庭の話 抄録と実践

Contents
読後感
第1章 プラットフォームから「庭」へ
第2章 「動いている庭」と多自然ガーデニング
第3章 庭の条件
第4章 「ムジナの庭」と事物のコレクティフ
第5章 ケアから民藝へ、民藝からパターン・ランゲージへ
第6章 「浪費」から「制作」へ
第7章 すでに回復されている「中動態の世界」
第8章 「家」から「庭」へ
第9章 孤独について
第10章 プラットフォームから(コモンズではなく)庭へ
第11章 戦争と一人の女、疫病と一人の男
第12章 弱い自立
第13章 「消費」から「制作」へ
第14章 「庭の条件」から「人間の条件」へ


・読後感
アレントの「人間の条件」を再読する必要性を感じた。
実践事例として、例えば若年層の離職率上昇に対する労働組合からのアプローチとして、
「弱い自立」の確立のために「労働環境の可視化」(マニュアル理解)、
「業務時間外の趣味活動の促進とそれを通じた自らの長所の再発見
(ただし必ずしも団体で行う必要はなく、事物に向き合うものを推奨)」、
「(上述した環境で発見した長所を)業務に生かす回路の調査と実践」、
あるいは「労働組合活動における長所を活かした回路の調査と実践」、
「業務時間外の趣味活動のさらなる促進と、「庭」(事物と向き合う環境)の構築」
などであろうか。

そのような環境を提供できる組織があれば、活力や遣り甲斐を提供できるものとして持続可能性も上がっていくのではないか。


(以下抄録)
1章


基本的に前著遅いインターネットを更新し提示する背景をかなり丁寧に論述。見田宗介=真木悠介の進化路と花/虫の観点が新鮮で、庭の話に繋げる構造。但しSNSの代わりに庭は成り得ないのが前述されている見解で、その発展形をどう描くのか注目。

所感)
最近論述を始めて気付いたのは、何かを言い切るのは非常に勇気ある行為ということ。例えば本章の冒頭近くで断言される「政治へのコミットこそがコスパの良い承認ゲームである」という内容。 謂わばこれは「意識高い」(低い)人達に向けられた、ある意味マイノリティにおけるマジョリティを示すと思う。ここでこの断言をすることで論述を先に進められるのだけど、では他の方法はどうコスパが優れないのか、などの比較構造があっても良いかと感じた。とは言え宇野さんの読者(自分含め)にとっては所与のもので「問い」を問い直す必要性がないのだろうけど、、

2章

庭師ジル・クレマンの思想と実践、庭を「最良のものを保存する場所」とし「出来るだけ合わせて、なるべく逆らわない」事例が非常に興味深い。「生はノスタルジーを寄せ付けず、到来すべき過去は無い」故に、現代の複雑化する社会に対峙する考え方を提示していく。

本質的課題はこの発想を現代のネットワーク社会に如何に醸成するか、であって、相互評価ゲームの相対化と、現代的な庭の条件が次から論じられる。 然し、やはり人間は既にある快楽と安定を捨てて飛び付くに足りる次なる快楽を求めてしまう筈で、その多様性も保持しながら展開される事を期待したい。

「第三風景」とweb2.0を対比させつつ、多様性の維持と自然(乱数)のある空間の人為的な構築の優位性を論じる過程が中々に鮮やか。公私の喫水点として三浦半島の小網代の森が、芳醇で多彩な第三風景として提示される。


3章

人間同士のコミュニケーションによる閉塞化では無く、異種生物との交わりによる知覚の擬似的拡大と世界の想像の快楽を説き、敷衍し、庭の条件として提示する。さらに久世橋のBOOKOFFを引いて、セレンディピティを第二の条件とする。

第三条件として、人間が生態系に関与できるが完全に支配できないこと、勝敗ではなく公私を結節する場所を再構築することとする。ここでムジナの庭が引用される。

所感)ここまで議論としては面白いし魅力的ではあるも、somewhereな人々は(殆ど)惹きつけられないんじゃないかなあ、という肌感が強い、、

4章

コレクティフ=個々人が独立しながら事物に関わり、かつ全体の動きに無理に従わさせていることがない状態、による日常性の回復や発見について、ムジナの庭を参照に論じる。共通の目的を持ち組織化されることこそ人間の疎外にあたる、というのは直近の國分功一郎の議論にも繋がる。

多様な事物への関わりを通して人間相互評価の経済からの解放とコンパニオンプランツ効果を狙う役割を、ネットワーク社会にどのように接続するのかが次章の論点となる。

5章

伊庭崇と鞍田の理論を引き、web2.0における負の側面=相互評価によるタコツボ社会に対して、正の側面=パターンランゲージ、集合知による事物の創造こそ、来るべき創造社会の礎になるとし歓迎しつつ、大衆に創造活動を欲望させる為の動機不足を指摘。

人間外の事物とのコミュニケーションを動機つけるための補助線に、國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」を引用する、、

所感)個人的にはメンタリティ的に大衆向けでは無いのでは。

6章

國分功一郎を引用し、環世界の移動、現代における「不法侵入」の可能性と動機付けの問題から、その回路を「浪費」の失敗と条件定義、そして「制作」へ。

鞍田の示すインティマシーを発揮する事物として、非対称の一方向からのコミュニケーションこそが、浪費の失敗、変身の条件である。

所感)この不可逆の変身理論は個人的には非常に納得感があるとともに、痛切な問題とも感じる。 満たされないから絵を描き、筆を取るのだ。

7章

國分功一郎を援用し、「中動態の世界」における行為における「意志」の役割や「責任」の概念を再検討、「原因が結果において自らの力を表現する」という関係を踏まえつつ、それら前近代の世界が既に悪い意味で達成されている現状を検討する。

SNS炎上の事例による中動態の世界は、若干E・フロムの「自由からの逃走」議論に近似するが、より抑圧的(経済的)環境から自由である現代の方が解像度が高いかもしれない。 続く「責任の生成ー中動態と当事者研究」を援用し、責任からの逃走という悪しき中動態の側面に対するアプローチと本書の意図を検証する。

ここでは「中動態の世界」において回復されたコナトゥスの開放=自由意志の世界の一時停止を目論む。具体的には「制作者」への動機付けと関連させ、受動的/能動的世界を機能させるべく、相互承認による自由意志の回復を阻止すること、共同体を「庭」から退けることを示す。

所感)
個人的には言わんとすることは分かるし、その結果に対する倫理的な反省や評価を通した活動は魅力的で楽しいし、共同体に注ぐ時間の惜しさも実感する身として納得感があるが、みんなそんなに強くない=共同体に縋ってしまうと思う。ではどのようにその空間を設計するのかが重要。

8章

左派から右派までプラットフォーム批判と共同体回帰の現状に対する認識を確認しながら、むしろプラットフォームこそ共同体を強化する共犯関係であり、閉じてしまう状況を、Qアノン、江戸しらべ、贈与経済やコモンズの復興を引きながら説明する。

所感)
左派言説における共同体回帰と贈与経済言説への批判として、帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」を引いて撃ち返すのが、個人的にはセンス良すぎて泣ける、、、

9章 

孤独と孤立を峻別し、孤独をケアすべきもので無いことを示しつつ、食を巡る観点から、事物に向き合う=庭の可能性を提示する。さらに秋葉原殺傷事件に触れ、貧しさの原因を人間関係では無くその世界の味わい方に求める。

ここで宇野常寛の自著「ひとりあそびのすすめ」に接続するスムーズさは心地よい。一方、ひとりあそびのコツを「無目的に楽しむ」(攻略しない)こととし、純粋に、孤独に事物と向き合うことを、庭の条件として接続する。

所感)
個人的にはここには違和感がある。
つまり純粋に事物と向き合うには、最低限の知識と、事物に向き合う姿勢が必要であり、その段階における人間は、単純に知識や学問を「攻略」しようとしているのでは無いか。 少なくとも実体験ではそうだ。

だから謂わゆる「自由に」「伸び伸び」と生きる、というのは、前提として上記条件の必然性があるのであり、純粋に無教養で知識不足でありながらも、自由に何かを楽しむことは、出来ないと思う。

10章 

コモンズのガバナンスにおいて、オストロムの構造を敷衍し進化系として現在のSNSプラットフォームが在ることを示す。そのプラットフォームの対抗馬として、庭を提示する。
それはナラティブ/共同体が、無敵の人を包摂するが救済しないことと併置し、コレクティフの実践場として小杉湯を提示する。
ナラティブ無しに共有可能な場所を考えることを一貫して主張していく。

ここで共同体と公共を峻別しているのは重要だ。公共とは複数の共同性が共存でき、「何者でもない」人を包摂し肯定する場所として提示されるからだ。

他にも「ランドリーバー」や「小杉湯となり」、ゴミ回収とリサイクル事業といった、人間同士の距離感を保ちつつ関係性を構築することを例示する。
大規模に庭的な空間を提示することと、戦争が結節するとは、、 つまり人間と事物が関係し、事物の生態系か豊かで、人間が関与不可能な部分があり、人間を孤独にする場所としての戦争を反証事例として提示していく、、、

所感として、これに対抗していくのは本当に困難では無いか。
個人的に振り返れば、宇野常寛は2010年代半ばから資本主義の可能性に大きく探究対象を移しているが、ここに結節点があるとは感慨深い。

11章 

コモンズから庭へ、そして戦争へ。坂口安吾「戦争と1人の女」を引きながら、戦争の庭的な総合的魅力を認め、更に小さな庭の偏在ではこれに対抗し得ない事を認める。
坂口安吾の戦争と1人の女の、その欲望を、戦争や疫病の力を借りず、平時に醸成する。
丸山眞男の言う相互評価の承認獲得ゲーム(である)でも、グローバル資本主義における勝者(する)でもない、場所を作るだけでは、この問題には対処出来ない。
しかし庭という環境のみならず、人間の活動を変えることで、庭のつくるネットワークこそが解法であるとする。

所感)
気付いたのは、坂口安吾のヤバさ、、ダークナイトのジョーカーの女版を戦前戦後に描いて、しかも男の卑しさ(独り良くなろうとする狡さ)を巧みに描くとは、、、


12章

タンザニアの仮想プラットフォームTRUSTという実践が面白い。
共同体内の承認と、セーフティネットへの接続権を結びつけないためのプラットフォーム利用により、「ついでの論理」による擬似贈与のネットワーク構築が為される社会が示される。
相互評価による承認ではなく、評価を軸足に改める。
そしてグローバル資本主義の勝者ではない我々に有効な案として評価のハードルを下げる端緒を考え、それを「弱い自立」と仮定し、吉本隆明の共同幻想論に繋げる。

批判力の在るモデルとは、家では無く庭であり、グループではなくコレクティフであり、共同体ではなく社会であり、自治のアソシエーションではなくアグリゲーターを内在した新しい組織とプラットフォームのハックである、、それが「弱い自立」の中身だ。

具体的には
1,株式会社を維持しながら個人の単位に近い形で活動する中間的な形態を可能にすることでゲームへの過剰適応を回避する方法(柴沼俊一=アグリゲーター)、
2,プラットフォームを適切に活用し共同体を維持しながら束縛を大きく緩和しセーフティネットとする(小島さやか=タンザニアの仮想プラットフォーム)方法、

それが評価のハードルを下げる方法として例示される。

13章 

「母性のディストピア」、あるいは「遅いインターネット」と同様、ここで吉本隆明の共同幻想論の見直し、実践者としての糸井重里とその実体批判へと繋がる。
糸井重里批判とは、端的には彼の主宰するほぼ日とその活動に向けられる。
消費をモノからコトへ更新し、自立を追求する。
現状肯定イデオロギーを、インターネットポピュリズムへの対抗として自覚的に選択する。一方で正しさを回避する態度により、社会の弱者に対して満を閉ざす。
閉ざされた持たざる者は、インスタントな正しさを消費する他無くなるのだ。

あるいは糸井重里の態度はこう言い換えられる。
戦略的に消費者に留まることは、語り口を優先し内容を問わず距離感と進入角度だけを洗練し、正しさを忘却することは、脱政治化し、現状肯定イデオロギーとしか結託できなくなってしまう。共同体から自立しても、公共性に接続することが出来ない。

ここにおいて漸く、消費による自立ではなく、「制作」による「弱い自立」が志向される。
「作庭」から「制作」へ。
庭という場所から、そこで活動する「人間の条件」へ。
これが続く最終的な(坂口安吾「戦争と1人の女」における)「平時の恋人」の条件である。

14章 

結論はH・アレントの「人間の条件」のアップデートである。
H・アレント「人間の条件」を引き合い、「労働(Labor)」、「制作(Work,仕事とも訳)」、「行為(Action、活動とも訳)」の条件を示しつつ、「制作の行為化」こそ作庭と新たな「人間の条件」とする。
「労働」は生物学的なプロセスとしての個人の生存と直接関連している活動のことだ。
食物を生産し、生活の必需品を確保することなどが含まれる。
「労働」は一時的でその成果は消費され、持続しないため、絶え間ない再生産のサイクルに組み込まれることになる。
それは自然の循環の一部であり、生命を維持するための不可欠なものだが、永続的なものを生み出すことはない。
「制作」は人間が事物を作り出し、世界に恒久的な変化をもたらす活動を指す。
「制作」された道具や作品は人間の世界を形成し、永続性を持つ。
アレントは、「制作」を通じて人間が文化や文明を築き、自己表現を果たすことが出来るとした。
「行為」は人間が他者と交流し、共同の世界を形成する社会的、政治的な活動のことだ。

かつてアレントは「行為」を重視した。
それは「行為」こそが人間を予測不可能な世界に連れ出し、新しいものと出会わせ、世界を変化させる創造的な回路であるからだ。

一方で問題は現代の情報社会が、既に「制作を行為化する」(安易に制作品を作り出せる)環境を構築していながら、むしろ「行為が制作化」(承認欲求獲得目的化)してしまうことを問題視し、その対策を追求する。
それはsomewhereな人々とanywhereな人々の社会的分断(経済的では無く、その心理的距離感)に原因を求める。
「制作」をいかにsomewhereな人々にも落とし込めるようにエンパワメントするのか、が課題である。

ここでアレントの「労働」、「行為」の再定義が図られる。

一つの条件は、尾高邦雄の労働社会学も参照しつつ、「労働」の現場から「制作」の快楽を得て、人間を動機づける回路を再構築することだ。
具体的には、窓を拭く「労働」の中でガラスの美しさを知る、
日々の粋時から料理の楽しさを思い出す、、、などのように、日常的な労働や作業の中にこそ快楽を見出す回路を見つけてみることだ。

その回路は二つあり、かつての職人仕事のように、「労働」を「自分の仕事」にすること。
情報環境を利用して「労働」の現場から「制作」の快楽を得ることで、「自分の仕事」にし、「制作」した事物を通じて公共性に接続し、世界に関与する実感を取り戻すことにつながる。
それは前述した「弱い自立」を経ることで、人間がより自由に「労働」にアプローチできることにつながり、「労働」のなかに「制作」の快楽を見つけうる環境を整えられる。

もう一つの条件は、再分配と暇である。
「弱い自立」を実現し、労働環境を整えるために、「行為」(社会的役割)の再評価、具体的には職業別労働組合などの導入による環境整備を通じた、「行為」の領域による「労働」環境の改善を目指すのだ。
情報技術により民主化された「制作」の与える世界との接続(の実感)により、情報技術によるインスタントな承認獲得の中毒の行為を抑制する。
「制作」への動機付けは「弱い自立」により解放された「労働」により与えられる。
「労働」に「弱い自立」をもたらすのは、情報技術により更新された、市民でも大衆でもない、人間そのもの=「労働」し、「制作」し、「行為」する主体を対象にした「行為」である。

その上で、「人間の条件」が更新された時に漸く、プラットフォームの無効化される新しい交通空間=庭が機能するのである。



参照
宇野常寛「庭の話」講談社
宇野常寛「遅いインターネット」幻冬舎
宇野常寛「砂漠と異人たち」
宇野常寛「ひとりあそびの教科書」河出書房新社
國分功一郎「暇と退屈の倫理学」新潮文庫
國分功一郎「中動態の世界」医学書院
斎藤幸平+松本卓也「コモンの「自治」論」集英社
丸谷眞男「日本の思想」岩波新書
阿部真大「会社のなかの「仕事」 社会のなかの「仕事」~資本主義経済下の職業の考え方 」(光文社新書
H・アレント「人間の条件」講談社学術文庫
『庭の話』が100倍面白くなる自己解説テキスト|宇野常寛

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カテゴリー: 書籍

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