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<概括>
<推し/推されの観点>
<概括>
【推しの子】実写映画 The final actが公開された。
Amazon prime限定で放送されたドラマ全8話を踏まえて、原作以上のクオリティに期待した私は、
劇場を後にして不思議な冷静さと煩悶を抱えた。
敢えて述べるなら、【推しの子】実写映画は、ファンタジー/虚構とともに、
アイドル文化の終焉を示した作品だった。
どういうことか。
原作はリアリティショーの風味と豊富な取材力を活かした、
優れたコンテンツだった。
それゆえにリアリティ/現実と、虚構の描写の狭間でその引力に引き裂かれた悲劇的な完結作品ともいえる
※前記事 参照
【推しの子】実写は、数多の予想を覆し、その美術的クオリティの高さ、
キャラデザ(演技、衣装)の秀逸さ、
重要な挿話以外を大胆に削ぎ落す意欲的な脚本力で、非常に良作だった。
例えば鳴島メルトや劇団ララライのメンバー、あるいは星野ルビーのクラスメイト(不知火フリルや寿みなみ)、
ツクヨミや天童寺さりな母といった、
掘り下げ不足キャラの個別挿話をばっさり切り落とし、
主要な登場人物の感情や言動描写に特化したことでより物語としてサスペンスの程度が上がっている。
特にカミキヒカルとの最終的な対峙における展開の説得力の高さは素晴らしい。
あるいはライブパートの衣装やバックステージの色彩感覚、高千穂病院の周辺の自然の色彩豊かな画面構成、
東京ブレイド(TVドラマに改変し脚本も改稿)における各話の画面構成の引きこみ(最終回の神社の配置が素晴らしい)は
邦画の実写とは思えないほど美術センスの光る出来栄えだった。
このように【推しの子】の魅力はリアリティショーとファンタジー風(設定)
サスペンスにあると考えており、
実写版はその魅力を余すところなく仕上げた傑作といえる。
一方で、「嘘は愛」、「演技は復讐」などキーワードは多々あれど、
「嘘」(虚構)についても「愛」についても、あるいは「演技」についても大きな掘下げや取材結果の反映は為されず、
同様に「推す」「推される」観点での光と闇についても
突っ込み不足が多々見られた。
<推し/推されの観点>

例えば、アイドルにおける演技としての愛情や推し/推されの観点から、
中村香住(@rero)やアーヴィン・ゴフマン、
パトリック・ガルブレイズなどの社会的、演劇的観点で考えることが出来る。
中村香住はアーヴィン・ゴフマンを引きながら、
アニメ作品「少女歌劇レヴュー・スタァライト」に関する
観客と演者の関係性を論じるが、
それによると、観客が演者の言動を先取りすることで、
初めて演劇が完成されるとする。
つまり観客の望む完璧な嘘こそがイデアであり、【推しの子】における、
ある意味で「愛」なのである。
あるいは川村覚文の声優-キャラ・ライブの事例を引き、観客こそが声優をキャラクターそのものとして現前させることを可能にする「主体」であるとする。
となれば、 【推しの子】において、推される側(アイ)のみならず、推す側(アクア、ルビー)の主体性の掘り下げがもっと必要だったのではないか。
2010〜2020年代において、特に女性アイドルがアイドルを演じる特徴とは、舞台上においては演目に沿った言動を、舞台外においては親しみ易さを、
それぞれのパーソナリティとファンに許容されうる範囲での
活動を示すと理解している。
その意味では星野アイも星野ルビーも、他者と関係性においてのみ「スタァ性」を保証されており、対外的にはルッキズム以外の根拠を持たない存在だ。
一方で黒川あかね、有馬かな等が相当に内面を描写され立体的だった事を鑑みるに、原作者には、アイドル自体を描く気概は元から無かったと言える。
内面描写に関連すると、【推しの子】実写映画では、
原作の欠点である、星野アイの内部描写の欠如と言動の特徴付加不足も、
アイの養護施設入所前後の挿話を創造することで、
その育児期間中のアイドル活動の苦悶にリアリティを付加するという、
良い改定も見られた。
しかしながら星野アイの魅力醸成における説得力は未だ不足していた、
とするのが筆者の見解だ。
2000年代、2010年代のアイドルは、
基本的にスターダムシステムにおけるバトルロワイヤルとして、
パーソナリティを公私のべつ幕無しに切り売りすることで、
結果的に「良い子」「規範的な子」が勝ち残ってしまう構造があった。
それは集団内部におけるアイドル勝ち残り戦略としては正しいものの、
いわゆる「卒業後」における、
演技やバラエティー素質などの主戦場で勝ち残ることを難しくしていった。
いわばアイドルという「虚構」「ファンタジー」の終焉とともに、
アイドル自身も自滅してしまう状況にあるのだ。
これとは対照的に、
例えば1990年代の「アイドル冬の時代」に熱狂的に迎えられたモーニング娘。
を考えてみたい。
彼女たちはアイドル「卒業後」も多方面で中期的に活躍し続けていたが、
一方で幾多のスキャンダル(喫煙、飲酒、麻薬、、、)にも苦しんだ。
そう、中長期的に活躍するアイドルに必要な条件には、
「倫理的な箍」が外れていることが含まれる言える、かもしれない。
ところで、綿密で情報角度の広い取材活動を通じて、
原作者(赤坂アカ)が、これらの事実を見逃したとは思えない。
一方で、原作者インタビュー記事にもあるが、業界の光と闇を描きつつ、
問題提起をしたいとあり、
特定の誰かを悪者にしてつるし上げることはしない、という宣言までしている。
ここに見えるのは、原作者サイドの、人権配慮の高い倫理観であり、
むしろそのせいで、
アイドルの本質を描いてしまうことで発生する闇
(後続アイドル文化への負の影響)に、
未然に対処してしまったのではないか。
あるいは、推しと推される関係についても同様の指摘ができよう。
宇野常寛の指摘として、以下の内容がある(以下引用)。
本当にアイドルとファンを、推しの子として描くなら、
アクアとルビーの父親はオタク以外はあり得ない。
星野アイはオタクと結婚した、以外は、地下アイドルを始めとしたアイドルの闇に踏み込むことは出来ないのではないか。
芸能界同士での描き方は想定の範囲内過ぎて発展性も斬新さもない。
実際にアイドル界隈で本当にヤバイのはオタクであり、運営も含めて本当に警戒して取り組んでいる。
アイドルとしての成り上がりや、ライブシーンの描き込みなどの不足よりも、
オタクの闇、病みたいなものの描写が決定的に不足している。(中略)
二次元のオタクは究めるほど(二次元であるゆえに、メタ的に)冷静になっていくが、アイドルオタは生身の人間であるために、
相手に人生がある認識をもつために「この子の人生を救えるのは自分しかいない」という深みにはまりがちだ。
本当にヤバイ装置である。(引用終わり)
これらの核心に踏み込まない原作の脚本を、高品質で改良した実写版は、
しかしながら原作が根本的に抱えるこのような課題に対しては、
無力であったと言わざるをえない。
ファンタジー/虚構を本質的に描こうとするほど、
その文化の終焉を予期してしまう。
そのような倫理観と配慮が、逆説的にアイドル文化の終焉も予期してしまう。
そう、【推しの子】実写映画は、ファンタジー/虚構とともに、
アイドル文化の終焉を、決定的に示した作品だったのだ。
参考文献
・ニコニコ動画「【推しの子】のラストはあれでよかったのか?」PLANETS 2024.11.25放送
・オシノミクスレポート https://www.hakuhodo.co.jp/humanomics-studio/assets/pdf/OSHINOMICS_Report.pdf
・推し活の市場規模とは?消費行動やマーケティング手法も調査
https://www.a8.net/ec/column/?book_id=column_104
・インタビュー 漫画【推しの子】「一言で言うと現代版「ガラスの仮面」を描きたいんです!」
https://news.livedoor.com/article/detail/20445944/
・開沼博「漂白される社会」ダイアモンド社
・『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』青弓社、
・手っ取り早い炎上マーケティング!そのメリットとデメリットは?
https://mediaexceed.co.jp/marketing/flaming-marketing/
・オタ活で病んでしまうのは、あなたのせいではない
https://note.com/sachatarou/n/na04acca1e25f
・〈少女漫画誌動向〉「りぼん」「なかよし」「ちゃお」3大雑誌どこが強い? 待ち望まれる“大ヒット漫画”の誕生
https://realsound.jp/book/2024/11/post-1846645.html
・美内すずえ「ガラスの仮面」花とゆめ、白泉社
・横槍メンゴ「クズの本懐」ヤングガンガン、スクエアエニックス
・横槍メンゴ「レトルトパウチ!」ヤングジャンプ、集英社
・横槍メンゴ「めがはーと」ヤングジャンプ、集英社
・Daily PLANETS『BanG Dream! It’s MyGO!!!!!』の達成 アイドルの成熟から大ガールズバンド時代へ|徳田四
・文書構成資料
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