あの日見た花を僕たちはまだ知らない       ~虚構の中で「虚構」を描くことの功罪~


・批評家で編集者の宇野常寛は、この作品を評して
「虚構で虚構を描くことの批評性が皆無であることを除き、素晴らしい作品」と述べていた。

正直、自分もこの制作陣には毎回期待している。
というかファンだ。
希代のストーリーテラーとしての「超平和バスターズ」、岡田麿里×長井龍雪(×田中将賀)
この3人組ユニットの名前を聴くと、(過剰に)期待してしまう。


処女作 アニメ「とらドラ!」を皮切りに、「心が叫びたがっているだ。」では負けヒロインの美しい成長を、「空の青さを知る人よ」では家族愛による片思いの断念を、
秩父という片田舎を舞台に、信じられないほどダイナミックで魅力的に群像劇を描く。その手腕にはいつも脱帽し、心が震える。
2024.10.04公開の最新作映画「ふれる。」でも、この3人の活躍を期待してしまう。

https://www.youtube.com/embed/t-JEvGpBR1Y


もちろん、本作品「あの日見た花を僕たちはまだ知らない」も、例外ではない。
2011年の夏、リアルタイムで追いかけ、特に清冽な夏の憧憬と悔恨を残した第1話は、忘れることはないだろう。
あれから13年経過した今、ノスタルジーとトラウマの克服に対する回答に、虚構を巡る考察の功罪を主題として記したい。

・あらすじ紹介


https://www.youtube.com/embed/kpeCOzKvK-0


じんたん(宿海仁太)、めんま(本間芽衣子)、あなる(安城鳴子)、ゆきあつ(松雪集)、つるこ(鶴見知利子)、ぽっぽ(久川鉄道)の6人は、小学校時代に互いをあだ名で呼び合い、
「超平和バスターズ」という名のグループを結成して秘密基地に集まって遊ぶ間柄だった。

しかし突然のめんまの事故死をきっかけに、彼らの間には距離が生まれてしまい、超平和バスターズは決別、
それぞれ後悔や未練や負い目を抱えつつも、中学校卒業後の現在では疎遠な関係となっていた。

高校受験に失敗し、底辺高校に入学したじんたんは引きこもり気味の生活を送っていた。そんな彼の元にある日、死んだはずのめんまが現れ、彼女から「お願いを叶えて欲しい」と頼まれる。
めんまの姿はじんたん以外の人間には見えず、当初はこれを幻覚だとやりすごそうとしたじんたんも、その存在を無視することはできず、困惑しつつもめんまの願いを探っていくことになる。
やがて「超平和バスターズ」の面々がかつての秘密基地に集結、めんまを成仏させるため考えを巡らす。

・心理的外傷を克服し、前に進むための装置としての「虚構」


個人的なことだが、学生時代に経験した演劇作品の中で、オリジナル脚本として「引きこもり」と宗教を巡る状況の打開をテーマとして主演したことがある。


主にカルト宗教が村落共同体の体裁を取りながら、共同作業を通じて、洗脳的に引きこもりを救済しようという筋書きだった。
その感想として、社会福祉士で責任者であった父親から、彼の個人的な経験や学習結果を背景に、かなり辛辣な意見を受けた。
筋書きは面白いが、その内容では彼は救えない、と。

今、彼がこの作品「あの日見た花を僕たちはまだ知らない」に触れる機会があるなら、私は進言したい。
この筋書きなら、「あの日見た花を僕たちはまだ知らない」なら、彼を救えるのではないか、と。


引きこもりは何故発症するのか。それは身体的、精神的外傷を背景に、一度舞台から退いたが最後、自意識と他者意識の負のスパイラルに陥ってしまうことが一因だ。


単なる外出体験の欠如ではなく、対人関係や社会との接点の欠如こそ、その要因であるために、解決が一層困難になる特徴がある。
それは例えばゼロ年代前後に流行したような
「(自分より弱い)少年少女が突然現れて、社会的接点を導く」(例:滝本竜彦「NHKにようこそ!」)
であったり、
「(心理的外傷を抱える、あるいは社会的達成経験が特にない)自意識を、他者に認めてもらう」
(例:庵野秀明「新世紀エヴァンゲリオン」)
のようなもので、一時的に解決できるものもあるだろうが、長期的には異なるアプローチも必要であろう。

・心理的外傷を克服する装置としての「虚構」・・・「対幻想」(じんたーめんま)から「共同幻想」(6人)への移行


本作は、じんた だけに顕現した 幽霊のめんまを主軸に展開される。
じんた 以外は めんまが見えない、触れない、飲食をともに出来ない。この構造を反転すれば、じんた と他者との交流の増加が、幽霊の具体的な干渉機会を減らすことと同義として、社会的交流を促進させる。
つまり、虚構(幽霊)から現実(社会)への結節点として、幽霊の生成と消失をモチーフにしているといえる。


8話にて。めんまが じんた以外とも接触、物理的に影響を及ぼせたことから、物語は進展する。
つまり、じんた と めんま の対幻想(後述) から共同幻想(後述)に変わり始めたのだ。さらに、めんま と めんまのノート のみを通して 物理的な影響を及ぼせるため、コミュニケーションも可能になる。


ここで、対幻想から共同幻想に変わったことで、めんま に対する実感が強化される。じんた の めんま に対する成仏への躊躇が強まるのだ。
一方で、共同幻想へと段階的な「進化」を遂げたことで、対幻想の発信元の片割れである じんた の認識が 5人に共有されることとなり、じんたの 環世界そのものが変化、拡大していく。
この認識の変化、環世界の拡大自体が、根本的な問題(引きこもり)の打開策であり、その達成として、 移行期間までの「つなぎ」 の役割であった めんま が消失するか、、、と思いきや、消失しないのだ。


この認識の変化、環世界の拡大、のみならず、5人を「繋いで」いた めんま に対するそれぞれの葛藤と衝突、和解 のプロセス自体が、それぞれの共同幻想に対する「自己開示」が、
過去を直視し、反省し、前へ進む打開策として示される。
故人を正しく偲び、責任とともに埋葬することが、「転生」するための、次世代のための土壌となることで物語は幕を閉じる。

このような、あくまで「外的要因」の変化に依存せず、「内的要因」(幽霊)の課題の探求とその超克こそが、
「社会的ひきこもり」の前進策であり、「超平和バスターズ」の誠実な回答であると思う。
これは課題設定に対する回答とその描写としては120%以上のものであり、今なお非常に優れた模範だと思う。

※「対幻想」とは、主に個人と個人の間、特に異性間で生じる幻想的関係を指す。他者の感情や行動を自分の中で再現しようとする生理的・心理的メカニズム。
「共同幻想」とは、複数の人間の間で共有される幻想であり、社会の構造や制度を支える基盤となる。国家や社会の意味あいで用いられることが多いが、ここでは2人以上の意味程度で用いている。
いづれも吉本隆明「共同幻想論」参照。

・そもそも虚構とは?


ところで、虚構とは、現実には存在しない事物や事象を想像力によって創造したものだ。
人間にとって虚構は、現実を超えた想像力の産物であり、文化や社会の重要な要素として機能してきた。虚構は現実とは異なる特性を持ちながら、人間の認識や社会に大きな影響を与えている。
アニメーションや文学作品などの芸術表現は、その本質が虚構であると言える。とくにアニメーションはその平面性、非物質性は幽霊の不可視性や非物質性と親和性が高い。

・アニメーションという虚構で、幽霊という「虚構」を描く批評的な意義

アニメーションで「虚構を描く」ことの意義とは何だろうか。
それは、以下の3点があると思う。
批評的意義1,メタフィクション的自己言及
アニメーションで幽霊を描くことは、メディアの本質に対する自己言及的な問いかけとなる。これは「アニメーションに何ができるのか」という問いへの応答でもある。
批評的意義2,現実と虚構の境界の探求
幽霊という存在は、現実と虚構の境界を曖昧にする。アニメーションという虚構の中で幽霊を描くことで、この境界線をさらに複雑化し、観客の認識に挑戦する。
批評的意義3,社会批評の手段
幽霊は しばしば 社会の抑圧された声や忘れられた歴史を象徴する。アニメーションでこれを描くことで、社会批評の効果的な手段となり得る。

・あの日見た花を僕たちはまだ知らない(あのはな) が成しえたものと、そうでなかったもの


先ほどの3点を軸にして、
先に、「あのはな」が成しえたものを述べたい。
先述した3,「社会批評」の手段として、抑圧された自意識の開示と交流が挙げられる。先述した心理的外傷を癒すプロセスにおける社会的交流の回復である。

一方で、1,メタフィクション的自己言及としての活動は、ほぼ見られなかったと言える。
同様に、2,現実と虚構の境界の探求という観点でも、ラストの、半透明になり、かくれんぼで顕現し消失する演出を除き、ほぼ顧みられない手法だった。


ここで参照したいのは、虚構が虚構の存在意義を問う、という野心的な作品である、、相川有の漫画「バタフライ」だ。

・二人で壊しにいこう、、、この世の亡霊全て


簡単にあらすじを紹介しよう。ある日、オカルト嫌いの高校生、石川銀次の前に上羽と名乗る小学生が現れ、一緒に幽霊を殺しにいこうと誘われる。
始めは相手にしなかったが、60万円の借金を肩代わりする事と引き換えに上羽に付いていく事にした銀次。そこで偽オカルト事件解決に加担するうちに、肉親の死、上羽の実存に対峙することになり、、、

本作では、幽霊/虚構の成り立ちと種類を参照しつつ、虚構を破壊する「虚構」というプロットを通じて、自己否定と相克のプロセスを丁寧に描く。
幽霊とは時に対幻想であり、共同幻想であり、葛藤の残滓であり、願望の虚像であることを、偽霊媒師と破壊者のモチーフで活写される。


偽霊媒師もまた、対幻想であり、共同幻想であり、不安定で実像を結ばないもの、自己否定の結晶であることが終盤に明らかにされる。
偽霊媒師の実存の危うさは性別の曖昧さ、年齢設定の曖昧さ、肉親関係の曖昧さ、などを通じて、描写される。
終幕において、破壊者は肉親の死の直接的な原因とされる、「正当」な霊媒師との対峙で、「虚構」と「現実」の認識を上書きする。


「虚構」もまた、人間の認識が産み出した「現実」の一部であり、何処迄も確かな「現実」というものが存在しないため、
確かな「現実」が無いという宙づりに耐え、生きることで、破壊者であることを辞める。
「虚構」も「現実」も、幽霊のように実態のない、移ろいやすいものであること、
「破壊」ではなく「許容」「信頼」こそが重要であるという態度を表明して、物語は幕を閉じる。

ここでは上述した1,2、における課題設定が過不足なく描写されている。虚構という媒体で虚構を否定するという、神学的挑戦。
現実と虚構の境界の探求と断念という、審美的な世界観。


もちろん、「あのはな」では、めんま のリアルで平面なキャラクター造詣が、やや幼く痛々しい設定こそが、純粋さと物語を支える屋台骨であったことは否定しようがない。
ここで、アニメーションならではの、虚構に対する踏み込みを求めるのは、贅沢に過ぎるのだろうか。
(ちなみに2023年の劇場版アニメ
アリスとテレスのまぼろし工場」(監督;岡田麿里)では、これらがかなり緻密に描かれていた)

・アニメーションがアニメーションたりえるには
<心が叫びたがってるんだ 玉子妖精のシーン>

https://www.youtube.com/embed/nbxRum-BOVs


立体的な人間的身体ではなく、アニメーションという平面であるからこそ成しえる描写があると思う。
それは「超平和バスターズ」の他作品との比較で述べるのなら、
・「とらドラ!」で見せたアクロバティックなキャラクターの身体活動(とくに大河)
・「心が叫びたがっているだ。」で描かれた、躍動感ある自意識の象徴の「玉子の妖精」
・「空の青さを知る人よ」でダイナミックに秩父の空を飛び交う若い日の慎之介
などになるだろうか。

めんま が 幽霊然とせず、あたかも普通のキャラクターのように描写する案は、監督としても挑戦的な試みだった。
それがこの作品の特異性であり、物語の心情描写にリアリティを増し、一般層の獲得に至る長く広い射程をもったことは疑いようがない。
そのうえで、もう一度考えたい。
ここで、アニメーションならではの、虚構に対する踏み込みを求めるのは、贅沢に過ぎるのだろうか。

参考文献

吉本隆明「共同幻想論」

相川有「バタフライ」幻冬舎

石岡良治「現代アニメ「超」講義」 第二次惑星開発委員会

「PLANETS 2009 Vol.06」

別冊サイゾー×PLANETS「文化時評アーカイブス2011-2012」

対談「キャラクターたちよ、お前たちは今、何ができるのか」 有田シュン×石岡良治×黒瀬陽平×宇野常寛 (第二次惑星開発委員会PLANETS SPECIAL2011「夏休みの終わりに」より)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A6%8B%E3%81%9F%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%90%8D%E5%89%8D%E3%82%92%E5%83%95%E9%81%94%E3%81%AF%E3%81%BE%E3%81%A0%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%82#cite_ref-59https://www.ghibli-museum.jp/docs/nennpoubessatu2009-2010.pdfhttps://withnews.jp/article/f0180831004qq000000000000000G00110101qq000017902A

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https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a012.html
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https://takuge-labo.com/kyokoshinshoku/rulebook/world/law.html
https://theghostintheshell.jp/mma/column/column07
https://note.com/starlight_paper/n/nd34656042efd
https://shosetsu-maru.com/essay/metafiction
https://www.ghibli-museum.jp/docs/05%E4%BD%90%E9%87%8E%E3%80%80%E8%AB%96%E6%96%87.pdf
https://www.netcommerce.co.jp/blog/2019/06/09/14033
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https://www.andrew.ac.jp/soken/assets/wr/sokenk204_1.pdf

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E9%9C%8A
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https://news.yahoo.co.jp/articles/ccb9ab11910c16e48544ae95f9ed1eb54fbb1dea
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https://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/higashiasia/eastasia06_library09.html
https://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/nakami/9784784219643.pdf
https://asoppa.com/asotopics/18174/
https://wasabi-nomal.com/blogs/others/ghost

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