まずここで定義される「観光客」とは「知的あるいは感情的好奇心に基づいて出生地以外の地域へ旅行すること等」とは少し異なる。それは希代の哲学者たちが希求して止まなかった「普遍的な人間像」そのものだ。
「普遍的な人間像」は時代や状況に即して異なる解釈や要求を変遷してきた。分かり易いのはルソーの「市民像」であり、秩序立った社会を構成するための、理想的で自立した、普遍的な価値観に基づいて合理的な判断力を行使する人間のことだ。
現代における普遍的な人間像の定義は非常に難しく、ややもすると先進国の啓蒙主義的なエリート観ばかりが鼻につく、博愛主義者が想像されるだろう。そのエリート層(リバタリアニズム≒グローバリズム)と中低所得層(コミュニタリアニズム≒ナショナリズム)の「二層構造」に分断された社会が、Brexitを産み出し、トランプ大統領を産み出してきた。
つまり失敗した先人たちの哲学を、人間観を、どう捉えなおしていくか。分断を断ち切り、建設的な社会を構築していくにはどうするべきか。哲学者も私たち小市民も嘗て無い思想的難題を突き付けられた世界で生きている。
「観光客の哲学」著者の東浩紀は、その歴々の著書と希代の哲学者の系譜を紐解きながら、新しい人間像を「観光客」の言葉に準えて、その更新を試みている。
要約すると、「観光客」(新しい人間像)は、その出自を、グローバリズムとナショナリズムを産み出した各統計処理の圏域とが、「同じひとつの社会的実体のふたつの権力論解釈として同時に生成」するところに持つ。「ネットワーク理論」における、ダンカン・ワッツとスティーブン・ストロガッツが発見した「スモールワールド」と、アルバート=ラズロ・バラバシとレカ・アルバートが発見した「スケールフリー」を参照しながら、現在の社会構造(グローバリズムとナショナリズムが織りなす多国籍資本社会と国家)は、「観光客」が一定の確率において異なる結果に基づく秩序を構成した結果の産物である、と仮説するのだ。
そして「観光客」は、行動原理において「誤配」を持つ。言い換えれば、「偶然に発生する他者への<憐み>や<苦しみ>(共感)で手を差し伸べ、社会を創る(ネットワークを広げる)。
リベラリズム/普遍主義から、コミュニタリアニズム/国家主義へ、リバタリアニズム/個人主義/グローバリズムへ、そして観光客/誤配の空間へ。ここでは既に無効化された過去の思想を参照しながら、新たな人間像が提示される。
それは「他者」を無効化する思想史でもあった。リベラリズム/普遍主義は他者(神)の原理を持っていた。その思想を更新する形で「他者の原理が無い」コミュニタリアニズム/国家主義や、リバタリアニズム/個人主義/グローバリズムが現在の二大勢力である。その結果は、上記の通り分断された世界を産み出し続けている。
今一度、他者への寛容を説く必要性が高まっている。それは「観光客」が産み出す「誤配」であり、他者への<憐み>や<苦しみ>(共感)で手を差し伸べることであり、いわば新生児に接するように世界と対峙することであり、つまり家族的類似性である。
「子として死ぬだけではなく、親としても生きろ」巻末で著者は総括としてそのように述べている。親として生きるということは、誤配により他者へ手を差し伸べ、偶然の子に囲まれるということだ。
子供への想像力を、他者への想像力へ敷衍すること。閉じた世界のみならず、誤配により他者と新たな関係を築き上げること。
観光客の哲学とは、想像力により、実際的で新たな世界を創り上げるパワーを持つ、我々小市民一人ひとりの為の新たな哲学である。


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