男女共同参画の推進と男性地位の凋落が、相対的に持たざる者(従来の社会で優越的地位を持った白人男性など)の凋落を導き、彷徨える「「中年男性」の自我を大量に生み出しただろう。
それでは、カウンターカルチャーとしてのサブカルチャーは、どのようにモテ至上主義から、父性主義の解体のために、機能するのか。
ここで、ニコニコ動画 2025.06.11 PLANETS
「アドレセンス 物語(虚構)はマノスフィア(的な現実)に対抗できるのか?」で討論された内容を基に幾つか方法論を紹介したい。
まず、オタク特有の事物への向き合いがあるだろう。具体的には、今野敏「慎治」におけるダメ教師とスクールカースト底辺男子の逆襲劇(成馬零一)、男性性や父性の外の回路に行くこと(宇野常寛「庭の話」)などが挙げられよう。労働環境をある程度整備しつつ、余白の時間でSNSなどの関係性に「回収されない」制作の時間を設けて、その制作の成果を公共性(公共空間)に接続させ、世界に関与する実感を得る。その実感が、「弱い自立」を促し、集団に依存しない自我を形成するだろう。
セックスへの興味と暴力への興味の連動性の解除(石岡良治)も有効だろう。俗流進化生物学に振り回されたような言説(作中における80:20の法則)に陥ることなく、セックスそれ自体の分野の深堀り、暴力それ自体の分野の深掘りは、両者の安易な結びつきを徐々に解体し、より深遠な射程を得ることになるだろう。
そしてもちろん、日本のサブカルチャー全体について有効性が言えよう。これらが海外から受けるのは無関連化に作用しないことといえる(宇野常寛)。例えば少年ジャンプの体育会系作品は、主人公の成り上がりなどを描写していくことを通じて、スクールカースト底辺層男子や、腐女子/婦女子にも受容性が高い。そのような虚構を通じて、異なる世界への新しい可能性を模索することが、閉鎖的で旧来的な思想を俯瞰的に観る一歩となるだろう。
・概括

『アドレセンス』は、13歳の少年ジェイミー・ミラーが同じ学校の女子生徒殺害の容疑で逮捕された事件を軸にインセル、マノスフィア(英語版)、ミソジニーなどのジェンダー問題、SNSでのいじめなど、現代の社会問題をテーマとしている[2]。また2020年代からイギリスで急増したナイフを使った犯罪など、国内の社会問題も取り入れている[3]。
全4話の各エピソードはワンカットで撮影された。2025年3月13日にNetflixで配信開始され、演出、脚本、撮影技術が高く評価された。特に、その独特な雰囲気や俳優たちの演技が称賛を集めた[4]。
企画・原作:スティーヴン・グレアム
脚本:ジャック・ソーン
監督:フィリップ・バランティーニ
・全話総評
1話
演出:言うべき事を然るべき場所で述べるよう繰り返し強調する
脚本:一つのカメラ視点から実直にジェイミー容疑者を追いかけることで視聴者の理解を深める。SNSのリポストまで取調室で供述に利用される生々しさが良い。
演技:序盤の家宅捜索の畳みかけ方が壮絶でリアリティが高い。
新劇のような日常の延長を装う演技は一回取りならではか。
ジェイミーは只管眼を合わせて会話が出来ないインセル予備軍の描写。
歴史の壮大さに酔い痴れる
配管工の職人気質的父親との意思疎通困難が醸される。
美術:簡素な検察所と取調室がリアリティを増す
音響:少年の心象風景のように混乱の独白より音響効果で緊張を煽る。
音楽:父親の混乱の高まりに不穏な管楽器が拍車をかける
文藝:インセル予備軍からSNSでの過激活動、セキュリティカメラ監視による犯罪立証が、繰り返される詰問とともに緊張感高く立証される。高度な新劇であり現代劇
2話

演出:SNSや監視映像の情報がコミュニティで筒抜けの状況が強調される。
学校からは、常に,げろとキャベツとオナニーの匂いがするだろう。
脚本: ジェリドとライアンの突然の乱闘が差し込まれるが、ジェリドの家庭問題も並列される。ケイティによるインスタ虐め=赤い薬=インセル=80:20への大量のいいねその他が、スラングに無関心な年上世代との断絶を屹立する。ライアンも逮捕wトミーは、、
演技:ジェリドの怒りは巧い。ジェイミー同様に友人達のライアンも、警部息子アダムも、インセルとして描写される
音楽:俯瞰図からのレクイエムが神と弱者(a fragile we are)を等しく湛える
文藝:底辺校の閉鎖的構造がSNSや社会構造を反映して増幅する。アダム刑事の児童も虐め対象であることが状況を攪乱する
3話

演出:音響の無い取調室の雨脚が詰問の緊張感を乗じる
脚本:ホットチョコとチーズチャツネサンド、チャツネ嫌いがジェイミーの神経症傾向を象徴するが、やけに饒舌で狭い空間における戦略家に進化したジェイミーも対照化される。
絵文字の解説:赤インゲン、爆発物、20:80、、、、インセル特有の文化研究の必要性を要請する
演技:セキュリティカメラ担当漢の激しいきもさが、側面からの覗き見含め留意される。インセルならではの、女性臨床心理士への攻撃的態度やモノに当たる態度が情けなさを照らし返す
美術:臨床心理士の取り調べ室の乱雑さがノイズになる
音響:臨床心理テストの終りのスケッチピアノが終焉を予期する
文藝:現代の山月記であり、臆病な自尊心と尊大な羞恥心が、世代を超えたインセル問題として顕現する。
コミュ障の発展的解消方法として古い世代のスポーツなどの打ち込みは視界の拡大に貢献しただろう。現在の選択肢の多さは運動の他への逃避や興味の変遷を強化する。息子のスポーツ音痴を恥じ入る父親を感じる息子の敏感さが小さく震える。ケイティの露出狂さ、若年ゆえの承認欲求がSnapchatなどの刹那的なSNSを通じた拡散による事件の遠因となる可能性が示唆される。自己肯定感の低さがジェイミーの自分と向き合えない人物像、繰り返し激昂する説得性を象る。安易な承認欲求に走るインセルの袋小路が照射される。
4話 13か月後

演出: 自宅に集中する描写は問題の本質が家庭的な要素にあり、問題が再生産される構図にあることを示す。結局ジェイミーのベッドに佇む熊人形にキスすることでしか祝別を与えない断絶が現れる
前方からの定点カメラの車中撮影はリアリティショーの構成でありつつ、コントの構図も並置する。セラピストのアドバイスは何も解決しないうえに老夫婦を悪い方向へ導く 。後方からの帰りの定点カメラの車中撮影が往路と復路の状況を対照化する。
最後の途切れた言葉はジェイミーの想いとともに親子の断絶を示し、青のペンキ(悲しみ)とともに悲惨さを重畳する。
脚本:優しい古き強い男が冒頭で性的にも象徴的(社有車)にも挫折する
演技: 妻にガチギレする夫が視野の狭さと繊細さと古い男らしさを象徴する。依存的な妻と自立志向の長女が会話劇で対照化される
美術:社有車のnonseのグラフィティは消せない
音響:誹謗中傷に走去る悪童が不穏な音楽と重なる
音楽:take on me カーステが小さくて聞こえない
文藝:ホームセンターのインセル同士の慰めあいが情けなさを増幅する。
親子ともにインセルの自分から逃避する現実を形而上化するとともに、女性(妻)から指摘される構図がインセルの救えなさを強調する
・参考文献
・ニコニコ動画 2025.06.11 PLANETS
「アドレセンス 物語(虚構)はマノスフィア(的な現実)に対抗できるのか?」
・コブラ会』と「父」の問題
・Subcultures Are Just Aesthetics Now
・The Fading Underground: The Decline of Subculture in the 21st Century
https://www.theculturecrypt.com/posts/the-decline-of-subculture-in-the-21st-century
・Why did mainstream culture still exist in 2010s, unlike 2020s?
・The Death Of Subculture part 3: The role of poverty and social class
・Japanese vs. American Manga Markets: What’s the Differences?
・https://goodereader.com/blog/digital-comic-news/japanese-vs-american-manga-markets-whats-the-differences
・The International Anime Market Has Overtaken Japan’s – But What Does It Mean?
・East-West Cultural Differences in Basic Life Stance
・Japanese Youth Subcultures: From Marketable to Dangerously Deviant
・令和 5 年度 文化庁と大学・研究機関等との共同研究事業 諸外国の文化政策等に関する調査・研究 https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/pdf/94076501_01.pdf
・「ナラティブ なぜ、あの「語り」に惑わされるのか」 大治朋子 毎日新聞出版参