新海誠 試論 初期三部作と「余韻」

新海誠 試論 初期三部作と「余韻」
「ほしのこえ」
「雲のむこう、約束の場所」
「秒速5センチメートル」

Contents
・余韻とは何か
・新海誠とその作品
・風景の美学の原点
・主観的な世界の視覚的変遷 「言の葉の庭」抄録
・初期三部作と後期三部作の違い 商業主義の成功と作家主義の縮退
・「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」
 、あるいは純化された「セカイ系」と実体のない喪失感
・「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締り」
 、あるいは「セカイ系」の消失と作家主義の縮退
・青春アニメの普遍性における要素分解と再構築
・アニメの可塑性と未来
・総評
「ほしのこえ」
「空の向こう、約束の場所」
「秒速5センチメートル」
・参照文献


・余韻とは何か 

作家の保坂和志は創作論的随想「小説の自由」で次のように記している。

余韻とは何のことか。
余韻とは実体のある何かではなく、ただ何となくあるような気がする何かのことではないかと私は思う。人が歩き去って誰も居なくなった風景をほんの数秒とることで、観ている者は何となく何かを感じているような気分になる。
つまりそこに心情が発生する。
(中略)しかし、その心情には何も実体はない。しかし実態は無いのだが、何かを感じているような気分は醸し出される。それが映画の何か所かで演出されることによって、観ている者の気持ちはだんだん誘導されやすい状態になっていき、ラストあたりで雪崩を打つように感動させることができる。

この「余韻」の効果こそ、
新海誠の描く風景を魅力的に魅せているものの一つと言える。
新海誠の作風は主に風景と心象描写の異常なまでの緻密さにあるとみられているが、それは背景中心の映像が“間が保つ”絵になっていることである。
それは正確な空間感と緻密なディテール感があり、
非常に情報量が多いことが挙げられる。
かつ、写真をベースにしながら必要なだけのディテール感を残し、細部の情報をオミットしていくことで「あたかも現実のようであるが、美しい背景」を提示するのが、魅力の一つである。

一方でドラマチックな光の描き方にも特色がある。
例えば地面に落ちる影は、精密な直線で区切られているわけではなく、影の輪郭線の滲みがあるが、大胆に処理し、薄い影のゾーンとその中にある濃い影のゾーンとして描かれる。
それにより普通よりもずっと光の存在をその空間に感じることができる。
またコンクリート塀。平板に塗られることはなく、最も明るいハイライト部分から細い部分までかなり明確にコントラストがついている。集合住宅の金属製のポストや学校の机など、光を反射しがちなものには、周囲の光の映り込みがかなり強調されて描かれている。

そのように空間全体を存在感あるものとして提示しつつ、繰り返されるキャラクターのモノローグが産み出すのが、冒頭の「余韻」なのだ。
(参照:藤津亮太「ぼくらがアニメを見る理由」)

・新海誠とその作品

「美しい風景」「意味深なモノローグ」「流麗な音楽」を編み上げた詩的な映像世界が新海誠の作品群の魅力と定義することがひとまず可能だろう。
それはアメリカのような、万人に誤解無くエンターテインメントを提供する方向性とは真逆で、コンテクストを重視し、観客の読解力と想像力を信頼し、「個人の心」を触発して美的な価値観を送り手と受け手で共有する、まさしく「日本製アニメの世界観主義」を総括したものといえる。

また初期の作品「ほしのこえ」は、デジタル時代の進化と同期し、30分弱の短編を一人で制作したことに加えて、前述した「光の処理の美しさ」も注目された。
また後期3部作「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締り」では、
それぞれ興行収入250.3億円、141.9億円、131.6億円と、日本映画のトップを総なめしており、ほとんどスタジオジブリ以来の快挙と言える。

また、2000年代後半より活性化してきた「聖地巡礼」(アニメや漫画などの舞台を実際に見て回ること)とも重なり、「世界観の虚実入れ替え」が複数の土地に対して可能となったデジタルインフラの寄与や、受け手の楽しみ方の変遷にも答えていくことにも重なった。
実際、最新作「すずめの戸締り」では新海誠自ら「ロードムービー」と銘打ち、それに倣って視聴者が各地を巡礼するなどの情報が相次いで見られる。
(参照 氷川竜介「日本アニメの革新」)

・風景の美学の原点

https://www.youtube.com/watch?v=JscXGnFaMjE
これら「美しい風景」の原点は、
新海誠のゲーム会社時代の映像制作にルーツが求められる。
例えばノベルゲーム「ef」などのminori作品のOPムービーを何作も担当していたことなども有名である。

新海誠が大学4年生に際して、
「新世紀エヴァンゲリオン」のTV放送最終2話の声のみの演出、劇場版「機動警察パトレイバーthe movie 」のような、レイアウトや風景だけで見せたり長台詞で延々と間を持たせる手法に衝撃を受けたことを述懐しているが、
実際に新海誠作品の特徴は「ラブストーリー」なのに2人の触れあいがほとんど存在しない。人のいない風景、登場人物が見つめる風景のカットが多用される。

しかしこれら「風景に託して言外の感情を伝える」は、高畑勲、宮崎駿らを契機に大きく発展した日本製アニメの特徴の系譜に位置づけられる。
「新世紀エヴァンゲリオン」「機動警察パトレイバーthe movie 」なども、背景美術の重視、世界観主義の系譜で一直線に繋がるものである。

「人の動き」による表現が重視されてきたアニメーション文化とは根源的に異質で、むろしろ光や雲の変化に動きをつけ、淡々としたモノローグを重ね、言葉を途絶させ、代わりに静謐な音楽がカットの断層を貫く。この積み重ねで、大きな情動が観客側で自発的に醸成されるだろう。物語性のある作劇になっていることで、ポエムと異なる存在となっている。

風景、独白、音楽、、、という感性主体で(人物の登場しない)「空舞台」や(動きや口の映らない)「OFF」の表現の多様という側面において、新海誠の作家性は決してメジャー向きではなかったはずである。
(参考:氷川竜介「日本アニメの革新」)


・主観的な世界の視覚的変遷 「言の葉の庭」抄録

これら美術的な要素と文芸的な要素を簡潔に述べると、新海誠の作家性とは、
アニメーションにおける「風景の再発見」と、村上春樹的な男性ナルシシズムの変態的な表現が特色といえる。

村上春樹的な男性ナルシシズムとは、強い男性が女性を守ることで得られる(石原慎太郎的な)ものではなく、弱い(多くの場合は心に傷を負った)女性から必要とされることで獲得される男性ナルシシズムのことを指す。
劣位にある女性を所有することで強化されるナルシシズムである点は同じだが、「強い自分が女性を守る」のではなく「弱い女性が自分を求める」構造の違いがある。
現代の人権感覚、及び女性からは受け入れがたいものであるが、
重要なのは、新海誠という作家がこのナルシシズムをある種のマゾヒズムに昇華していることにあるだろう。

このマゾヒズムにすら結びつくのが「言の葉の庭」で、婉曲的ではあるが、足フェチの高校生と心を病んだ女教師との情事といった、ポルノ小説のような物語が、信じられないくらいにリリカルに美化された新宿を背景に描かれる。
(ちなみに「極楽とんぼ」の加藤浩次は、
この被虐性の強いナルシシズムを「インポのナルシシズム」と呼んだ)。
(参照;宇野常寛「2020年代の想像力」)

文藝面は既述したが、
美術面での「言の葉の庭」の画面つくりは目を見張るものがある。
梅雨時で湿度の高い空気の中、ビニール傘が登場する。手前奥に降る雨、傘についた水滴、中に見える人物、その奥に見える傘の内側、それを通して観える水滴、さらにその奥に見える木々など、透明度や反射が微妙に異なる被写体が複雑に重なり合っている画面の連続、、、、
この「透明感」をすべて階層別に描き分けていることに驚愕するだろう。

また、新海誠の描く雲に注目するなら、同様に明るさと濃淡の階調の微細な描き分けの意識がある。
雲は光の乱反射による水蒸気の塊で、空のレイヤーの前に位置している。
その密度は一様ではなく、空が光源となって雲を透過した光は二次反射し、手前の雲が遮って暗くなる部分もできる。多層に重なる雲ではさらに複雑化し、形状も二度と同じにならない。この複雑な水と光の挙動に対し、統一感のある意識で繊細な調整を加えることで有機的な表現に転化させ、物語に貢献する美意識へと高めた。

これらにより「ルックによる世界観」が醸成され、心理に深く作用する。
それこそが主観的な世界の視覚的変遷であり、新海誠の魅力であるだろう。
「光の感覚」に依拠する統御が、感動の潜在力を極限まで高めているのだ。
(参照;氷川竜介「日本アニメの革新」)


・「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」
 、あるいは純化された「セカイ系」と実体のない喪失感


ここまで述べてきた「美しい背景」+「モノローグ」が産み出すのが冒頭に述べた「余韻」であり、これらを物語の要請するものと輻輳することで、さらに「余韻」を効果的に生み出しているといえる。
ここで初期三部作
「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」
を思い出してみたい。
これらで、この「余韻」を結実させ、訴求したいものは何だったのか。
それは「実体のない喪失感」であるだろう。
主人公は
「恋人未満の関係であったヒロイン」が不在になったことで深い喪失感に襲われる。
彼は未だ何も得ていないうちに、“何か”を失い、立ち竦んでいるのだ。
そしてその「喪失」はそのまま主人公にとっての
「世界の終わり」(セカイ系)でもある。

「ほしのこえ」ではノボルとミカコの恋人未満の関係において、恋人かもしれなかった人を失う形で物語を綴る。ラストのミカコのメール、
「ねえ、私たちは、宇宙と地上に引き裂かれる、恋人みたいだね。」
この「みたい」と断定を避ける表現に核心がある。

「雲のむこう、約束の場所」では、自作の飛行機を作る少年ヒロキとタクヤが同級生のサユリを「国境線の向こうにある塔」へ連れていく約束をするが、その告白も、塔へのフライトも実行できず、姿を消してしまう。

「秒速5センチメートル」では、第一話「桜花抄」で、小学生の貴樹と明里の運命のような出会いが描かれながらも恋人になる以前に転校となり別離を迎える。

なお「秒速5センチメートル」では、第一話「桜花抄」において、貴樹は無根拠で内向的に(インセル的に)別離を予期してしまう。それは離れ離れになった明里に苦労して会いに行き、雪の積もる樹の下で同衾するに至るシーンであり、駅舎に入り息を呑む貴樹が非常に感動的なので、引用しておこう。

「その瞬間、永遠とか、心とか、魂というものがどこにあるのか分かった気がした。十三年間生きてきたこと全てを分かち合えたように僕は思い、それから次の瞬間、たまらなく哀しくなった。明里のそのぬくもりを、その魂を、どのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか。それが僕にはわからなかったからだ。僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきり分かった」
一時、喪失感を埋められたと思っても、それは「改めてちゃんと失うための」一つのプロセスにしか過ぎないのである。
(参照:藤津亮太「ぼくらがアニメを見る理由」)

・「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締り」
、あるいは「セカイ系」の消失と作家主義の縮退


後期3部作「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締り」ではこれらの陰鬱な作風は鳴りを潜め、代わって「大衆」向けエンターテインメントと意識を兼ね備えた作風が前面に押し出されてくる。
これは「言の葉の庭」(2013)において映画会社の東宝と組んだことを契機とし、川村元気プロデューサーがアニメーション事業を急拡大し「TOHO Animation」のブランドを確立した時期でもある。その川村元気が「新海誠のベスト盤」を作ってほしいとリクエストした結果が「君の名は。」だった。

日本のアニメ映画が連綿と描いてきたものに「奇跡」がある。
別の言葉でいえば「不可能性の克服と可能性への逆転」となる。
「君の名は。」における奇跡は、ある意味積極的な奇跡といえる。
初期の段階こそ「入れ替わり」という受動的な状態にあれど、瀧が仲間たちと離れ、自分の意思で糸守町を目指して行動を始めるシークエンス。「入れ替わり」を利他的な救済に使おうとする「反転の意思」。そこで生じる圧力が「奇跡」を起す。
メジャー化に際して新海誠が、傍観者的な詩的映像よりも、そのパワーを主体的に自覚し、救済に使おうとする意図が見える、明らかな転換点である。
その意味では「君の名は。」は、日本の商業娯楽を目的とするアニメ作品が連綿と顧客に向けて示してきた「奇跡」の正当な継承者であるともいえる。

「君の名は。」では、
この「個」から「感性」を伝える映像詩の芸術性を保持したまま、大衆向けにブレイクできた新海誠。
そこには商業アニメーションが育んできた才能の合流もあるだろう。
キャラクター面では深夜アニメの当時最先端である田中将賀
(「とらドラ!
あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない
心が叫びたがってるんだ」など)、
ジブリアニメを支えてきた作画の安藤雅司、
アニメーション制作協力にアンサー・スタジオ
(ウォルト・ディズニー・アニメ-ション・ジャパンが母体)と擁立しており、
東映・虫プロ派の対立の次の時代に進んだともいえる。

ここにおいて、
後期3部作「君の名は。」「天気の子」「すずめの戸締り」の「セカイ系」の消失を指摘することが可能だろう。
「君の名は。」では、「時間差」と「個人と世界」の重層化や、個人の願望に基づく二人の接触のみならず糸守町の人を災厄から救う観点での社会性の獲得など。
「天気の子」では「個人が社会の犠牲になること」の否定により、価値を多層化し相対化な視点を提示。
「すずめの戸締り」では現実の災害「東日本大震災」そのものを作中に取り入れつつその被害状況を受け止めて前に進む様相が描かれる。
(参照:氷川竜介「日本アニメの革新」)

それと並行するように作家主義の縮退が見られるのも、
この3部作の特徴と言えるだろう。
「君の名は。」では、既述した、鬱屈し、被虐的なナルシシズムは影を潜め、主人公とヒロインは危機を乗り越えた後に予定調和的に再会する
(結ばれるわけではないが)。
敢えて斜に構えた観方をすれば、震災を、ボーイミーツガールの物語を盛り上げるBGMとして割り切って取扱い、それが日本人の震災を、安全に消費できるものにしてしまいたい、という無意識の欲望を満たしたともいえる。

「天気の子」では、かつての被虐的なナルシシズムの回復を目論み、そして出来なかった作品だと考えられる。主人公の少年がヒロインの少女を救うために、世界を犠牲にする。しかし彼はそのために5キロほど(目白から代々木)の距離を走るだけで、何も失わない。拳銃を発砲しても誰も傷つかないし世界を犠牲にしたことを誰にも責められない。さらには救い出した少女と予定調和的に再会する。
初期3部作であればいづれか一つの要素だけでも反転した描写となり、少年の自己憐憫を美しい風景が囲み、マゾヒズムのナルシシズムが確認される結末となるはずだ。

「すずめの戸締り」では、もはや新海誠の、
自分の物語としての主人公は存在しない。
広義の被災者たちが自分の生を呪わないで済むための儀式のようなもので、2010年代に繰り返し良心的なアプローチとして日本で反復されてきたものであり、特筆することの無い、良心的なもので、好感がもてるが、それ以上のものが無い。
創作物としての成果は、ほとんどないに等しいのだ。

ここに示されているものは何か。
それは2022年当時から、日本で国民的作家であろうとすると、ほとんど空っぽにしかなりえない、ということかもしれない。
優れた作家ならば、自明の正しさを伝達するにとどまらず、豊かな想像力を用いて途轍もない場所へ届く可能性があったとはいえるかもしれない。
一方でこの空疎さ、薄弱さこそが、
この日本を体現してしまっている、とも言えるだろう。
(宇野常寛「2020年代の想像力」)


・青春アニメの普遍性における要素分解と再構築


「君の名は。」を通して、新海誠の作品群における可能性を考えてみたい。
「君の名は。」は、系譜的には細田守監督「時をかける少女」の直接の参照かつ、ポストジブリとしての細田守、さらにポスト・ポストジブリとしての新海誠という位置づけがあるだろう。
なおポストジブリという表現に違和感があるなら、それはジブリの高畑勲「おもひでぽろぽろ」望月智充「海がきこえる」近藤喜文「耳をすませば」で追求していたファンタジー要素が希薄な現代劇の系譜に位置づけられるからだろう。

そして難病ものとしての「風立ちぬ」と、「君の名は。」における大災害による死としての三葉。さらにノスタルジーコンテンツとしての「となりのトトロ」と、「君の名は。」における地方の伝統行事及び最終的に登場人物4人全員の上京という身も蓋も無さ(現実的に地方に就職口が無い為に都心集中となる状況と重なる)。

さらに李豪凌(リ・ハオリン)監督(「時光代理人」など)の、新海誠所属のコミックス・ウェーブとの共同作品「詩季織々」における、「秒速5センチメートル」ファン製作としての青春オムニバスとしての描写なども補助線となるだろう。

まとめると、地方と都市の格差、学園生活、初恋、別離、再会、これらのモチーフをナルシスティックなモノローグと映像でアニメ化すれば、世界中どの地域でも青春アニメが作れるという、普遍性のようなものが見出せるのではないか。
そしてこれらをユースカルチャーとしてアニメのユースの部分を上手く掬い上げることに成功している点で、「君の名は。」及び新海誠作品の未来への貢献可能性が見えるだろう。
(石岡良治「現代アニメ「超」講義」)

・アニメの可塑性と未来

アニメを取り巻く環境の変化への応答を考えるとき、アニメが参照する隣接領野の変動に注目する必要があるだろう。
日本では主に「鉄腕アトム」から発達してきた、メディアミックスとしてのアニメは、現在ではMMOオンラインゲームやスマホアプリ、位置情報アプリのような多種多様なゲームとの関係により大きな変容を受けている。
アニメのメディア横断的な雑多性に積極的な意義を見出す必要があるだろう。

その意味で、「君の名は。」の新海誠が、ゲームPV作家としてキャリアを始めていることは興味深い。ゲームの側からアニメにアプローチしてきた作家としての一貫性を示しているように感じられる。

同様にアニメとゲームの結びつきを考える事例としては
「Fate/Grand order」があるだろう。
同作はアダルトノベルゲーム「Fate/stay night」からのスピンオフとして、
コンシューマーゲーム化していく中で多くの女性ファンを獲得し、
一般映像化、アニメ化している。
これらの過程は、男性向け「古い」想像力が、性差を問わないティーンズ向けのアニメ映画として更新された好例のように思われる。
同様に「Fate」シリーズが如何に巨大化しようとも、あくまで「アニメーション」という媒介を必要としているように感じられることも重要だろう。
日本の漫画やゲームが世界中で受容されるときに、「アニメ」という媒体を経ることが多いという事実を無視しえないからだろう。

ゲームタイトルはアニメ化されることで、その存在を広く周知する経路を得る一方、「アニメのクリエーションの環境としてのゲーム」の性格が強まり、アニメとゲームの共存関係はますます深まっていくだろう。
この「共存関係」も検討しつつ、アニメという媒体の可塑性について、未来を考えていくことが必要だと思う。
(石岡良治「現代アニメ「超」講義」)

あるいはそれは、
2000年代にFLCLがAMV(Animation Music Video)
として米国市場を中心に受容を拡大し、
アイドルアニメ(「推しの子」までを含む)
ガールズバンドアニメにおける受容の拡大、とりわけ
ぼっち・ざ・ろっく!
ガールズバンドクライ
BanGDream!It’s MyGO!!!!
BanGDream!Ave Mujica
などの世界市場における受容の在り方を注視していくことにもなるだろう。

・総評 初期3部作

「ほしのこえ」

あらすじ
2046年、関東某県の中学に通う長峰美加子と寺尾昇は同級生。同じ部活で仲の良いふたりだが、中学3年の夏、ミカコは国連軍の選抜メンバーに選ばれたことをノボルに告げる。2047年、冬、ミカコは地球を後にし、ノボルは高校に進学する。 地上と宇宙に離れたミカコとノボルは携帯メールで連絡をとりあうが、リシテア号が木星・エウロパ基地を経由して更に太陽系の深淵に向かうにつれて、メールの電波の往復にかかる時間は開いていく。ノボルはミカコからのメールだけを心待ちにしている自身に苛立ちつつも、日常生活を送っていく。やがてリシテア艦隊はワープを行い、ミカコとノボルの時間のズレは決定的なものへとなっていく……

監督・脚本・美術・撮影:新海誠/音楽:天門/
主題歌:「THROUGH THE YEARS AND FAR AWAY」唄:Low;作詞:.JUNO;作曲:天門
[製作年]
2002年

75点

総評
演出;最期まで残る二人の共有財産が嗅覚や触覚や聴覚のかなり浅い経験のもたらす「語り」であることが、二人の幼さよりも、情動に興味を持たない作家の個性を照らし出す
脚本;現代版の織姫と彦星であるが、二人の好意も背景も全くの不明の「全体状況」で、只管に悲劇的な状況の加速が描かれることで視聴者を大きく二分するツクリとなっている
絵コンテ;戦闘シーンは攻撃の始点も終点も不明。人物の動作の不明瞭さに対比して、ミサイル軌道含め機械や自然の描写が凄まじい、
キャラデザ;2000年初期の少女―青年漫画デザインとガラケーが異様に相応しい。冷たく、強く、自立を誓う昇の自白は状況の解決に資することが無いので、宇宙開発組織にさっさと入るべき
美術;雲の描写一つ一つ、積乱雲、夕焼けも飛行機雲も異様に美しい。ほとんど情景描写は登場人物の感情描写と一体的な表象となる。火星のタルシス遺跡はSF。棚引く入道雲とミルキーウェイの背後のシリウスα、βは凄まじい。
音響;スケッチピアノを静謐に携えることで「ほしのこえ」を屹立する
音楽;歌詞は良いのかもしれないが二人の台詞が稚拙で頭に入ってこない残念さ
文藝; 惑星間の通信の距離の断続的な離隔と離別は王道の青春であり、2000年代前後に大流行したセカイ系は本作によりある意味で決定的な射程(と限界)を齎した。その意味で個人製作としても思想系としても臨界点にあるといえる。

「雲の向こう、約束の場所」

あらすじ
日本が南北に分断された、もう一つの戦後の世界。米軍統治下の青森の少年・藤沢ヒロキと白川タクヤは、同級生の沢渡サユリに憧れていた。彼らの瞳が見つめる先は彼女と、そしてもうひとつ。津軽海峡を走る国境線の向こう側、ユニオン占領下の北海道に建設された、謎の巨大な「塔」。いつか自分たちの力であの「塔」まで飛ぼうと、小型飛行機を組み立てる二人。だが中学三年の夏、サユリは突然、東京に転校してしまう…。言いようのない虚脱感の中で、うやむやのうちに飛行機作りも投げ出され、ヒロキは東京の高校へ、タクヤは青森の高校へとそれぞれ別の道を歩き始める。三年後、ヒロキは偶然、サユリがあの夏からずっと原因不明の病により、眠り続けたままなのだということを知る。サユリを永遠の眠りから救おうと決意し、タクヤに協力を求めるヒロキ。そして眠り姫の目を覚まそうとする二人の騎士は、思いもかけず「塔」とこの世界の秘密に近づいていくことになる。「サユリを救うのか、それとも世界を救うのか」はたして彼らは、いつかの放課後に交わした約束の場所に立つことができるのか…。

[スタッフ]
原作・監督・脚本:新海誠/音楽:天門/キャラクターデザイン・総作画監督:田澤潮/美術:丹治匠,新海誠/製作・配給:コミックス・ウェーブ

[製作年]2004年

80点
演出;サユリのヴァイオリンが信じられないくらいに寒村の索漠を叙情的に彩る。居酒屋で軍事利用と浪漫を詰る構図は薄暗く良いが、直後にサユリの浪漫に結実するといきなり陳腐。ヒロキと意識体サユリの邂逅は既視感があるが音響効果もあり上手い。可能世界の卵子群とサユリは直截的過ぎる比喩だが、白い飛行機が救い出す語りは安易なセカイ系。。
脚本:ユニオンの塔=超越世界。廃墟の約束は約束たりえない、青春の王道。並行世界と分岐の変遷は可能世界の模索であり歴史の仮構でもありつつ、夢と現実の比喩。
といって「僕だけが」「私だけが」「世界に独りぼっち」というセカイ系剥き出し情緒は懐古的。が、孤独感を照らし返す駅舎、階段、住居の隅は素晴らしい。結局謎のまま横たわるユニオンの塔はメロドラマと背景/超越性の象徴以上の意味は持たず、視聴者の想像力を遮断する構造となる。サユリ起床とユニオンの塔の破壊の感慨の無さはそもそも背景など持ちえないものであることを白状する。
絵コンテ;電車内の線路からの照り返し、工場内の照明の反射など、画面の細部における明滅が雲に成り代わり感情を描写する
キャラデザ;中学生のサユリは記号的に過ぎて小学生に見える。廃墟駅のセーラー服はフェティッシュ全開。出てくる人間の認識が世界の全てを断定しがち。ヒロキとタクヤは浪漫と現実の比喩でありサユリを通して照射される関係となる。が、タクヤが年上女性に取り込まれる段階で彼も浪漫に肩入れしている。岡部、冨澤、マキの願望を少年少女にの仮託する構図は少し醜い
美術;雲の重畳な描写に磨きがかかる。教室の電灯の金属感も鳥肌もの。スケートリンクの凍り付きも凄まじい。繰り返される夕焼けの十字架が刹那の永遠の表象であり終末のキリスト。決戦前のヴァイオリンの白い飛行機の夜景が背徳的に美しく灰燼に帰す
音響;スケッチピアノに弦楽器も加わり、音にも重層が
音楽;スケッチピアノに響く女性の歌声が物悲しくも美しい
文藝;並行世界と可能世界、夢と現実、田舎と都会、青春と中高年、超越と現実、少女と少年のイノセンスという対立要素を惜しみなく注ぎ込み、画面中に抒情的に描く手腕が素晴らしい。対照的にそれはセカイ系的メロドラマ以上のものを描きえない臨界点の告白である。


「秒速5センチメートル」

あらすじ
小学校の卒業と同時に離ればなれになった遠野貴樹と篠原明里。二人だけの間に存在していた特別な想いをよそに、時だけが過ぎていった。そんなある日、大雪の降るなかついに貴樹は明里に会いに行く……。貴樹と明里の再会の日を描いた「桜花抄」、~彼がいる場所にくると、胸の奥が、すこし、苦しくなる~その後の貴樹を別の人物の視点から描いた「コスモナウト」、そして彼らの魂の彷徨を切り取った表題作「秒速5センチメートル」、三本の連作アニメーション作品。

[スタッフ]
原作・脚本・監督:新海誠/作画監督:西村貴世/美術:丹治匠,馬島亮子/
音楽:天門(本名:白川篤史)
[製作年]2007年

70点(35/48)
演出;(5/6)
桜花抄)少女起点といえど少年に痛みと行動を促す正統派ビルドゥングス浪漫で好感
コスモナウト)高校生といえど鹿児島の片田舎の女子高生ならこの程度という造詣が見えてしまうほど脳内設計の少女に過ぎ、且つ行動と痛みを負わせて少年に何の呵責も与えない構造は純粋に見苦しい
秒速5センチメートル)擦れ違う貴樹、明里、瑞希の思い出と今を、様々な時間軸と空間軸とで切り取るパッチワークの収縮はただ只管に美しいロードムービーとなり、背後の山崎まさよしが終わりを予期させる

脚本;(4/6)
桜花抄)岩舟と豪徳寺の距離感を手紙で埋めるのは、仕掛けすぎる。長時間と長距離は定型のモチーフ。繰り返される吹雪の停車待ち時間がまさしく秒速。
コスモナウト)
秒速5センチメートル)明里と貴樹がまだ届かない想いを抱えながら其々を生きる様相は儚い。一方で前を向いている明里に対し忸怩たる想いに囚われてあまつさえ仕事を辞める貴樹にロマンを見出す構図はナルシストの反映であり無責任ですらある。貴樹は人生の時間軸から得てきた財産を何も見つけられなかったことになる。5年間で1センチも、、、という瑞希の告白は抒情的
絵コンテ; (6/6)
桜花抄)豪徳寺が少女の寂寞で信じられないほどリリカルに。岩舟駅で息を呑む貴樹は胸に迫る。車掌から眼差す貴樹を囲う電車の冷たい質感も堪らない。
コスモナウト)雲が重畳的に棚引く背景が時と人との時間の感覚の違いを照らし出す
秒速5センチメートル)すれ違う2人の想いが断続的なフィルムの連綿に映し出され、視聴者は圧倒的な背景美術と冷たく儚い空気感に飲まれる
キャラデザ; (3/6)
桜花抄)無条件で少年の浪漫を包摂する少女像は新海誠の鉄板
コスモナウト)澄田の視線もまた無根拠な貴樹への眼差しが象る関係性となる。ヨーグルッペに何か意匠が?サーフィンも願掛けも整合性が取れない
秒速5センチメートル)前に進む明里に対して仕事を辞めていく貴樹は情けない
美術; (6/6)
桜花抄)桜の花びらの舞、彩る脇道の自動車、アスファルト、踏切、電灯、何もかもが圧倒的な滑らかさ。棚引く雲の夕暮れに息を吞む。降りしきる雪に埋もれる街並み、線路、電車が滲みだす。
コスモナウト)鹿児島の海の雨上がりの雲の輻輳性の緻密さに戦慄する。興味が無いサーフィンを敢えて描く必要性は無い。唐黍畑の散乱光の収縮と海までの距離感がリリカルに過ぎる。無暗に少女から嘱望されるエンドカットの緑ずむ月に刺す縦横の直進光が無常の未来を魅せる
秒速5センチメートル)冒頭の都心部の街並みの奥行が凄まじい。ビルの群れ、舞い散る花びら、棚引く雲がもはや芸術的。中央線プラットフォームのテクスチュアも堪らない寂寞がある。岩舟から小山、大宮に向かい画面と逆行する成層圏の雪雲と山々の稜線が感動的な夕焼けを映す
音響; (5/6)
桜花抄)one more time one more chanceのスケッチピアノが手紙に重なる郷愁は良い
秒速5センチメートル)山崎まさよしを鳴らし過ぎではないか?
音楽; (4/6)コスモナウト) 山崎まさよしを鳴らし過ぎではないか?
文藝; (2/6)
コスモナウト)宇宙と地球、時間と空間、光と影への異様な執着が人物描写と屹立する。なぜこんなに女に行動と責任を負わせるのか?
秒速5センチメートル)擦れ違う貴樹、明里、瑞希の思い出と今を、様々な時間軸と空間軸とで切り取るパッチワークの収縮はただ只管に美しいロードムービーとなり、背後の山崎まさよしが終わりを予期させる。前を向いている明里に対し忸怩たる想いに囚われてあまつさえ仕事を辞める貴樹にロマンを見出す構図はナルシストの反映であり無責任ですらある。貴樹は人生の時間軸から得てきた財産を何も見つけられなかったことになる。

・参照文献
石岡良治「現代アニメ「超」講義」 PLANETS
宇野常寛「2020年代の想像力」 ハヤカワ新書
藤津亮太「ぼくらがアニメを見る理由」FILM ART社
氷川竜介「日本アニメの革新」 角川新書

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