岡田麿里作品における母性の変質と、宮崎駿作品を捉え直す意味で、宇野常寛の著書(ハヤカワ文庫)の表題の内容を箇条書きにて備忘録的に記述するものです。
<母性のディストピア>1,戦後社会のパースペクティブ
1、二つの戦後から
米国に敗北し「半人前」国家としてありうるべき姿として提示された2つの姿勢。
それは偽りであることを自覚しながらも「敢えて」引き受ける、戦後的なアイロニーの内面化が成熟であるとする立場である。
A(戦後民主主義批判/自民党/江藤淳)現状を肯定し憲法を改正し倫理的に成熟する
B(〃反批判/社会党/村上春樹)偽善的に平和主義を標榜し批判的な態度として成熟する
2,「政治と文学」再び
マルクス主義時代に台頭した、「政治的」なイデオロギーから「文学」は自由でありうるか、どのようにあるべきかという問題。
戦後、1,「二つの戦後から」で示した状況から発生した、「政治と文学」の問題=世界と個人=公と私、個人が世界とどう関わるべきか。
アメリカの影の下で、近代的な日本人は、成熟した市民を演じることが許されず、市民社会が成立しえない。
戦後日本社会における成熟とは、その不可能性を自覚すること、舞台(社会)それ自体が成立していないことを自覚したうえで演じること、
という二重の虚構性を通過したアイロニーとして成立する。そしてそれは三島由紀夫や西尾幹二等の態度に示されるように反復される。
3,母性のディストピア
戦後日本における「政治と文学」のアイロニカルな関係を性的なモチーフとして「母性のディストピア」として表現する。
妻を「母」と錯誤するこの母子相姦的想像力は、配偶者という社会的な契約を、母子関係という非社会的(家族)に閉じた関係性と同到することで成り立つ。
戦後民主主義者/治者は、無条件に自分を承認する「母」的な存在に庇護されることで、世界と個人、公と私、政治と文学を接続することができる。
しかしその接続は虚構であり、「父」(成熟者)への渇望を保つために、必要以上に肥大化し、崩壊する「母」という役割なしに完結出来ない。
つまり1,「二つの戦後から」で示した2つのモデルに繋げると以下のモチーフがいづれも「母」胎の揺り籠で態度を変えているに過ぎないこととなる。
A(戦後民主主義批判/自民党/江藤淳)=安岡章太郎「海辺の光景」/運命論に支配された前近代への回帰を目論む「母」
B(〃反批判/社会党/村上春樹)=小島信夫「抱擁家族」/過剰に現実に適応し、守旧的な「父」を恥じる「母」
4,肥大する母性としての日本的「情報化社会」
現代、情報技術、具体的にはインターネットとSNSにより、戦後的な「母性のディストピア」はむしろ延命し肥大化している。
1,「二つの戦後から」で示した2つの思想は、今や、その前提条件や内省を欠き、非物語的な情報を乱用し、排除と暴力の論理を連鎖させている。
これは物語の「解体」であり、個人的な承認欲求を満たすために敵の存在をもって仲間との絆を確認しあうコミュニケーションの建前として機能している。
丸山眞男が示した「無責任の体系」が、情報技術によって進化したボトムアップの権力にどう対峙するのか、換言すれば、
大きな物語による社会統合装置であるマスメディアを相対化するはずの、戦後的なものを解体するはずのインターネットが、なぜ現代日本で機能しないのか、
検討するべき課題である。
<母性のディストピア>2,戦後アニメーションの「政治と文学」
1,日本軍と戦後アニメーション
20世紀は「自動車の世紀」であり、「映像の世紀」である。いづれも米国の発明であり、国民国家というばらばらのものを繋げる役割を果たした。
具体的には自動車を成熟の証明とする「個」の捏造(成熟男性、女性解放等)、映像を公的社会を共有可能なものとする「公」の捏造として。
そして米国の自動車産業、アニメーション産業が衰退する一方で、現代の日本のそれらはアイロニカルな受容の成果であり、独自の、象徴的文化となっている。
2,「アトムの命題」と戦後民主主義
大塚英志は、手塚治虫の「勝利の日まで」における3つのリアリティの水準のうち、第三のハイブリッドなリアリティが重要だと指摘する。
第一は「戦前のまんが史の水準」で決定され、記号的なリアリズムの表現や、死なない身体を示す。
第二は「戦時下のまんが史の水準」で決定され、自然主義的リアリズムが用いられ、物理的な法則に基づく、死ぬ身体を含めた描写を示す。
第三は、第一と第二を同時に内包するという矛盾のある描写であり、前例に加えて、「鉄腕アトム」における、成長しない身体をもつアトムを用いて、成長を描くことに示される。
これは日本のアレゴリーでもある。「アトムの命題」=成長しないキャラクターを用いて成熟を描くこととは、戦後のアニメ/マンガが抱える命題であるとともに、
「12歳の少年(永遠に成長しない)がいかに成熟すべきか」=「国家として事実上独立していない日本がいかに市民社会を形成するか」という命題でもある。
3,「変身」する戦後ヒーロー
日本の戦後ヒーローは、喪失の空洞を自覚するために、生身ではなく、一度生身の身体をキャンセル=変身し、ナルシシズム(文学)を否定し、
正義の暴力の行使(政治)を行うことで、大衆に許容された。
それは、特撮ヒーローからロボットアニメへと、「拡張現実的な虚構」から「仮想現実的な虚構」へ移行する時代を通じて、ティーンエイジへ訴求してきた。
つまり、変身という、全く別の存在に切り替わる身体観(ナルシシズムの記述法)から、ロボットという、自分自身は変化させずに機械の肉体を得て自己実現を果たす回路に変化してきた。
4,ロボットアニメの精神史
鉄腕アトムは機械の身体と人間疎外という、ユートピアとディストピアの同居する科学の未来であり、孤児という設定/敗戦を経由して「明るい未来」を信じる戦後日本の似姿だった。
一方で「鉄人28号」は、父親から与えられた心をもたないロボットを主人公が行使することで「社会参加」するという、ロボットを成長の「依代」として、戦前日本の成長を仮構するものして示された。
このイメージは、「マジンガーz」において、主人公が乗り込む巨大兵器=成熟の仮構装置として、特に男子の大衆の支持を獲得していく
5,戦後アニメーション、もう一つの命題
「アトムの命題」は、世界と個人、公と私、政治と文学の戦後日本的な接続の問題を、後者の側からとらえたものである。
これを前者の側からとらえたものが、「ゴジラの命題」であり、戦争を、「特撮」というモチーフを通して、虚構においてしか描けない「現実」を描くことである。
特撮は、特に「怪獣」を通して、巨大な力や大量破壊が、人間に与える恐れや憧れ、日常性の断絶の快楽を含め、戦争に代表される多面性を描くことが許される表現である。
例えば加藤典洋はゴジラとアトムを、原子力技術を元に対比し、前者は核戦争の拒絶=後ろめたさの解消、後者は原子力の平和利用=アメリカの核の傘の平和の肯定であると指摘する。
6,「ゴジラの命題」と架空年代記
「ゴジラの命題」を引き継いだ戦後アニメーションの発展とは、政治の季節の退潮後、個人の生を意味づける装置=物語としての機能を低下させていった現実の歴史としての代替物としての架空歴史が、
サブカルチャーによって整備されていく過程でもあった。
それは「宇宙戦艦ヤマト」においては、意図的に敗戦の空洞を忘却し、日本を連合国軍側において第二次世界大戦をやり直すことで自己回復を図るというモチーフが作中で示された。
一方で「機動戦士ガンダム」においては、作品よりもむしろ消費者たちによって主体的に、その架空年代記を埋めることで「国民文学」を仮構する活動が見られた。
7,「反現実」から考える
見田宗介は消費社会下で歴史の虚構化への欲望が前面化する時代を「虚構の時代」と呼ぶ。「理想と現実」が対立する時代は理想が「反現実」であり、同様に虚構と現実の時代は虚構が「反現実」である。
具体的には1960年までの戦後復興や新しい政治体制に対する「理想」の時代、1975年までの(主に学生叛乱による)社会変革の「夢」の時代、
それ以降の消費社会に代表される記号的役割としての「虚構」の時代である。つまり、理想の時代におけるアイロニカルな戦後的成熟は、虚構の時代において、虚構を通して戦争や暴力にアプローチできた。
それは1995年のオウム真理教による「地下鉄サリン事件」、およびアニメーション「新世紀エヴァンゲリオン」によって、終わりを迎えたとされる。
8,オウム真理教と「虚構」の敗北
オウム真理教は自分たちの世界観、オカルト/アニメ的な(歴史の代替物としての)サブカルチャーの世界に充足できず、現実世界での承認を求めて地下鉄に毒ガスを撒くテロ行為に及んだ。
オウム真理教の信者たちにとって「虚構」は反現実として機能しなくなった。
歴史的に、ティーンエイジャーの支持は、1970年代のオカルトブームを経て、1980年代の「二つの終末観」、具体的には「終末戦争願望」(宇宙戦艦ヤマト)と「終わりなき日常」(うる星やつら)に分裂する。
これらは第一章の1,「二つの戦後から」で示した2つの思想、【A】と【B】に結実する。
A(戦後民主主義批判/自民党/江藤淳)=安岡章太郎「海辺の光景」/運命論に支配された前近代への回帰を目論む「母」=宇宙戦艦ヤマト/オウム真理教
B(〃反批判/社会党/村上春樹)=小島信夫「抱擁家族」/過剰に現実に適応し、守旧的な「父」を恥じる「母」=うる星やつら/歴史や政治的経済的条件を忘却する大衆の原像/平成ポピュリズムの温床
9,「エヴァンゲリオン」と戦後アニメの変質
戦後アニメーションは、「新世紀エヴァンゲリオン」に代表される思想的失敗と、インターネットの普及を通して、カウンターカルチャーからメジャーでカジュアルなカルチャーに成長する。
インターネットによって環境が整備されたファンによる二次創作の対象として、アニメーションはユースカルチャーの中心になった。
「新世紀エヴァンゲリオン」の思想的失敗とは、最終2話の展開における物語の放棄と、自己啓発セミナーのプロセスの導入による解決を目指すことで、
オウム真理教の地下鉄サリン事件同様、虚構の「年代記」(終末戦争)と、虚構の学園青春(終わりなき日常)の往復に満足できず、「現実」に侵入してしまうという、戦後日本の思想の敗北である。
10,「虚構=仮想現実の時代」から「拡張現実の時代」へ
グローバル/情報化が進行した今日において機能している反現実は、現実の一部を虚構化することで拡張する「拡張現実」的な虚構だ。
情報技術が社会に与える夢は、仮想現実敵に「もう一つの現実を作り込む」こと、現実それ自体を多重化し、拡張し、充実させ、「いま、ここ」の世界を変えることに傾いている。
これは人間と虚構の関係性の変化が、虚構と現実の関係性を問い直す契機にもなっている。かつては虚構を通して内面の成長を支えていたものが、今では情報技術によるSNS等の消費活動に移りつつある。
11,「拡張現実の時代」の想像力
本来記述不可能な世界の全体性への入口として機能した、虚構という抽象化装置の役割を、社会の情報化は破壊した。
現代において世界の全体性は、非物語的なデータベースとして存在し、いかにアクセスできるかという個人の能動性だけが重要になった。
あらゆる虚構が現実から独立し得なくなった今、批判力のある虚構はどうあるべきか。それは戦後アニメーションが戦後日本に果たした役割を再検討することで考え直すことができる
<母性のディストピア>3,宮崎駿と「母性のユートピア」
1,ニヒリズムに負けていたのは誰か
無力感とニヒリズムに囚われていたのは、その視聴者である若者ではなく、宮崎駿自身だった。
若者たちは「もののけ姫」に言われるまでもなく「生きて」いたし、「耳をすませば」で批判されるコンクリートロードを美しいとも感じていなかった。
では、宮崎駿は何に怯えていたのだろうか。
2,「もののけ姫」とアシタカの倫理
「もののけ姫」におけるアシタカは、受動的に、事後的な対処しかしない、状況を見守ることしかしない主人公として描かれる。
特に結論もなければ事態の打開に有効な仮説も、人々を強く動機づける夢を語りえない姿勢は、それまでの宮崎駿作品と明確に異なる。
それは「風の谷のナウシカ」や「紅の豚」、「風立ちぬ」などで、宮崎駿作品の主要なモチーフとされてきた「飛ぶこと」、言い換えれば「夢」を、
世界に対する肯定を失っていることにある。
3,ボーイ・ミーツ・ガール?
宮崎駿の考えにはある種の男性性への断念と、捨てきれない憧れが共存する。少女を救うことで完成される男性的ナルシシズムは憧れの結晶であり、既に失われたものだ。
高畑勲も宮崎駿も、スタジオジブリの主要人物として、自然主義的リアリズムとファンタジー的記号的リアリズムを接続させていったが、
前者があくまで現実(自然主義)に軸足を置いて虚構(記号)を侵入させようとしたのに対し、後者は虚構(記号)にリアリティを与える為に現実(自然主義)を用いていた。
サブカルチャーの中であれば「12歳の少年」のまま男性的な自己実現(暴力とセックス)が可能であるとすること、その消費社会を、経済的繁栄を、宮崎駿は軽蔑していた。
結果的に「未来少年コナン」では徹底して理想化されたボーイ・ミーツ・ガールが描かれ、生身の身体として、少年が活発に、超人的な活躍をする様が描かれた。
アニメーションという虚構に否応なく侵入する現実を、あくまでアニメーションという虚構自体で切断しようとした。
しかしそれは同時に、押井守による批判として、「アニメーションそれ自体の虚構性を武器にする手法が、本当に人間を感動させることが可能か」という問いを生んだ。
だから続く「ルパン三世 カリオストロの城」では、ボーイではなく「中年」のルパンとして、男たちが飛べる(自己実現)根拠を、少女からの承認を経て一時的に達成されるものとして提示された。
4,ラピュタという墓所
一見「ボーイ・ミーツ・ガール」の冒険譚である「天空の城ラピュタ」は、実質的には男性性の実現の不可能性を描いた作品だ。
主人公パズーの生い立ちと動機は失われた父性/ロマンティシズムと自己実現であり、そのコミュニティも斜陽の炭鉱場として、男性性の軟着陸した場所として描かれる。
そして飛ぶこと=ロマンを肯定し、実践するのは悪役のムスカであり、ヒロインのシータは、「土からは離れて生きられないのよ」と、不可能性を説く。
主人公パズーは物語の後半で空を飛べるようになるが、ドーラという「母性」に支えられることで、あるいは表面的に守られる少女としながらも、
同時に「守られる」ことで少年に生の意味を与え、実質的な庇護者として振る舞うヒロインのシータの同乗によって、という「母なる存在」なしには飛べないことが示される。
5,飛べない豚たちの物語
「天空の城ラピュタ」以降、宮崎駿が描く男性たちは、現実とは切断された虚構を生きるという「異形」になり、「母」的なものの庇護下になければ「飛べ」ない。
具体的には、「紅の豚」における豚の呪いを自らかけて「異形」になり、ジーナに見守られることで「飛べ」るポルコ、
「ハウルの動く城」における、異形に変化し、ソフィーを共にすることで「飛べ」るハウルが挙げられる。
「崖の上のポニョ」におけるポニョの母=グランマンマーレの庇護下にある(胎内にある)世界は、津波に飲み込まれた町で活躍する老人ホームの利用者や、大正服の夫婦の登場など、
事実上「死後の世界」として描かれる。主人公の宗介とポニョの「冒険」は産道のような暗いトンネルを抜けて終結を迎えるが、彼らの運命はその母親同士の話し合いで決定される。
これらの強烈な母胎回帰を中心に据えた死と再生の物語世界で、父性は(宗介、あるいは彼らの父親)、介在する余地がない、「ごっこ遊び」として与えられる存在に後退する。
6,「コクリコ坂」から考える
現実の世界=戦後史では、宮崎駿が提示した1960年代以前の「よい戦後」と正しい男性性=イノセントな少年性と寛容な家父長制との結託は、実現したために、
宮崎駿が憎む1970年代以降の「悪い戦後」が成立した。これを覆すファンタジー=偽史として「コクリコ坂から」があり、その駆動源はファンタジックな男性性のイメージだ。
コクリコ坂からの原作漫画は1970年代の学生運動を下敷きにした物語であり、映画版は1960年代の出来事として、登場人物の風間俊含めて、徹底的に改変されている。
ヒロインの松崎海と風間俊は、旧校舎「カルチェラタン」が示す「1960年代」の古き良き日本の保護活動を通じて、その掃除を通して、家父長的な「理事長」に承認されるという物語で示される。
ここでは1960年代的な文化の保守を、亡き父親を肯定することを含め、家父長的なものへの依存と、「お掃除」で下支えする女性たちで実現しようとする思想で成り立っている。
それは同時期の2011年代に宮崎駿が繰り返した政治的言動との相似関係であり、宮崎駿が主張する良い戦後=駅前商店街が、それが実は憎むべき悪い戦後=原発(的な利権)によって、
無自覚に依存していることを示してもいる。
7,母性の海へ
映画の「コクリコ坂から」では、漫画版と異なり、コクリコ荘の主要人物たちが総じて女性に書き換えられるなど、性的改変のアプローチが取られている。
そこで示されるのは、コクリコ荘は常に女性がその跡を継ぎ、男は常に外部から召喚され、生殖を終えて去っていく存在にすぎず、「崖の上のポニョ」の物語世界における海の役割と相似である。
少女じみた感性を残すヒロインの成長譚として、これまでの宮崎駿作品と異なり、松崎海は、「女性にとっての母親」になるべく奮闘する存在として描かれる。
8,「母」的なるもの/「少女」的なるもの
宮崎駿は「もののけ姫」以降、「母なる自然」的なモチーフを前面化し、裏側では消費社会的なものと結びついた「空を飛ぶ少女」というモチーフが衰微していく。
それは男性主人公の映画と、女性主人公の映画における、母的なモチーフ、少女的なモチーフとして切り分けることが可能だ。
「未来少年コナン」のラナ、「ルパン三世カリオストロの城」のクラリス、「天空の城ラピュタ」のシータは、男性主人公の近代的、男性的自己実現を保証する「母」的存在として描かれ、
「紅の豚」におけるジーナとフィオの(ポルコにおける)パワーバランス、「ハウルの動く城」における老婆としてのソフィーとハウルの関係性、
母性とその胎内のみで擬似的に回復される男性性との結託で示される「崖の上のポニョ」を通じて完成される。
対して「風の谷のナウシカ」では空を飛ぶ少女を、「魔女の宅急便」では魔法で空を飛ぶ少女が描かれるが、いずれも庇護すべき対象との関係構築
(ナウシカにおけるオーマやチクク、宅急便におけるトンボ)のために「母」的ヒロインへと成長することを通して、少女のモチーフは衰退する。
そこには、「魔女の宅急便」におけるキキが、消費社会の象徴として冒頭に登場する先輩魔女に対する微妙な視線を根拠に、
宮崎駿自身の消費社会に対する距離感が示されているとされる。少女が「母」にならず少女のまま空を飛び続けることを、消費社会での商業的成功と重ねて、嫌悪しているように読み取れる。
9,少女すらも飛べなくなった世界で
宮崎駿に足りなかったものは、「となりのトトロ」の頃の豊かな想像力、具体的には昭和30年代の美化された農村の共同体と、日常と地続きの場所に異界が発生する日本的なファンタジーの希望、
世界への肯定の想像力ではないか。同様に、トトロの森を維持するために必要な力、具体的には、あのトンネルを維持するために必然的に発生する森林維持の為の人間活動が、宮崎駿に足りないのではないか。
宮崎駿の漫画版「風の谷のナウシカ」の結論は、「もののけ姫」のニヒリズムと直結している。つまり「世界は変えられない」という認識であり、「赤から緑へ」という、
マルクス主義からエコロジー思想への転換という、当時の現実主義化した左翼思想の世界潮流が陥った罠と一致する。
マイノリティのアイデンティティなど個人的なことに潜む政治的なものを暴露することで「政治と文学」「公と私」の回路を再整備するという妥当な戦略を進め、ミクロかつ常識的な状況改善に終始する一方、
マクロな問題については非現実的なロマンティシズムを敢えて語り、理想主義者として責任を問われない、左翼思想の経緯と、宮崎駿の思想の一致が、その想像力を乏しめる一因ともなった。
10,島は重力に抗って飛ぶのではない
宮崎駿は、そして戦後日本は、「風」というモチーフを多用するにも関わらず、時代を支配する重力、資本主義や情報社会に抗って飛ぼうと考えて、挫折し、「ねじれ」を抱え、
矮小な父性と肥大化した母性の結託の中に沈んでしまったと考えられる。それは「風立ちぬ」で、「母」的な異性、自分を無条件に肯定してくれる女性への依存でしか、
ナルシシズムを記述できない、堀越二郎にとってのゼロ戦と菜穂子のように、戦後の日本の典型的な男性性のあり方にも示されている。
<母性のディストピア>4,富野由悠季と「母性のディストピア」
1,新世紀宣言と「ニュータイプ」の時代
1970年代から始まったアニメブームは、1980年代の「アニメ新世紀宣言」を通して、一種のユースカルチャーとして結実した。
「機動戦士ガンダム」で提示された「ニュータイプ」という概念は、人類の革新であり、新しいメディアに対応した新世代の感性の比喩でもあった。
その監督、富野由悠季にとって、アニメーションは現実の一部であり、個人と世界を繋ぐものであり、虚構にしか描けない現実があるという確信があり、
その命題を積極的に引き受けたことによって、富野由悠季本人がニュータイプという理想を失っていった。その絶望の原因と推移を確認する
2,アトムの「汚し屋」と「海のトリトン」
富野由悠季は初仕事として虫プロの「鉄腕アトム」の最長の演出家として関係する。同社の退社後、初監督として「海のトリトン」を手掛ける。
「海のトリトン」は当時のメインターゲットの児童層にとどまらず、ティーンの、特に女性層の支持を広げる。
従来のアニメとの違いは、戦後アニメーションの命題である「アトムの命題」、記号的な身体を用いて成長と死を描きつつ、
ファンタジーを用いてしか表現できない現実を描くことを、意識的に徹底したことにある。
虚構/記号的身体/マンガ的リアリズムに、現実/自然主義的身体/実写映画的リアリズムを衝突させることで前者を破壊し、
後者の本質を露呈させるのが、富野由悠季の方法論であり、虚構を通して現実を知ることを成熟の条件として描いた。
具体的には海のトリトンにおいて、主人公が海洋人であることから受ける差別的扱い、最終回で主人公側の種族こそが迫害行動による敵勢力を産み出したことで示される。
3,アニメロボットと戦後的「身体」
海のトリトンが放送された1970年代初頭は、「マジンガーZ」を皮切りに「ゲッターロボ」「グレンダイザー」などのロボットアニメの確立期でもあった。
それはロボットという「乗り物」に主人公が乗りこむことで少年の成長願望に訴求する、理想化された身体を仮構する試みだった。
富野由悠季も、旧虫プロが立ち上げた創映社が手掛けるロボットアニメ「勇者ライディーン」に監督として参加するが、オカルト思想を嫌悪する放送局との対立から降板させられる。
その後「日本サンライズ」(現サンライズ)として東北新社から独立し、オリジナル作品「無敵超人ザンボット3」の監督して当番する。
4,ザンボット/ダイターン3
「無敵超人ザンボット3」はロボットアニメという回路を逆手に取って、少年の成長物語を描いた。偽りの身体による自己実現の破綻をつきつけることで、少年に成熟を促した。
自然主義的リアリズムを部分的に導入することで、人間の悪や卑しさを描く手法は、その結末でも象徴的に示される。
敵勢力は、宇宙に悪質な精神をもつ知的生命体を感知して滅ぼすためのプログラムに過ぎず、地球も、主人公勢力も、そのために襲撃されたことが示される。
更に敵勢力は、そのような悪質な、主人公勢力を差別し迫害するような、地球人を守るために「なぜ戦う」と問いかける。主人公はその問いに答えられず、一人生き延び、幕を閉じる。
「無敵鋼人ダイターン3」は、ロボットアニメのフォーマットの中で、「大人の男」を描くことへの挑戦だった。サイボーグという偽物の身体を通してしか大人であることが出来ないことを、
自覚する主人公の設定とそのアイロニカルな態度を、ユニークな「大人の男」の「カッコよさ」として提示した。
それはマッドサイエンティストである主人公の父親が産み出した敵勢力と、同じく父親に改造されたサイボーグの主人公の戦いが、その嫌悪の感情とともに、
結末で主人公が「僕は,嫌だ」と言い残して行方不明になる、 ことなどからも示される。
5,「機動戦士ガンダム」とアニメの思春期
「機動戦士ガンダム」は思春期の少年兵の物語として歴史の虚構化を担うことで、現実の革命亡き時代を生きる少年の等身大の内面を描くことで、戦後アニメの思春期を担った。
それは主人公のアムロが、自意識と社会との距離感に悩み、ナイーブで、自惚れやすい存在として描かれ、一方でライバルのシャアが、ニヒリズムに満ちた存在として描かれることで示される。
「機動戦士ガンダム」が、アニメの幼年期を終わらせ、思春期に移行させるという革新性は3点に集約される。
第一にアニメーションの特性を活かした精密な演出に基づいた独特のリアリズム、第二に宇宙世紀という架空の歴史設定を背景にした仮想現実の構築、
第三に「モビルスーツ」という新しいロボット像の発明、この3点が関係しあうことで、戦後アニメーションの描写水準と社会的機能を更新した。
6、フィルムとしての「ガンダム」
物語とは人間間に共有されやすいように現実の複雑性と情報量を作家の意図によって整理統合したものであり、物語におけるリアリティとは物語的な整理と統合を維持したまま、
現実に匹敵する複雑性と情報量を獲得することと同義だ。富野由悠季はアニメーションの制御可能な性質を用いて、それらの要素を、実写よりも解像度の高い演出により施している。
さらに、登場人物の心情表現を、新劇的な台詞として喋らせるという、演劇的なリアリズムの介入によって、高すぎる解像度をもつゆえに乖離しがちなアニメーションが、
メタレベルで統合される。具体的には、「認めたくないものだな。自分自身の、若さゆえの過ちというものを」というように、内面の声ではなく、独り言として、
物語のポイントとなるエモーショナルなシーンでの頻出により、演出されることで、観客は物語を追うことが出来る。
7,もう一つの歴史としての「宇宙世紀」
「機動戦士ガンダム」において設定されたのは人類の宇宙進出時代における架空の歴史=宇宙世紀という架空年代記であり、膨大で緻密な設定や、そこに生きる人々の生を
想定しシミュレーションすることで物語を組み立てた。それは同時に、個人の生を意味づける「大きな物語」としての機能を、一定の観客たちに強く訴求した。
「機動戦士ガンダム」において、トリトンや無敵超人ザンボット3のように、物語化できない現実を受け入れて成長するという回路ではなく、
綿密に構築された仮想現実という歴史と社会の内部で、主人公のアムロが一般兵から歴史の当事者となることで成長するビルドゥングスロマンという、新しい回路を示した。
8,奇形児としてのモビルスーツ
ガンダムにおいてロボットは、徹底して戦車や戦闘機と同じ軍事兵器として、依代としての「乗り物」ではなく工業製品として再定義された。
鉄人28号やマジンガーZで主人公達が、「偉大な(祖)父」から与えられた、たった1機の「スーパーロボット」を操って成長願望を満たしたのに対し、
ガンダムの主人公アムロは「矮小な父」に与えられたガンダムが「工業製品」に過ぎないという、消費社会下における男性性の揺らぎを体現する存在だ。
9,革命なき世界と「ニュータイプ」の思想
革命という物語が敗北した後に訪れた「世の中ではなく自己の内面を変える」という世界的なユースカルチャーの潮流を踏まえ、ガンダムにおける「ニュータイプ」思想とは、
宇宙進出により進化した人間の、空間を超えた非言語コミュニケーション能力を示し、当時の情報環境と消費社会の進行に適応した新しい感性をもつ世代の比喩としても受け入れられた。
同時にニュータイプは、主人公アムロがエースとして急成長するための理由付けとして、「超越的な存在への覚醒」手段として位置づけられた。
ニュータイプという超越的な概念を設定することで、富野由悠季はアニメを現実の歴史の代替物ではなく、現実には存在していないものを描く装置に引き戻した。
ニュータイプの新しいコミュニケーションのイメージは、アムロのように、家族的なものから超越に象徴させ、自ら選び取ることのできる擬似家族的な共同体を「帰着点」として提示した。
一方で不完全なニュータイプとして描かれるシャアは、家族的なものの回復に引き寄せられる、一対一の閉じた性愛関係の構築による救済に失敗し、後のニュータイプの展開に影響を与える。
10,「ニュータイプ」から「イデ」へ
近代的な男性主体への成長とは異なった成熟のビジョンを追求する中で必然的に発生した変化が、ニュータイプからイデへの変化だった。
その過程で富野由悠季は、「伝説巨神イデオン」を通じて、母性的なものとその超越性を結びつけることになった。
「伝説巨神イデオン」において、「イデ」という概念は、ニュータイプ的なものへと人間に進化を要求する概念として示された。
これは進化論的な問題設定の力点を、人間の内面から世界のシステムへと移行したことを意味した。
その結果、「イデオン」は、集合無意識を集積する非人格的な、自律的なシステムとしてのロボットという空前絶後の役割を担った。
そしてその結末で富野由悠季は母胎回帰敵なモチーフを前面に出し、家族的なものからの離陸を志向することから、妊娠や新生児といった母性的なものと超越性を直接的に結びつけるようになる。
11,リアルロボットアニメの時代
1980年代に、ガンダムの影響を受けて、リアルロボットアニメ作品が急増した。それらは「マクロス」や「ボトムズ」のように、少年の拡張身体としての「ロボット」の役割は後退したものもあった。
一方で富野由悠季はあくまでロボットの意味を更新することで表現領域の拡大を目論んだ。それは記号的/マンガ的リアリズムと富野敵リアリズムの結合であったり、
架空年代記の設定遊びの拡大であったりだ。
12,「オーラバトラー」と肥大する自己幻想
「聖戦士ダンバイン」における物語世界は、商業的不振とスポンサー意向により、強制的に虚構世界を現実に接続させる展開に変更された。
そこではロボット=オーラバトラーは自我の拡張としてのロボット、人間を自由にし、解放させる装置として示され、旧人類(ガンダムでいう「オールドタイプ」)が、
その精神を自由に表現できる装置を手に入れたとき、そこには肥大した自我の暴走と、自我の衝突であるというのが、ダンバイン及び富野由悠季の結論だった。
一方で1980年代の消費社会と情報技術の急速な発展は富野由悠季に、ニュータイプの概念を変質させていく。
13,カミーユ・ビダンはなぜ発狂しなければならなかったのか
人間は媒介なく直接つながり過ぎると負の連鎖しか生まない。時空間の超越による人間の意識同士の非言語的なふれあいは、ガンダムの続編「機動戦士Zガンダム」の 主人公カミーユ・ビダンとその敵対勢力の憎悪を増幅し、精神的に消耗し、発狂するという結末で幕を閉じる。
また「ニュータイプ」の概念は変質し、時代の要請もあり、「認識力の拡大」からオカルトブームの影響を受けた「念動力」や「降霊術」の関連のもの、オウム真理教の認識に近いものになっていく。
富野由悠季のニュータイプという概念における変化は、「聖戦士ダンバイン」の認識を進め、人間の認識力の拡大が、むしろ人間間の決定的な断絶を生むという、否定的な認識への変化の産物だった。
14,変質する「ニュータイプ」
ニュータイプへの覚醒と大人への成熟は対立的な概念だ。
虚構の中に留まったまま少年が機械仕掛けの偽りの身体を以て、ポストモダン化する現実の体験よりも、 リアリティのある成長物語を享受することを可能にしたのが、元々のガンダムの発想だったが、ニュータイプという超越的な概念への「覚醒」という回路で、この構造を拒否した。
「機動戦士Zガンダム」以降に登場する「強化人間」という、人工的ニュータイプの存在は、精神性の変化を経ずにニュータイプの能力を得たものとして、 富野由悠季によって否定的に描かれ、Zガンダム以降も悲観的に描写され続けた。
ニュータイプに対する否定的な描写は、作品内外でも、富野由悠季によってくり返し示された。
15,「逆襲のシャア」と「母性のディストピア」
富野由悠季は偽りの歴史と偽りの身体による成熟の仮構を可能にする世界、戦後ロボットアニメの文法が体現する戦後アニメーションの精神に支配されたこの世界を、 母性のディストピアとして提示した。
「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」で、シャアは反政府勢力の指導者として地球政府に対して大規模な反乱を起こし、隕石落しというテロを実行する。
しかしシャアは自己完結的で、その行為が何かを変えることを期待するのではなく、自分の世界観を突き付け、人間の業の深さと愚かさが戦争の歴史を反復し、地球を潰す という現実を表現することこそが目的であることが示される。
児童のナルシシズムを記述する器(鉄人28号など)、幼年期の終わり(ザンボット3)と思春期の揺らぎ(ガンダム)を描くことで表現を獲得してきたのがロボットアニメである以上、 ハサウェイやクェスなどの少年少女の物語を否定する展開となった「逆襲のシャア」は、自らを裁く行為である。
本編含めて以降の続編では、様々な不幸な少女兵が主人公少年に「父」となる可能性を提示する存在として繰り返し登場する。
しかしガンダムの初期に、家族的な繋がりではなく擬似家族を選択している為に、様々な主人公は父になることを拒否し続ける。
そこに提示されるのは、父になりそこねた少年がむしろ、「母」権な存在に守られた世界観だ。
ガンダムにおける宇宙世紀は、母胎で無条件の承認を得る箱庭世界の中で、それを超克する概念としてニュータイプを提示した。
そのニュータイプの負の側面を重視することで、試みは失敗した。
宮崎駿が母性的な世界を、「飛ぶ」ことが出来るユートピアの世界観として提示したのとは対象的に、富野由悠季は男たちを取り込み、呪縛し、殺していくディストピアとして提示した。
16,「ガンダムF91」と「母」との和解
「機動戦士ガンダムF91」で、富野由悠季は本来対立概念だったニュータイプと家族的なものの和解を試みるようになる。
ガンダムF91において、主人公が搭乗するロボットは父ではなく母による開発であり、擬似的な自己実現は母により齎されることが明示される。
その偽史空間は、母性的な空間のみにおいて無条件に承認を与えるものとして示される。
ニュータイプという概念は初期の「空間を超えた他者の認識力」に回帰するものの、それは母の胎内でしか発揮出来ないものになっている。
ニュータイプはここで、人類の革新から、家族論へと縮退した。
17,「Vガンダム」と少女性のゆくえ
「ガンダムF91」で示されたニュータイプは、よき母性の庇護にあることだった。
続編の「機動戦士Vガンダム」では、肥大する母性のディストピアを、救済とニヒリズムを同時にもたらす両義的なものとして描いた。
Vガンダムでは徹底して男性的な自己実現/マチズモの不可能性と、エゴイスティックに肥大した母性同士が主人公を巡って争う世界が描かれる。
一方で、2人のヒロインが示す、「母」的存在の象徴/シャクティと、「母」にならない少女/カテジナの対立が、「肥大化した母と矮小な父の結託」を打破する可能性として無意識に示唆される。
物語はシャクティという、主人公の社会的自己実現(ガンダムに乗って戦うこと)を嫌い、自分の胎内(故郷)に引き戻そうとする勢力と、 やがて敵対勢力に組するカテジナという、シャクティを始めとした主人公に組する女性を、主人公もとろも排除しようとする勢力の対決として描かれる。
しかし物語及び富野由悠季は、前者を勝者として描き、後者を敗者として位置づけ、肯定的に描くことはなかった。
18,「ブレンパワード」と時代への(後退した)回答
「母」(主に初代ガンダムのララァ)と「少女」(主に初代ガンダムのセイラ)の2つのヒロイン像とその対立は1980年から1990年にかけて富野由悠季の作品世界を支配してきた。
前者は特に有色人種として描かれ、「母」的な存在として男たちの仮想現実(宇宙世紀)と仮初めの身体(モビルスーツ)を用いたマチズモの獲得という戦後ロボットアニメの想像力と限界を体現する存在であり、 後者は主に白人として描かれ、高貴な精神性を持つが故に自身の血縁の呪縛に対して敏感な存在として描かれた。
それはVガンダムに至り、圧倒的に前者(シャクティ)にパワーバランスが傾くこととなる。 続く作品「ブレンパワード」では、シャクティとカテジナは、同作における宇都宮比瑪と伊佐美依衣子/アノーアの2人のヒロインとして登場する。
ここで主人公は、作中で「母」を体現する比瑪の元に帰還するという、Vガンダムにおけるシャクティがもつグロテスクな支配欲と排除の論理は、アノーアと息子との和解として、 同様にカテジナの「母」になることを拒否する意思(憎悪)は依衣子の近親相姦的な感情への軟着陸として処理されている。
ここでは「母性のディストピア」への抵抗を放棄し、「母」的なロボットに対する思考実験であるとともに、「ニュータイプ」が、オウム真理教的な「ニューエイジ」思想に後退することでもあった。
19、宇宙世紀から黒歴史へ
続く「∀ガンダム」では、それまでの、富野由悠季の手掛けた作品及び富野意外の「ガンダム」を「封印されるべき忌まわしい過去」として、「黒歴史」として葬る概念が提示される。
つまり、「ガンダム」シリーズをメタ的にひとつのデータベースとして描き、肥大したシリーズのデータベースから任意のキャラクターを引用/n次創作する行為を取り込む。
これは続く「機動戦士ガンダムSEED」や「ガンダム00」、富野由悠季によるセルフリメイクの「機動戦士Zガンダム A New Translation」などの二次創作を予見させるものとして提示される。
ここでガンダムは大きな「物語」としての歴史=宇宙世紀から、大きな非物語としての歴史=黒歴史へ転換し、少年の成長願望としての戦後ロボットアニメの回路を放棄した。
∀ガンダムでは、主人公の男性も、ガンダム自体も、男性性を剥奪された、中世的なものとして示唆され、そのマチズモを軟着陸させるための女性像も存在しない。 具体的には、主人公のロラン・セアックは中性的な存在として、時に女性としても描かれるし、ガンダムは、人間の知性を超えた知性のシステム=人造神=イデオンとして、 しかしながら玩具的な役割を果たす。例えば脱走した牛の保護であったり、洗濯物を取り込む行為に駆り出される大型機械として。
このように黒歴史=データベースと戯れる主体という魅力的な存在を提示する一方で、自家撞着が発見される。
つまり敵勢力として設定されるのは、システムのバグのような時代錯誤のマチズモの暴走と修正でありつつ、そのシステムを人間が乗り越える可能性が描かれない。 敵の設定に失敗した富野由悠季は、同作以降、再び少年の物語に回帰していく。
20.少年性への回帰 「OVERMAN キングゲイナー」
「宇宙世紀」から「黒歴史」への移行は、高い現代性/未来性を獲得し、同時に、ユニセクシャルな主体とシステムとしてロボットを提示することで、戦後ロボットアニメの課題設定をキャンセルする試みだった。
一方で主体とシステムに関する新しいビジョンの提示の失敗(新しい「ニュータイプ」的概念)に対する課題として、 富野由悠季は少年性へと回帰することで取り組んだが、その試みは主体の認識不足により失敗している。
続く「OVERMANキングゲイナー」では、引きこもりのゲームオタク少年が、大人の男に感化されて社会化する物語として提示される。
しかし最初は、少年と大人の男の師弟関係というビルドゥングスロマンであったが、次第にヒロインとの恋愛関係に軸足を移すとともに、衰微していき、「大人の男」との対峙は為されない。
理由の一つには、富野由悠季の「引きこもり」/若者に対する理解不足がある。
具体的には、引きこもりの原因を、反体制派による両親の殺害に求めており、アイデンティティ不安やローカルな人間関係といった問題は顧みられない。
「キングゲイナー」はロボットのデザインや役割も含め、その玩具性と祝祭性を通じて、新たな成長を提示する試みだったと考えられるが、 単純なボーイ・ミーツ・ガールの物語に矮小化され、課題に対する具体的なイメージは提示されなかった。
21,劇場版「Zガンダム」と「リーンの翼」
「機動戦士ガンダムSEED」などの新規ファン層獲得でガンダム関連市場が盛り上がる2005年、 富野由悠季は劇場版「Zガンダム」を発表した。
そこではかつてのカミーユのアイロニーと屈折は後退し、健全な少年のビルドゥングスロマンに書き換えられ、結末は発狂もせずハッピーエンドとして提示される。
しかし、富野由悠季自身による作品内外の言動とは反対に、この改変は、宇宙世紀という偽史装置から母性への批評性というアイロニカルな問題設定を消失させただけだった。
一方で「リーンの翼」では、「聖戦士ダンバイン」の関連作品として発表された。 そこで提示されたのは、ニュータイプの認識論の破綻の処方箋として、ある種のアナクロニズムとしての民族性や、ニューエイジ的な身体/環境論であり、 思想的な後退だった。
22.「 Gのレコンギスタ」と物語の消失
富野由悠季は再び少年性の問題に回帰したが、その現代的な解決策を提示することは出来なかった。
最新作「ガンダム Gのレコンギスタ」では、その展開の難解さと、ボーイ・ミーツ・ガールの物語を経ることも無ければ少年とロボットの新しい物語を描くこともなく空中分解の様相を呈した。
わざわざアニメで現実以上に乖離した状態を執拗に描くことと、物語レベルでの感情表現の依存が、展開の迷走に拍車をかけた。
戦後ロボットアニメは、偽史と偽りの身体による成熟の仮構であることを忘却したふりをするか、使い古された思想に回帰するかの選択肢があったが、 Gのレコンギスタはその何の立場も、明確な異次元のイメージも無く、終了した。
23,戦後ロボットアニメの「終わり」
2000年代以降にもロボットアニメは一定のペースで製作されているが、ガンダムを含め、多くは中高年を対象に1970年代、1980年代の世代のノスタルジーに訴求する構造である。
例えば福井晴敏らによる「機動戦士ガンダムUC」では、主人公の前に次々現れる中高年の軍人が、戦場で人生訓を繰り返す説教リレーの展開を見せる。
人の革新を目指したニュータイプ思想は、ここでくたびれた中間管理職の渇望する即戦力新人社員の比喩にまで矮小化される。
さらに主人公たちが辿り着く結論は陰謀史観の暴露による改革と、優生思想(名家出身の呪縛)である。
また他方で「新機動戦記ガンダムW」「機動戦士ガンダムSEED」「機動戦士ガンダム00」では、ロボットは、アイドル的に消費される美少年たちの、全能感を支える天才少年たちのアクセサリーとしての役割となる。
もはや戦後ロボットアニメはその役割を終え、再考するべきものがないのか。
結論は、ある。「伝説巨神イデオン」について、再び物語を考えることができる。
24,ニュータイプは黒歴史を超えられるか
「伝説巨神イデオン」には2つの批評点がある。
第一に、アイロニカルな身体の拡張としてのロボットではなく、人工知能への夢の結晶でもなく、 自律した、人間の理解を超えた意思をもつ人造神として描かれている。
これは戦後ロボットアニメとして「アトムの命題」から一度切断されたことを意味する。
第二に、富野由悠季が初めて、「母」的なモチーフと超越性を結びつけた作品であった。
ニュータイプならぬ「イデ」は、空間を超えた人間同士のコミュニケーションを可能にするシステムだが、 これを制御できず滅亡する人類を描く中で、輪廻転生の反復の中での進化という可能性を希望として提示する中で、「母」性回帰的なイメージを前面化した。
つまり検討するべき課題は、「イデ」的なシステムに対峙し得る新たな「ニュータイプ」を描くことだ。
システムとしてのロボット、男性性とも身体性とも切断されたロボットは「∀ガンダム」でも描かれたが、こちらは人類の進化ではなくその否定を結末とし、システムの封印という結論が示された。
これらを踏まえると、「∀ガンダム」で示されたユニセクシャルな主体、あるいは「OVERMANキングゲイナー」で示された玩具的ロボットの祝祭性を、 「ニュータイプ」的なフューチャリズムに匹敵するビジョンに結実させることができれば、家族的なものや生殖的なものを超克し、現代的な他者への想像力を発揮しうるのではないだろうか。
<母性のディストピア>5,押井守と「映像の世紀」
(中略)
18,「母殺し」の可能性
押井守が対峙してきた「映像の世紀」とは、スクリーンの、モニター映像を媒体として用いることで社会が成立する時代だった。
共有不可能な現実/三次元を、共有可能な虚構/二次元に整理し統合する装置として映像があった。
押井守はその「映像」の外部=現実そのものの存在への認識を喚起することを、モラルとして反復的に主張してきた。
その主張は、時には共同性に対するノイズを排除する母権的な論理への抵抗として、時にはバブル期の都市論として、
時にはサンフランシスコ体制下における戦争と平和をめぐる戦後社会論として展開された。
押井守にとって高橋留美子(「うる星やつら」など)が体現する「母性のディストピア」とは、映像の世紀の戦後日本的展開だった。
その世界では高橋留美子の体現する近親相姦的な想像力によって、外部への脱出は予め失敗が運命づけられていた。
そこで押井守は「パトレイバー」以降の情報論的なアプローチにより、外部の存在を認識させる戦略をとった。
とくに「パトレイバー2 the movie」では「冷戦/映像の世紀」の臨界点とそのモラルの提示が、
同時に戦後日本的展開であった「母性のディストピア」下でのモラルの提示でもあった。
しかし「攻殻機動隊 Ghost in the shell」での予感の提示通り、世界は広大なネットワークで繋がり、映像の世紀は終わりを告げた。
そして押井守は映像の世紀の終わりと同時に語るべきものを失い、「イノセンス」のように、ネットワークを漂う守護天使の素子に
見守られながら、母性のディストピアの元、犬と重機と人形を愛玩して引きこもることを選択した。
その後、「パトレイバー首都決戦」や「東京無国籍少女」のように、女兵たちを主人公として、テロ/ネットワークの世紀への抵抗
を始めているが、その攻撃対象は具体性を欠いている。
もしその攻撃対象が具体性をもち、世界の構造を体現する存在としての新しい「母」を撃つことができたとき、
押井守はネットワークの世紀の構造を描き、そのモラルの可能性に到達することが出来るだろう。
<母性のディストピア>6,「政治と文学」の再設定
(中略)
14,もう一つの対幻想
吉本隆明の「共同幻想論」には対幻想のかたちが二つ存在する。夫婦的な対幻想と、兄弟/姉妹的な対幻想だ。
前者は閉ざされた関係性をつくり、子を再生産することで時間的な永続性を保持する。
後者は子を再生産しないかわりに、(近親相姦を避けるために空間的に拡大し、他家との婚姻を通じて地域や
国民社会の一体感を形成する意味で)空間的な永続性を保持する。
吉本隆明はもともと古代社会における国家が、兄弟/姉妹の対幻想から共同幻想への転化を根拠としたために、
それに代わるものとして夫婦/親子的、核家族的な対幻想を重視した。
しかしこの発想が正しく今、戦後日本を思想的、政治的な「無責任の体系」に結びつき、長い停滞を呈している。
ここで夫婦的な対幻想からの脱却のカギは、オイディプス的物語の解体だ。
具体的にはアメリカを「父」でも「母」でもない、外部の世界に開放されうる兄弟/姉妹的な対幻想の対象として考えることだ。
それは夫婦間における性愛や親子間における象徴的な次元を差し引き、友愛や同性愛的なものを考えることだ。
15,「政治と文学」から「市場とゲーム」へ
国家が共同幻想/物語的な存在であるのに対し、市場は非物語的な存在/ゲーム的な存在だ。
物語は虚構によって個人の生を価値づけるのに対し、ゲームはプレイヤーの関与とその結果という現実によって価値づける。
A’:語り手と読み手の環形が固定的/媒体は閉鎖的/一方向的/マクルーハン的な意味で「ホット」な物語/対幻想/共同幻想/虚構/オールドタイプ/地域コミュニティ
B’:デザイナーとプレイヤーの関係が入れ替え可能/媒体は開放的/双方向的/マクルーハン的な意味で「クール」/ゲーム/市場/非幻想/現実/新世代/テーマコミュニティ
世界が非物語的なデータベース≒市場となったとき、「世界と個人、公と私、政治と文学」ではなく、「市場とゲーム」として結ばれることとなるため、
私たちに要求される「成熟」は、ゲームのデザイナー/プレイヤーとしての成熟である。それは如何にして可能なのか。
16,ロボットアニメの新しい身体
1995年以降のロボットアニメ、とくにガンダムシリーズの変貌は、兄弟/姉妹的な関係性のモチーフであり、女性視聴者たちの大きな支持を獲得した。
「機動新世紀ガンダムW」「機動戦士ガンダムSEED」「機動戦士ガンダム00」「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」などの物語は、
成熟と喪失の物語ではなく、少年同士の関係性として、相補性の片割れとしてのアイデンティティゲームである。この変化は異なるジャンルで同時多発的に発生している。
「大衆の原像」としての核家族の対幻想からの脱出を、少年愛のモチーフにより試みた萩尾望都、竹宮恵子、山岸涼子などの「24年組」のアプローチ、
ホモソーシャルな二次創作的読み替えの経由により直接的な批判力を獲得しているよしながふみ的なもの、
高橋ヒロシ「クローズ」における、不良マンガにおける大人への抵抗というモチーフの喪失と少年同士の関係性の物語の反復など、
あるいは「日常系」の萌え4コマ漫画の描く「終わりなき日常」へのノスタルジアなど、である。
一方でこうしたもう一つの対幻想に基づく関係性、アイデンティティゲームの肥大が、作品における世界と個人、公と私、政治と文学の断絶を決定的にもしている。
それらのもう一つの対幻想による、世界観や思想的達成(失敗)が、「世界と個人、公と私」を接続する物語を記述し得ないのは、
それらが(従来の成熟とは異なる意味合いで)「…ではない」という提示にとどまるからだ。では、どうするのか。
17,想像力の必要な仕事
肥大した「母性のディストピア」を破壊するためには、私たちの「父」への欲望を他の形に置換え、
政治と文学ではなく、市場とゲームを結ぶ新しい蝶番を獲得し、新しい成熟の形を示すことが必要だ。
ここで必要なのは、「シン・ゴジラ」で示された、もう一つの日本、もう一つの「災害後」を現実のものにすること、オタク的な成熟の可能性の奪還、平成の改革勢力の理想の実現だ。
「シン・ゴジラ」で示された、災害に対抗しえる力、世界を非物語的な情報の束として解釈する「オタク」の思想と、
その成熟としてのリアルポリティックス的な「第三の道」を、アイロニーではなく、現実に主張し得る価値として追求することだ。
ヘイトスピーチと歴史修正主義の温床となった「オタク」的なものを、非物語的な世界に耐えうる強さを備えたリアルポリティクスに引き戻すこと。
世界を非物語的な情報の集合として認識することを受け入れ、戦後的なイデオロギー対立を無効化すること。
かつて敗北した平成の構造改革勢力の理想を新しいかたちに、かつてオタクと呼ばれた想像力の孕む、そして一度失われてしまった可能性を具現化することだ。
その想像力は、現在につながるカリフォルニアン・イデオロギーの源流にマッキントッシュを中心としたパソコン文化を通して間接的に触れ、
ボードゲームとそのローカライズで物語の語り手としてないしはシステム設計者としての訓練を受け、
戦後のアイロニカルな文化空間のオタク系文化の批評性を受け止め、軍事へのオタク的な興味を基盤に国防からライフスタイルまでをカバーする総合的な世界観をもつ、
いわば「ニュータイプ」の世界観とも呼ぶべきものだ。それらは大衆化とインターネットの普及で破綻しているが、若い現役世代の精神性に確実に宿り、現在を支えている。
そうして初めて、私たちはカリフォルニアン・イデオロギーの信奉者たちと同じ土俵に立つことが出来る。
アメリカのトランプ元大統領やブレグジットなどに代表される、イデオロギー回帰の力に対して、現在の情報社会は、カリフォルニアン・イデオロギーは脆弱だ。
であれば、科学技術の発展をもたらす想像力の飛躍を肯定しつつも、脱政治化(イデオロギー回帰)ではなく、
グローバルな市場がローカルな国家より上位に存在する時代の新しい政治性(リアルポリティクス)の獲得による認識と行動の変化が求められる。
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