ふれる。        ~超平和バスターズの新境地~

Contents
<超平和バスターズの現在点>
・内容紹介
<論点>我々は如何に事物にふれ、如何に世界を認識するか?
・本作のテーマ、コミュニケーション
・フィルターバブル効果
・Somewhereな人々とAnywhereな人々の分断
・SNS/ネットワークのもう一つの負の側面:
双方向の無制限の意思疎通による暴力の連鎖
・虚構を内包した現実での成熟 
・システムは電気羊の夢を見るか?
<総括>
・留意点

2024/10/04(金)、公開初日に映画「ふれる。」を観てきた。
その作品としての達成と、射程距離を考えてみたい。

<超平和バスターズの現在点>

https://www.youtube.com/embed/t-JEvGpBR1Y


本題に入る前に、「超平和バスターズ」の現在点を整理したいと思う。

「超平和バスターズ」=監督:長井龍雪、脚本:岡田麿里、総作画監督:田中将賀は、「とらドラ!」を経て、
「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」で大ブレイクを果たした、アニメーション業界で著名なクリエイターユニットだ。
※詳しくは過去記事 参照

彼らの強みは、なんと言っても、
綿密な取材と情景表現にもとづいた静的な環境(秩父地方等)を軸に、
1980年代以降の少女漫画を参照点に(主に大島弓子や岩舘真理子などを参照点に)、
繊細かつ徹底的に緻密な感情表現、
「思春期の美しい終わり」に炸裂する観念が、動的に交錯する、群像劇だ。

対照的に、彼らの弱みは、その静的な環境でなければ、
動的な感情表現を描き切れない点であり、
さらに大きな物語(「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」などの惑星間戦争)に発展した途端に、大きな物語の輪郭がぼやけてしまう、
つまるところ「世界」のスケールに圧倒されてしまい、
「政治」を描けない、大状況を描けない点にあると思う。

それらは概ね岡田麿里の作品群にも踏襲される課題でもある。

静的な母性/少女/世界/虚構が動的な(幼稚な)父性/自意識/マチズモを無意識的に見守ってしまう構造を、如何にして更新し得るのか。
如何に新世代の認識に寄り添った世界観の中での人間の現在点を描けるのか。
それが現時点での課題だと思う。

今回の舞台は、都心(高田馬場)という動的な環境での、
成人後の、男性3人を主軸とした
これまでに無い野心的な設定で、人に、世界に、「ふれる」ことに迫った作品だ。

結論から言えば、本作「ふれる。」では、この課題に対するイメージが、確かな決意を以て、描かれていた。

ただし、それはこれまでの問題意識についての「前提条件」に並んだ、という表現にとどまるだろう。
また、その文芸的な観点とは別に、エンタメとして観たときに、これまでの魅力が大きく削がれていたのが残念だったのも確かだ。

鑑賞するためのカギは、超常的な生物の「ふれる」の視点から、物語を俯瞰することにあると思う。


※以下、ネタバレを含みます

・内容紹介

https://www.youtube.com/embed/sJ-2X3rHtX


内容の説明にあたり、簡単にストーリーを紹介したい。
同じ島で育った幼馴染、秋と諒と優太。
東京・高田馬場で共同生活を始めた3人は20歳になった現在でも親友同士。
それは島から連れてきた不思議な生き物「ふれる」がもつ、
テレパシーにも似た力で趣味も性格も違う彼らを結びつけたからだ。
お互いの身体に触れあえば心の声が聞こえてくる——
それは誰にも知られていない3人だけの秘密。
しかし、ある事件がきっかけとなり、秋、諒、優太は、
「ふれる」の力を通じて伝えたはずの心の声が聴こえないことに気づく。
「ふれる」に隠されたもう一つの力が徐々に明らかになるにつれ、3人の友情は大きく揺れ動いていく――

<論点>我々は如何に事物にふれ、如何に世界を認識するか?

・本作のテーマはシンプルに、コミュニケーションだ。
ものにふれるとは、人にふれるとは、何か。
現代社会での適切なコミュニケーションのあり方はどうありうるか。

コミュニケーションは、そもそも社会生活を営む
人間間で行われる知覚や感情、思考の伝達だ。
特に、他者に対して自分の心の状態を伝えて働きかけるだけでなく、
他者から受け取った情報により相手の心を読み取ったり、
共感することが重要となる。

本作の主役は成人後の男性3人、その中でもコミュニケーション弱者の秋だ。
秋は自身のコミュニケーション能力の低さと、家庭環境の不和から、
言葉ではなく身体(暴力)でコミュニケーションをとりがちな人間だ。
秋は、島嶼の洞穴で見つけた、伝承の生物「ふれる」を見つけることで、
(擬似的に)諒と優太との人間関係の構築が可能になり、それによる、
世界の広がりを見せる。

もちろん、この秋の世界は「ふれる」の能力によるノイズキャンセルされた意思疎通により構築された世界であり、全くの虚構だ。
秋にとっての「ふれる」は、完全にライナスの毛布(PEANUTS)であり、
未成熟の象徴であり、この毛布を「いつ」「どのように」手放すのか、
あるいは関係性を変化させるのかが、本作の本質的なテーマだ。


それは現代における「ライナスの毛布」は、完全な依り代(静的な存在)なのか、
ポケモンGOにおけるピカチュウのように、現実を豊かに拡張する存在なのか、
その認識を我々に問いかけることでもある。

この島嶼生活/未成年/日常系/虚構から、都会生活/成年/現実へと移行することで、
物語は明確に現実世界に展開していくように見える。だが、まだ虚構は温存される。

秋、諒、優太の3人の男性の同居生活というホモソーシャルな関係性描写が、
「ふれる」の存在と、路地奥の賃貸古長屋での生活により「虚構」としての側面を強調させられる。
このように「日常系」(=虚構)の世界構造になっていることを自覚したうえで、
それらを魅力的なユートピアとして描く力量の高さには脱帽させられる。

物語が進展を見せるのは、彼ら「男性同士の幼馴染」に、「女性同士の幼馴染」が介入する段階である。
それは、ひったくり犯(ストーカー)の被害者である奈南を、秋が助けることを契機とするのだが、
その親友樹里と奈南との共同生活を踏まえた男女の対比が非常に興味深い。

男性同志の友情は、
「ふれる」/虚構なしに描きえない構造であることが示唆される一方で、
女性同志の友情(半分は、樹里による奈南に対する庇護欲)は、
「ふれる」/虚構なしに成立するものとして対照化される。
「他人の感情全てがわかる」幻想に対する気持ち悪さを吐露する女性側の成熟と、
その虚構を未だに温存する男性側の幼さが強調されるのだ。

それは、女性優位の心理的把握力に対して、
「ふれる」に依存しきった男性3人の他者への想像力の鈍感さの発露として、
物語を大きく展開させる。
男性3人による、優太と奈南へのサプライズ、そして優太の勘違いと、
奈南の秋への想いの発露として、
「ふれる」の能力への疑問と、コミュニケーションの核心、
男性3人の関係性の本質に迫っていくことになる。

「ふれる」はその役割上、インターネットの、
それもSNSを象徴するような存在だ。
表面的にはヤマアラシ(のジレンマ)のように、意思疎通の未熟段階を示唆し、
なおかつテレパシーを可能にする便利な道具のように描かれながら、
その実はコミュニケーションのノイズ(悪意)を意図的に除去する超常的な生物として表される。

今、私たちの主要なコミュニケーションは、間違いなくインターネット、
それもSNSを中心とした手段と、
対面的なコミュニケーションを組み合わせた方法で成り立っている。
つまり対面関係を含めて、
インターネットやSNSを中心とした情報活用に対する理解や、
情報との距離感がどの程度適切にとれるか、が重要であり、
これはある意味で現代社会の成熟の定義に近い。

・フィルターバブル効果

インターネット、それもSNSでのコミュニケーションで、最大の課題は、
その双方向性と無制限性による暴力の連鎖とともに、フィルターバブル効果である。

フィルターバブル効果とは、インターネット上でユーザーの興味や好みに基づいて
情報がフィルタリングされ、異なる意見や視点にふれる機会が減少することだ。
特に近年のSNSでは、ユーザーの検索履歴や個人情報などの膨大な情報から、
ユーザーの好みを学習するアルゴリズムを用いるとともに、
ユーザーが好まない情報を表示しない方式をとっている。
まさしく、映画ふれる。における、「ふれる」は、
その胎内から放出する糸のイメージも相俟って、
ネットワーク社会、特にSNS/虚構/母胎を体現する存在として描かれる。

このSNS/虚構/母胎に対してどのようにケリをつけるかは、
超平和バスターズが繰り返し主題としてきたものであり、
それはこれまで、思春期における虚構の喪失と断念という形で、
「思春期の終わり」(成熟)として提示されてきた。
その点で本作では、成人後も虚構を抱えた人間にとっての、虚構/現実に対する進入角度が問われた内容となっている。

ただ、それまでの作品でそれは、
人間/少女/母性を通した虚構の喪失として描かれたものが、
本作では人格を廃した動物的、超常的なものであるために、
そこに指向性の介在しえない、システムとして描かれており、
最終的には秋自身が、虚構との関係の清算をしなければいけないことが
示唆されているだろう。
だから、秋がSNS/虚構/母胎では無く、自らの力で現実に、
世界に「ふれる」ことが望まれる。

・Somewhereな人々とAnywhereな人々の分断

一方で、世界に「ふれる」、という観点でいえば、
以下のような課題があると言える。
それは、インターネット以降の社会における、個人と共同体の分断による、
自意識の不安定化だ。
その結果として、アメリカの前トランプ大統領の現象や、イギリスのブレグジット、コロナ禍におけるコロナワクチン情報の氾濫などがある。

例えば、イギリス人のデイヴィッド・グッドハートは、
「境界の無い世界」を生きる人々
(国境を越えて活躍するグローバルな情報産業のプレイヤー)を
「Anywhere」な人々とし、
20世紀的な古い「境界のある世界」に取り残されている、
精神的にも経済的にも国民国家の枠組みを必要とする人々を
「Somewhere」な人々とした。

Anywhereな人々は、トランプの嘘を暴けば古いSomewhereな人々が自分たちの側につくと考えがちだが、問題の本質は、Somewhereな人々が、
嘘を承知の上で、彼らのアジテーションを「信じたい」のだ。
フィルターバブルに安住するのは、それが心地良いからで、
彼らの欲望を満たすからだ。

Anywhere な人々とSomewhereな人々を隔てるものは、
世界に素手で「ふれて」いるという感覚だ。
世界に素手でふれるとは、自分たちの仕事が市場を通じて世界を変える可能性/幻想を信じていることだ。
一方でSomewhereな人々がグローバルな市場を通じて
世界に素手で触れることは難しい。
だから1票を投じてローカルな政治を変えられると信じることが、
市場ではなく国家が世界の頂点だった古い世界が
終わりを告げていないと信じることが出来る。
(参照:「遅いインターネット」宇野常寛、PLANETS)

であればその対応方法は、現代における適切な現実との接触方法とは、
世界に「ふれる」とは、
指向性を持たないネットワーク/虚構を清算し、背を向けることではない。
それは旧時代に戻ることであり、ある意味で虚構に居直ることである。
※もはやネットワークのない現実はありえない


そうでは無くて、ネットワーク/虚構を現実世界に包摂しつつ、それを適切に制御し活用することが求められるのだ。

物語は、「ふれる」の能力の全面的な発見とともに、
その胎内における秋、諒、優太の全面的な衝突により、3人の関係性の本質に迫る。

ちなみに、この「ふれる」の胎内の描写が秀逸だ。
鳥居に縛られる空中浮遊から、内臓からの脱出、空中の滑走劇まで、
Cloverworksの力量がいかんなく発揮されていると言える。
(願わくば折角のClovewoksのスタジオの力量を活かして、もう少しアクションパートがあっても良かったが、、、)

そして、3人の原風景が島嶼の浜辺にあることが提示される。
ここでようやく、秋が具体的な心情を吐露し、諒と優太がそれを受け入れることで、3人の和解が成立する。
ここでのポイントは、諒と優太は、「ふれる」への感謝と離別を示すことで、
その糸(ネットワーク)を断ち切るのだが、
秋は糸を断ち切らず、「ふれる」との共生を願う。

ここまでで、諒と優太の行動を鑑みれば、「ふれる」との離別こそが「成熟」であるようにミスリードされる。
※そもそも諒も優太も「ふれる」との接触以前からの友人であり、秋とは異なり普通にコミュニケーションが取れている人間であったため、
「ふれる」は不要な存在であった。

だが、先述した通り、ネットワーク/虚構の可能性を包摂しつつ、それを適切に制御することが重要なのであれば、「ふれる」を受け入れる態度こそが重要となる。

一方で、物語の「大衆的」な筋道としては本来、3人全員で「ふれる」を送り出す場面とべきところ、秋が中途半場に滞留を願ってしまうために、一部観客からは、消化不良に映ってしまうだろう。

・SNS/ネットワークのもう一つの負の側面:
双方向の無制限の意思疎通による暴力の連鎖

だが、その後の「ふれる」の暴走は、その理解を完全に転換させる。
その体内から放出した糸(ネットワーク)は町中を覆い尽くし、フィルターバブル効果を取り除いた、剥き出しの自意識が人々を襲う。

この現代技術の、過剰なコミュニケーションによる絶望的な畏れや敬いこそ、
ネットワークの両義性であり、
現代のコミュニケーションのリアリティに肉薄するものだ。
(個人的には、「機動戦士Zガンダム」(劇場版ではなく、Tv版)の、
終盤のサイコパス戦争を彷彿とさせる。
過剰に感情を共有することが、徹底的な断絶を産み出す逆説的な構図が、ここでは1980年代の時点で先駆的に示されている)。

この象徴に対しての主人公のアプローチが、素晴らしい。
ネットワーク/システムという完全な「他者」を、否定せず、
感謝を示すとともに受け入れる。
その暴走と発散を終えた「ふれる」は、
かつての体毛である針の山を仕舞い込み、小さくなる。
そして、1人と1匹/システムは、再び共生することを選ぶ。
ただし、依存では無く、感謝を基底とした関係性に変化しているのがポイントだ。

このように畏れと敬いを保持しながら「ネットワーク社会」そのものと生きていく指針は、極めて現代的であり、現代人そのものだ。

・虚構を内包した現実での成熟 

繰り返すが、本作はこれまでの「秩父三部作」とは、舞台や性別以上に、
現世界の捉え方、特に虚構に対する態度が大きな異なる。

系譜的には、これまで思春期という瞬間的なもの/少年少女/、
あるいはそれらの妄想により、虚構(思春期)の後としての現実(思春期の終わり)を
描く構造が定着していた。
(少女の幽霊、タマゴ王子、ギター幽霊としての少年等。
 それぞれ「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」、
 「心が叫びたがってるんだ」、「空の青さを知る人よ」より)

が、その虚構を動物的/超常的なものにすることで、
性的役割の疎外と、他者性の獲得を打ち出したとも言える。
現代における、いや、「動的」な世界における、成人後の「成熟」のドライバーは、性的関係では無く、
この作品においては、ネットワーク/システムである。

思春期後の成熟像をどう描くかは、「超平和バスターズ」の大きな主題の一つだ。
群像劇化による人間関係のヘテロソーシャル(異性愛)の発展による、
「対幻想」に閉じることなく、
ホモソーシャルによる出口のない擬似家族でもない。
人間関係の共依存からの脱却は、成熟は、本作において
ネットワーク自体を擬態化し最終的に感謝と情念を投射する可能性として捉えていくこととして示される。
「対幻想」について参照

つまり「超平和バスターズ」にとって、
世界に「ふれる」手段が、世界を描く手段が、
虚構(/性的回路)から、
システム/拡張現実(ネットワーク)に明確に変わったことを意味する。

動的な環境(高田馬場)における、動的な観念の炸裂と超克。
それはネットワーク/拡張現実という回路を用いて成し遂げた、
「超平和バスターズ」の進化であり、新境地だと思う。

・システムは電気羊の夢を見るか?

クライマックスで秋が、「ふれる」に向かって叫ぶ。
お前と出会えて、幸せだったんだ、と。
それまで歴代の人間達の悪意を吸収し、封印されてきた「ふれる」は、初めて感情表現を(涙を)見せる。
この「涙」はシステム/ネットワーク/虚構自身の流す涙か?
動物としての感情表現か?


その答えは、後者になるのだろう。

そもそも虚構の成り立ちから考えると、人間の願望や幻想の結晶が基点だ。
そして、こうあってほしい、こうなりたい、という自我の塊が集団で同じ方向性で共有された時に、その虚構は共有される(共同幻想)。

おそらく、「ふれる」は元々、何の能力も持たない、ただの動物だったのだろう。
それが、島嶼の人間たちの困難と苦渋の叫びを吸収し、彼らに勝手に超常的な存在として、「神」として崇められ、その利益をしっかりと享受しつつ、その負の側面により、勝手に封印されてしまっている。

そう、「ふれる」こそ、本作品の最大の孤独の体現者なのだ。
そして、孤独/神/システム/ネットワークの暴走を受け止めるのは、
やはり人間でしかないのであり、
人間の「孤独」の体現者である秋でしかありえないのだ。

そして秋の、感謝と共感の希望を受け入れ、涙した「ふれる」は、本来の動物の姿に戻っていく。そこにはかつての能力も、トゲトゲしさも無い、ただ人間と並び立つ「他者」としての「ふれる」がある。

秋は、その能力と役割を終えたライナスの毛布を、孤独の理解者を携えて、
前に進むことができる。
それは来るべき、諒と優太との別れも、新しい生活も、かつて共に乗り越えられた
「ふれる」が、それから先も共に居るからに他ならない。

<総括>


纏めよう。
本作は、ネットワーク社会の基点を動物/超常性にカリカチュアライズすることで、
対幻想に陥らない自己幻想の構築の模索が新しい。
最終的にネットワーク/社会の畏れ/哀しみを全て受け入れて共生し、自立する構成に仕上げる手腕が素晴らしい。
これは超平和バスターズの新境地だ。

・留意点
半面、前半のテンポのよい脚本に対して後半の、
特に優太のエピソードの下りが冗長。
アンチクライマックスの作家、岡田麿里として、
「ふれる」体内/胎内での和解と離別、そして、
主人公の秋の、煮え切らない方向性は(岡田麿里的には)古典的で、
且つ物語構成的に斬新だが、逆に演出構成的には足枷になってしまう点がやや残念。

・参考文献
「遅いインターネット」宇野常寛 PLANETS
「母性のディストピア」宇野常寛 ハヤカワ文庫
「The road to somewhere :The new tribes Shaping British Politics」
David goodhart、Penguin
「共同幻想論」吉本隆明 
「アニメーションの脚本術」野崎透、BNN
「現代アニメ「超」講義」石岡良治、PLANETS
「ふれる。」映画パンフレット 各種インタビュー記事より 東宝、Aniplex
「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」長井龍雪監督他、A-1pictures
「心が叫びたがってるんだ」長井龍雪監督他、A-1pictures
「空の青さを知る人よ」長井龍雪監督他、Cloverworks
「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」長井龍雪監督他、サンライズ
「『あの花』『ここさけ』『空青』制作陣が贈る新作映画『ふれる。』、長井龍雪監督にキーキャラクター「ふれる」に込めたこだわりを聞いてみる。不思議なマスコットも、実は制作初期では“お兄さん”のような人物だった…!?」
『ふれる。』長井龍雪監督インタビュー:「ふれる」に込めたこだわりとは? (denfaminicogamer.jp)
「映画ふれる」ひとシネマ 写真一覧 
https://hitocinema.mainichi.jp/films-info/fureru/photo/1

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