トッド・フィリップス監督、ホアキン・フェニックス×レディー・ガガ主演の
同作を観てきた。
多分2024年に観てきた映画としては(邦画含めて)、
インサイドヘッド2と並ぶ快作であり傑作だと感じた。
「ジョーカー」シリーズの完結編であり、同作の出自である「バットマン」シリーズを踏襲しながら、トッド監督によるほぼオリジナルの作品として、前作で1500億円の売上を飛ばしたものの続編である。
内容的には前回のラストを踏まえて、精神病棟監獄でのアーサー・フレック(ジョーカー)と、偽装的に精神病棟に入り込み、隠れたジョーカーの熱狂的ファンとして、ジョーカーとの接触を図ろうとするリー・クインゼル(ハーレイ・クイン)との会合、複数回にわたる裁判での陳述、そしてアーサーの自我への接近と倫理的な結実、悲劇的な結末へと突き進む。
内容にやや踏み込むと、前作以上に随所に「音楽」がミュージカル調に盛り込まれ、かつ不自然でない程度の配置ながらもかなりの頻度で配置されており、「音楽」により物語が進行、強調される構造となっている。一方で、明るい曲調で進めるほどに、現実世界の進行においては状況の悪化が進むという逆転現象が対比されている状況も非常に興味深い。
悪事を働き、自我に悩みつつ尚、その葛藤を情緒的に表現する手法として、正しく「神に訴える」ように「音楽」により現実に肉薄することが示唆されているだろう。
なお「FOLIE A DEUX」とは、フランスでの家族内で生じた妄想の伝播事例の考察に起源をもつ概念である。
「妄想をもった一人の人物から、親密な関係にあるもう一人ないしは複数の人物へ、その妄想が伝播し共有される状態」であり、しかも「両者はともに、物理的ないし精神的に孤立した状況にあるのが通常」といったものを示す。つまりは妄想の伝染だ
(「JOKER FOLIE A DEUX」パンフレット、春日武彦氏解説)。
前作の殆どが、主人公アーサーによる妄想=ジョーカーの世界での世界進行と、現実との交錯であったことを考えると、今回もそのテーマを「妄想」に据えていることが明確にされていると言える。
その妄想は、アーサー/ジョーカー本人のものか、彼を賛美する民衆(持たざる者=貧困層)のものか、あるいはリー/ハーレイ・クインのものか、あるいはその全てであるのか。
観客はそれらを考慮しながら解読していくこととなる。
まず個人的に告白したいのは、個人的な「バットマン」シリーズの最高傑作は
「ダークナイト」だ。
クリストファー・ノーランの3部作でリメイクである
「バットマンビギンズ」「ダークナイト」「ダークナイトライジング」において、「ダークナイト」はその衝撃的な脚本、洗練された造詣、時流を踏まえて完璧に描写された「悪」に対する思想的、現実的な解決方法により、何度も見直し、DVDも保有している。
そのうえで、前作「ジョーカー」に対する評価は、申し訳ないけれど全面的な称賛ではない。
それは、個人的な理解では「ダークナイト」におけるジョーカーの「強さ」とは、日本の文芸的文脈で言えば「無敵の人」(英語圏ではIncel=弱者男性)、つまり失うものが無く犯罪を起こすことに何の躊躇もない人たちは、斯様に「弱者らしい」文脈で、つまり経済的にも、社会的にも、文化的にも、「弱者」であることを強調されるような境遇である人ばかりなのか、という疑問だった。
前作が「妄想」に覆われた世界観である限り、どこまでが「被害妄想」で、何処迄が「現実」なのかの判断は困難であるが、少なくとも今作においては、それらにおける事件の発生全てが裁判として裁かれている限りにおいて、「現実」のものと捉えて良いだろう
(前作では、「発作=バカ笑い」や、ピエロ意匠への切り替わりにより、「現実」と「妄想」との弁別が示唆される仕掛けとなっている)。
「ダークナイト」におけるジョーカーとはどのような人物造詣であったか。
それは宇野常寛が示すように、「暴力のみを追求する純粋な悪」としての強さを体現する、
ポストモダン後の2010年代前後を完璧に体現するダークヒーローだ。
少し長いが、以下にその要旨を引用する。

引用:
ジョーカーとは何者か。それは進化したバットマン、より徹底してその正義/悪の行使を自己目的化した存在に他ならない。劇中でジョーカーは出現する度に、いかにも適当な過去の精神的外傷にまつわる記憶をでっちあげて語りだす。ある時は酒乱の父親の、あるときには神経症気味の妻の物語が饒舌に語られる。だが、登場するたびに異なるその過去の物語は、当然出鱈目でしかない。これは半分は自己目的化した正義の行使に酔いながらも、半分は過去の精神的外傷を動機に戦い続けるバットマンの中途半端さに対して徹底的だ。
(※筆者注釈:「JOKER FOLIE A DEUX」パンフレットで、翻訳家の中沢俊介が指定するように、1950年代の初登場から、ジョーカーの過去は一貫して不明瞭であり、時宜に合わせた作り込みであり、フェイク感の強い/出自の明確化に悩まされる人物設定として示されてきたことも影響していると思われる)。
(中略)現代において正義/悪の区別はあるレベルでは相対的なもので、あなた(読者)がどの共同体に所属するかという問題でしかない。問題になるのは正義/悪といった「物語」への態度、進入角度と距離感の問題だけだ。
こうして考えたとき、ジョーカーはバットマンが半ば陥った正義/悪の自己目的化を究極まで徹底した存在として位置づけられる。
ジョーカーは完全に暴力の行使そのものが目的化した愉快犯であり、金銭や権力の奪取、システムの破壊などは考えもしない。バットマンのように中途半端に正義の行使の結果を望んだりはしない。
あくまで悪の行使そのものを自己目的化しているのだ。
(中略)現代社会(中略)における究極の正義/悪、超越的な存在とは、徹底的に自己目的化された存在である。究極の悪は、システム(たとえば日常/生活世界)の外側(そんなものは原理的に存在しない。<外部>に立っていると錯覚している状態は単に自分の島宇宙から他の宇宙を眺めている状態にすぎない)ではなく、むしろ内部に存在する。
(中略)対して、既に滅び去った古き良きアメリカの正義を無垢なまでに信じ、裏切られることでシニシズムに埋没し、恋人を殺された精神的外傷=物語に完全に駆動されて復讐を続けるトゥーフェイスは、ジョーカーとは対極に位置する
(中略)ジョーカーの設計通りに殺人鬼に堕落するトゥーフェイスがもっとも「弱い」。
(引用終わり、リトル・ピープルの時代:補論)

このように、現代における「無敵の人」が前作「ジョーカー」を観たときに、どれだけその存在に肉薄しうるのか、が個人的な興味であり、作品としての強度だと感じていた。
では、等身大の「弱者」の体現であり、Incelな大衆の賛美(妄執)を受けたアーサー/ジョーカーは、どのようにその決着をつけるのか。
それは弱者としての自分の認識と、演出された自我=ジョーカーへの熱狂的な賛美を湛えるリー/ハーレイ・クインとの関係性を通じて描かれる。
リーは言う。ジョーカーこそが、本当の、アーサーの姿なのだと。
そして身も心もアーサーへ捧げ、あまつさえアーサーの子供さえ身籠る。
そして自由を得る為に、共に戦い抜くことと誓う。
ジョーカーとしての、アーサーを信じて。
しかし、法廷での弁護人解雇を契機に、法廷でのジョーカーの演出と、その報いとしての精神病棟監獄での激しい折檻により、アーサーはジョーカーの仮構について疲弊する。
※ここでアーサーへの擁護を叫ぶ若者が、同様に激しい折檻により夭折する。しかし具体的な描写が描かれないが、のちの伏線になっていく。
そして彼は法廷で言う。ジョーカーは居ない。居るのはただのアーサーだけだ。
法廷への爆撃で有罪判決による拘留を逃れ、なんとかリーと再会したアーサーは、彼女を誘う。自由な世界へ行こう。もう裁判は終わった。我々は自由だ。
しかし、リーは拒否する。道化の化粧をして、完全なジョーカーのフォロワーとして顕現した彼女には、法廷での「ジョーカー否定」発言は到底容認出来なかった。
アーサーは、一度諦めた。裁判で勝つために、ジョーカーを仮構すること、そして自分が信仰して止まないジョーカーの存在を。
「ジョーカーを持たない」アーサーに、もう手を貸すことは、関係をもつことは出来ない。
そしてアーサーは、泣き崩れながら、再び警察に拘留される。
ここに、トッド監督による現実的な状況に対する倫理的な表明とともに、「神」の演出を求めてやまない我々民衆の弱さ=いわゆる有名人に対する炎上(祭り)状態の直截的な表現を見て取れるだろう。
ちなみに、ラストシーンで、アーサーは、アーサーを擁護する若者から、ギャグセンスの確認を装った刺殺行為を受けて死亡する。
この死亡描写は、アーサー自身の本当の死であるのか、または前後して描かれる、妄想世界での、ミュージカル世界のリーによるジョーカーへの発砲描写に対比されたものなのか、
はたまた全てがアーサーの妄想であるのかは明らかではない
(前述の通り、法廷後の、看守たちの折檻により、彼は死んでいるからだ)。
ここから、ジョーカーの意思を継ぐ者が、アーサー自身であるのか、リーの子供であるのか、あるいはこの刺殺した若者であるのか、余韻を残す構造となっている。

ともあれ、この結末は、「ダークナイト」と比較することで一層鮮明になるだろう。
それは、宇野常寛が述べるように、ダークナイトにおけるバットマンの最終的な解決策=
倫理的/卓越主義的な自己犠牲という痛ましい「現代の最適解」に与えられた、
傷だらけの称号を取るのか。
本作のダークヒーロ―のように、平凡な貧民の悪の所業としての必然的な崩壊という帰結であるのか。
倫理的な意思の行使の徹底は、現代においては殆ど生命に対する脅威に肉薄するという、
悲壮感しかない現状認識を確認する行為となりうるからだ。
参考文献
宇野常寛「リトルピープルの時代」幻冬舎
宇野常寛「ゼロ年代の想像力」ハヤカワ文庫
PLANETS 2009Vol6 第二次惑星開発委員会 記事「ダークナイト解体」
Worner brothers 「JOKER FOLIE A DEUX 」映画パンフレット