現代思想入門 

Version 1.0.0

※千葉雅也 講談社新書
この記事は筆者が「表象文化論」を学ぶにあたり基礎的項目を押さえるために、主要書籍を要約したものです。


目次:
1.現代思想について
2.デリダ
3.ドゥルーズ
4.フーコー
5.ニーチェ、フロイト、マルクス
6.ラカン、ルジャンドル
7.現代思想のつくり方
8.ポスト・ポスト構造主義
9.現代思想の読み方

1.デリダ、ドゥルーズ、フーコーを基軸に脱構築、二項対立の無化を説明する

2.デリダ

2.1

デリダは脱構築、エクリチュール等で知られる。

入門書は高橋哲哉『デリダ-脱構築と正義』を推奨。

過去の哲学者の文章を非常に繊細に深く読み込むことで、自身のテクストも複雑で高解像。

2.2

仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな往復が現代思想の醍醐味。同一性は絶対ではない。

2.3

パロール=口述とエクリチュール=記述の関係性で、古代ではパロールに真理を置き勝ち。

しかし両方に誤配=ミスコミュニケーションが存在しうることが指摘される

2.4

脱構築の手続きは以下である。

①二項対立において一方をマイナスとする暗黙の価値観を疑い、むしろマイナスの側に味方するような別の論理を考える

②対立する項が相互に依存し、どちらが主導権をとるのでもない、勝ち負けが留保された状態を描き出す

③そのときにプラスでもマイナスでもあるような二項対立の「決定不可能性」を担うような第三の概念を使うこともある

2.5

本質的、重要とは何か。

ある基準点により直接的なものであり、現前性。

一般にある以下の様式をデリダは疑う。

直接的な現前性、本質的なもの=パロール

間接的な再現前、非本質的なもの=エクリチュール

2.6

脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分がゆさぶられず安定していたいという思いに介入する。

同じく他者を志向する哲学者としてエマニュエル・レヴィナスがある。

レヴィナスと比較すると、端的にデリダの思想は、一切の泡立血のない透明で安定したものとして自己や世界を捉えるのではなく、炭酸で泡立ち、ノイジーで、ある種の音楽的な魅力も持っているようなざわめく世界として捉えるのものである。

決断することで発生する未練こそが、他者性への配慮である

2.7

デリダやレヴィナスの思想の前提は、人間は何も言われなくてもまず行動するのが暗黙知である。

全てを満足させる、あるいは後悔のない行為はあり得ない。

未練込みでの決断という倫理性を帯びた決断こそ、大人である

3.ドゥルーズ

3.1

1980〜2000年代は、西欧:ドゥルーズ→デリダ→ドゥルーズ

日本:浅田彰→東浩紀→インターネット監視社会。

固定的秩序の脱出と資本主義の新たな関係性による変革→倫理や正義の問題の主題化→監視社会化による閉塞

3.2

『差異と反復』差異は同一性に先立つ。世界は差異で出来ている。同一性は二次的に原理として存在する

3.3

アクチュアル(現働的)な次元ではAと非Aという独立したものがある。しかしヴァーチャル(潜在的)な関係の絡まり合いで世界は出来ている。よってある同一性とそれ以外という対立関係から解放し、普遍的な接続可能性として捉えることが出来る。

→存在の脱構築の核心

3.4

差異とは、A,Bという同一性よりも手前において様々な方向に多種多様な変動があるダイナミズムである。よって全ての同一性は仮固定でもある

3.5

世界は時間的であって、全ては運動のただなかにある。あらゆる「事物」は異なる状態に「なる」途中である。事物は時間的であり、変化するものであり、「出来事」である。本当の始まりも終わりもない。

3.6

『アンチ・オイディプス』(ガタリと共著)では幼少期のトラウマによる性格決定論を排除する。自分自身をごく狭い範囲=家族における同一性だけで考えるのではなく、多様な関係のなかで色々な挑戦をして自ら準安定状態を作り出せるものである

3.7

千葉雅也としては、家族関係の分析も重要であるし、多様な関係性に自分を開くことも必要とし、これをダブルで考えると呼称する

3.8

『千のプラトー』では関わり過ぎないことの重要性を考える。基本はリゾーム=根茎の発想で、これはあちこちに広がっていくと同時に、あちこちで途切れることもある、それを「非意味的切断」と言う。

関係性が過剰になると監視や支配に転化する危険性があり、バランスとして関係し過ぎないことを考える

3.9

ひとつの求人的な全体性/国家から逃れる自由な関係が重要とされる。その関係性の増植がクリエイティブであり、断片的で再生成可能であることが示される。

全体性から逃れる動きは「逃走線」と呼ばれ、ノマド/戦争機械がそのビジョンとして示される。

重要なのは価値観の争いからデタッチ=遊離して、かつ互いに気遣いを持ち、その気遣いが他者の管理にならないようにする難しい按配を維持するのが重要である

3.10

既存の秩序の外に広がる関係性がクリエイティブであるというポジティブさの一方で、それが管理社会に転化する可能性への警戒も必要。現代のSNS炎上など。

必要なのは非=コミュニケーションの空洞や、断続器である。

3.11

総括すると、クリエイティブな関係性を広げつつ、非=コミュニケーションが必要である。

接続と切断のバランスをケースバイケースで考える、世俗的問題が、真剣に、世界/存在とどう向き合うかという根本問題として示される

4.フーコー

4.1

権力は無数の力関係の中にあり、秩序の外部への逃走線を考える必要がある。フーコー初学者向け推奨は慎改康之「ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学」、他「監獄の誕生」

4.2

統治は人に優しくなっていく傾向を見せるが、実際は見えない強制力を強める傾向もある。異常や狂気の漂白の意識を持つのが必要

4.3

権力の三つのあり方。王権、近代、現代。権力はアドホックで逸脱可能性は広い

4.4

近代は支配者が不可視化。一望監視、自己監視。個人の心の抑制とともにプライバシー概念誕生の契機にも

4.5

現代は、生政治の統治。即物的。病気発生率低減、出生率対策など。規律訓練と生政治が両輪で働く

4.6

人間の多様性を泳がせたままにし、秩序化を強制しない

4.7

近代に成立したアイデンティティは、良いものと悪いものの二項対立も同時に成立させた。

古代では自己への配慮が重視された。つまり世界は無限に続く罪ではなく、有限であり、即物的であり、その都度注意し適宜自分の人生をコントロールするものとされた。千葉雅也の解釈で発展するなら、内面にこだわり過ぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、大規模な生政治への抵抗として活動するのが、「新しい古代人」である。

まとめ

デリダは二項対立の脱構築を考えた。マイナスこ側に味方出来るロジックを考え、対抗し、互いに依存しあう宙吊りの状態に持ち込む論法である。

ドゥルーズは存在の脱構築を考えた。Aと非Aではなく、多方向に超複雑に関係し合っている。その超複雑/リゾームの中に多方向の無関係もある。Aが非Aに似るような区別を横断する新たな関係性を発見しつつ、Aが非Aと同一にならないような区別を横断する新たな関係性も発見するのがクリエイティブである。

フーコーは社会の脱構築を考えた。権力の開始点は明確ではなく、多方向の関係性として権力が展開する。

5.現代思想の源流 ニーチェ、フロイト、マルクス

5.1

秩序の外部、非理性的なものへ

理性的なものから、非理性的なものの側に真の問題があるという方向転換が為される。

ヤバいもの、反秩序的何ものこそクリエイティブだとする思想は、ニーチェ、フロイト、マルクスに遡る

5.2

ニーチェ ディオニュソスとアポロンの拮抗

古代ギリシャにおける混乱をディオニュソス、秩序をアポロンに求める二元論に基づく。

秩序と混乱の衝突と拮抗が、「悲劇の誕生」である。

ちなみにニーチェは24歳にバーゼル大学教授に就くが、当時のワーグナー音楽と、調査の浅いギリシャ悲劇を結びつける「悲劇の誕生」を表し、批判を受け、職務を追われた。

5.3

下部構造の方へ

アリストテレスが示した形相と質料は、前者が後者に優先する概念だった。ニーチェはこれを逆転する。

ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を背景に、世界は秩序立った表象としての部分とは別で、盲目的な意志(自然や人為)が本質であるとする。これは欧州初の仏教思想を念頭にした思想でもある。

5.4

フロイト 無意識

人間には無意識があり、ディオニュソス的なものとのつながりを持つ。汎性欲論とされ、無意識には性的なエネルギーの葛藤があり、外見上性的に思えない行動に動機つけられるとする。

5.5

精神分析の実践と作用

精神分析の実践は見かけ上、自由連想法などを通して、恋愛関係に親子関係を結びつける活動に見える。

しかし本当のところは、記憶のつながりを何かの枠組みに当て嵌めず、様々なことを引き摺り出し喋る過程を経て、徐々に自分を総体的に変化させることにある。

5.6

無意識と偶然性

自分の中の無意識的な言葉とイメージの連鎖は、自己の中の他者である。無意識とはいろんな過去の出来事が偶然的にある構造をかたちづくっているもので、自分の人生の分からなさは、過去の諸々の繋がりの偶然性である。

5.7

物語的意味の下でうごめくリズミカルな構造

ディオニュソス的なものとは抑圧された無意識であり、物語的意味の下でうごめいているリズミカルな出来事の群れである

5.8

近代的有限性

カントは現象を認識する思考の枠組みを超越論的なものと呼んだ。

悟性可能なものが考えているものだけなら、世界は本当はどうなっているのか。

フーコーは思考/表象と、事物/機能を区別し、また繋げる過程を考えた。

思考/表象と、事物/機能を隔てる壁は際限なく、無限である。

人間は真理に向かおうとすれば、真理への到達不可能性により索引され続ける。

ディオニュソス的/ニーチェなもの、盲目的な意志/ショーペンハウアー、無意識/フロイトなどの概念は、人間自身が内に含むようになった闇の別名だ。

その闇は、形相/ideaに必ずしも従わないような質料、マテリアルの転身した姿である。

5.9

マルクス 力と経済

人は本来、好きに使える筈の力があるのに、偶然的な立場の違いによって搾取されている。労働者は賃金に見合う以上の生産/剰余価値を資本家にピンハネされている。これを下部構造と上部構造とした。

5.10

全ての人が自分自身の力を取り戻すには

本当に意識を高く持つというのは、搾取されている自分自身の力をより自律的に用いることが出来ないか考えることだ。

同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、偶々このように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだと、千葉雅也は主張する。

6.精神分析と現代思想 ラカン、ルジャンドル

6.1

現代思想の前提としての精神分析

ジャック・ラカンの精神分析と現代思想の関係は重要である。ラカンについては、入門書を複数読み、幾つかの解説を合算するのが良い。

ちなみにデリダのラカン批判論文「真理の配達人」の上に、東浩紀「存在論的、郵便的」が記された。

またドゥルーズ+ガタリの「アンチ・オイディプス」は、精神分析批判によって欲望の新たな捉え方を打ち出した。

6.2

人間は過剰な動物である

→精神分析における人間の定義である。動物との対比で言えば、何より言葉である。

6.3

本能と制度

本能とは「第一の自然」であり、動物においてそれは自由度が低いが、人間はそれを「第二の自然」である制度によって変形する。

人間はそもそも過剰であり、まとまっていない認知のエネルギーをなんとか制限し、整流していくのが人間の発達過程である。

6.4

欲動の可塑性

人間は認知エネルギーを余していることをテーゼとする。

本能において異性間での生殖が大傾向として指定されていても、それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されることによって初めて正常化される。我々が正常と思っているものも、「正常という逸脱」「正常という倒錯」である。

6.5

ラカン 主体化と享楽

ラカンの発達論モデルを考える。主題は人間がいかに限定されるか、有限化されるかである。

理想的な状態から弾き出されることを疎外と言う。精神分析的には、母が必ずしも側にいないことが最初にして最大の疎外であり、全ての自立の始めである。

ここで発生する快には二つあり、緊張が解けて弛緩すること、偶然で死ぬ確率がある。

前者を快楽、後者を死の欲動という。

ラカンは、死の偶然性と隣り合わせである快を、享楽と言う。

成長してからの欲望には、嘗て母との関係にあった安心安全を求めながら、不安が突如解消される激しい喜び/享楽を味わう残響がある。

6.6

去勢とは何か

自分以外の誰か=第三者(だいたいは父)との関わりのために母がいなくなる/奪われることを、精神分析的には去勢と呼ぶ。

客観世界は思い通りにならない、母子一体には戻れないという、最初の、決定的な喪失を引き受けさせられることが去勢である。

6.7

欠如の哲学

特別な対象や社会的地位などへの欲望をラカン用語で「対象a」という。対象aは達成したと同時に幻滅し、新たな対象aが現れる。それは母の欠如/永遠の喪失が原因である。

6.8

つながるイメージの世界と言語による区別

ラカンの三つ組概念、想像界、象徴界、現実界がある。

想像界はイメージの領域/カントの「感性」、

象徴界は言語の領域/カントの「悟性」、

現実界はイメージでも言語でも捉えられない、認識から逃れる領域だ。

想像界と象徴界が合わさって認識を織りなす。

去勢により、想像界よりも象徴界が優位になる。混乱した繋がりの世界が言語により区切られ、区切りの方から世界を見るようになる。

6.9

現実界、捉えられない「本当のもの」

現実界とは、意味以前のものとは、成長以前の、不安の時、不安ゆえの享楽の時だ。

対象aを転々とし、到達出来ない本当のもの=xを巡る。このxがイメージにも言語にも出来ない、現実界である。

ラカンの入門書としては、片岡一竹「疾風怒濤精神分析入門-ジャック・ラカン的生き方のススメ」、松本卓也「人はみな妄想する-ジャック・ラカンと鑑別診断の思想」、原和之「ラカン 哲学空間のエクソダス」、向井雅明「ラカン入門」の順番。

6.10

ルジャンドル ドグマ人間学

ピエール・ルジャンドルは自分の理論をドグマ人類学と呼んだ。

人間の生活の根本には、非合理的なルーティンがあり、それが早い時期に成立するからこそ、後に目的的な行動が取れるようになる。

この非合理的、どうしようもなさが、ドグマであり、ドグマを通して観る人類観が、ドグマ人類学だ。

6.11

儀礼による有限化

人が規律訓練を求めるのは、認知エネルギーが溢れてている状態が不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからだ。

一方でルールから外れてエネルギーを爆発させたいときもある。

どんなことでもエネルギーの解放と有限化の二重のプロセスが起きている「儀礼」である。

儀礼とはルーティンであり、根本の理由が説明できないものであり、ドグマ的でしかないような一連の行為や言葉のセットである。

6.12

否定神学批判 

捉えられない本当のもの=x(神)は、二項対立を逃れる何かであり、永遠に取り逃す。

このようなxに牽引される構造について、日本の現代思想では、否定神学思想という。

カントまで遡ると、否定神学的なxは「物自体」に相当する。

否定神学と言う言い方で近代現代思想を捉えたのは、東浩紀の「存在論的、郵便的」である。

東浩紀において、否定神学システムの代表と見做されたのがラカン理論である。

この否定神学批判を問題にしたのが、日本現代思想の特徴である。

その前提にあるのが、フーコーの「言葉と物」である。否定神学システムとは、事物それ自体に到達したくても出来ない、近代的有限性の別名である。

一つのxを巡る人生はいわば単数的な悲劇だが、人生の在り方をもっと複数的にして、それぞれに自律的な喜びを認めようとする、つまり、

無限の謎に向かっていくのではなく、有限な行為をひとつひとつこなしていくという方向性が、ドゥルーズ+ガタリの立場である。

実はラカンは後期になると、ドゥルーズ+ガタリに近い立場へと転向した。

享楽と、自分の存在が依拠するような「症状」を社会生活と両立させる精神分析になる。

その人の特異性=存在の偏り=症状を、ラカンは「サントーム」と呼ぶ。サントームは松本卓也「人はみな妄想する」を参照

7.現代思想のつくり方

7.1

新たな現代思想家になるためには

デリダの弟子マラブーや、メイヤスーを引き合いに、新しい思想を考える。差別化や新規性が機軸。

7.2

現代思想をつくる四つの原則

①他者性の原則

②超越論性の原則

③極端化の原則

④反常識の原則

①について。その時点で前提となっている前の時代の思想、先行さる大きな理論あるいはシステムにおいて何らかの他者性が排除されていることを発見することである。

②について。先行する理論では、ある他者性xが排除されているため、他者性xを排除しないようなより根本的な超越論的レベル=前提を提示することである。

③排除されていた他者性xが極端化した状態として新たな超越論的レベルを設定することである。

④反常識的なものが超越論的な前提としてあるのだ、とすることである。

7.3

デリダ 原エクリチュール

実は世界は根本的にはエクリチュール的な差異が至る所にあるのにそれを否認している、ということを世界の超越論的な前提として発見する。そしてそれは至る所にある、という極端化で展開する。

7.4

ドゥルーズ 差異それ自体へ

ヒエラルキーから排除されている、ズレ、差異、生成変化などの、同一性の崩れこそが世界の超越論的な条件である。かつそれを極端化し、同一的なAとBの間の差異では無く、差異それ自体が世界を作る、という存在論である。

7.5

レヴィナス 存在するとは別の仕方で

哲学史は他者の問題を排除してきた、だから他者の方へと向かう哲学を考えなければならない、その立場がレヴィナスである。

これはハイデガーの存在論、かつ彼がナチスに加担した背景を元にハイデガーを仮想敵にする。

存在論の極み、ただあるという根本的な共通地平に全ての存在者が載せられることで、抽象的な意味での共同性の中に全てが回収されてしまう。それがファシズムと繋がる。

この超抽象的的レベルにおける政治性を考え、存在論という極端な抽象性に抵抗する、ラディカルな意味での他者性を考えなければいけない。

「存在するとは別の仕方で」とは、存在論に引き戻さないように、副詞的な表現で、存在という超抽象的な全体性への地平から外れる他者を考えるのである。

7.6

四原則の連携 (7.2のまとめ)

7.7

ポスト・ポスト構造主義への展開

21世紀に入ってからの、西洋におけるポスト・ポスト構造主義の展開は、ポスト構造主義的な同一性と差異の二項対立をさらに脱構築するというかたちで展開していくものである。

7.8

マラブー 形態の可塑性

基本は逆張り。差異の思考を進めるために、同一性の側に改めて注意を向ける。

全てはエクリチュール的で、同一性を持つもの、「形態」の概念改めて重視する。

形態を持ちつつの変化、つまり、

全ては仮固定的に形態を持ちながらも差異化し変化していく、というタイプの差異概念を打ち出し、それを「可塑性」と呼ぶ。

可塑性の概念については「わたしたちの脳をどうするか-ニューロサイエンスとグローバル資本主義」が推奨参照

7.9

メイヤスー 絶対的な実在とその変化可能性

メイヤスーは主著「有限性の後で」にて次のように主張する。

これまでの哲学から排除されたものは、人間の解釈に左右されないただ端的に同一的に存在している物自体としての実在である。

絶対的な実在は絶対的であるからこそ偶然的であり、そのままで存在し続ける必然性は無い。端的な実在は、ただの偶然で、常に別のものに変化するかもしれない。

8.ポスト・ポスト構造主義

8.1

21世紀における現代思想

ドゥルーズ(1995没)、デリダ(2004没)によりフランス現代思想の黄金期は終わった。

今はマラブー、メイヤスー、バディウ[1937〜]「存在と出来事」、フランソワ・ラリュエル(1937〜)、ジャック・ランシェール(1940〜)があるが、過去の栄光を引き摺るようにも考えられる。

8.2

思弁的実在論の登場

→人間による意味付けとは関係なく、ただ端的にそれ自体として存在している事物の方向へ向かうものである。

オブジェクト指向存在論(グレアム・ハーマン)という思想もあり、あらゆる存在者=オブジェクトは根本的にバラバラであり、絶対的に無関係に存在していて、関係は二次的なものであるとする。

8.3

意味付けの外にある客観性

メイヤスーの思想のキーワードは意味付け、数理的思考。

視点の取り方で意味付けが変動する、意味の決定不可能性、相対性である。

決定不可能だから何も言えない、ではなく、物事は複雑であり、例えば陰謀論に至る可能性も認める必要がある。

8.4

実在それ自体の相対主義

メイヤスーは、世界の意味を言おうとするのでは無く、世界の今そうである限りでの設計をただ記述するのが数理であるとする。かつ、記述される世界は何らそれを保証する根源的意味がなく、いつでも、全く別の在り方に変化してもおかしく無い。

そのようなドライな世界観がメイヤスーである。

8.5

内在性への徹底 ハーマン、ラリュエル

ハーマンについて。

そのオブジェクト指向存在論では、オブジェクトひとつひとつの内在性を徹底し、それ自体に引きこもっている。

ラリュエルについて。

それは非哲学というプロジェクトにより、哲学全てに対して外部的であろうとした。

哲学は常に否定神学的xを必要としてきたが、そういうものとしての哲学全体の外に自らを位置づける。

存在論より一者論が先立つのが、ラリュエルだ。

8.6

複数性の問題と日本現代思想

現代思想には60年代後半に否定神学システムが意識される段階があり、のち、ひとつのxを巡るのではなく、分散的で複数的に諸関係を展開していくという向きに、デリダやドゥルーズは議論を展開した。

現代ではにおいてラカンは否定神学的思考の王であるといえる。

東浩紀は、単数の否定神学的xから、複数的な超越論性へと向かう方向性を示した。

8.7

有限性の後での新たな有限性

日本現代思想における複雑性という論点と、思弁的実在論における解釈の相対性を超えた実在という話は繋がりうるのか。

メイヤスーはxを巡る思考の空回り、有限性からの脱却だ。事実自体は無限に変化しうる。

ではフーコーはなぜ古代に回帰したか。

謎のxを突き止めず、生活の中でタスクを一つ一つ完了させる、淡々とした有限性を考えうるからだ。

8.8

複数的な問題に有限に取り組む

諸々の問題は必ずしも一つに繋がらず、個別に物事にアプローチする必要があり、それがまさに複数性の方向への位置付けである。

いわば古代的ポストモダンである。

8.9

世俗性の新たな深さ

一つの身体が実在する。そのことに深い意味はない。

身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。

9.現代思想の読み方

9.1

読書、ましてや哲学書の読破は全て不完全である。

しかし逆にそれが読書である。

9.2

現代思想の読み方のポイント

①概念の二項対立を意識する

②固有名詞や豆知識的なものは無視し、必要なら後で調べる

③格調高いレトリックに振り回されない 

④原点はフランス語、あるいは英語の文法構造を意識する

9.3
フランス語は語彙が少ないため、抽象度の高いカッコよさは、語彙の少なさから生じる

9.4
古臭い古典としての型に当て嵌めたり、膨らませたり、お飾りを増やしたり、否定から倒置したり、繰り返したりするので、必要な情報だけを科学的に取り出すのが良い

9.5
固有名詞は最初は無視してok。主なストーリーとサブを意識すべき

9.6
二項対立の意識が最重要。対立する二項それぞれにどういう言葉を割り振って関係つけているか。
ただし脱構築はしないこと。

参考文献
千葉雅也「現代思想入門」講談社新書

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カテゴリー: 書籍

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