さよならの朝に約束の花をかざろう        ~静的な母性と動的な思春期の先へ~

2024/10/4に、岡田麿里の脚本最新作の映画「ふれる」が公開される。
これに先立ちこの半年間、岡田麿里作品とP.A.WORKS作品を中心にその過程と変化を追いかけてきた。
本作「さよならの朝に約束の花をかざろう」は、脚本家:岡田麿里による初「監督」作品だ。
そのビジュアルとタイトルで敬遠気味だったのだけど、今回見終えた感想としては、ただひたすらに、その洗練さに、圧倒された。
岡田麿里が追求してきた「少女の思春期の終わり」とその刹那の輝きが、凄まじく清冽に表れていて、茫然とした。
劇映画という、完全な虚構における魅力的な世界観の構築と、「不死の身体」と「有限性(人間)」が交わる緊張感が生む、逆説的なリアリティ。
一方でその少女性を母性と接続し、あるいは忌避することで発生する「悍(おぞ)ましさ」について考えさせられた作品でもあった。

・製作背景


以下にまず製作背景と制作陣を整理したい。
監督・脚本は岡田磨里。脚本家として「True tears」「とらドラ!」などの原作もの、「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」「心が叫びたがってるんだ」などの 少年少女の思春期における葛藤と衝突を、圧倒的に繊細な描写と倫理的な造詣により表現してきた。
キャラクター原案は吉田明彦。個人的には「ファイナルファンタジータクティクス」に代表される、目鼻立ちの柔らかなファンタジー色の強いデザイナーという認識であり、 今回の「イォルフ」(エルフ)と中世的な世界観の幻想的な雰囲気の骨子になっていると感じる。
キャラクターデザインは石井百合子。
岡田磨里の最新作でもキャラクターデザインを担当する、関口可奈味に従事した、P.A.WORKSの系列の方だ。
「河童のクゥと夏休み」「クロムクロ」が有名。

音楽は川井憲次。静謐な旋律を主軸に、ピアノスケッチ調の静観さ、動的な場面展開におけるクラシカルな重奏が特徴で、 押井守監督作品(パトレイバー、攻殻機動隊、スカイ・クロラ等)を始め、NHKなどTVドラマなどの音楽担当を多数務める大御所。
また、演出の一部に長井龍雪、作画監督補佐に田中将賀(岡田磨里と3人でユニット「超平和バスターズ」を結成)が参画しており、 岡田麿里の処女作を支えたものと考えられる。

・岡田麿里により意図された世界観と認識


本作を俯瞰するために、簡単にあらすじを記す。
10代半ばの若い姿のまま数百年を生きる不老長寿の一族「イオルフ」は、人里離れた土地で「ヒビオル」とよばれる布を織って静かに暮らしていた。
しかし長寿の血を王家に引き入れることで王家の神秘性を高めようとするメザーテ国王の命により、 軍人イゾルの率いるメザーテ軍が翼をもつ古の巨獣「レナト」に乗って襲来し、 イオルフの里は侵略される。
その最中、イオルフの少女・マキアは、暴走したレナトによって偶然にも遠くの森へと運ばれ助かる。
一方、マキアの親友だったレイリアはイゾルに捕らえられ、メザーテの城に連行されてしまう。
仲間も故郷も失い森をさまようマキアは、盗賊に襲われて全滅した流れ者の集落で生き残っていた赤ん坊を見つけ、育てることを決意する。
マキアは人里に出て、農場の女主人・ミドの世話になりながら、エリアルと名付けた赤ん坊の男の子を育てていくが、、、

・有限性(現実)と無限性(虚構)との衝突で結実する思春期

本作の主旨を端的に述べるなら、人間の有限性と、無限性(イオルフやレナトなどの虚構)との衝突による崩壊の過程において、有限でも無限でもある存在(少女/思春期/マキア)はどのような機能を果たすのか、だ。

時間軸とともに変化する肉体(人間、成熟と老い、死)が、永久的な存在(イオルフ)と交わることで生じる時間的矛盾や存在の悍ましさ、そこで果たしうる倫理的な態度や責任のある言動がそれぞれのイオルフを通して描かれる。
物語の当初は女長老のイオルフから、
有限性(実娘)への諦念を示すレイリア、
あくまで感受性や共有的な記憶の保存に固執するクリム、
そして主人公であり様々な場所と人間の生を死を支えては立ち止まり、逡巡するマキアを通して描かれる。

本作において、イオルフは通信手段を持たず、あくまでイオルフの紡ぐ「ヒビオル」が言語の代替として示される。
永遠を象徴するイオルフの存在とヒビオル、そして別れのシーンに必ず挿入されるヒビオルの描写と様々な「(夜明け前に咲く)花」。
(ちなみに「夜明け前に咲く花」は朝顔であり、その花言葉は「約束」。ラストシーンで飛び交う蒲公英の花言葉は「真心の愛」だ)。

これらが意味するものは何か。
それは別れの一族であるイオルフ自身は、人間との交流という経験を「忘れ」るが、「花」という有限的存在、そしてヒビオルという「(半)無限的存在」を通して、 イオルフの「約束」として、存在証明として、人間の記憶に残り続けてほしい(「忘れない」で欲しい)というものだと考えれられる。
これは冒頭のイオルフの女長老の台詞「誰も愛してはいけない 本当の一人になってしまう」と矛盾する解釈だが、実態として、人間の側から観てもそのように理解できるだろう。
換言すれば、岡田麿里にとって、思春期とは、肉体(花)的には有限であり、儚さゆえに美しく衝動的でありつつも、心理的(ヒビオル)的には無限であるゆえに、 その相克を受け入れて、倫理的に生きていくことが残酷でありながら強く逞しいという態度だ。
それが彼女の示す「成熟観」でもあると思う。

・日常系に接続されたセカイで展開される成熟、母性を拒否すること

本作のもう一つのテーマに「母性」があることに異論はないだろう。
イオルフの里という、「日常系」(終末のない箱庭世界/虚構)に、日常の外部への強制移動が示唆される(現実)中で、マキアは、孤児の赤子を引き取る。
このように、自己憐憫と自我の保存という無意識の衝動的な行動をとるが、マキアという少女は、作中で孤児のエリアルの母親を自認することを只管に戸惑う。
これは、妊娠し出産しながらもわが子と面会すら許されなかったレイリアとメドメルの描写を踏まえると非常に対照的だ。


レイリアは元々イオルフのクリムと両想いの関係にあったが、里の襲撃に続き、メザーテ王国の策略で強制懐妊させられたにも関わらず、その出産責任を負おうとする。
そして、出産後、イオルフの血を受け継げなかったメドメルとの面会を懇願し続けるが適わず、半狂乱的になっていく。
一方のマキアは、孤児のエリアルに対して、育児的責任や道義的責任を果たしていくが、それを母性と混同することに躊躇し続ける。
エリアルとディタの出産に際して、その出産支援を通して、「母性」なるものを得心するに至るが、あくまで産前産後の助成であり、「母性」そのものでもない。 (ちなみに出産時と王国崩壊のシーンのオーバーラップは、完全に受精卵のイメージだ)。

ここには孤児とその死別した母親に対する罪悪感も影響するが、何より、自身のもつ「母親」像に納得感が無かったからではないか。
その証拠に、マキアは、ミドの家でエリアルを育てる決意をしたあと、髪を金から茶色に染め直し、その少女性からの卒業を試みるし、 その後も労働や、移住に伴う差別からの生活の防衛を通して、徹底的にエリアル(自分自身の投影)を守ろうとするが、あくまで自分自身を守ることの延長であり、 その言動に母性を見出している訳ではない。

ここに、単純な「母性」化を拒否しながら、異なる「成熟」を模索する岡田麿里の姿勢が読み取れる。

そもそも本作にはまともな「父性」が出てこない。
イオルフの里は「女」長老であるし、農家ミドは未亡人だ。
ラングの告白は「母性」を理由に失敗し、
クリルのレイリアへの妄執も失敗する。
メザーテ王国の王も、王子も、大臣も非人間的で利己的で虚構に縋りつくどうしようもない存在として描かれる。
エリアルとディタは出産を通して父母になるが、その具体的な父性や母性が描かれることはない。そもそもディタの想いあってのエリアルとの関係性であることすら仄めかされる(幼少期からエリアルを想いつづけていたのは、ディタの方であり、出産間近ですら、マキアへの嫉妬と羨望を抱いている)。
エリアルはマキアの庇護と補助を受けて「父」に成るが、それは国家の敗戦を通したものであり、やはり自己実現(国家の成立/マチズモの維持)の否定を通過してのもの、
マキアを手懐けたもの=マキアの庇護下でのみ可能という解釈になりうる。

つまりマキアという、巨大な無意識の、「母性を拒否する母性」の庇護下でしか、「父」が成立しない世界観が描かれる。

その意味では、この世界観は完全にマチズモが零落した、男性性が消失することによる「無意識の母性の完成」の世界として提示されているように思う。

・「母」を殺すもう一つの方法と、その射程距離

ここで考えたいのは、なぜマキアを通して交流関係が示される対象はほとんど全て「男性」(異性)だったのか、ということだ。
一定の閉鎖的な社会空間においては、三宅香帆が指摘するように、母性の再生産は、女性の閉塞感と「母殺し」の回路に繋がりかねない。
だからこそ漫画家の萩尾望都や山岸涼子といった24年組は、少年愛を通してその閉塞性を打破する試みを続けたのだし、 ホモソーシャルな二次創作的読み替えの経由により直接的な批判力を獲得しているよしながふみ的なものも、そうしたものからの脱却を図ってきた。

マキアは、エリアルを拾わず、ヒビオルを織り出す環境を自ら整備して、自律的に生きていくこともできたはずだ。
あるいは異なるイオルフの生き残りや、レイリア奪還を通じた、ヘテロソーシャルな関係性による未来を紡ぐこともできたはずだ。
おそらくここが、とくに男女の群像劇を描くことに秀で、そのためにヘテロソーシャルな空間を描く技術も言葉も(少なくとも「とらドラ!」における櫛枝と川嶋を最後に) 残念ながら乏しい環境におかれてきた岡田麿里の臨界点なのだと思う。

そして、この少年少女の繊細な感情理解と衝動性の緻密な理解が、母性へと接近することで(無自覚的に)発生してしまった空間にこそ、悍ましさを感じた理由がある。

・母性の暖かさと悍ましさ

繰り返すがマキアは母性を拒否し続けながらも、実質的に母親として振る舞い続けたキャラクターとして描かれる。
それは人間の幼少期から青年期にかけてのエリアル、農家ミドの長男ラングが、彼女を経由することで彼女に惹かれていくことに示される。
唯一、流浪の男性イオルフのバロウのみ、マキアと対等な関係として描かれるが、人間男性は皆、イオルフ(の思春期に発現する無限性)に惹かれていく。
レイリアも、幽閉されながらも、実質的に襲撃者本人のイゾルに仄かな庇護欲を与えている。
(イゾルは、レイリアの元恋人のクリムが、その奪還で襲来した際に、致命傷を与えている)。

これは冒頭に女長老が「誰も愛してはいけない 本当の一人になってしまう」と諭していた点と反する、無視できない観点である。
※作中ラストでは、バロウがポジティブな方向にまとめている(「(長老の訓話を引いて、讃えて)お前が、哀しいだけじゃない、別れを見つけたってな」)が、
これは「別れ」と「愛」の喪失に関する言及であり、母性の文脈には当たらない。

つまりイオルフは、無限の少女性/母性/虚構を湛えた存在は、関係した人間を、世界を、母性で覆ってしまう可能性を秘めた存在であり、 その無自覚さと、有限の人間/男性/現実を、ゆっくりと壊死させる存在であるのだ。

ここで私は、宇野常寛が論じた「母性のディストピア」における、戦後社会を覆う停滞感と母性の役割を考えないわけにはいかない。


「母性のディストピア」で論じられた2つの母性とは、概ね以下に分類される。

A(戦後民主主義批判/自民党/江藤淳)=安岡章太郎「海辺の光景」/運命論に支配された前近代への回帰を目論む「母」=宇宙戦艦ヤマト/オウム真理教 ]

B(〃反批判/社会党/村上春樹)=小島信夫「抱擁家族」/過剰に現実に適応し、守旧的な「父」を恥じる「母」=うる星やつら/歴史や政治的経済的条件を忘却する大衆の原像/平成ポピュリズムの温床

さしあたり、ここでの分類において、マキアは、「B」でありつつも、「恥じる父」も無く、母性も拒否する、B’のタイプであると仮定しよう。

そして、2000年代における上記の分類「A」に代表される作品「崖の上のポニョ」を、次の参照点としたいと思う。

・無意識と内省の外部へ

以下は、「母性のディストピア」における、宮崎駿と「母性のユートピア」からの抜粋、意訳である。

~Quote「崖の上のポニョ」の監督である宮崎駿は、「風」というモチーフを多用するにも関わらず、時代を支配する重力、資本主義や情報社会に抗って飛ぼうと考えて、挫折し、「ねじれ」を抱え、 矮小な父性と肥大化した母性の結託の中に沈んでしまったと考えられる。
それは母性とその胎内のみで擬似的に回復される男性性との結託で示される「崖の上のポニョ」を通じて完成される。
「崖の上のポニョ」におけるポニョの母=グランマンマーレの庇護下にある(胎内にある)世界は、津波に飲み込まれた町で活躍する老人ホームの利用者や、大正服の夫婦の登場など、 事実上「死後の世界」として描かれる。
主人公の宗介とポニョの「冒険」は産道のような暗いトンネルを抜けて終結を迎えるが、彼らの運命はその母親同士の話し合いで決定される。
これらの強烈な母胎回帰を中心に据えた死と再生の物語世界で、父性は(宗介、あるいは彼らの父親)、介在する余地がない、「ごっこ遊び」として与えられる存在に後退する。Unquote~

この理解を踏まえると、典型的に「A」に分類される「崖の上のポニョ」におけるグランマンマーレに対比して、「さよならの朝に約束の花をかざろう」のマキアは、前述のB’のタイプとして、幾分か内省的であり、岡田麿里ならではの倫理的な存在である。

しかしこれらは倫理観の強度の問題である。

根本的には母権的なディストピアでもなく、家父長的な前時代の亡霊でもない、新しい世界観に基づく、虚構(思春期)と、現実(世界)が必要とされるのではないか。

・今、成熟を考えることの意義

再び「母性のディストピア」から、その結言を引用したい。

~Quote(旧来的な思想)(国家)が共同幻想/物語的な存在であるのに対し、市場は非物語的な存在/ゲーム的な存在だ。
物語は虚構によって個人の生を価値づけるのに対し、ゲームはプレイヤーの関与とその結果という現実によって価値づける。

A’:語り手と読み手の環形が固定的/媒体は閉鎖的/一方向的/マクルーハン的な意味で「ホット」な物語/対幻想/共同幻想/虚構/オールドタイプ/地域コミュニティ

B’:デザイナーとプレイヤーの関係が入れ替え可能/媒体は開放的/双方向的/マクルーハン的な意味で「クール」/ゲーム/市場/非幻想/現実/新世代/テーマコミュニティ

世界が非物語的なデータベース≒市場となったとき、「世界と個人、公と私、政治と文学」ではなく、「市場とゲーム」として結ばれることとなるため、 私たちに要求される「成熟」は、ゲームのデザイナー/プレイヤーとしての成熟である。UnQuote~

今、私たちは物語のない、非物語的な、情報の集積した空間に、加速度的に環境と条件が変化する世界に生きている。
そこでは、非物語的なものを、非物語として受け止め、現実的に有効な方法を、ポリティクスの原理に基づいて実行できることが、ある種の成熟として示されるだろう。

岡田麿里はこれまで、比較的静的な社会空間(「あの日見た花の名前を、僕たちはまだ知らない」「心が叫びたがってるんだ」「空の青さを知る人よ」「アリスとテレスのまぼろし工場」) における、思春期の儚さや残酷さ、美しさを徹底的に追及してきた作家だ。

その熱量と精度は、比類ないものであり、今なお現存する作家たちの第一線に居るのは驚嘆に値する。

だからこそ、岡田麿里には、新時代の、この現代における流動的な社会空間における思春期の描写を通して、社会の亀裂と将来像を告発するような、 エキサイティングでクリエイティブな作品を、今後も期待したい。

それが、True tearsでその頭角を表すとともに「聖地巡礼」の起源の一翼をになった彼女に、新たな「まごころの想像力」を渇望してやまない、ファンの一人としての願いでもある。

参考文献 「母性のディストピア」宇野常寛、ハヤカワ文庫

「アニメーションの脚本術」野崎透、BNN

「娘が母を殺すには?」三宅香帆、PLANETS

「PLANETS 2008 Vol05」PLANETS(旧第二次惑星開発委員会)

「崖の上のポニョ」宮崎駿、スタジオジブリ

「共同幻想論」吉本隆明、河出書房新社

PLANETS 2009 Vol6 第二次惑星開発委員会 インタビュー記事「岡田麿里 まごころの想像力 ー思春期を美しく終わらせるためにー」

映画ランド「岡田麿里の監督デビュー作『さよ朝』新海誠、新城毅彦らが絶賛!拡大公開も決定」 https://eigaland.com/topics/?p=70184

「『さよならの朝に約束の花をかざろう』は5年経っても私には早すぎた。」note https://note.com/shirazu41/n/na9d7a9d95f9f

「さよならの朝に約束の花をかざろう」─愛に導かれるマキアの人生─ 感想と考察 Llxyo’s Daydreams https://llxyo.github.io/post/sayoasa/

『さよならの朝に約束の花をかざろう』気持ち悪い?ラスト一枚絵~イリアその後! https://team-fische.com/yakusokunohana/

さよならの朝に約束の花をかざろうを考察したい note https://note.com/tuyuri_kuro/n/n6abfda716b58

さよならの朝に約束の花をかざろう レイリアのその後は?考察 https://atsu-blog.com/sayohana-leiria/

「さよならの朝に約束の花をかざろう」Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%82%88%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AE%E6%9C%9D%E3%81%AB%E7%B4%84%E6%9D%9F%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%82%92%E3%81%8B%E3%81%96%E3%82%8D%E3%81%86

「さよならの朝に約束の花をかざろう」岡田麿里監督がラストカットに込めた思い エキレビ! https://www.excite.co.jp/news/article/E1519917643401/

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