「超平和バスターズ」による、「あの花」に続く「秩父3部作」の2作目。
「心が叫びたがってるんだ。」は、しかし、秩父とは微妙に舞台設定をずらし、横瀬町(住宅)、足利市(学校)、高崎市(ラブホ)に軸をおいた作品だ。
これは石岡良治が指摘するように、
エピソードを積み重ねる「あの花」形式ではなく、
学校やホテルという象徴性を帯びやすい場所を、
あえてアニメツーリズム的な磁場から遠ざけ、
物語の主題を際立たせることを意図している。
匿名的な「北関東の郊外」の記号性を随所に入れることで、ある種の乾いた感覚が前面に出ている。

主題とは何か。言うまでも無く、それは「言葉」の獲得と、
その青春の喪失による成熟の獲得にあるのだが、
脚本家の岡田麿里(もしくはP.A.WORKS)の経歴に少し興味がある人なら、
似た構造の作品を想起しないだろうか。
そう、True tearsである。
これも石岡良治が指摘するように、
「ここさけ」は事実上「True tears」の変奏である。
ただし多くのアレンジが加わっている。
「ここさけ」(心が叫びたがってるんだ)の、あらすじを簡単に記そう。
心の殻に閉じ込めてしまった素直な気持ち、本当は叫びたいんだ。
幼い頃、何気なく発した言葉によって、
家族がバラバラになってしまった少女・成瀬順。
そして突然現れた“玉子の妖精”に、二度と人を傷つけないようお喋りを封印され、言葉を発するとお腹が痛くなるという呪いをかけられる。
それ以来トラウマを抱え、心も閉ざし、唯一のコミュニケーション手段は、携帯メールのみとなってしまった。
高校2年生になった順はある日、担任から「地域ふれあい交流会」の実行委員に任命される。一緒に任命されたのは、全く接点のない3人のクラスメイト。
本音を言わない、やる気のない少年・坂上拓実、
甲子園を期待されながらヒジの故障で挫折した元エース・田崎大樹、
恋に悩むチアリーダー部の優等生・仁藤菜月。
彼らもそれぞれ心に傷を持っていた。
担任の思惑によって、交流会の出し物はミュージカルに決定するが、
クラスの誰も乗り気ではない様子。 しかし拓実だけは、「もしかして歌いたかったりする?」と順の気持ちに気づいていたが、順は言い出せずにいた。
そして、だんまり女にミュージカルなんて出来るはずがないと、揉める仲間たち。 自分のせいで揉めてしまう姿を見て順は思わず「わたしは歌うよ!」と声に出していた。 そして、発表会当日、心に閉じ込めた“伝えたかった本当の気持ち”を歌うと決めたはずの順だったが・・・。
映画「桐島、部活辞めるってよ」が巧みに描いたスクールカースト描写をシンプルに取り入れており、
例えば、野球部=アメリカの青春ドラマにおけるアメフト部員というアナロジーを押し通している。
それは野球部員とチアリーディングのカップルがスクールカーストの頂点という構図である。
ただしそれは、野球部員の、序盤での怪我による転落により、そうしたスクールカースト被害感という効果を和らげている。

論点として考えたいのは幾つかあるが、ここでは3点に絞りたい。
まずは、他の超平和バスターズ作品に比較して、
過剰に物語に干渉する「母親」の存在である。
ここでは、コミュニケーション強者としての母親(および責任転嫁する父親)
↔ コミュニケーション弱者(に転化)としての娘という構図が成り立っている。
娘を無意識的、意識的に攻め立てる母親が繰り返し描かれるが、
この作品においては、この毒親からの逃避として、
「男子が女子を救う」(拓実が成瀬順と恋愛関係を構築する)テンプレに走らず、
あくまで「思い込み」と自己との和解を通じて、次に進む姿が示される。
ここでは順が坂上から卒業していくというシビアでポジティブな感触を残すものになっている。
一方で、この作品における母親の描写が(あるいは拓実の祖父母との関係性が)
岡田麿里の近作「さよならの朝に約束の花をかざろう」、
「アリスとテレスのまぼろし工場」につながる
「(無意識の)おぞましい母性=母性のディストピア」への問題意識の発端になっていくのだろう。

https://www.youtube.com/embed/nbxRum-BOVs
次に、劇映画として、凄みを感じたのは冒頭部分である。
王子様とお姫様のお城の舞踏会を、ラブホテルにメタファーさせるパスティーシュ、
そのホテルで実父と不倫相手を目撃する小学生(成瀬順)を描く悍ましさ、
その目撃譚を瓢々と実母にお喋りする屈託のない無垢さ(無知さ加減)、
その無垢さを受け入れることができない、度量の狭い実の父母。。
さらにそれらを「玉子」≒「王子と似て非なる、虚構」
の登場と怪しげな説得により、
一気に日常生活に(妄想の)ファンタジーを畳みかける脚本と絵コンテの力、、
この冒頭の数分間こそ、「アニメならでは」の表現であり、実写では決して表すことの叶わない、ファンタジックでグロテスクな名場面だ。
ここは「超平和バスターズ」の各担当の力量が非常に効果的に結実した、
日本アニメの豊かな資産であると言える。
一転、終盤の、劇中劇のクライマックスで、自らの「玉子の呪い」を、
失語的な自分の状況を、ミュージカルに乗せて、
実母の背後からひたひたと迫る、順の歌声。
そしてそれを聴き涙を堪え切れない順の実母の描写は、とても居た堪れない。
「わたしの声 消えたこと みんな喜んだ みんなわたしの言葉を 嫌ってるから」

最後に、個人的な体験として。
筆者も成瀬順と同じように、お喋りが過ぎる余りに迫害されてきた経緯がある。
迫害された結果、失語症まで行かないものの、感情を抑制し、早口になり、論理に偏重する性格に変わっていった。
その反動として、感情を上手に表現する方法を失い、
「無機質」な人間と評価されてきた。
その個人の歴史の中で、唯一、音楽が、音楽だけが、個人的な感情の発露をする場所であった。
音楽は人類の歴史を通じて、
感情や思想を伝えるための基本的な手段として存在してきた。
古代文明においても、音楽は宗教儀式や社会的なイベントで重要な役割を果たしてきた。
また音楽は感情を表現し、他者と共有する強力な手段だ。
メロディー、リズム、歌詞を通じて、人々は言葉だけでは伝えきれない感情を表現し、他者とつながることができる。
特に、音楽が持つ非言語的な要素は、言語的コミュニケーションに困難を感じている人々に対し、大きな助けとなる。
音楽は感情を直感的に伝えるため、コミュニケーションの障害を感じる人にとって、自己表現の手段として役立つ。
※2010年代以降の、音楽分野とアニメの越境交流が盛んであり、特にアイドルアニメ、ガールズバンドアニメが2020年に至るまで隆盛であることとも
大いに関連性があると思われるが、その現状と展望については別記事を参照
また、音楽は文化や歴史と深く関係している。
文化的背景としては、 音楽は文化的な背景を持ち、聴者が共有する文化的価値観や伝統と関連している。それらはまた、個人的な記憶とも結びついている。
本作で言えば、「Around the world」「悲愴」「Over the Rainbow」など、オリジナルではなく、歴代の名曲が、各ミュージカルシーンに合わせて挿入される。
とくに、ミュージカルの終盤で歌われる「玉子の中にはなにがある」
(元メロディ:Around the world)では、
冒頭に成瀬順が拓実の演奏に魅入った歌詞である
「玉子にささげよう、Beautiful words,,,」がトップから歌い上げられており、
成瀬順と拓実のそれぞれの経験を非常に効果的に用いていると言える。

付記:映画「ふれる。」を何度か観たのちに本作と比較して気付いたのは、思った以上に映画「ふれる。」の演出技法の多彩さである。
同時にそれは、「ふれる。」においては序盤でほぼ効果的な技法と脚本を使い尽くし、絵コンテや脚本よりも、技術的な側面に走ってしまったことが、
当該作品の惜しまれる点だったのか、、、と思えてならない
参考文献
石岡良治「現代アニメ「超」講義」PLANETS
野崎透「アニメーションの脚本術」BNN
藤津亮太「ぼくらがアニメを見る理由」FILMART社
PLANETS2009Vol.6 第二次惑星開発委員会
アニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』ネタバレ考察|結末に納得いかない?玉子の妖精の正体は?
https://yagi3blog.com/kokosake_anime_consideration/
現代文化論叢
https://modernculturecritiques.hatenablog.com/entry/movie02
【映画】心が叫びたがってるんだ。(ここさけ)劇中歌、歌詞一覧【ネタバレ】
https://www.riccolog.com/entry/2015/10/13/003813#%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%B9%95