~システムとしての母、あるいは諦念の先へ~
2025/01/31公開映画
原作・脚本・監督:安田現象
絵コンテ・演出:安田現象
CG監督:安田現象
音響ディレクター:今泉雄一
音響効果:上野励
音響制作:ソニルード
音楽:末廣健一郎
配給:角川 ANIMATION
アニメーション制作:安田現象スタジオ by Xenotoon
製作:メイクアガールプロジェクト
あらすじ
人々の生活をサポートするロボット・ソルトを開発、製品化することに成功した天才的な頭脳を持つ科学少年・水溜明は、新たな発明がことごとく失敗し、行き詰まりを感じていた。そんなとき友人からカノジョを作れば「パワーアップ」できるという話を聞いて、文字通り人造人間のカノジョ“0号”を科学的に作り出してしまう。プログラムされた感情と、成長していく気持ちの狭間で揺れ動く0号。人と心を通わせることに不慣れな明との間に芽生えるのは“恋”なのか、それとも……?
Content
1,総評、各評
・狂気について
・人工知能について
・母の解釈、あるいは人工知能の世界
2-1、システムとして
2-2、悍ましい母性として
3、諦念の先に
1,総評 70点
演出、絵コンテ、3DCGが素晴らしい。
培養液で生成する我が子や高層マンション型ラボの想像力が圧倒的。
人工知能に記憶を埋め込み、感情生成と制御に葛藤する様子が丁寧で惹き込まれる。
脚本的には最後まで悍ましい母性から出られない現代オタ再生産の系列で、
キャラデザ含めもう少し人間関係に狂気を持ち込めたら楽しかった。
各評
絵コンテ】
・冒頭の培養液と浸される少年の色彩と質感が素晴らしい。
・0号が自由な(実は制御された)感情、
明への思慕に気付いて部屋から眺める鳥の羽ばたきが縦横無尽で、
その実、鳥は風を利用して飛ぶしかない=制御下にあることの隠喩でもあり、
非常に躍動感のある画面作り。
・0号の思慕狂いに研究の邪魔をされて、
流す水道の溢れが、明の発狂寸前の隠喩として綺麗。
・0号が滅多刺しにするラストは、
刺し方が単調で緊迫感が徐々に薄れてしまうのが残念。
明らかに箱庭での遊びに見えてしまう。
そのまま刺し殺してしまえばもっと面白くなっただろう。
その場合は絵里か、0号を改めてメインに据えて、
物語を紡ぎ直すのも良いだろうか。
設定】
・主人公の料理下手をロボットアームに補完させる描写、
カップ麺を仕上げる等、
チープな作業に狙い目をつけるイメージは面白い
・攪拌機やバイオキャビネット、顕微鏡など、
既存メーカー参照なのがコアで良い(As One、DULTON等)
・高層マンションが、
実は生活空間とオフィスと地下ラボを兼ね備える想像力は素晴らしい
キャラデザ】
・本作は、母子相克が一つの裏テーマと読める。
ギリシャ神話から新世紀エヴァンゲリオンまでを参照する要素を強く感じる。
他にも母性の包摂性、悍ましさを考えるとき、
宮崎駿「崖の上のポニョ」(母性が全てを決める死後の世界)、
富野由悠季「機動戦士Vガンダム」(病的な母性が全てを取込み破壊する)
なども参照点になるだろう。
以下、新世紀エヴァンゲリオンの登場人物
(綾波レイ=人造母性=0号、
惣流アスカ=幼児性のあるアダルトチルドレン=茜、
赤木律子=研究者としてのアダルトチルドレン=絵里、等)を
モデルに備考を記載。
・機械少女0号(綾波レイ)の最初の造詣がメカメカしいにも拘らず、
途中から人間的情緒が増す演出になるのが不自然に感じた。
ファミレスのアルバイトで、そこまで情緒性を高められるだろうか。
記憶のインプットとアルバイト経験のアウトプットの均衡性は疑問である。
それこそプログラムされたスイッチがあるくらいの直諭、
あるいは隠喩があると良いのではないだろうか。
・黄色の瞳がある種の制御指示の発動の契機となるが、
出来れば紫の方が、発狂感があり良かったかもしれない。
・主人公、明の動機が、
「彼女を作ればパワーアップできる。」で機械少女を作るのは良い。
・問題はその優れた知能を持つはずの明が、
機械少女に全面に任せて問題解決を図ろうとしているため、
「彼女の置き場所」や姿勢の変更程度で何とかしようとする行為など浅薄であり、
IQが40くらい低く見える。本当はバカなのだろうか?
ギャグで済ませるにしても、キャラ設定との食い違いから、
余計にこれ等の言動が全体性から逸脱しているように感じる。
・明には、折角、茜(惣流アスカ)や、
絵里(赤木律子)の関係性の発展フラグがあるのに、
機械少女に母親像を仮託して収束させていくのは勿体無く感じる、、、
彼女たちの見せ場が少ないのは残念である。
特に茜は性格上損な役周りで、
クッキー渡しイベントだけでなく、
彼女の活躍場所をラストに増やしても良いように感じる。
・作者談話として、キャラデザについて当初尖らせていた各自設定を、
ナラティブ/大衆路線に仕上げるために30回ほど改稿して、
角を取りまくったとのことがある。
結果的に、角を取りすぎて淡白になってしまった感が否めない。
美術】
・無機質、特に機械系の描写が素晴らしい。
・逆に有機物、とくに料理が酷い、というより興味ないと思われる。
ならばファミレスを舞台にするべきではないのではないか、、
・ソルトのデザインはソフトバンクの廃盤製品の「ペッパーくん」を惹起させる。
無機質を突き詰める感が異なる。
一方でソルトの可変性は想像力の広がりを感じる
音響】
・全体的に音響が大きい。
会話の妨げになる箇所が所々あり辛い。
特に茜を追跡する0号の場面が大き過ぎる。
・ラストで明と対峙する、狂気の0号を演出するBGM(裏主題歌)が大きすぎて、
むしろ狂気を打ち消してしまっているのは残念。
演出、脚本、文芸】
・明に対する、絵里と0号の奪い合いは序盤から想定内である。
もう少し、絵里の側に葛藤が欲しい。ルサンチマンの描写があるも一瞬である。
・機械少女に明の母親像を仮託するのは序盤から規定路線で、
オイディプス神話/新世紀エヴァンゲリオンを思わせる。
だが、主人公の性格や0号の設定も影響し、
全体的に淡白な感情描写の為に、視聴者からの感情移入が難しい。
・明と0号以外でも、黒幕の女子大生含め淡白で言動が予想出来すぎるのは辛い。
狂気について】

・狂気とは、何だろうか。
1. 文化的脈絡:狂気は文化的状況の中で理解される
2. 相対的評価:狂気は判断主体による相対的な評価を指す
3. 社会規範からの逸脱:狂気とされる行動は通常に容認された社会規準から強く逸れる。
狂気の概念は時代や文化によって異なる解釈がされてきた。
例えば、古代社会では狂気の人が神の声を伝え、
民衆を導く仲介者の役割を果たしたとされている。
・本作で言えば、人間関係を顧みず研究に没頭する水溜稲葉、
その後追いでロボット彼女を創造する水溜明、
稲葉と明への嫉妬で騒動を画策する絵里が、狂人と見做せるだろう。
また、明に対しての思慕、その感情証明の為に、
制御機構の内破と明の攻撃へ向かう0号も、
サスペンス構成要素として見逃せないだろう。
同時に宗教的な文脈では、
人工知能である0号と、同じくサポートロボのソルトの触媒により、
水溜稲葉を顕在化する仕掛けが、
ある意味で祭事における狂気の利用であり、
物語の中核にもなっている点も明記しておくべきだろう。
・0号が徐々に情緒的になる雰囲気とラストの狂気の愛情表現、
明の技術探求への没頭感的な造り込みは面白いのだけれど、
もう一捻りの演出が欲しい。
つまり、明が、虚ろの世界での、
幼少期、生前の母と養護施設前での対峙で、
「実は(明ではなく)0号こそ研究を仮託された存在だ」と、
暴露された際の、
明の失望感と、自画像に対する葛藤が描かれるのだが、
その喪失の相剋の描写の説得力が弱いので、
狂気の0号を食い止める説得力が低い。
背景としては、明が17歳とハイティーンなのに、
彼の母の狂気の愛情に対して葛藤なく順応しすぎなのではないか。
・可能性の構図として。
水溜稲葉が、明の母としての情が欠けるために、
明に託した0号が、反動的に過剰な明への想いで暴走する、
という構図だと中々に胸に迫るものがあるだろう。
ラストよりむしろ、折り返し地点における、
執拗なデート脅迫行動の方が狂気的であった。
ならばもっと狂気的な尺を増やし、明を責めても良いとも感じた。
人工知能について】

・チュリング回路(環境適応制御)とフラクタル回路(自己演算)の葛藤で、
0号が狂気的に自壊行動や使役者攻撃に至る描写はSF的で面白い。
狂気描写も、思慕に気付いてモザイク状に広がる場面が良く、
ラストの狂気に於いても、
立ち並ぶ0号のモルモットのラボだけでなく、
波状に広がるような狂気描写があると、
更に良かったかもしれない。
※チュリング回路、フラクタル回路に関連する人工知能の発展と恐怖について、
海野螢「時計仕掛けのシズク」を推奨。
18禁であるが、性愛と自我を巡る人工知能の物語として秀逸。
・天才が至る狂気と孤独の境地か、諦めた普通の幸せか、
の葛藤については屹立した構成で美しい。
研究に没頭して人間関係も自らの息子(明)への愛情を顧みない稲葉、
同じく母の研究を追いかける秀才の明、
そしてエンディングノートでの明の、
特に人工知能の技術の拘泥(ソルト改変)からの離脱など。
屹立した構図がはっきりとしている。
・そのうえで、明が、天才科学者の稲葉(母)が残した狂気(0号など)に、
振り回される世界であるなら、
絵里以外にも、もう少し周囲を巻き込んで、連鎖的に狂わせても良いのではないか。
狂気に巻き込む人間が明のように無機質では、あまり狂気を感じられない。
・実は0号ではなく明が作られた人間、
という筋書きをもっと全面に打ち出せば、もっと狂気になったように思う。
・強化学習より知識模倣型で云々、という主人公の説明は、
失敗を正当化するための脚本上の方便としても、
やや不細工ではないか。
2020年代の現代技術的には強化+探索がベターである。
2、母の解釈について。

2-1、
【システムとしての母】
※-1では負の側面を、-2では正の側面を確認することが出来る。
2-1-1、
ここでいう、母とは無条件の愛、包摂、揺籠、自立を阻む概念である。
然るに、本作では、作者の認識では愛情豊かであるも、
母は基本的にサイバーな存在で主人公以上に感情表現のできない存在、つまり、
母という情緒的な存在よりむしろ、システム(環境)のように思える。
システムが生み出す生命は、無機的にコピーされたシステムを作るしかないのだろか?
システムがシステムを生み出すとは、コピーが劣化コピーを作るしかない、
単細胞生物の劣化再生産の世界観である。
劣化再生産では生存戦略を勝ち抜けないために、
生物は多細胞へと進化し、異種交配を繰り返してきた。
コピーされたシステムの、その世界観に未来はあるのだろうか?
2-1-2、
母ではない≠システム(環境)として、
人工知能が汎用化してシンギュラリティを迎えた場合の、
人工知能の自主性、自主的発展性の可能性として、システム(稲葉)を読むと、
未来が広がるだろう。
作家でスーパークリエーターの落合陽一が指摘するように、
人工知能が汎神化し、人間の労働が可能な限り低減されると、
人間は本来的な、本能的な活動に注力する。
あるいは「マタギ」と呼ばれるような、
狩猟生活に勤しむようになる。
ある意味で人間の進化系としてのユートピアであり、
ディストピアでもあるだろう。

2-2、
【従来的な価値観としての母】
・以下のー1,2,3より、
明は結局、母親(稲葉)の呪縛から逃れる意図も意志も無く、
盲目的に母親の揺籠=悍ましい母性で眠るしかない物語としても読めるだろう。
自立を諦めて子宮に引き篭もる、ある意味運命決定論的な世界は、
ある意味で1990年代的であると思う。
或いはそれは、監督本人が述懐するように、
既存の著名アニメ作家、宮崎駿や庵野秀明や山田尚子といった、
クリエイターの先人の拓いた道を、自分は再確認するしか出来ないという、
安田現象監督の諦めにも似た祝別なのかもしれない。
2-2-1、
0号は、明の彼女としての「明さん」、
被使役者としての「あなた」を使いわける。
一方で回想シーンにおける母/稲葉の、明の呼称は、
「明くん」である。
ラストで、0号は母親:水溜稲葉に戻っており、
明に対して、「おかえり」、しかも「明くん」であった。
2-2-2、
明が、黒幕の絵里との対峙の方法として、
母稲葉プログラムに駆動されたソルト達を使役するものである。
さらに母稲葉プログラムに駆動されたソルトのキックボードに乗る明、
母稲葉プログラムに駆動された道路閉鎖システムに手助けされる明、
絵里に操作される黒ソルトもやはり稲葉プログラムで制御されてしまうという茶番。
さらに0号=稲葉に狂気的に刺し責められながらも、
母稲葉のお願い=0号と一緒に、を愚直に守り、
あくまで0号を説得しようと、手出しをしない明。
2-2-3、
0号の故障から立ち直るまで、
自らの左手をも義手にし、益々0号への想いを募る明
3、諦念の先にどのように未来を描くか?

・明は結局、技術がそこまで好きなのではない、
エンディングで、技術の追求を0号/稲葉に任せて、
自らはカップ麺自動処理機のトライに邁進しているように見せている。
まるで母のささやきに従うかのように。
ここで2-2、【従来的な価値観としての母】と合わせて考えるなら、
彼は結局、母の指示なしでは、
母の世界から出ることなく、揺籠に戻ってしまったのだ。
外には様々な可能性があるだろう。
絵里と仲直りして新たな技術開発をしても良い。
エンディングクレジットにあるように、幼馴染の茜との関係を作り直すでも良い。
あるいは料理や、本作におけるマンションの意匠の展開のような、
建築を目指しても良いだろう。
自動化技術を活かしてスマートシティ構築に励んでも良いかもしれない。
いずれにせよ、母だけの世界はつまらないだろう。
哲学者の千葉雅也は、勉強を「アイロニーとユーモアの止揚」としたが、
明にもそのような回路があって良いはずだ。
或いは監督の安田現象自身が、
自らのクリエイティブの限界を、本作に仮託したのだとしたら、
それこそ早計だと思う。
アニメーション業界の先人達の恩恵には感謝して然るべきだが、
新しい世代、新しい技術にも、安田現象にも、新しい思想が宿る。
その萌芽は本作に幾つも見出せたはずだ。
例えば他のアニメ作品だが、「Dr STONE」において、
主人公は義父の影響で宇宙船を作るが、
義父の影響があれども、或いは無くとも彼は成し遂げるだろう。
単純にそれは、彼が、科学の発展による現状改変を、
もっといえば未来を信じているからだろう。
資本や時間の制約という厳しい環境のもとで、
処女作の長編としてここまでの作品を仕上げた安田現象にも、
もっと自らのクリエイティブを信じてみてほしいと思う。
・2027年に次回作とのこと。楽しみにしたい

結び
・古今東西、2次元的存在に憧憬する、人間の欲望を感じずにはいられない。
ギリシア神話のピュグマリオン、紫式部の源氏物語、
バーナード・ショーのピグマリオン、
アラン・J・ラーナーのマイ・フェア・レディ、、
そしてこの2025冬は安田現象のメイクアガール、という感じだろうか
参照
・寒河江光徳、村上雅彦
「表現文化論入門 インターメディアリティへの誘い」第三文明社
・宇野常寛「母性のディストピア」講談社
・愛とシステムはグロテスク ~映画「メイクアガール」感想~
メイクアガールの話(2025年2月6日)
・映画:メイクアガールは水溜明の物語ではない