副題:~歴史を通して人間の可能性を考え直す~
2025.02.26 2回目を視聴、追記。
一言。続編のティザーが既にダサい魔女を巡る表象、利用されるニャアンが、
既にやる気を削ぐ要因に、、
Summary
・歴史とは何か?
・歴史的事実の主観性 ウクライナ・ロシア戦争を考える
・「機動戦士ガンダム」を現在の視点から問い直す
・「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」とは
・今、「機動戦士ガンダム」を作り直す意義
・フリクリとの関係
・歴史とは何か?

本題に入る前に少し迂回したい。歴史とは、何だろうか?
事実の羅列?
勝者の主観による虚構?
答えは、いづれでもあり、いづれでも無いと言える。
E・H・カーの「歴史とは何か」では、
歴史の本質と歴史家の役割について考察している。
カーは歴史を単なる客観的事実の集積ではなく、現在と過去の対話として捉えた。
<歴史の概念>
カーによれば、歴史とは以下のような概念だ。
- 現在と過去の対話:歴史は現在の視点から過去を解釈し、評価する過程。
- 選択的な解釈:歴史家は事実を選択し、解釈を加える。完全に客観的な歴史は存在しない。
- 価値体系の反映:歴史は事実の背後にある価値体系や思想体系を含む。
- 未来への橋渡し:歴史は過去の教訓を未来に伝える役割を果たす。
上記1、について、E・H・カーが歴史を「現在と過去の対話」と定義した理由は、以下の点にある。
- 歴史的事実の主観性:カーは、歴史上の事実自体が既に記録者の主観を通して表現されたものだと考えた。
完全に客観的な歴史は存在せず、歴史家の解釈が不可避的に含まれる。 - 歴史家の役割:カーは、歴史家が単に客観的事実を明らかにするだけでなく、事実の選択と解釈を行う重要な役割を担っていると主張した
歴史家は、どの事実に発言権を与え、どのような文脈で解釈するかを決定。 - 現在の視点の重要性:カーは、現在の問題意識や課題を持ちながら過去を見ることの重要性を強調した。
これにより、過去の出来事が現在の私たちに語りかけてくる存在となり、意味を持つ。 - 相互作用のプロセス:カーは歴史を、歴史家(現在)と歴史的事実(過去)の間の絶え間ない相互作用のプロセスとして捉えた。
この相互作用を通じて、歴史の解釈が形成される。 - 客観性と主観性のバランス:カーは、純粋な事実崇拝主義と極端な主観主義の両方を避け、事実と解釈のバランスを取ることの重要性を説いた。
このバランスこそが、「現在と過去の対話」の本質だ。
このように、カーは歴史を静的な過去の記録ではなく、現在の視点から過去を解釈し、そこから意味を見出す動的なプロセスとして捉えた。
これが、彼が歴史を「現在と過去の対話」と定義した根本的な理由だとされる。
・歴史的事実の主観性 ウクライナ・ロシア戦争を考える
<歴史的事実の主観性について>
完全に客観的な歴史は存在せず、歴史家の解釈が不可避的に含まれる。
例えばこれは、現在のウクライナ侵略戦争を考えるとわかりやすいだろう。
ロシアのプーチン大統領は、主にウクライナ前々々大統領から続く、ウクライナのEUやNATO加盟に対する憤懣の爆発として、あるいは、ウクライナは元々ロシア領土(キーフ・ルーシ大公国)であり住民もロシア系が多いとして、その侵略理由を正当化している。
勿論、歴史的事実と情報は此れとは異なる。
現在の大統領であるヴォロディミル・ゼレンスキは元々はロシア親和的で知られたが、ルハンシクやドネツクへの相次ぐロシア工作兵の住民迫害、国境付近の軍事演習増大を受けた民衆の反ロシア運動の激化を受けて、ポピュリズム政治家として、NATO肯定派に転向した経緯がある。
またウクライナは元々ロシアの領土であるとする主張は、それこそ荒唐無稽で根拠の無い妄言ともいえる。
ウクライナは侵略民族による受難の国家であり、現在のルーツはコサック:ヘーチマン大公国にあると言える。
元々、B.C.10世紀頃より、同国はトルコの東アナトリア地方出身のキンメリア人の支配地域だった。
それが、東イランの遊牧民スキタイ人により滅ぼされ、支配勢力が交代するのを皮切りに、次々と支配者が入れ替わったのだ。
中央アジアのサマルティア人の侵攻や、東ゴート族:ゲルマン民族によるスキタイ人の駆逐、バルカン半島に由来するアヴァール人による東スラヴ人の支配を経て、
8世紀ごろにウクライナは、漸く、東スラヴ人によるキーフ公国を建設。
これが現在のウクライナの首都キーフの主な起源となる。
敷衍すると、キーフ・ルーシ大公国はこれを母胎としており、むしろ現在のロシアはキーフにルーツを持つとすらいえる。
…であるため、ロシアが主張することを真剣に主張するなら、ウクライナこそ、真にロシアの源流であり、ロシアの生みの親であるともいえる。
ちなみにキーフ・ルーシ大公国はその後、北欧のヴァイキングによる侵攻、モンゴル帝国の侵攻を経て完全に滅亡した。
どちらかといえば、現在のウクライナの源流は、15世紀後半のウクライナ東部におけるコサック集団の独立国家展開運動、ヘーチマン国家が起源であると見るのが歴史的なコンセンサスが取れている。
これらの情報を考えるだけで、ウクライナという国家の複雑性が理解されると思うが、ウクライナ侵略戦争の勝者がいづれとなるかの結果次第では、これらの情報や資料が焚書され、一方的な歴史解釈により認識が覆される可能性があることがわかるだろう。
歴史とは、かくも蓋然性に溢れ、常に現在との対話で問い直されるものである。
・「機動戦士ガンダム」を、現在の視点から問い直す

批評家で編集者の宇野常寛は、
機動戦士ガンダム(とその原作者)を独自の視点で問い続ける。
例えば近著「母性のディストピア」では、宮崎駿、押井守の監督作品と並列しつつ、
戦後日本を主軸に自立及び父性と母性を巡る主題を切り口として鮮やかに批評した。
詳しくはこちらの記事を参照願いたいが、
要するにガンダムとは、
アニメの幼年期を終わらせ、思春期に移行させるという革新性を帯びたもの、
更に言えば、人類の革新を目指すニュータイプの負の側面を重視することで、
ユートピアではなく、男たちを取り込み、呪縛し、殺していく、
「母性のディストピア」として提示したものだった。
重要なのは、監督の富野由悠季が、ガンダムを含めた後続作品を描く中で、
新たな世界観、人間観を描こうと戦い続け、敗れてきたことだ。
例えば、ニュータイプならぬ「イデ」(伝説巨神イデオン)は、
空間を超えた人間同士のコミュニケーションを可能にするシステムだが、
これを制御できず滅亡する人類を描く中で、輪廻転生の反復の中での進化という
可能性を希望として提示する中で、「母」性回帰的なイメージを前面化した。
先ほどのガンダムの結論と紐づけると、宇野常寛が指摘するように、検討するべき課題は、「イデ」的なシステムに対峙し得る新たな「ニュータイプ」を描くことだ。
システムとしてのロボット、
男性性とも身体性とも切断されたロボットは「∀ガンダム」でも描かれたが、
こちらは人類の進化ではなくその否定を結末とし、
システムの封印という結論が示された。
これらを踏まえると、「∀ガンダム」で示されたユニセクシャルな主体、あるいは「OVERMANキングゲイナー」で示された玩具的ロボットの祝祭性を、
「ニュータイプ」的なフューチャリズムに匹敵するビジョンに
結実させることができれば、
富野由悠季が、そしてガンダムが抱えてきた、家族的なものや生殖的なものを超克し、現代的な他者への想像力を発揮しうるのではないだろうか。
それが宇野常寛の結論である。
(※ネタバレを含みます)
・機動戦士ガンダムGQuuuuuuXとは

https://www.youtube.com/embed/VZaqtgVtL1M
主題に入ろう。
本作は、もしジオンがガンダムとホワイトベースをシャアに乗っ取られていたら、という偽史を中心に描かれる。
一年戦争はジオン公国の実質的な勝利に終わるが、シャアは消失する。
そして、中立国のサイド6の台頭や、地球連邦の弱体化、
ジオン公国の内部対立による経済的困窮など、
原案の「機動戦士ガンダム」の、一年戦争後の地球連邦の系譜をほとんどジオン公国がなぞるような形式で展開される。
そして物語は、サイド6の女子高生アマテ・ユズリハが、アルバイト少女のニャアンとの遭遇、少年シュウジの駆る赤ガンダムとの会合を経て、
モビルスーツと賭けバトルを巡る争いに巻き込まれていく。
基本的にはTV放送の先行上映であり3話分であり、
現時点での評価の断定は出来ない。
良くも悪くも、機動戦士ガンダムに拘りをもつ庵野秀明の采配により、クドイほど一年戦争の「もし」が描かれ、やや疲労するが、
精緻で美麗な絵コンテとそのデジャヴ感に圧倒されつつ、その5年後を新たな感性(監督:鶴巻和哉、キャラデザ:竹、脚本:榎戸洋司)で描いていく。
戦闘、メカ、スペースコロニーは圧巻の絵コンテと演出であるし、
天然気味で猪突猛進だが自意識に悩む前時代的な少女と鬱屈した現実的少女の衝突、
妖精のようで存在感の希薄な少年と対比される赤いガンダム、
ニュータイプの発現を物理的なシンチレーションと特定人数にのみ発生する神秘性とで掛け合わせる現代的解釈が、
圧倒的に健康的ですっきりしたビジュアルセンスの元、
やや過剰な音響とともに展開される。
※シャノンの花、ゼクノバは、サイケデリック表象と理解される(シド・バレット)
若い、新たなファンを想定し、
若さゆえの過ち(「本物の重力も、空も、海もしらない」など)も切り込みつつ、
男女3人の現代的な関係性、ニュータイプの位置づけの刷新にも切り口が見える意欲作である。
※ちなみに評点をつけるなら、65点である。
・演出 1.5/2
Begining以外は良い。beginningのパートが兎に角見辛い。
会話劇が多く画面が暗めで動きが殆ど無いパートの連発で確実に眠くなる。
登場人物を見せたいだけの表象に思える。
ゼクノバ現象が4回くらい出ている。やり過ぎである。
・脚本 1/2 及第点。序盤遅くしつこい。
ピンチの時のゼクノバ、という水戸黄門の流れになりがちで緊張感激減の罠。
ラストバトルもゼクノバによる勝利で戦術的な面白みが無く安易。
・絵コンテ 2/2
庵野秀明始め手練れで全体的には玄人味で惚れ惚れするが、
ガンダム奪取からグラナダまでの戦闘が緩慢。丁寧と緩慢は違う。
戦闘描写は全体的に安易である、特にbeginning。
・キャラデザ 1.5/2
全体的にBegining:ジオンやり直しとサイド6との落差がエグい。
露骨なセクシャル造形が無いのは好印象。
だが風呂やジェジーとの絡み等所々のセクシャル表象が少し鬱陶しい。
ボディラインを強調する戦闘スーツはあまり良くない。
マチュの、裕福で自意識に迷う
(本当の空、海、現実=本当の自分)のキャラデザには共感し辛い。
ニャアンの影ある難民のキャラデザを主役に据えた方が、
展開可能性や世界観への広がりがあると思う。
とにかく赤いガンダムの意向を汲み取るシュウジも機械的できつい。
・美術 1/2 練り込まれたスペースコロニーを良く活用
・文芸 2/2 素直に良い。完全平和は無く紛争続く
・CG 2/2 隅々まで完璧なメカ、スペースコロニー、バトル
・音響 1/2 少し鳴らし過ぎ
・今、「機動戦士ガンダム」を作り直す意義



先に触れた「母性のディストピア」で、宇野常寛の議論に触れた。
それは、ユニセクシャルな主体、あるいは玩具的ロボットの祝祭性を、
「ニュータイプ」的なフューチャリズムに匹敵するビジョンに結実させることができれば、
家族的なものや生殖的なものを超克し、
現代的な他者への想像力を発揮しうるのではないか、ということだった。
そしてそれは、大人気のうちに終了したガンダムの最新作
「機動戦士ガンダム 水星の魔女」において、
生殖的なものを超克しつつ(同性愛の自然な形態)、
家族的なものに呪縛されてしまう(魔女の母親を介護する)、
またヒューチャリズムを最後まで提示することなく、
外連味で物語を引っ張ってしまったように、容易に実現しえないものであるだろう。
(ちなみに筆者はスレッタ派)
「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」においては、
すでにユニセクシャル性や玩具性(民間企業の経済的利用など)において、
それらは既に提示されているといえる。
また、ニュータイプの発現を物理的なシンチレーションと特定人数にのみ発生する神秘性とで掛け合わせる演出は、
ヒューチャリスティックであり可能性を感じさせる。
今、「機動戦士ガンダム」を作り直す意義を、どう魅せるか。
歴史をどう問い直し、人間の価値や可能性をどう描けるか。
それが本作の課題であり、抜き差しならない魅力になることを願う。
参考文献
・宇野常寛「母性のディストピア」
・教員ページ https://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq000000z4gr.html
・朝雲新聞社 https://www.asagumo-news.com/homepage/htdocs/column/zenjihubou/2023/0511/230511.html
・日々是読書】僧侶上田隆弘の仏教ブログ https://shakuryukou.com/2022/03/07/dostoyevsky658/
・【書評】E・H・カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳) https://note.com/ishiokacritic/n/ne77d1e1788ac
“・【人事部長の教養100冊】
「歴史とは何か」E・H・カー https://jinjibuchou.com/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B”
・社会人の学び直し https://plaza.rakuten.co.jp/boketsu2021/diary/202107280000/
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