「フリクリ」の問題意識と「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」について

1、機動戦士ガンダムGQuuuuuuxの展開について

2、フリクリについて

1、機動戦士ガンダムGQuuuuuuxの展開について

アニメーション「フリクリ」を見直してみた。
本作は機動戦士ガンダムGQuuuuuuxの鶴巻監督と脚本の榎戸洋司のタッグによる、
実質的な代表作であり、
GQuuuuuuxを観るうえで参照する必要がある、、、
とPLANETSのニコニコ動画(チ。の特集回)での言及を受けたものだ…w

勿論本作は1990年代後半にあって、
プロデューサーの大月や原作者のウエダハジメ、
制作元のGAINAX(今は倒産)やproduction I.G.の意向も無視出来ず、
一概に述べることは出来ない。
だが、同じ水準で方向性の予測や検討をすることは可能だと思う。

先の記事でも述べたが、
筆者は宇野常寛の議論を援用してこう述べた。

今、ガンダムを描き直すことであり得るポジティブな可能性とは、
ユニセクシャルな主体、あるいは玩具的ロボットの祝祭性を、
「ニュータイプ」的なフューチャリズムに匹敵するビジョンに結実させることができれば、
家族的なものや生殖的なものを超克し、
現代的な他者への想像力を発揮しうるのではないかということだ。

翻って「フリクリ」を見直してみると、
結構この可能性について深い疑いを持ってしまう。。
というか、期待しろ、というのが無理だ、というのが正直な感想だ。

詳細は2、の段落に譲るが、要するここで描かれるのは、
1990年代における、終わりなき日常をどうやり過ごすか、という命題に尽きる。

それはサイコな少女の押し掛け(問題の摺り替え)であったり、
ロックを意匠としたバトル(ギターがあれば世界は変わる)であったり、
自意識の発露としての腫瘍のロボット化であったりなのだけど、
申し訳ないけれど議論の前提がもう破綻している現在2020年代において、
既に「日常」は壊れている。

現在はグローバリズムへの反動としてのブロック文化経済化、
承認欲求の戦争の中で、如何に自力を高めるか/連帯出来るか、
未来図を描けるか、であると考えている。

機動戦士ガンダムGQuuuuuuuxにおいて、
上記のような少女の活用による状況の回避や、
取ってつけたような自意識の検証という回路には至らず、
1〜3話までの展開は期待値を少し上回る出来映えといえるだろう。

だからこそ、今後、少女の扱いや、ニュータイプの未来図、
ボットの意匠がどう展開していくのかを見極めていきたいと思う。

、、、ということを考えていたら、
既に宇野常寛本人の記事で、同じ目論見が為されていたw

二番煎じではないが、以下、フリクリの詳細な評価について記述したい。

2、「フリクリ」を今見直してみて

評点:60点。

1話(及び全体の総括)

<アニメーション作品としての完成度/項目別>

絵コンテ(摩砂雪)、演出(鶴巻)、音響は◎。※所々でpillowsを使いすぎ、、
美術、文芸は○(文芸的意匠の背景美術や内装美術への落とし込みが非凡)
脚本(榎戸洋司)は△〜○(オジサンの妄想癖が、、)
キャラデザ △(人物造形、動機、台詞全てがペラペラ)
総合は○(MVとしては◎。総合は△寄り)

<文芸作品としての評価>

郊外に新設し異彩を放つ新興工場(という不発のアルマゲドンの象徴)、
兄の不在にレモンスカッシュをかましながら弟を詰める女子高生、 
ベスパに跨りエレキギターを振り回すサイコ女子、
下世話な父(松尾スズキ)や友人と、
1990年代の要素がふんだんに盛り込まれる。

要するに「終わりなき日常」
=文化的、経済的に行き詰まった1990年代日本において、
男性の自意識を少年にどう仮託して展開出来るか。
都合の良い押しかけサイコ少女たちとロックの意匠、
精神病(思春期の葛藤、退屈な日常に対する悪意)の発露としての、
額の腫れ物のロボット内装化と外部化(切り離し)など、
初見で観ている分には面白い。

一方で、郊外の地方都市で芸術センス全開の少年
=作者たるオジさんたちの自意識承認を延々と繰り返されると興醒めする。

何より主人公の少年=ナオ太が何の努力も言動もせず、
ただ状況に眉を顰め続けるだけの展開は、
不健全な「らんま1/2」とでも言うべき見苦しさ。

筆者は19歳に初見の当時で、
本作の面白さが分からなかった。
だが今改めて観た感覚では、
言い訳のように添えられる、
セクシャル的隠喩のギャグは楽しめるが、
「私小説的」で、
アニメ的ワクワク感がない(娘、10歳談)

2話

<アニメーション作品としての完成度/項目別>

絵コンテ(摩砂雪)、演出(鶴巻)、音響は◎。
美術、文芸は○。
脚本(榎戸洋司)は△〜○
総合は○(△寄り)

<内容評価>

1990年代の、新世紀エヴァンゲリオンに代表される時代の空気感を、
玩具的なロボットやロック意匠の少女で乗り切ろうとするのは、
一見面白いが、終着点は同じ狢の穴に思える。

少年がベスパ後輪に飲みこまれる意匠、
ロボットの尻穴から排出される描写は面白い。

オジサンの脳内で完結してそうな少女造形の浅さと、
絶望に至るまでのギャップがスカスカで、
キャラデザの射程の短さが際立った話といえる。
女子高生が逃避する対象が、
小学生/ナオ太→携帯ゲーム→煙草→
ロボット(発泡スチロールのシヴァ神=フェイク)に至る下りで劇萎え。

また、恋愛にもロボットにもロックにも興味ないフリをしつつ、
本当は単純な恋愛や学園生活で満足しそうな、
何の行動も努力もない少年/ナオ太に仮託された、
作者の自意識がひたすら気持ち悪い。
半ばで描写される自意識と記憶の錯綜/独白の連続シーンも唐突で、
不勉強な精神病の描写のようで、
陳腐で掘り下げ不足の感覚。
このポジション取りに血道を挙げる少年の精神構造と物語展開において、
そのような自律神経失調の起こり得る可能性が殆ど考えられない。

3話

<アニメーション作品としての完成度/項目別>

絵コンテ 佐伯 ◎
脚本 榎戸洋司 ◯
作画監督 貞本義行 ◎
作画監督補佐 今石洋之 ◯

<内容評価>

市長娘の学校演劇の回が1番見応えあり面白い。
特に娘がマダニ怪物に乗っ取られ、
マダニにカレーを食わせる意匠が斬新。

市長娘が主人公ナオ太とナオ太父/暴露記事記者との関係で、
ナオ太家に宿泊する下りは強引で微妙。
随所に放り込まれる少年/青年向けセクシャルシーンが鬱陶しく、
半端な覚悟で描写するのはやめた方が良い。

4話

<アニメーション作品としての完成度/項目別>

演出 大塚 ◎
脚本 榎戸洋司 ○
絵コンテ 小倉 ◎

<内容評価>

ナオ太と、父/ハルコを巡る嫉妬で、
EDの言い訳をバッティング意欲に仮構して描く構造がひたすら見苦しい。
マバセ市に迫る破局/巨大ボールを、
ハルコの不思議パワーでナオ太から引き抜くバット/ギターの意匠も見た目は面白いが、
内実は破戒的少女/ハルコにロックを見出して解決させる構図であり陳腐。

そもそも破戒的少女/ハルコの人物像や背景が皆無で、
ある意味神的だが、
その意匠を楽しめない人/成人男性女性にはキツい。
ひたすら下品な父も悪趣味。

5話

<アニメーション作品としての完成度/項目別>

演出 大塚 ◯
脚本 榎戸洋司 △
絵コンテ 今石 ◯

<内容評価>

序盤から中盤にかけてのサバゲー展開もマミ美へのアプローチも床屋談義も、何もかも雑。
マミ美放置のケアの下りは不要。
ナオ太の自信が虚栄である暴露は良いが、
ナオ太もマミ美も役割は終わってると思う。

6話

<アニメーション作品としての完成度/項目別>

演出 鶴巻 ◎
脚本 榎戸洋司 △
絵コンテ 大塚 ◎

<内容評価>

持て余したマミ美の肥大化した自意識と、
架線下の捨てロボット/捨て猫をモチーフに、
無理矢理壮大なバトル展開に仕立てる脚本がキツい。
ナオ太がハルコに告白するまでの下りが長すぎるのが90年代的で、
そんな葛藤は序盤に過ぎないはず。

最後に放置され、
追従の選択を迫られても何も主張しないナオ太に、
本作の全てが表現されている。

要するに平板な世界に絶望したフリして、
自分だけは斜に構えて頑張れる、
その意欲を兄元彼女、学級優等生ではなく、
不思議かつ破戒系女子とロックで突破出来るとする、
想像力の臨界点であり限界でもある。
とにかく観続けるのが5〜6話はキツい。


参照:https://note.com/wakusei2nduno/n/nf0e23c854af0?magazine_key=m05f60bdb140d

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