あるいはジェンダー格差の摩滅

Contents
・所感
・タイトルと課題
・芸術と思想
・個人的な経験 画家欲求と思想的乖離
・作家主義とキャラ萌え、あるいは弁証法的発展 1
・作家主義とキャラ萌え、あるいは弁証法的発展 2
・作家主義とキャラ萌え、あるいは弁証法的発展 3
・(シミュラークルとシミュレーション)
・作家主義とスタジオ主義
・ジェンダー格差の摩滅に向けて
・全話総評
・所感
2025年3月、MAPPAのオリジナルTvアニメーション「全修。」が完結した。
所感としては、「個人」の創作活動の酸いも甘いも嚙み分ける傑作だった。
描くことでしか自分を確認出来ないそれが叛逆でしかないと知りつつも描くことしかできない.その悲哀を、情動を噛み締める仕上がりだった。
闇に飲まれながら希望を語る絶望、世界を拓く光、初恋に別れを告げ現実で期待をかける締めが眩しかった。
描き、創り出す世界。憧れをカタチにする世界。暗闇でも足掻く主人公:ナツ子を犠牲に新たな世界が拓かれる。
・タイトルと課題

一方で消化不良感もあった。最大のものは、その題名でもある「全修」。
意味するところはアニメーション業界における「全面修正」であり、端的には、原画や絵コンテの「全面修正」である。
敷衍すれば、アニメーションとは、原案、構成、演出の基礎部分の上に原画や動画などの発展部分があり、その原作に対する解釈や作品そのものの「全修」は考えるべきものだ。
例えば「全修。」は「滅びゆく物語」という、1990年代のジャップファンタジーにおける全滅エンドの不発作品という「異世界(アニメ世界)」に主人公のナツ子が転生する構造である。
物語の中盤、「滅びゆく物語」の原作者で監督である鶴山亀太郎(鳥の擬人)が登場してくるのだが、これは、明らかに物語の方向の修正に対する異議申し立てであり、
「滅びゆく物語」が、なぜ、「全滅エンド」を招聘したのか、ナツ子に考えさせる絶好の機会だったはずだ。

しかしナツ子は、鶴山亀太郎から逃げ回るばかりで、立ち向かうことが無かった。
それは一重に、一流の原画マンでありながらも作家としても人間としても未熟な彼女に主義主張が無いからだが、それ以上に、「滅びゆく物語」の主人公;ルークへの「キャラ萌え」を動機としてアニメーターに成った彼女に、ルークへの想い以外のものが無かったからでもある。
だが一方で、ルークへの「キャラ萌え」の為に、彼の救済に一生懸命に行動する、という事でもなく、状況に振り回される形で、困った人を、民衆全体を助ける構造という形で行動目的が希薄化していく様相も見せた。
この「アニメ世界への異世界転生」と、アニメーターとしての「全修。」という、物語構造とアニメーション業界に対する果敢な挑戦の射程を持ちながら、なぜ纏まりを欠いたネタ展開に終始してしまったのかを考えてみたい。
予め課題の根本を指摘するなら、それは女性のアニメーション監督の歴史の希薄さあるいは不在である。
であるなら、拓くべき未来は、アニメーション業界におけるジェンダー格差の破壊と創造であり、それこそが「全修。」となるだろう。
・芸術と思想

そもそも芸術とは何か。
大文字の「政治」、つまり「公共性」と対比するなら、それは「文学」であり「個人」だ。
公共性の環境で生活する人間にとって、集団で発生する軋轢は避けられない。
その軋轢を集団内部の状況を変えることで現実的に調停していくのが「政治」であるが、
一方で政治により象られた状況は必ずしも適応しきれない「個」を無数に生み出す。
そのような「個」の発露、もう一つの軋轢の提示として、「文学」があり、つまり芸術だ。
政治活動に歴史と反省の蓄積があるように、芸術にも歴史と反省の積み重ねがある。
純粋な快楽の追求から自意識との葛藤へ、宗教への傾倒、伝統的価値観に対する問い直し、多重人格運営、量子化する個性、、、、
と挙げればキリがないほど、歴史的な発展と挫折のうえに、政治も芸術も成り立つだろう。
もちろん、付言すれば絵画も漫画も、そしてアニメーション作品も「芸術」である。
・個人的な経験 画家欲求と思想的乖離

https://x.com/yamary7/status/1892933354569322833
(筆者作「全修。」GIFアニメ。手書き)
ここで個人的な話をしたい。
筆者は現在、会社勤めで営業職だが、幼児期に傾倒した絵画の創作活動について、小中高年の一時期に本気で画家志望の期間があった。
来る日も来る日もデッサンをし、夜を徹して絵を描いた。
行き詰ったのは高校生の時だ。
高校生になると周囲の絵画のセンスも画力も圧倒的に上がる。
周りが創造的で魅惑的な作品を描いていく中、自分には描きたいものが無かった。
ただ絵を描きたかっただけで、表現したい「核」が無かったのだ。
根本的な表現に対する欲求、もっと言えば自我に対する洞察が不足していた筆者は、その費やした時間に対して徐々に萎えていく描写欲求に蝕まれ、ゆっくりと筆を置くようになる。
今でも、特段描きたい絵は見つからず、娘の要望に応える形で細々と絵描きを続けている状況であり、この選択は間違いではなかったと感じる。
(なので、「全修。」11話でナツ子が被る、創作意欲に対するバッシングとそれへの姿勢は痛いほど共感できる)。

(筆者作)

(筆者作。娘が「DrSTONE」に嵌っているのでデッサンの見本を作成)
・作家主義とキャラ萌え、あるいは弁証法的発展 1

さて、「全修。」である。
本作は「滅びゆく物語」という、1990年代のジャップファンタジーにおける全滅エンドの不発作品という「異世界(アニメ世界)」に主人公のナツ子が転生する構造である。
それは構造的には、「滅びゆく物語」の原作者で監督である鶴山亀太郎に対して、その「滅びゆく物語」の主人公のルークに「キャラ萌え」してアニメーターに成ったナツ子が、「キャラ萌え」の力を以て対抗するものだった(はずだ)。
換言すればそれは「作家主義」対「キャラ萌え」の抗争である。
それはまた、1990年代以降の日本のサブカルチャー産業が直面してきた構図であり課題でもある。
例えばアニメ監督の幾原邦彦(代表作「少女革命ウテナ」「輪るピングドラム」)は嘗て、「アニメは結局キャラクターへの思い入れでしか機能しない」という主張をしていた。「少女革命ウテナ」を発表した1990年代の当時は「新世紀エヴァンゲリオン」のブームの真っ最中であり重い言葉であった。
それはアニメーション業界において、海外の創世記においてはウォルト・ディズニーによる初期のディズニー作品(蒸気船ウィリー、等におけるミッキー人気の抽出とミッキーを主体とした続編世界の草創)や、ピクサーなどに代表される「キャラクター」を中心とした世界観の構築に始まり、日本の創世記においては、やはり宮崎駿(「千と千尋の神隠し」等)が、名作「白蛇伝」においてヒロイン白娘に恋をしたことからスタジオジブリの創生に至る歴史の端緒からも伺い知ることができる。
もう少し日本の業界に突っ込むと、
スタジオジブリ(二馬力)の高畑勲(「火垂るの墓」等)があり宮崎駿(「千と千尋の神隠し」等)があり、富野由悠季(「機動戦士ガンダム」等」があり、押井守(「攻殻機動隊」「機動警察パトレイバー」等)があり、出崎統(TVアニメ版「あしたのジョー」等)があり、庵野秀明(「新世紀エヴァンゲリオン」等)がそれらを終わらせ、残ったのは「キャラ萌え」だけであったということになる。
・作家主義とキャラ萌え、あるいは弁証法的発展 2

なぜ「キャラ萌え」しか残らないのか。
それは一つに、「(大きな)物語の終焉」という思想があるだろう。
例えば古代ではアニミズムが、中世までは宗教が、近代から二つの世界大戦までは、国家がその人民の精神的中核を担ってきた。
その一方で近代から現代にかけての所謂、自立した人間、つまり「市民意識」により、
各個人が完全な理性を備えている(という幻想)の元に国家という大きな集団を運営してきた側面がある。
この時点まで「個人」の担保意識は「大きな共同体」「大きな物語」=国家などが担ってきたのだった。
二つの世界大戦にあれだけ多くの人民を戦争へと動員した意識も、近現代における国際スポーツ祭典としてのオリンピックなども、「我らが国家」という意識の元に、翼賛的に人民を動員する装置として機能してきただろう。
それが、例えば日本においては戦後の敗戦意識という中での国家に対する理想の消失、
(1950年代)敗戦後の新たな国家建設と第二次安保闘争などによる挫折(1970年代)、
政治への不参加というファッション的な発想と並列した経済活動への邁進(1980年代)、
居住可能性と移転可能性の拡大による人口減少や高齢化が起因する地域共同体の役割の縮小と後退、核家族化の進展、独居世帯の拡大(1990年代)により、
大量のいわゆる「彷徨える個」(宮台真司)が沸きあがってきていた時代だった。
それらは概ね、女性であれば「スター」や「アイドル」といった疑似人格的な偶像に対する憧憬で消費されてきたのに対し、「世界」そのものに対して大きなロマンを抱きがちな人間、特に男性は、神話世界や「自分だけの物語」の言説などに嵌りがちになり、その世界観の住民たろうとする意識により自我を保とうする傾向が芽生える。
しかし前述したように、もはや「大きな物語」は崩壊しており、
疑似的で確信犯的な役割しか果たさない。
歴史的にも潜在的にも敗北を宿命づけられた「大きな物語」への憧憬の消失として、残されたのがその世界内部の登場人物への憧憬や疑似的な愛情、つまり「キャラ萌え」ということになる。
あるいは「裏切られない」のがキャラクター:自分だけの理解された対象としてのものであるだろう。
・作家主義とキャラ萌え、あるいは弁証法的発展 3

1990年当時のアニメファンの言説として良く使われたのは「俺たちはつらい現実から逃げるためにアニメを見ている」であった。例えば「機動戦艦ナデシコ」もわかりやすい反動であり、オウム真理教(地下鉄サリン事件など)に逃げないための、砦としての役割を果たすという構造があった。
その後に出てきた「少女革命ウテナ」(幾原邦彦)は、キャラ萌えしか残らない世界でどう物語を構築していくかの観点の作品だった。
キャラ萌えは年齢上昇に伴って馬鹿にされがちだが、1990年代当時のアニメファンにとっては切実な問題だった。
そのシリアスさがナツ子の原動力になっているのだったら説得力があったが、
すっぽり抜けているのである。
(鶴山亀太郎から逃げ回るばかりで、立ち向かうことが無かった)。
世界観でもなく、思想でもなく、物語でもなく、
「もうキャラクターしかない」と、ナツ子が鶴山亀太郎に向かって主張するくらいはあってしかるべきだったはずなのだ。
(宇野常寛、「全修。」座談会」)
・(シミュラークルとシミュレーション)

哲学者のジャン・ボードリヤールは「シミュラークルとシミュレーション」という言葉を使った。
これは情報や物質が氾濫し、もはや個別の生成物が個別の豊かな「意味」を持たず、ただ「シミュラークル」(記号的なもの)をシミュレーションして生成されたものだけの世界になる主旨だと理解している。
例えば大塚英志の「物語消費論」はこれらの発想を下敷きに、神話世界の諸要素などを一度バラバラに分解したうえで、順列組合せの法則の元で魅力的な物語世界を構築できると主張した(その結果産み出されたのが「角川マンガ」なり「電撃マンガ」等のシリーズとなる)。
これらを援用しつつ、哲学者の東浩紀は、2000年代前後のサブカルチャーの消費形態を以て、「動物化するポストモダン」とした。つまりは個別の物語の構造や登場人物たちの意図を深くくみ取らず、その外見や言動を切り出して「記号的に」消費する(=動物)、それが「キャラ萌え」の本質とした。
「全修。」において、女性スタッフ中心にして作画を語る構造は斬新だった。
所謂3大アニメ、宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダム、新世紀エヴァンゲリオンは全て男性の特撮オタがスタッフのメインにおり、女性がいない。
1990年代のファンタジーアニメ、「魔法戦士レイアース」、「天空のエスカフローネ」、「十二国記」などは女性ファンの方が多い。その辺のしっかりした女性による「語り」、女性によるアニメ史の分析はあまり文献がない。「全修。」はその文脈では参照文献がなく挑戦的だった。
女性のスーパーアニメーターによる一つの史実の構築はあって然るべきで期待したいところである一方、現実的には少ないのが難点だ。
「全修。」の(監督、脚本、キャラデザの)山崎光江、うえのきみこ、石川佳代子という主要スタッフは、オリジナル作品はあまり、、、、、ではあるものの、原作もののクオリテぃが高い作家陣営である(「魔王城でおやすみ」、「ダンベル何キロ持てる?」、「月刊少女野崎くん」、など。一流のキャラクターのフェチのコントロールが匠)。
彼女たちによる歴史の語りは潜在的な力量を期待できたが、彼女たちには1990年代以前の参照文脈が無いのではないか。消化不良、換言すればシンドイ作風に終わってしまった要因はここではないかと考えられる。
(石岡良治、「全修。」座談会」)
・作家主義とスタジオ主義

1990年代のしょうもない作品群に絞ってパロディ化するのであればそれはそれで良かった。
魔法少女レイアースに対する「スレイヤーズ」、「フォーチュンクエスト」など、熱い想いとくだらなさを自覚する自分=視聴者を客観視する構造にもなり得ただろう。
女性作家の観点では例えば、CLAMPの自伝をアオイホノオでやるのも良かったのかもしれない。「カードキャプターさくら」や「X」などのCLAMP作品群、あるいは漫画家の髙河ゆんなど、この観点での「女性オタク」という構造は確実に存在していた。
(前述のアニメーション監督、代表作「攻殻機動隊」「機動警察パトレイバー」等の)押井守は、1970年代にとっては高畑勲や出崎統などと並び基礎教養になる存在だが、それ以降の世代にとって押井守は存在しないことになっているのではないかという仮説が立つだろう。(成馬零一、「全修。」座談会」)
押井守が存在しないと考える根拠は、「全修。」における引用作品群などにある。
例えば第1話では巨神兵(宮崎駿「風の谷のナウシカ」、作画に庵野秀明が参画)を、第2話では板野サーカス(石黒昇「超時空要塞マクロス」)を、あるいは第5話ではタイガーマスク(木村 圭市郎)を、そして第9話ではガンダム(富野由悠季「機動戦士ガンダム」)など、いづれも男性監督作品の引用であり、「全修。」制作陣における「アニメ史」として引用すべき作品群となるのだろう。
なお、付言すると、第4話における「うたのプリンスさまっ」は脚本構成と絵コンテも含めてシリーズの白眉というべき(文藝的と言ってもいい)到達点と言えるが、やはりその元ネタの監督は男性である(古田丈司)。
ここまで既述したように、押井守はこの文脈において存在していない。

(第4話。推しにより、メインキャラの永遠への闇堕ちを救い出す。神演出として話題になった)
例えば1990年代のジャップファンタジーを直撃している世代から見た場合、押井守の嫌われ方は凄いものがある。1980年代のアニメを紹介した場合に、富野由悠季や宮崎駿は受け入れられるが、押井守は嫌いな人間の嫌い方が凄い。
普通の映画好き、カルチャー好きな人間には、1995年の「攻殻機動隊」などは大ウケしていたが、「スレイヤーズ」や「魔術師オーフェン」などにどっぷり浸かっていた角川オタク層には嫌われ方が凄いのだ。衒学的、構造的でメタ的な嫌味(「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」など)がその要因でもあるだろう。
(宇野常寛、「全修。」座談会」)
一方で、そこまで「作家主義」に傾倒して考えるべきか、という問題もある。
なぜなら、概して2020年代前後におけるアニメーション業界に対して、視聴者が向ける判断の主軸は、○○監督というより、○○スタジオになりがちだからだ。
あるいはプロデューサーが誰か、ということと相似形なのかもしれない。
宮崎駿や富野由悠季といった「作家」時代のアニメ監督たちは、自身が面白い場合が多い。
対照的にプロデューサーもスタジオの社長も監督も、概して「いい人」であり、良くも悪くもビジネスマンである場合が多い。
これは例えばいわゆる「なろう系」(異世界に転生してモテモテ、最強、になるなどの物語系列)の主人公はエゴイストが無双するわけだが、作者はむしろマネジメントの人間であることとほぼ同じ構造といえる。
あるいはMAPPA(アニメーションスタジオ)が製作する「チェンソーマン」「モノノ怪」も同じ構造であり、プロデューサーから山本監督などへのキラーパスを何とか受け止める状況にある(吉田尚記、「全修。」座談会」)。
辛うじてアニメーションスタジオが「作家性」を発揮しえたとすれば、
シャフト(新房昭之監督、虚淵玄脚本「魔法少女まどか☆マギカ」、「物語」シリーズ等)、
京都アニメーション(山田尚子監督「映画けいおん!」、花田十輝脚本「響け!ユーフォニアム」など)を挙げることが出来るかもしれないが、
後続への影響力は限定的なものとなる。
・ジェンダー格差の摩滅に向けて

では、どうすればよいのだろうか。
アニメーション業界における女性監督の史実として、押井守のようなメタ構造検証のような構図は使えない(ナツコは鶴山亀太郎監督と戦えない)。
あるいは、キャラ萌えを結晶化したような監督人物像も見当たらない。
近年でいえば、庵野秀明は自他共に認める「リバイバル作家」=二次創作作家化しており、
細田守(「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」など)はオリエンタリズムとの結託の方向に舵を切っており、新海誠(「ほしのこえ」「君の名は。」「すずめの戸締り」)はアンチキャラ作家であり背景作家である。
女性のアニメーション監督として近年名声を着実にしてきた山田尚子(「映画けいおん!」「リズと青い鳥」「聲の形」「きみの色」)は、表現主義者でありシネフィル主義者である。
ここでジェンダーについて考えることは一つの参照点になるだろう。
ジェンダー研究において高名な研究者は、故人・若桑みどり(「お姫様とジェンダー」「戦争が作る女性像」など)や上野千鶴子など枚挙に暇がないが、敢えてここでは、アニメーション表現におけるジェンダーの学説として、あるものを取り上げたい。
それは川口茂雄「アニメ・エクスペリエンス」(叢書パルマコン・ミクロス)
の批評の一つ、
「魔法少女まどか☆マギカ」における「カタストロフとジェンダー表象変遷」だ。
川口茂雄はここで、ジェンダーについて、要約すれば次のように述べている。
「ジェンダー」とは、日常的語りにおいても、
学問研究や公的記録などの言説においても、
記述、口述、言語化、認知がなされない傾向が強い。
「ジェンダー」に関連する問題群は、社会や個人の問題として認識されず、
抑圧されたり隠蔽されたりする。
この抑圧や隠蔽のメカニズム自体も研究対象となるが、それらの性質ゆえに、素朴で表層的な「資料実証主義」の手法では捉えられない。
「資料実証主義」で見逃しがちな、直接書かれない事柄、データ収集における方法の偏り、それらの探索、問い直しに異議を認めるのが「ジェンダー」研究であるといえる。
従い、これらの事実問題と、イメージ問題という、二項対立的な区分を素朴に前提したままでいることは許容されない。
事実とイメージという線引き自体を問い直し、その自明視によって覆い隠され、抑圧されてきた事柄がないのか探索することが課題である。
言い換えれば、人間が世界の物事や自分自身を表象する際の、表象の仕方に関する研究である。
ところで芸術なりアートなりの作品は、作り手たちが100%意識的に構築するものではなく、彼らの無意識が必ず多種多様に入り込む。
同様に作品の鑑賞者もまた、作品の鑑賞行為を100%意識的にではなく、無意識的に実践する面が大きい。
逆に言えば作品表現は、(歴史的、現在の)社会に常識的に流通する言説が隠蔽・抑圧しているものを鑑賞者に気付かせるという、
具体的には何を当たり前と見做し、何を異常と見做すかという、暗黙の慣習に気づかせる機能をもつ。
(要約引用終わり)
このようにアニメーション業界における、監督業務への女性の登用に関する社会的文化的経済的なガラスの天井について、一時的には考察をしつつ、より根本的には、芸術業界における性差別の無意識的暴力の根源について、もう少し広義には、そのような慣習を是とする日本社会そのものについて、想いを致し、言動の中庸性を捉え直すべきなのだろう。
それは旧社会的な暴力による支配を是とする状態を許容せず、量子的で両義的な状態に右顧左眄しながらもしっかりと想像力を致す眼差しを持ち続けるという、困難であるが発展性のある社会像でもあるだろう。
この「量子的」で「両義的」な観点からの鋭い視点で世界を捉え続けるアニメーション業界の女性監督として、岡田麿里の名前を挙げることが出来るだろう。

岡田麿里はその出自こそVシネ監督から開始しつつ、アニメーション業界で活躍する異色の作家である。
脚本家としては、卓越した構成と、瑞々しい少女たちの複層的で底知れない描写が光る、
「True tears」
「とらドラ!」
「あの日見た花の名を僕たちはまだ知らない」
「心が叫びたがってるんだ」
「空の青さを知る人よ」
「ふれる。」など。
あるいは、監督として、美しく無意識に暴力的で病的な母性の美しさと薄暗さに戦慄する、
「さよならの朝に約束の花をかざろう」
「アリスとテレスのまぼろし工場」など。
とくに、最期に記載した「アリスとテレスのまぼろし工場」は、
まさしくMAPPAが出資、監督としてのオファーと全面的な協力を打診し、
今後も継続的な関係を構築する意向を示すなど、
女性としてアニメ監督を目指す人間にとっての一つの希望の星であるように思う。
ある意味で「キャラ主義」であり、「思春期の少女たちの輝きの結晶を抉り出す」ことに終身を捧げる、彼女のような存在が、それこそ今後のアニメーション業界における「全修。」となるだろう。
それはかつて批評家で編集者の宇野常寛が、(第一次)惑星開発委員会の「黒歴史」で言及したような、そして最近も自身のNoteで言及したような、知人の言動を示して
「(僕は、『天地無用!』のような)この世界に行きたいんだ。入れるものなら入りたいんだよ!」という叫びを、彼ら彼女らの切実な想いを、ツラい現実から逃れるための「優しい世界」を、本質的に保護し安住させるような世界を構築するための、根本的な要素の結晶となるだろう(「やさしいセカイ」、ではない、、、、、、)。
・全話総評

(STAFF)
原作:山﨑みつえ うえのきみこ MAPPA
監督:山﨑みつえ
脚本:うえのきみこ
キャラクター原案・世界観設定:辻野芳輝
キャラクターデザイン・総作画監督:石川佳代子
総作画監督:高原修司 早川加寿子 住本悦子
副監督:野呂純恵
美術監督:嶋田昭夫
色彩設計:末永絢子
撮影監督:藤田健太
編集:武宮むつみ
音楽:橋本由香利
音響制作:dugout
キャスティングマネージャー:谷村誠(サウンド・ウィング)
アニメーションプロデューサー:小川崇博
制作:MAPPA
1話

90点
娘と一緒に馬鹿笑い。
野豚。のノブコ辺りをモチーフに、切れない絵コンテをセリ立てるように物語世界へ投入、アニメーターが劇中で絵コンテ切っちゃうw フラグ立てまくりのキャラを、ガシガシとフラグ追ってく破天荒さw 巨神兵ビームよろしく今後もオマージュとMAPPAの力量に期待!
2話

85点
演出;ほぼ作劇バンクとミサイルに全振りする潔さ
脚本;睡眠から食事、異世界での決意に至る経緯が明確で分かり易い
美術;荒野の砂漠で耕作する厳しさと小麦畑が対照的
音楽;全修ってささやいてる、、
キャラデザ;町長とオババ、居酒屋店主のオマージュ感が凄いw
OP,ED;コンテから作画に至るOP、金髪勇者の若年時を想起するEDが対照的で素敵
板野サーカス作画担当;GJ !!!
3話

85点
演出;児童と大人を「全修」しうる斜め上のクオリティ
脚本;要するに現代の価値観で一昔前のサブカルや民話、寓話を全修するなら如何に介入するか、という構図。従い主人公のみならずMAPPA自身の「全修」こそ期待され、見守りたいだろう。
美術;スパイダーバースのような多次元美術の混在こそ現代アニメの粋
音楽;タイガーマスクが素晴らしい
キャラデザ;ナウシカのおばば、ナディアのムーブ、人口に膾炙したキャラの力強さを感じる
4話

90点
虚無から暗黒神への崇拝を、推し活による救済に読み替える行為は非常に現代的かつ哲学的で感慨深い.
演出;私が死んでも、このキャラは生きてる。推しの誕生であった。イグジスト様、爆誕。うたのプリンスさまっ+Disney
脚本;要するに人魚の傷、永劫回帰
絵コンテ;ユニオ像の前で落ち込む二人が良い
美術;路地裏、墓地から黒ミサに仕込む書き込みが美しい
音楽;聖歌隊のカオスさが良い。虚無、ムームムー
キャラデザ;ルークがちょろい
5話

80点
演出;スケバン刑事、グレンラガン、ドカベンのサービス
脚本;島監督が鶴山亀太郎wwジャスティス嫉妬するルークが想定内
美術;チンゴスマン、サーバルキャット、ハウスwwwどれも意匠が素敵
音楽;五右衛門に繋がるラストへのEDが良い
キャラデザ;ユニオのキモさがシナリオゲー仕立て
6話

90点 飛べないドラゴン=滅びゆくファンタジーを、アニメ=現実の力で切り開く
演出;飛ばなくていい、浮いて!同じw
脚本;集団作業のアニメと集団戦をアレゴリーにナツコの変化を描く。ナツ子が目を見せる=開放性の兆し
絵コンテ;ナツ子の変化が紅い
美術;ナツ子のイラストがとてもアナログ
音楽;ナツ子と机を載せて飛ぶジャスティス音楽が良い
キャラデザ;ジャスティスがセクシュアル
7話

90点
真面目に考えると、広瀬ナツ子のウブさを前面肯定+否定することで物語への没入感と形而上的視点の導入で、初恋と別れを示唆する助走と予想
演出;バンダナw前髪w吼えろペンww
脚本;幼児期から学校卒業までのトゥンク拒否から探求に至るパン咥え貞子が初恋をカツアゲw
絵コンテ;ヤンキーをいびるナツ子がイカつい。鳥監督が滅びゆく物語を全修へ軌道修正する下りまで完璧なギャグ
美術;ミドリとルークのお別れ表紙が良い
音楽;広瀬の大学闖入の下りがキッチュ
キャラデザ;ナツ子ヤングの表象が際物感凄い。島本和彦パロが凄いw
8話

80点
演出;移動戦士イクダスの頭部大破は予想通りw
脚本;二次元と三次元、虚構と現実に葛藤するナツコとルークの無自覚が対比的。漸く前進の兆し
絵コンテ;ユニオのギャグが板につく。虹色も可愛い
美術;温泉の瑠璃色の浮世離れ感
音楽;温泉の終焉感が良い
キャラデザ;鶴山亀太郎w常に間尺を図る
文藝:ナツコにおける初恋の成就、二次元と三次元の相克について。序盤でその象徴たる鶴山亀太郎の扇動により二次元/虚構のルークの告白に塩対応である。が後半の「虚構世界における現実認識」の転向、及びルークの袈裟切傷が、「3Bの筆跡=虚構」の否定となる。つまり二段階を踏んで、ようやくナツ子の初恋が虚構/現実のものとなる。拗らせ女子である
9話

85点
演出;実はQJが英雄ムーブ。亀太郎の幻影で描けないナツコ、真の全修はどうあるべきか愈々佳境
脚本;鬱展開のルーク談話が見応え。ガイド役QJの消滅が混乱に拍車を
絵コンテ;ナツコの無力感は良く出ている
美術;蕎麦巧い
音楽;QJとともにEDの入りの上手さ
キャラデザ;QJ死亡はそこまで同情出来ず
文藝:昭和の卓越主義の頂点にデビルマンが君臨すれど、令和に何を描けるか?イデオンを超えるビジョンが出せるのか?
10話

95点
演出;滅びゆく物語をメタ的に介入したナツ子が逆説的に虚構に取り込まれる恐怖に惹き込まれる
脚本;ナ子の闇堕ち寸前とメメルンの隻眼闇堕ち、ルークの消耗と国民の風説流布による対立、ヴォイドによるユニオとナツ子消失の緊張感が高い
美術;重なる蒲公英の綿毛の離脱が死を近づける
音楽;ナツコ裏切りムーブに乗りかかる
キャラデザ;ユニオの目力が終焉を予期する
文藝:想像力が創造力に飲み込まれる。自ら産み出す存在に恐怖し、それに文字通り「飲み込まれる」虚構こそが「現実」。俄然面白い!
11話

100点 描くことでしか自分を確認出来ない
それが叛逆でしかないと知りつつも描くことしかできない.その悲哀を、情動を噛み締める仕上がり。
演出;鳥肌回。創作家の苦しみ悲しみが汲めど尽きぬ
脚本;虚構に取り込まれ、虚構への情動に重層的に顧みることと通じて、創作の原初に触れるナツコがただ苦しく堪らない
美術;ルークの絶望、染み出す血が白眉
キャラデザ;道化的なユニオとメタ的ナツコの共振が震える
文藝:ルークの情動、ユニオの立場、ナツコの創作欲求の原初を全て嘗めての総括に向き、期待値が上がる
12話(最終話)

90点 「個人」の創作活動の酸いも甘いも嚙み分ける傑作
演出;闇に飲まれながら希望を語る絶望、世界を拓く光、初恋に別れを告げ現実で期待をかける締めが眩しい
脚本;他者の居る現実へ帰還するナツ子には更なる可能性が啓かれる
絵コンテ:超空洞ヴォイドから降り注ぐ人の闇が住民と勇者たちを飲み込むが、暗闇でも描けるナツコが光る
美術;ソウルフューチャーを包み込むご近所的世界が儚い
キャラデザ;ジャスティスが最期までイケている。
文藝:描き、創り出す世界。憧れをカタチにする世界。暗闇でも足掻くナツコを犠牲に新たな世界が拓く
参考文献
・ニコニコ動画 PLANETS「全修 ナツコの全修はアニメ表現史を総括できたのか?」
・『全修。』を観て思い出した90年代オタク文化と「切実さ」の話
https://note.com/wakusei2nduno/n/nef50f6d7c30c
・川口茂雄「アニメ・エクスペリエンス」(叢書パルマコン・ミクロス)
・「過労死で亡くなる人は珍しくない」「1枚の単価は200円から」…。業界歴22年の彼女が漫画で”アニメ制作のブラックさ”を伝えるワケ
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