~神なき世界で、自ら意味そのものとなる~
Contents
・所感
・歴史と未来の役割
・不条理について
・条理について
・1920年代の架空のドイツ戦争、あるいは条理と不条理
・幼女という装置 、あるいは神性、不条理、虚構
・神なき世界で、自ら意味そのものとなる(ニーチェ)
・全話総評
・参照文献
・所感
人はタイトルで作品の鑑賞の是非を判断するように、
作品も寧ろタイトルで人を判断するだろう。
アニメ「幼女戦記」はシンプルながら強烈なネーミングで先ず視聴者を選り分け、
次にそのブラックユーモアと本格的な戦争描写で更に視聴者を選り分けるだろう。

その意味では、筆者も深夜アニメ研究を始めるまで、その外連味にあふれる本作のタイトルで視聴を躊躇っていた「幼女戦記」について、書き留めることは一つの意義があると感じる。
本作では「幼女」をめぐる問いは、「不条理」と「条理」を巡る問いに変換される。
本格的な偽史を通して不条理と条理の狭間で揺れ動く幼女としての「怪物」は何を成したのか、考えてみたい。
それは神なき世界で自ら意味を創り出す「超人」の実践としての体現であり、
ある種の「危うさ」でもあるだろう。
・歴史と未来の役割

でも触れたが、E・H・カーの「歴史とは何か」では、
歴史の本質と歴史家の役割について考察している。
<歴史の概念>
カーによれば、歴史とは以下のような概念だ。
- 現在と過去の対話:歴史は現在の視点から過去を解釈し、評価する過程。
- 選択的な解釈:歴史家は事実を選択し、解釈を加える。完全に客観的な歴史は存在しない。
- 価値体系の反映:歴史は事実の背後にある価値体系や思想体系を含む。
- 未来への橋渡し:歴史は過去の教訓を未来に伝える役割を果たす。
4.未来への橋渡しとから考えてみたい。
これは、「過去が未来に光を投げ、未来が過去に光を投げる」、
つまり歴史が単なる過去の記録ではなく、過去の教訓や伝統を未来へと伝える役割を持つということになる。
歴史とは「獲得された技術や知識、経験が世代から世代へと伝達されていくことによる進歩」であり、この伝達こそが人類の可能性の発展につながるとされる。
「進歩の目的は遠くにあり、歴史のゴールは明確に設定できない」としながらも、歴史家は過去の事実を解釈し、未来の基準や価値観と照らし合わせて意味づけを行う必要があるとされる。つまり、歴史の解釈や評価は固定的なものではなく、未来の視点や課題によって変わりうるという柔軟な歴史観を示したものだ。
アニメ「幼女戦記」は、現代日本の合理主義的なサラリーマンが、戦争と混乱の時代に転生し、架空の帝国で軍人として生き抜く物語だ。本作では、主人公ターニャが「人的資源」「コスト意識」など現代的な価値観を持ち込みつつ、戦争という極限状況の中で合理的に行動し、しばしば組織や上層部の非合理性、理不尽さに直面する。ターニャは現代日本の知識と経験を活かし、過去の戦争の過ちや組織の硬直性をリアルタイムで観察しつつ、そこから「いかに楽に、合理的に生き抜く」かを徹底的に目指していく。
・不条理について

アニメ「幼女戦記」は不条理の物語だ。
現代日本の中高年が、第一次世界大戦の前後の欧州(ドイツ近辺)に、幼女として転生させられ、戦時下を生きることを強いられる。
不条理では、例えば類似作品で比較すると、
フランツ・カフカ「変身」では、主人公が突然に虫になり、論理が通じない制度や世界が、登場人物を一方的に裁き・疎外する。
あるいはドストエフスキー『地下室の手記』では、合理性に対する激烈な懐疑の結果、自己破壊的な自由の行使が描かれる。
アニメ「幼女戦記」は不条理を神への信仰と関連づけているが、そもそも不条理とは何か。
神との関連では、不条理は神の全知・全能と人間の有限性のギャップに基づくものとされる。
神の意図や計画は、人間の理性では理解し得ないとされるため、不条理に見える出来事も「神の計画の一部」であると考えられる。
例えばヨブ記(旧約聖書)において、善良なヨブが理由もなく苦しむが、神は「お前は宇宙を創造したのか」と問い返し、人間の理解を超えた視点の存在を示す。
実存主義との関連では、不条理を神なき世界の証左と見る視点がある。
アルベール・カミュやJ・P・サルトルのような無神論的実存主義では、「世界が合理性を持たない」ことを不条理と定義する。神がいないゆえに、人生に本質的な意味はない。しかし人間は意味を求める──この矛盾が不条理だ。
アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』では、人間は意味を欲するが、世界は沈黙している。よって人生は不条理とされる。しかし、その不条理を認識した上で生きることに価値を見出す。これを反抗の哲学という。
あるいは、神秘主義・東洋思想との関連がある。
禅やタオ(道教)では、理性では捉えきれない自然の摂理や「無為自然」の中に真理があるとされ、論理的矛盾(不条理)すら悟りへの通過点と見なされる。
・条理について

では、条理とは何か?
一般的には「筋が通っていて、道理にかなっていること」だ。
哲学的に言えば、次のような性質を持つ。
「因果と目的の一貫性」
出来事や存在には理由(原因)があり、それには意味(目的)があるという考え方。
例えば、「苦しみには試練としての意味がある」「正しく生きれば報われる」など、世界には一定の秩序があり、それに基づいて意味があるという信念。
ギリシャ哲学(特にストア派)やキリスト教思想では、「ロゴス(理法)」が世界を貫いているとされる。ロゴスは神の理性、あるいは宇宙の秩序そのもの。
つまり、「世界には条理がある」とは、「世界は合理的で、理解・説明可能で、善悪や正邪も最終的には明確である」という信仰的前提だ。
ではなぜ、合理性と、虚構であるはずの神がなぜ関係するのか?
例えば無神論的実存主義者にとっての前提において、「神はいない」、
よって「世界にあらかじめ意味は存在しない」。
この前提に立つと、以下のような論理構造が生まれる。
合理性とは、人間が意味や因果を構築する能力である。
人間は「なぜ?」と問い、「意味」や「目的」を見出そうとする存在だ。
これは理性(ロゴス)の働きである。
しかし、世界自体には本来的に意味はないとすれば、人間の理性は「意味のない世界に意味を求める」という矛盾に陥る。ここに「不条理が」が生まれる。
かつてある世界観では、神は「条理の保証人」であった。
善悪の基準、死後の報い、苦しみの意味、宇宙の設計者(理性をもって設計された世界)。
つまり、「神がいるなら、世界には意味があるはずだ」というメタ物語が存在した。
再びアルベール・カミュに戻ると、彼は「不条理とは、人間が意味を欲することと、世界が意味を持たないことの対立である。」と述べている。
神がいないことで、「意味の体系(=条理)」が崩壊する。
しかし人間は本質的に意味を欲し続ける。
この矛盾が、「生きることの不条理(absurde)」を生むのだ。
ここで疑問が生じる。虚構であるはずの神と、条理は、なぜ関係するのか?
神が「虚構」であっても、それが条理を保証していた構造に依存して人間の思考は作られてきた。無神論的実存主義は、神の不在を宣言することで、「条理なき世界」のリアリティと向き合うこ。つまり、神の不在を知ることで、初めて不条理という現実が見えてくる。
「不条理を受け入れ、それでもなお生きること──それが人間の自由である」
これが実存主義と、「幼女戦記」における最大のテーマの一つだ。
神なき世界で、どうやって意味を創造するか。それこそが、自由であり、誠実な生であるとされる。
・1920年代の架空のドイツ戦争、あるいは条理と不条理

「幼女戦記」の舞台は1920年代の架空のドイツと第一次世界大戦を巡る状況だ。
これはちょうど戦争が変わり始めた過渡期でもある。
1920年代は、戦争が中世的な騎士戦から、近代国家の総力戦に変わった直後の時代であり、戦争の論理と人間の非合理さが最も劇的に衝突する時代だ。
第一次世界大戦によって、戦争は「国家総力戦」になった。
科学、経済、兵站、外交、情報戦が戦争の勝敗に直結するようになった。
しかし、人々の倫理観や感情はまだ「騎士的」「人道的」な部分を残していた。
つまり、「合理的な殺戮VS 非合理な人間性」という矛盾を最も強く描ける時代である。
また、現代では描きづらい「未熟な戦争の合理性」の側面もある。
現代は、戦争はすでに「経済・核抑止・ドローン」などの戦略的様相を帯びており、戦争=リアルタイムの政治ゲームだ。
1920年代は、技術も組織も整ってきたが、「完全な合理主義にはなりきれない」時代。
だからこそ、「幼女戦記」の主人公ターニャのような「徹底的に合理的な軍人」が、逆に異常者として際立つのだ。
そして舞台となるドイツは「軍事合理主義」の代表国とされる。
プロイセン→ドイツ帝国→ワイマール共和国の流れは、まさに「軍事的天才と政治的失敗の連続」といえる。「幼女戦記」の主人公ターニャのような「軍人官僚」が国家を引っ張るという構図は、ドイツだからこそ自然となりえる。
一方でドイツは「敗北と暴走の歴史」がある。
第一次大戦に負け、過酷なヴェルサイユ条約を課され、政治が混乱し、最終的にナチスの台頭へと向かう。つまり、勝てない戦争に突き進み、合理主義が破滅へ転じる実例である。
これは『幼女戦記』のテーマと合致するものだ。
「合理的に動いても戦争は破滅に向かう」「個人の努力は無力」。
・幼女という装置 、あるいは神性、不条理、虚構

なぜ「幼女戦記」の主人公は、ほかでもなく「幼女」として転生させられるのか。
幼女というキャラクターに中年男性の意識が宿っているというギャップそのものが、作品の風刺的・ブラックコメディ的魅力であり、マーケティング的な立ち位置を示しているといえるが、ここでは神性、虚構としての幼女を考えたい。
まず神に近い存在、未分化な存在としての児童がある。
幼児は「未分化な存在」として、まだ自我が完全に形成されておらず、純真無垢である一方で、怒りや不満などの感情が保護者に向けられ、それが満たされない場合、心の破壊や将来への不安を生むことがある。つまり、幼児は生と死、愛と怒りという根源的な力が交錯する存在である。
また神秘性を持つ存在としての女性としての側面がある。
女性は月と呼応し、霊的・神秘的な力を持つと考えられている。これは女性が持つ情緒的・身体的な表現や宗教的霊性の中に見られる。
以上を踏まえると、幼女は、未分化で神に近い存在としての幼児の純真無垢さと、女性が持つ神秘性を併せ持つ特異な存在である。このため、幼女は「守られるべき純粋な存在」であると同時に、「未知で不可解な力を秘めた存在」として恐怖や畏怖の対象にもなる。伝説や民間信仰では、幼児の霊や精霊が異界と人間界の境界に立つ存在として描かれ、善悪の両面を持つ怪異として語られることもある。この二重性が幼女の存在に無垢と恐怖の両義性を与えている。
・神なき世界で、自ら意味そのものとなる(ニーチェ)

ニーチェは『悦ばしき知識』において「神は死んだ。私たちが彼を殺したのだ。」と述べた。
これは、キリスト教的価値体系─すなわち「絶対的善・悪」「天命」「目的論的世界観」──が近代以降、合理主義・科学・啓蒙によって信仰の対象として崩壊したことを意味する。
神の死は、価値の真空=ニヒリズムをもたらす。
これはショーペンハウアーの「意志としての世界」を発展的に解釈したものだ。
ショーペンハウアーの世界観では、「世界は我々の表象(=主観的に知覚された秩序)である」一方、その背後にある本質は盲目的な生の意志だ。
これは合理的でも善でもなく、ただ無目的に欲求し続けるエネルギーである。
ここで「世界の本質は条理ではない(=不条理)」という思想に接続する。
ショーペンハウアー自体の思想は東洋の仏教世界観に大きく影響を受けている。
ショーペンハウアーは仏教を「神のいない悟りの思想」として受け入れたが、
実際の仏教には神々は「いる」。
これをどう考えるか。
仏教における神(天部)は、あくまで輪廻の中にある存在であり、キリスト教のような唯一絶対神ではない。彼らも生老病死を逃れられず、悟りを開かなければ解脱できない。
つまり仏教の世界観では、神ですら「不条理な存在の網の目」に巻き込まれている。
世界の本質が苦(dukkha)であり、欲望(tanha)がそれを生むという点で、「盲目的意志」と通じる。そして、その「意志(欲望)を否定することで苦を超える」という教えは、ショーペンハウアーの禁欲思想と合流する。
西洋実存主義では「神の死」=意味喪失=不条理とされる。
仏教では、世界は本来意味などなく、因果と無常によって構成されている。
両者は異なるルートを通って、「世界は不条理(=意味をあらかじめ持たない)」という結論に達している。
しかしニヒリズムの徹底は無気力をもたらし、生命の停滞を提示する。
これを思考実験的に乗り越えようとしたのが、ニーチェの「永劫回帰」である。
永劫回帰とは「この人生を、あなたは何度でも、無限に繰り返すとしたらどうするか?」
という仮定において、今している行動・選択・生のあり方が、一度限りではなく、無限に繰り返されるものだとしても「是」と言えるか?という思考実験だ。
あなたはその人生を「無意味で空虚な運命」と見るのか、
あるいは「自ら選び、愛する運命(Amor Fati)」と見るのか。
ニーチェの提案はこうだ。「不条理を超えて肯定せよ」。
神が不在の不条理な世界であっても、「それを我が意志によって選ぶ」と言えるならば、
人間は超人(Übermensch)に近づく。
永劫回帰は、不条理に対する究極の「肯定」を試す倫理的テストだ。
まとめよう。
不条理とは「世界にあらかじめ意味がないのに、人間は意味を求める」という矛盾の場だ。
ニーチェは「それでも世界を愛せ」と語り、「神なき世界において、「私が意味そのものとなれ」」と語った。
この積極的な生の、神なき世界の肯定は、アニメ「幼女戦記」における主人公ターニャの挑戦的な姿勢そのものであり、矯めつ眇めつ不条理な世界に翻弄され続ける作者の倫理観によって、盲目的な自己肯定に陥らない世界観として提示されているだろう。
・全話総評

あらすじ
統一暦1923年6月。金髪碧眼の幼女、ターニャ・デグレチャフは北方軍管区ノルデン戦区の第三哨戒線で上空からの観測任務にあたっていた。ターニャは帝国の士官学校で航空魔導師としての研修を終えたばかり。危険も何もないただの観測任務は何事もなく無事に終わるはずだった。しかし協商連合の越境侵犯をきっかけに帝国と協商連合は戦争状態に突入し、事態は一変する。協商連合による奇襲が発生し、ターニャは敵の魔導師中隊と単独で交戦しなければならない事態に陥ってしまう。多勢に無勢で味方が到着するまで持ちこたえることなどできるわけもなく、しかし逃げようものなら敵前逃亡で死罪は免れないという絶望的な状況。何としても生き延び、上層部に対して最善を尽くしたとアピールするため、ターニャはとある作戦に打って出るのだが……。
原作:カルロ・ゼン(「幼女戦記」/KADOKAWA刊)
キャラクター原案:篠月しのぶ
監督:上村泰
キャラクターデザイン・総作画監督:細越裕治
シリーズ構成・脚本:猪原健太
副監督:春藤佳奈
サブキャラクターデザイン:谷口宏美、牧孝雄、髙田晴仁
服飾デザイン:谷口宏美
魔導具デザイン:江畑諒真
プロップデザイン:森山洋
銃器デザイン:秋篠Denforword日和、大津直
キーアニメーター:石橋翔祐、栗田新一、堀内博之
エフェクトディレクター:橋本敬史
軍事考証:大藤玲一郎
美術監督:平栁悟
色彩設計:中村千穂
撮影監督:頓所信二
3DCGIディレクター:高橋将人
編集:神宮司由美
音響監督:岩浪美和
音楽:片山修志
アニメーション制作:NUT
製作:幼女戦記製作委員会
1話 ラインの悪魔
演出;要するに第一次世界大戦のドイツ敗戦をifでやり直すのを幼女視点で。魔導士といえど優秀な重装戦闘機か。幼女と繰り返される神への宣誓の表象とは、不条理と神の発見であり、合理と不合理の衝突であり、超越的なものに対する背徳と倫理的な行動である
脚本;戦線を二つも変えて戦果報告まで仕上げるテンポは素晴らしい
絵コンテ;戦闘の泥沼感が良く出ている
キャラデザ;クルストとハラルドの噛ませ狗感w
美術;重火器、軍キャンプ、爆発模様、制服、土嚢の全てが高い筆致。高度一万の成層圏との狭間は美しい
音響; 岩浪美和の戦前戦後感の荘厳さは美しい
2話
演出; シカゴ学派の自己責任論世界観における第一次、第二次大戦のドイツをどう攻略するか。共感力、創造力=神への信心をどう適用するか
脚本; 神を認めないターニャの忸怩たるリターンと決意はまるで戦後日本自衛隊的で良い。なぜ自爆して尚生存、、
絵コンテ;OVER ROADを押し過ぎw
キャラデザ;むしろ悪魔ではなくに人道的で後方退避的なターニャを魅せる
美術; 滲む雨粒、「選択の自由」(ハイジョブ・ジョーン≠ミルトン・フリードマン)
フリードマンの主要理論
- 政府介入の限界:公共教育のバウチャー制度提案(政府資金を個人に分配し学校選択を自由化)や社会保障の民間移管を主張
- 市場原理の優位性:競争による教育品質向上の事例(3つの学校間競争で各校が改善努力)
- 個人の自律性:「自己創造型労働時間制」の概念と一致し、労働者が時間配分を自己決定する思想
音響;絶望を装う撮影音響が良い
3話 神がそれを望まれる
演出;形而上の存在に縋るのは無能,からの恩寵ムーブで存在Xの恩着せ
脚本;存在Xに依存させすぎ
絵コンテ;ドクトルとターニャの掛け合いは面白い。歩兵人形の後光を薙ぎ払うターニャはイカス
キャラデザ邀撃、、、ヴィーシャ・セレブリャーコフの情けなさも忠心も早見沙織の演技も含め面白い
美術;転属先の建造物の構造は素晴らしい
音楽;ED素晴らしい
OP;痺れるコンテと歌詞
ED;ターニャの様々な様相と戦況との混合が複合的な視覚要素を惹起して射程を広げる
4話 キャンパスライフ
演出;准将との対話から戦略立案までの緊張感が見逃せない
脚本;即応大隊の指揮就任は予定調和だがターニャの反応含め面白い
絵コンテ;戦略立案対話におけるコミカルとシリアスが流麗。グラスに映えるターニャの臍を嚙む描写は良い
キャラデザ;晩餐室の大佐の意味は、、
美術;大学階段の垂れ幕、図書室は素晴らしい
音響;安寧な学生生活が仄めかされる
文藝;幼女は神かつ狂気の比喩であり表象そのものであると仮定。
5話 はじまりの大隊
演出;ターニャの鬼教官ぶりは非常に良い味
脚本;鬼の嫌がらせによるディスコミュニケーションと戦況中核への参画は面白い。ダキア師団との戦闘は敵軍の戦略説明に対して事後の反応がやや齟齬で不必要感が、、ターニャの天才の強調か
絵コンテ;貴様らは永遠である!のコンテが崩れ
キャラデザ;ヴィーシャの優秀さが光る
美術;雪山と雪崩は良く描けている
6話 狂気の幕開け
演出;航空機=魔導士の表象と思いきや普通に航空機w違いは何か
脚本;連合協商(ノルウェー北方関連)、共和国(フランス)、連合王国(イギリス)とダキア(ウクライナ?ハンガリー?)との合従連合が進み、帝国(オーストリア=ドイツ連合)を包囲する構図が早まるのは良い。
絵コンテ;カラグガナの上空からの雪景色に照らし返す戦線が素晴らしい。帝国軍北方軍は少々粗い。義勇軍魔道士のスキー板は面白い。爆撃機の甲板から見下ろすターニャが堪らなく決まる。Cパートの分煙要求がSDGs要請を先取り
キャラデザ;帝国軍首脳部が魅力を湛える限り作品の緊張感が続く。ドレイク中佐の喉声が響き、直ぐの砲撃もいい
美術;カラグガナ物資集積地の列車が素晴らしい
音響;戦果と戦略を奏でる管楽器の存在
文藝:瞳の奥の発条の加速による瞳へのフォーカスの表象とは
存在Xと信仰、不条理との闘いの意図とは
7話 フィヨルドの攻防
演出;ターニャは冷酷さを装うのみ。碧眼が金色に変わり神が降臨する
脚本;ノルマンディー上陸作戦を模擬する仕上げ。砲台集中攻撃と艦隊の追撃が功を奏す
絵コンテ;臍を噛むように珈琲をMilkで濡らす
キャラデザ;アンソンの愛国的狂信指揮官の突撃と終焉は敗戦の構造的要因の比喩
美術;艦隊の3DCGが素晴らしい
8話 火の試練
演出;市外戦闘の理論と実践、葛藤との抑制が最後まで統制
脚本;避難勧告と国際法の順守は人命順守に則らないことを噛み締めながら戦闘の葛藤も偽善も良く出ている
絵コンテ;市街地戦闘の入り組みも疾走感も素晴らしい
キャラデザ;ヴァイスの躊躇が良い
美術;アレーヌ市街地の壊滅模様が丁寧。灰色から黒に覆う北雲が雰囲気を塗りつぶす
音響;アンソンの神に対する背徳的讃美歌
音楽;EDの粉塵からの火花、爆散からターニャの目覚め、赤焼けの夕陽が暗い未来を映す
9話 前進準備
演出;V-1の片道切符感が良く出ている 。一話―二話で一つの戦線が完結するのは観易いが戦力の逐次投入で単純にヒロイックな散会戦術にも見え、統一感が出にくい
脚本;天才と天災は紙一重である前半、共和国戦線がノリノリの後半とで屹立。
絵コンテ;安全な後方で出世するはずがどうして感、一貫性あり、存在Xへの怒りも分かり易い
美術;ロール低地の共和軍行進が素晴らしい
10話 勝利への道
演出;回転ドア作戦は良いが魔導士ありき。歴史にifは無い 。共和国とその援軍の連合王国軍を叩いて戦争が終結するとは思えない=ルーシ連邦や合衆国の控え、局地的紛争の継続等
脚本;軍部と官僚の丁々発止はそれなり
絵コンテ地下壕爆散の土煙が素晴らしい
キャラデザ;アンソンの配置が緊張感を保つ
11話 抵抗者
演出;存在Xとアンソン自爆を兼ねた神への畏怖とターニャの窮地は面白いが意図的には消化不良
脚本;アンソンとドレイクの反撃ムーブはもう少し盛り上げても。箱舟作戦遂行のド・ルーゴ総帥の苦虫表情が、追撃の背景を色褪せさせる。三対一のちびっこ虐めのフックは弱い
絵コンテ アンソンとトレンチガン回りの旋回戦闘が素晴らしい
キャラデザ;共和国の兵隊ビーチはもう少し丁寧でも、、
美術;ビーチの料理はもう少し丁寧でも、、
12話 勝利の使い方
演出;夜灯に散る蛾の隠喩。合理性に嵌められない不合理な人間性が凝縮される。
良心的で慈悲深く、不条理で傲慢な神に代わり、人間こそが戦場で生を示す。
脚本;停戦のちこそ真打の神の不合理=情動の危機が提示される構図がいい。合衆国にメアリー・スーの神の瞳が、、
絵コンテ 合理に還元しえない不合理のターニャの説教はもう少し音響と角度があると
キャラデザ;ルードルフ、ゼートゥーアの悔恨が見ごたえ
美術;チュルス基地壁は美しく、ロンディニウムの凱旋も美麗
音響;「諸君、戦争の時間だ」の背後の軍歌こそ本作の主題か
13話 (OVA)砂漠のパスタ大作戦
脚本;予想通りだが威力偵察の戦利品の水タンク獲得からペンネ。戦場の不条理を補完するも、敵陣同盟国軍の境界線を同時に狙う意図は良い
絵コンテ 南方大陸の砂漠(ソマリア?)の丘陵がうねる
キャラデザ;OVAのためかやや説明気味
美術;薔薇の花束を背後に単純なペンネが映える。砂漠のパスタにワインが何とも愛おしい
劇場版
演出;世代を超えた因縁と不合理が、連邦の大空で繰り広げられる。互いに神と正義を叫び飽くなき戦いを続ける様は露悪的な現代の隠喩
脚本;発砲は許可できない、援軍到着まで回避せよ、の命題を繰り返す。
ティゲンホーフ救援作戦=スワウィジギャップの奪還か?
10個師団に加えて航空部隊、魔道部隊と、連続攻勢による畳みかけは従前にない緊迫感のある筋書き。敵討ち気狂いのメアリー・スー准尉のチート仕上げもいい塩梅
絵コンテ;冒頭のライン川の偽りの平穏は巧み。鎧袖一触の共和国軍本部の展開もいい。
崩れる教会の狂気の戦闘と後始末としてのマリアへの血塗りは神の不合理と神への意思を乗り越える通底したテーマである。背景の薄い夕焼け雲が儚い
キャラデザ;メアリー・スー准尉、ドレイク親戚の合従連合
美術;ルーシ連邦の機関砲が素晴らしい。モスコー市内の翳りが儚い
音響;モスコーに響き渡る不協和音の襲撃が、盲目的なルーシ連邦の眠りを明かす様態が目覚ましい。ティゲンホーフ奪還の緊迫感が素晴らしい
音楽;帝国国歌斉唱しながら連邦襲撃は醜悪ながら軍歌の国威発揚の魅せ場でもある
文藝:ティゲンホーフ救援を経て軍事転換、配置転換及び戦争原理原則を説き、クラウセヴィッツの戦争論を述べながらも、最終的には個人の意思と欲望こそを肯定していくラストが作品としての変わらない強度、倫理観を讃える。最後の最後に迎えるちゃぶ台返しも不条理が不条理を塗り潰す作品思想にふさわしい
参照文献
・「歴史とは、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」
・『幼女戦記』幼女✕架空戦記を深堀り解説!【元ネタ考察】【ネタバレあり】
・http://tetsutaro.in.coocan.jp/Writer/Z/Z008.html