1,アニメ「チ。」について
2,ラッキーな”ようこそFACTへ”(吉田尚記)
3,考察の時代の逃げ切り勝ち(宇野常寛)
4,太陽の美しさについて(石岡良治)
1,アニメ「チ。」について

・アニメとしての達成点
2024年秋アニメ「チ。地球の運動について」とは、価値転倒による常識の儚さを示しつつ、その瞬間に横たわる狂気の悍ましさを抉りだした作品だった。
例えば6話以降は中世の欧州を舞台に、少女学者ヨレンタ、傭兵オグジー、破戒僧バデーニを軸に、天動説と地動説を検証する下りである。
当初、学問はおろか読み書きも出来ない人物として示されたオグジーだが、次第に地動説を巡る人間たちの狂気と情熱に「託され」、自らもそれを護ろう、広げようと行動していく。
12話では、「私は地動説を信仰している」というオグジーの言動が半ば狂信的でありつつも情熱の源泉を穿ち、後半部分は殆ど、胸が震えるように見入るような仕上がりである。
託された希望から、反論の余地による理論の発展の可能性に気づき、その発展の可能性のために殉じようとする姿勢が圧倒的なものとして示される。
バデーニの、理論の完成を目指すより、反論による発展可能性で立ち向かう姿勢に、オグジーを含めた人間の素朴な情動の可能性を大いに感じさせる演出となっているのだ。
半面的に、オグジーが、その発展可能性の為に殉じる判断が、
きわめて見事に映える構図となっている。
信仰による天動説を、事実と研究の蓄積に基づく地動説で、
価値転倒していく筋書きが2期にわたって、
人間達の時代を超えた偶然と情熱により「託され」ていくのだが、
地動説を探求する人間も、天動説を信奉する人間も、
いづれも究極的には自らの「信条」に基づいている。
そのため、その強固な認識や、時に硬直的な探求心が、
常に陰謀論に陥る可能性をもつものとして視聴者に提示される。
13話において、オグジーとノヴァクの議論で、
規範から外れる自由を「獣」とするか、
規範に妄信する不自由を「獣」とするかの下りが象徴的だろう。
その答えはいづれも「獣」になりうる、となるはずだ。
それは、2019年や2024年の米国大統領選挙の結果、あるいは欧州や南欧でも勃発するポピュリズム政党の台頭とSNSとの相乗効果を確認しておけば、幾らでも例証できるだろう。
あるいは、本記事の後段で記述する、魚豊の過去作品との対比によっても明らかになるだろう。
また、アニメーション作品単体の出来栄えとしては、2024年秋を代表する作品と言ってよいだろう。
良く練り込まれた絵コンテ、価値転倒と信仰の狂気、学問探求の情熱を、世代を超えて様々な形で継承させる外連味ふんだんな脚本、議論に終始するような躍動感の薄い脚本に対して、牛尾健輔によるコミカルでキッチュな音響と、架空年代記と人物に瑞々しさと生々しさを与え続ける演出、どれをとっても一級品と言える。
・アニメとしての課題

だが、この流れは必ずしも漫画とアニメの発展的な可能性を示しているものではない。
例えば石岡良治の指摘するような、
2020年代に至るまで、漫画家は邦画を信奉しアニメを下にみていたが、
アニメはグローバルコンテンツであるゆえに、
チ。のアニメ化で、「良いハプニング」が起こる可能性が無くなってしまったのが惜しい点である。
つまり、チ。はある意味で「ブルーピリオド」化した。
漫画は良かったが、アニメで人間ドラマに終始してしまったのだ。
漫画に比較し、アニメでは、オグジーなどは非常に好青年に描写されているが、
これなどは声優の声が綺麗になると途端に原作の雰囲気をダメにしがちな例である。
声優が上手くやると逆に作品強度が下がってしまうリスクを考えたい。
大金を積んで海外キャスティング、
ハリウッド映画化したら受けるのではないか。
また、外国人にウケるとすれば、ポスト:進撃の巨人であり、ベルセルクであるとも言えるだろう。
アニメのOPについて考えるとき、参照したいのは吉田尚記の言説である。
つまり、アニメで主に有効に働いているのは音響である。
主題歌担当のサカナクションは原作の力に勝てていない。
「バクマン」における新宝島の時のような存在感は発揮できていない。
サカナクションは漫画原作アニメ向け音楽の未経験であるゆえに突っ込む価値があったが、実際はどうか。
2024年の「アニソン大賞」の番組では、
サカナクションは話題にすらなされていないという。
その意味では、牛尾健輔の仕事は素晴らしい。
同じく2024秋アニメの「ダンダダン」も含め7割方は音響の勝利である
2,ラッキーな”ようこそFACTへ”(吉田尚記)

・作家論
作者の魚豊は本気のクリエイティブであり、また、本気で哲学に入れ込んでいる。
何を持ち込み、何を切り捨てるか、徹底している。
「チ。」のヒットにはロマンチシズムが大きく影響している。
先祖礼賛など、メジャー感の獲得要因である。
2000年代の漫画の達成の一つであり、
アニメ後半の脚本も注視していく必要がある。
・前作との対比「ようこそFACTへ」
暴論だが、前作「ようこそFACTへ」も「チ。」も同じ構造である。
「ようこそFACTへ」は陰謀論の話で、ダメな男が教祖風のダメな男に騙されかけて、スカしてしまう。
しかしそこに至るまでの議論が馬鹿馬鹿しくもアツ過ぎる。
最初から勝ちが見えている「チ。」、エピローグとしての「ようこそFACTへ」は併せて読み込むべきである。
クリエイティブとしては、完成度が非常に高い。
「ようこそFACTへ」も「チ。」も、最初から脚本は完成していた印象が大きい。
「ようこそFACTへ」は陰謀論であるが、2024年にトランプが当選したために、
世界が陰謀論化、地動説化していく場合、
チ。の評価が後世で大きく変わる可能性がある。
2020年代は、仮説でひっくり返す世界観である。
映画「イングロリアス・バスターズ」と同様の文脈だが、タランティーノ監督などによる劇場化も良いのではないか。
ただし本作の想像力は、韓国の大統領の事件に追い越されている印象がある。
まさに「現実が想像力に追い越されてしまった」のが現在である。
・前作との対比「ひゃくえむ」

前々作「ひゃくえむ」について考える。
福本伸行メソッドと、松本大洋のピンポンにおける、
スポーツの宗教観を高めて何処迄行けるかが関心である。
2020年代の旬の作家は、1990年代の漫画を上手に活用している印象がある。
赤坂アカ、藤本タツキなど。参照元は寄生獣/岩明均である。
福本伸行の賭博黙示録カイジ、最強伝説黒沢のモノローグの多用を有効に活用した描写が上手い点である。
「ひゃくえむ」では、運動作画を「頑張りたい」意図は感じられない。
ただ、全体的に、ネームだけではなく絵画を描きたい意欲を感じる。
それはキャラの表情描写に要因がある。
対照的に例えば、赤坂アカは明らかに作画を外注、脚本に注力したい態度がある。
かわぐちかいじ+福本伸行「告白」は面白いが、福本伸行の単体の漫画の方が良い。
福本伸行は目力ではなく口元に最も意識を集中して描いてるとの談話があるが、魚豊もその印象を感じる
夜空のシーンは非常に綺麗だが、
太陽を観ながらヨダカが死ぬシーンはそこまで描き切れていない。
「ひゃくえむ」、「ようこそFACTへ」、は、陰謀論と星座の表裏一体である
藤本タツキは映画マニアであり、
「人生のすべては映画である」とのスタンスが見える。
「チ。」で15世紀イタリアのくだりで現実への接続の説明は萎える。
科学信者も地動説論者も怒らせたが、
本作は反証主義的スタンス、カール・ポパーであるといえる。
科学文明の土壌の下敷きの上に信仰があるとする、
科学厨房の認識が、本作に対立して炎上した。
下部構造と上部構造(思想の上に探求の自由や科学がある)が逆転する人たちに批判が起きた。
「ひゃくえむ」、「ようこそFACTへ」、は映画のTaxi driver、である。
W大学のヒロインのゴミ展開には陥らず、良い点である。
昔の青年漫画であれば愛人や結婚などNTL展開にした可能性がある。
・「チ。」と作家性について
「チ。」について、陰謀論者の特徴は論理的。
陰謀論は美しい、が逆にその怖さも認識するべき。
真理への探究が絶対視、ではなく面白がっている感覚が非常に良い。
「100m」で描きたかった内容は、
4年間の全てをオリンピックで金メダルを獲得するために、
捧げる狂気である、との作者談があったが、「チ。」もその延長である。
現実が陰謀論化してきている現在の状況で、
魚豊の最新作「ドクタービートル」には期待したい。
・「ドクタービートル」と今後の方向性について

「チ。」のような、完成度の高い作品を描けるのであるから、
敢えて次回は失敗作を描いてみるのも面白い。
→福本伸行の「銀と金」のような、怪作を作っても良い。
漫画の面白さは計算のみならず相撲/体当たりとしての面白さも要素になる。
魚豊はどのタイミングでこれを実施していくのか。注目したい。
この意味では、相撲を取るなら、映画「マトリックス」や「ゼーリブ」といった価値転倒系を描くしかないのではないか。
魚豊の最新作:少年チャンピオン「ドクタービートル」は
何の期待も無い意味では、いい作品に仕上がる可能性がある。
こんなに次回策が楽しみな作家は他にいないのではないか。
例えば諌山創は進撃の巨人でお世話になった梶裕貴を
作画(古町)として新作を始めたが、
ある意味で接待であり、進撃の巨人の中で価値転倒が起きた分の恩返しであるため、期待は薄い。
2010年代を代表するカルチャーは、ある意味で「進撃の巨人」であった。
週刊少年チャンピオンは物語の破綻があり、予想外さがあって面白い。
2020年代の週刊少年ジャンプにはない。
マガジン、サンデーは破綻しないように作家を接待した結果、安定枠になった。
魚豊は例えば、竹書房で麻雀漫画を描くと面白いものが描けそうではある。
魚豊には美少女に対するフェティッシュが無く、見苦しさがないのが心地よい。
例えば古谷実(「ゆけ!稲中卓球部」「ヒミズ」など)の美少女は気持ち悪いフェティッシュがぬぐえない。
青年向けで1990年代漫画家で、
意識の自家撞着で物語をドライブしている部分がある作家たちはキツイ。
アンダーニンジャ、浅野いにお、花沢健吾など。。。。
老人ホームの給食係のような役割である。
※老人の接待であり、栄養価が採れる「給食」ではあるが、想定外は起こり得ない。
3,考察の時代の逃げ切り勝ち(宇野常寛)

・逃げ切り
科学技術考察厨房を騙す最終回に炎上させる構造が、
考察時代の逃げ切りの賢さを感じる。
終わりのみならず始めからその意図があった。
”とりあえず「チ。」を褒めておくスタンス”の人たちとは距離を置く必要がある。
一方でもちろん、「チ。」は作品としての質の高さを認めるべきだろう。
「チ。」は信じる、が一つのテーマである。
信じるを突き通すのが信仰、疑うのが学問とあるが、
基本的に1990年代のアフタヌーンなどに代表されるような、
懐古主義ではないかと考える。
例えば、「宇宙兄弟」は一周回って、宇宙そのものより、
兄弟愛のロマンチシズムに物語が回収されることにつまらなさがある。
「宇宙兄弟」において、宇宙はロマンの象徴でしかない。
「チ。」作者の魚豊は、このロマンの問題系には自覚的である。
霊に取りつかれ、信仰に変わるプロセスを自覚し脚本化している。
物事そのものをメタファーとして使ってしまうような、
魚豊の手法は、認めるべきであるが、
一方でその手法の限界が、対象そのものとの格闘の断念に繋がっている。
1990年代にはシーンをクレバーに裏切れば賢く物語を描ける思想があった。
これは機動戦士ガンダムGQuuuuuuxにも通じる(鶴巻和哉*榎戸洋二)。
「チ。」において、例えば、コペルニクス的転回の決定的要因は、
人間の感覚器官が当てにならないことを証明している。
人間よりも計算機の方が正しい。
道具、例えば望遠鏡など、少しの努力アイテムで、
コペルニクス的転回を成しえたことが衝撃だった。
一方で「チ。」は、そのような衝撃を切り捨てている。
むしろ信仰Aと信仰Bの争いに終始させているのは、注目すべき観点である。
・探求心の追求について。

今一つであるのは、探求心の描写、である。
序盤から、探求心の追究以外を切り捨てているなら、
もう少し突っ込む予想があった。
一方で、ノヴァクとヨレンタの話を捨てた瞬間、考察厨房を切り捨てて、
永遠の仮説の海に飛び込む段階で、作者が本気で取り組む覚悟を感じた。
その意味では、考察厨房も陰謀論者も、ある種の運命選択可能論者であり、
中学生のメンタリティーから踏み出せていない。
最初にテーゼを提示して最後にそのまま完結することの、
完成度の高さと予想のはみだしの無さが物足りない。
警鐘による探求心の逆説的な喚起が欲しい。
史的唯物論 vs M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と精神」の構図を抜け出していない。
探求心が惹起されるから科学が発展する、ではなく、
科学が発展するから探求心が惹起される、という構造も考えておく必要がある。
・脚本か、キャラクターか。

※画像:ヨレンタ 8話より
本作は、「キャラクター」ではなく脚本や世界観に寄り掛かった構造である。
※ミーハー読者はヨレンタしか覚えていない可能性がある。
本作において、「完成形」がキャラクター、「半完成」がキャラクター未満であり、
「キャラクターが信念を持った瞬間に死ぬ」のが定型の展開となっている。
作者が「好き」になった人/キャラクターを殺す展開で、
物語を動かすのがクレバーである。
本作は、考察厨房の欲望を掻き立てながら、
考察側に立たないことを宣言する、
キャラクター文化に寄りかからないことを宣言した作品だった。
創作意欲のメタファーとしても読むことができる。
創作意欲を信じているが、うまく利用してもいる。
ただ、「うまく利用している」=想定の範囲内、にとどまっており、
クリエイターとしての限界も感じるため、突破してほしい領域でもあるだろう。
・2010年代と2020年代のカルチャー対比、
あるいは「進撃の巨人」と「チ。」について。

2010年代を代表するカルチャーは、ある意味で「進撃の巨人」であった。
魚豊はこれを仮想敵として妥当していく必要があるのではないか。
作者の諌山創の知性以上のものを描いてしまった「進撃の巨人」は、
その世界観や仮想敵設定は良く、
終盤にかけての主人公の狂気/道化化もあり、却って名作化した。
魚豊が、この「進撃の巨人」の名作化に対して、
魚豊としての偉大な知性として、立ち向かうとどうなるか、考えてみたい。
例えばそれは、望月峯太郎の「ドラゴンヘッド」などをモチーフの題材として描くと可能性があるのではないか。
※「ドラゴンヘッド」はその想像力が、
小さな範囲に留まってしまったのが残念な点である。
例えば、「進撃の巨人」は作者の諌山創の,作家としての稚拙さや未熟さが、
却ってダイナミズムを産む構造になっていた。
「進撃の巨人」が当初持っていた主張の右往左往、軸のブレが、
兵士長のリヴァイなどの存在感低下をもたらしたが、それも良かった。
その意味ではキャラクターを使い捨てる「チ。」は、
キャラクターの力、人間が生きていると錯覚できる力(虚構の実感)のようなものが欠けている。
2020年代において、漫画は大人の娯楽化してきており、
コンセプチュアルに、洗練されたものを用意するムーブメント、ある種の流行が、
青年漫画の業界及び読者においては起こっている。
それを継承したのが魚豊である。
4,「太陽の美しさについて」

・太陽、という圧倒的なチート
人類は本質的に太陽の光に抗えないという感覚は否定できないものがある。
その上で、本作において、
信仰の無い人間が太陽の光の差し込みで改心することで落ち着いてしまうのは、
やや安易でもある。
石岡良治が指摘する、チ。のラストの不満に関してはこれと同じ構造である。
※キリスト教絵画は信仰心向上であり、
例えばミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオがある。
信仰の無い人間が太陽の光の差し込みで改心する構造について、
日本人はキリスト教を仄めかせておけば、惚れ込んでしまうチョロさがある。
ヨレンタが太陽の光を浴びて改心する原作のエンドについても同じ構造である。
「ようこそFACTへ」も太陽の光を浴びて改心してしまう構造がある。
この文脈では、移動民族の娘ドゥラカが、太陽が嫌いであり、好ましいといえる。
移動民族の娘ドゥラカが登場した段階で、
大今良時の漫画「不滅のあなたへ」を超えたといえる。
人物の輪転により「火の鳥」を目指して、
文化継承、哲学エンタメとしての方向性を明確化した。
太陽の光で落ち着く点は物足りないものの、
「チ。」は「ベルセルク」のようなメルクマールになれる可能性がある。
随所にルクレティウスなど哲学ワード、自然主義者派、
ハイデガーが持ち出すギリシャ哲学の要素がある。
それらを用いつつも、長編にせず、早々に切り上げる手法は、
逆に長く引っ張ることで逃げきれなくなるリスク回避をする手法であり、上手い。
・予定された物語の回収について
「無意味な死」がないことに甘さを感じさせる。
ノヴァクがヨレンタの死を悼むなどがあたる。
突き抜けが足りない=安易に拷問に結節する構造が見苦しいといえる。
ただ、最終的にコペルニクス的転回に終わらせない展開は、
インテリ読者の評価を上げた印象がある。
学者があらすじを観て泣ける作りが上手く、
かつコペルニクスの先生の存在の仄めかしで終わるくだりが、
予想通りであり残念である。
ただし、コペルニクス的転回の要因を描こうとすると、
どうしても「君たちはどう生きるか」の説教化してしまう点は難しい。
科学史から、美術史、具体的にはブレジンスキーに移行する可能性もあったが、
「移行する」可能性を提示するにとどまった。
・岩明均から藤本タツキへ
チ。は明らかに岩明均のフォロワーである。
チ。は人口的に寄生獣を作り出すことに成功した作品である。
寄生獣は”三島由紀夫もどき”に「人類はくそくらえ」という趣旨の虚無演説をさせることで、
直線的な物語からの方向転換を行い、傑作となった。
チ。は地動説への転回は、史実的には想定通りであるため、ある種の箱庭感がある。
例えば進撃の巨人における、エレンの巨人駆逐→自ら道化と化し、
狂信集団をつくる方向での回収が産む面白さが、チ。には無かったといえる。
岡田索雲「アンチマン」は作画は上手だが、
藤本タツキのフォロー感が強く、
思想的な信念も感じられず、魚豊のほうが好ましい。
絵でだまされない作家であることは美点である(反例:五十嵐大介)
ただ、「チ。」は、AIの要約、AI漫画に描けてしまいそうであり、
それを超える作風を打ち出して欲しい。
参考
・ニコニコ動画 PLANETS「チ。地球の運動について ―魚豊は日本のマンガに何をもたらすのか」
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