加藤幹郎 岩波書店
※抄録、一部コメント
目次
序章 眩暈と落下 ヒッチコック「レベッカ」のテクスト分析
第一部 映画
第一章 歴史と物語 ペクタクル映画作家スピルバーグ
第二章 ジャンル、スタジオ、エクスプロイテイション
エドガー・G・アルマー論の余白に
第三章 ジャンルの歴史の終焉 西部の人、クリント・イーストウッド
第二部 アニメーション
第四章 風景の実存
新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ
第三部 漫画
第五章 法外なもの、不均衡なもの、否定的なもの
マニエリスト漫画作家 荒木飛呂彦
第六章 愛の時間
あるいは漫画はいかにして一般的討議を拒絶するのか
第七章 プロミネンス、瞳の爆発
楳図かずお漫画の恐怖の受容と表象(省略)
序章 眩暈と落下 ヒッチコック「レベッカ」のテクスト分析

p26 理論の適用を読む、より
一個のテクストにたいして他者の超越的な立場から、
おのれの思考の不徹底性を恥じることなくテクストに織り込まれた「真理」を確認しようとする行為、
(中略)鋳型からはみだすものすべてを捨象し、
テクストをことごとく一般化する行為(中略)は一言で言えば独断的である。
本来、生身のテクスト的身体を通訳することなどできないし、
そもそも通訳行為自体がテクスト的身体を疎外するものでしかない。
(中略)理論流用者の斟酌はしばしば政治的商量に堕する(中略)
それゆえ映画的テクストそれ自体の特異性、
既成の理論的概念には還元しがたい映画固有の原理
(映像と音響によって構成される複雑な主題系)はほぼ完全に看過される。
それでは一本の映画を本当に見聞きしたことにはならない。
一本の映画の独自性と偶有性が特定できなければ、
(中略)そこに現れるのは金太郎飴のように、
予め見知った同じイメージでしかない。
(中略)理論を芸術的テクストの外部から摘要する場合は、
摘要理論はつねに新たな理論にとって代わられなければ、
その用を成さない
(理論はみずからの存立の為に利用している不易不壊のテクストにとって代わることはできない)。
(中略)テクストは大文字の理論からの引き写しですむものは何一つない驚異に満ちた世界である。
芸術的テクストは概念的説明では解明しがたいなにものかである。
テクスト分析とは一般理論のテクストへの流用が看過してやまないテクストの個別性と偶有性を救い出すことである。
テクスト分析は普遍性と教条主義という名の虚構の処方箋を吟味する装置である。
テクスト分析は、
既成の理論内で合意すみの信念とイデオロギーをこえて議論を推し進めるものである以上、
汲めども汲み尽くすことのできないテクストの特異性を探求する終わりなきプロセス(充填されようのない読解)となる。
第一章 歴史と物語 ペクタクル映画作家スピルバーグ

筆者注記※全体的にスピルバーグへの怒りが多め
P49 映画=スぺクタクルより
生き証人の登場によってスピルバーグが自分の映画的物語に歴史的権威をあたえるという戦略は「シンドラーのリスト」においても とられている。
生き証人たちが舐めた筆舌に尽くしがたい苦渋の歴史が、
映画化されうる範囲内での視聴覚的情報と同値におかれ、
その結果、ホロコーストの歴史全体はおどろくほど軽んじられることになる。
「プライベート・ライアン」も「シンドラーのリスト」も
歴史(現代史)を扱いながら、
スペクタクル礼賛以外のいかなる用途もないままに存在する
(「シンドラーのリスト」を教材にホロコーストの歴史教育をすることは
ほとんど犯罪的である)。
P53 終わりのない再配列=映画史より
映画史とは映画的テクストの系列のたえざる再編成でなければ意味をもたない。
(中略)過去のテクストは現在のテクストによって現勢化され、
そして現在のテクストは過去のテクストの力によって、
もっとも微細な肌理まで賞味されうる。
P54 ポストスクリプトより

「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は明確なペルソナをもちえない俳優ディカプリオに無責任な千変万化の役どころを演じ切らせるところに成功の要因がある。
(中略)紋切り型の作家スピルバーグが、
臆病と偽善のなかで型通りの空疎な演技しかできない俳優
=詐欺師を起用することで、
その本領を十全に発揮するのである。
第二章 ジャンル、スタジオ、エクスプロイテイション(際物、利用もの、搾取もの)

エドガー・G・アルマー論の余白に
P92 8より
映画ジャンルとは、
それがそう呼ばれるところの諸特徴を一個のジャンル内に十全に規定しうる内包を持つものではなく、
ジャンルの第一次流行期であれ、再流行期であれ、恣意的な流用時であれ、
つねになんらかの偏奇をかかえこまざるをえない流動的プロセスだということである。
そのことが端的にあらわれるのは
「エクスプロイテイション」ものと呼ばれる範疇においてである。
エクスプロイテイション映画は定義上、
同時代の社会的良識に脅威を与えかねない主題に焦点を絞ることで
センセーショナリズムを喚起し、興行収入をはかろうとするものであるが、
その主題は何も性病や麻薬や裸体などに限定されるものではない。
例えば1950年代のSF映画(地球侵略もの)ブームを、
ジャンル論の語彙で語るだけでは不十分であり、
そこにエクスプロイテイション(利用=搾取)の概念を導入しなければ
アメリカ映画史は態を成さない。
なぜならその時期の共産主義はアメリカにとって
性病や麻薬や裸体同様、同時代の社会的良識を脅かすエイリアン(怪物)
にも等しい困難な主題だからである。
こうして純然たるジャンル映画(SF映画)と思われていたものが、
エクスプロイテイション映画でもあるのならば、
逆もまた真なりで、
純然たるエクスプロイテイション映画と見做しうるものがジャンル映画としても
造詣され得るという事実がアルマーの映画的テクストにおいて立証されるのである。
第三章 ジャンルの歴史の終焉 西部の人、クリント・イーストウッド

P110 2より
同時代の社会的通念からはどんなにかけはなれて見えようとも、
アメリカにおいてはものごとの適法性はつねに揺らぎ試されずにはおかない。
西部劇というジャンルの終息期に権威的政治的蛮行が
暴力によって否定される映画がジャンルの外典として出現したということ、
あるいは悪徳を糾弾するだけの物語が破綻するだけの物語が
破綻したということは、
アメリカ最大の映画ジャンルの歴史の終焉を決定的なものにした。
善悪二元論を超越した時点で西部劇という映画ジャンルは終わりを迎えたのである。
第二部 アニメーション

第四章 風景の実存
p124予備的考察 実写映画における風景と物語より
(中略)映画において風景と物語は分かちがたく結ばれ、
両社は一つに溶解して観客に視聴覚的情報を伝え、
観客の内に映画的情動を形成する
(風景と物語の等しい受容に即して観客の真的昂揚が惹起する)。
p129
映画における風景はフレーミングされ、
燃焼された時間とともに変貌し、
おのれのうちに人間を包み込むものだということである。
P153 顔の風景より
そもそも風景とは何か。
風景とは、そこに人間がつつまれると同時に、
それとともに人間がその中で生きる場であり、
それゆえに「わたし」(主体)と風景(客体)、
前景と後景とにに分割されているものである。
その意味では風景は人間との共鳴関係なしには成立し得ないプロセスであり、
映画において人間の顔のクローズアップ(微細な表情)が風景となりうるのは、
そのためである。
顔も外風風景も心象風景たりうる。
それゆえメロドラマはしばしば顔のクローズアップを利用し、
風景(表情)を強調する。
P154
アニメ―ション映画においては実写では困難な外風景の入念な構築が
比較的容易である。
それゆえ新海誠のアニメーション映画にはロング・ショットの割合が非常に高い。
人物はしばしば点景として描かれ、
風景の中に紛れている。
(中略)ヒロインが感極まって大粒の涙を流すとき、
それはきまって掌に落下する涙滴としてしか描写されない。
顔の風景がほとんどないのである。
ヒロインの泣き顔のクローズアップはもっぱら実写メロドラマによって
利用されて初めてその情動的効果を発揮する。
(中略)風景は人間身体との関数によって規定されている。
風景は人間を囲繞する環境として規定され、
風景は人間身体よりも絶対的に大きな空間として定義されている。
(中略)新海誠の風景が観客に詩情を感じさせるとすれば、
それは新海誠の風景がたんなる見世物ではなく、
主人公の内的風景を取り巻く環境だからである。
彼の映画の風景の細部にはなにひとつ余計なものはなく、
すべての要素が全体として詩的感情の生成に貢献している。
※後段の「マニエリスム的アニメーション」について。

初代「ガンダム」を引合いに、
「雲の向こう、約束の場所」や「ほしのこえ」の背景美術の優位性を示す。
具体的には、ガンダムをボコる。
ガンダムは、ロボット的身体と成長の単純化された物語、
恋愛と戦争を単純化する装置としてモビルスーツとして、
同作を引合いに出している。
筆者(やまりょう)としては、これには強い異議を唱えたい。
ガンダムはロボット的身体を、
成長の道具ではなく、工業製品の要素として描き、
ロボットによる自己実現の不可能性と、善悪の彼岸を超えた世界観を、
群像劇として描いている。
決してロボットによる自己実現でもなければ、
単純な自己拡張的表現としての、勧善懲悪の揺り籠で安らぐ少年の夢でもない。
おそらく機動戦士ガンダムをまともに考察したことが無いと思われる。
この作者は自家撞着に陥っている。
理由は本書のp26参照;
(引用)鋳型からはみだすものすべてを捨象し、
テクストをことごとく一般化する行為(中略)は
一言で言えば独断的である。(引用終)
何かを褒める目的で、詳しくもない何かを乏しめるのは、
愚の骨頂である。
第五章 法外なもの、不均衡なもの、否定的なもの

マニエリスト漫画作家 荒木飛呂彦
3 p193より
「マニエリスムは、
すべてのものを不協和音と分裂と懐疑の状態(葛藤の状態)におくのである」
20世紀によみがえった大いなる精神的遺産としてのマニエリスムは、
その世紀の愚行の傷跡にうってつけの装飾として、
時代精神(見えない社会的要請)の触媒として生彩を放っている。
2 p178より
マニエリスト漫画の美しさは、いびつさのなかに、
かたちを矯めてでも整然とした秩序を保とうとする古典美よりも好ましいものがあることに由来する。
第六章 愛の時間

あるいは漫画はいかにして一般的討議を拒絶するのか
P196 漫画=時間 より
漫画が時間であるのは、それが静止画の連続だからである。
漫画本を手に取り(中略)あなたが眺める漫画の一齣一齣が、
均質化することのできない時間、
他のいかなる時間とも交換不可能な時間を生み出す。
交換不可能だというのは、
それがあなた以外の誰とも通約できない時間だということである。
それはある共通の尺度で測定されたり、
区切られたりするような時間ではない。(中略)
それはあなだだけの時間、あなだだけの一秒、あなただけの一時間である。
(中略)おそらくわたしがわたしであるのは、
万人の共通尺度たる時計時間の外へと抜け出る限りにおいてである。
P202 島村ジョーの墜落 より
ここでは運動は停止しているわけではない。
つまりジェット機は(わたしがこの齣を凝視し続ける限りにおいて)
永遠に落下し続けるのである。
しかし、この落下運動に終わりがない訳ではない。
わたしがこの齣を見つめることをやめて次の頁をめくれば、
それは終わる。
このジェット機は、背景に広がる蒼空=余白の中で一瞬、
宙づりになっているのでは断じてない。
矛盾を押して言えば、それは落下し続ける静止状態なのである。(中略)
そもそも時間とは、そしてとりわけ愛の時間とは、
いつもなにか他のものを介して、それとともに語られるしかないものである。
それは魂の感応の時間である。
時間をただそれだけで、それじたいとして語ろうとすることは
何かしら愚かしいことのように思える。(中略)
時間はそれ自身の権利で存在するものではなく、
いつも愛の行為とともに存在する。
だから漫画的テクストとは読者と時間を繋ぐ蝶番のような
ものだと言っても良いかもしれない。
愛の時間は、有機体ではないが、ひとつの充実したまとまりであり、
組織体ではない無限の全体をかたちづくる。
しかもそれはつぶつぶした粒子の塊でありながら、
水のようにさらさらした流体でもある。
P209 のたり松太郎の修業時代 より

漫画が映画と異なるのはまさにこの点である。
漫画は、一齣24分の1秒という窮屈な現代映画の空間とは違って、
自由な時間を楽しむための空間である。
同じ一本のフィルムは原理的にサンフランシスコで観ても
長崎で観ても同じ上映時間しか持たないが、
漫画は違う。
同じ一冊の漫画でも同一の読書時間を持つことは二度とないのである。
(中略)原理的に映画は空間とともにあり、漫画は時間とともにある。